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濱野裕生
濱野裕生

2021年02月08日

〇・2006年の頃

〇・2006年の頃

☆:2006年1月

★:母の身体に残るお灸の痕跡。

母は長崎県北松浦郡の佐々生まれ。その後、歌が浦に移り住み、やがては平戸高等女学校に進みます。幼い頃から心臓が弱く、身体の節々の痛みもあって、幼少の頃から近所のお灸師サンのお世話になり、今でも身体のあちこちにその頃のお灸の跡が残っているほど。

また、高等女学校を出てからは山口県の俵山温泉に半年~2年ほど湯治の為に滞在し、その滞在費用の一切は鹿町炭坑を創業した濱野治八の甥である河内進(勇氏の兄)氏が負担するなど、我が母は身体が弱かった分だけ兄弟姉妹にはとても可愛がられていたようです。

やがて、つやサンには四国で手広く塩田業を営む人の息子との縁談が持ちかけられるようになりますが、お見合い話が嫌いだったつやサンは自活力を英文タイピストの学校に入学しようと父・松若の元を逃げるように去っては博多に住む嫁いでいたフサ姉さんの元へ向かったようです。

★:「勝手に見合い話を進められている事を知った時は私はとても嫌だったよ」。

絶対に父親の言いなりにはなりたくないと思ったさ」、と今でも思い出して言う日があります。現在の私同様、我が母は父親に対していい印象は持ってはいませんでした。

そして、英語が好きなツヤ子お姫様は博多のタイピスト養成学校で頭角を現しますが、その一方では母が実を寄せた姉・フサ夫婦の向(ムコウ)電気工事店は博多での営業を続ける中、進駐軍が佐世保に巨大な基地をつくる計画があることを知り、将来的には大きな発展が望める佐世保への移転、その佐世保の地での電気工事を専門とした会社への変更を模索。その計画は直ぐに実行されるのです。

母ツヤさんはフサ姉夫婦が博多から佐世保に移り住む際にも同行しますが、向電気工事店が[㈱共進電気]として新しい会社を設立するのを機会に自分でタイピスト養成校を作りたいと思った時期もあったそうです。しかし、この思いは実現せず、結局は博多駅裏の高口ハガネ店にタイピストとして就職する事になります。


★:9作目:♪【母のふるさと】を書く

【♪母のふるさと~歌が浦】は私達夫婦が母の話を聞く日々で、私も嫁も徐々に歌が浦という土地への憧れを強くしていく様子を描いているつもりです。

ツツジ祭りで有名な鹿町町の長串(なぐし)山から平戸を眺める風景は絶景。まるでスーパーデイズニー。そして、夏は緑深い山々、澄んだ海、春のツツジ祭り、褥(しとね)崎教会、マリア像。もう、歌が浦は感動の町です。

この9作目になる【♪母のふるさと~歌が浦】という作品は歌が浦への私達3人の思いを書いた作品であり、日頃の妻の苦労を労った作品でもあり、コンサートの舞台では嫁も一緒に唄う事もあります。


☆:妻の母水上キヌさんの2006年1月の時期。

★:危篤状態が始まる。 

実は、この頃には嫁の実母(水上キヌ)が入院先の病院で肺炎を起こしていて、毎日が一進一退の危険状況を迎えていました。

嫁の母・水上キヌは北海道浜益郡出身。順心高等女学校を出た後に東京市福音英語学校に学び、ジャパンタイムスや帝國ホテルで電話交換手として働いていた時期があり、英語を話せる人でした。

私の母は英文タイピストで、そして嫁の母もやはり流暢な英語で駐留軍への電話の受渡しをやっていたというのは不思議な縁だと思います。

嫁の母キヌさんは約18年前の転倒で右股関節を骨折。チタン人工骨を入れる手術はしたのですが体重があり過ぎてリハビリに失敗していました。以来、寝たきりの状態が続き、徐々に認知も進み燕下機能も衰えていきます。

それでも、最初の3年間くらいは外出して私達の家で一緒に食事をするくらいの事はできたのですが、腎臓病を悪化させてからは[ぎんなんの里]という入所施設から大塚博愛病院へと移り、治療の一方で徐々に天使のような表情になっていくのでした。

嫁の実母キヌさんの入院では、嫁が月曜~金曜、週末は義弟夫婦が院内での食事や洗濯等の周辺介助を行なっていて、私も何度か見舞うのですが理解してくれたやら・。キンちゃんは少しずつですが遠い国へと旅立つ準備をしているように思えてなりませんました。

★・既述したように、この頃の嫁は訪問介護に従事し、

午前中に1軒、午後からは2軒、3軒というような勤務日程で独居のご老人宅を訪問しては二食分程度の食事を作るというのが日課になっていて、その仕事が終わるや今度は入院中の実母の周辺介助のために病院へ直行。この為に我が家への帰宅は月~金曜は決まって20:30~21:00頃。私の夕飯作りはこの頃から続けているんです

★:ついに、2006年1月20日には嫁の実母のキヌさんが亡くなるのですが、

この頃の我が家では私は私の母、嫁は実母の世話と実に大変な時期を送っていました。因みに、老いが進むと目がとても美しくなり、肌も真っ白になるんですね。免疫力が下がるというか衰弱が進むと天使のようになるんです。これは老いの一つの姿だと思います。

娘を我が子と理解していたのか・。私の母もやがてはそうなるのだろうか・。私の中のいろんな思いが交錯した頃に作ったのが10作目の【♪母よ】でした。


♪:母よ      2006.1            
時に母は心に 鍵を掛ける時がある 深い思いに沈み込む そして・・
遠い記憶を辿るのか 今の自分を探すのか 計りきれない時がある やがて・・
母は静かに横になる 私を見つめてる 「あんたは誰?」・・と聞く
丸い背中は寂しい 何かを背負っているんだろう 母の人生が見える そして・・
私は言葉をなくし 母を眺めるだけ やがて迎える私の姿を そして・・
母は再び繰り返す 「どなた様ですか?」と 私は堪らずうつむく


☆:2006年1月20日。

★:妻の母が永眠。キンちゃん・ありがとうね。 

2006年1月20日。小雪の舞う寒い夜。妻の母の水上キヌさんが旅立ちました。享年95歳。医師の緊急心臓マッサージによってキヌさんの胸の骨の数本が折れていました。

私はキヌさんの腕に刺さったままの2本の点滴の針を抜いてあげましたが、心臓が止まっているから血が出てこないのです。当たり前の事が悲しいのです。何だか、見てる間にキヌさんの身体が縮んでいくようでした。

私が嫁と知合った頃、キンさんは私を息子同様に迎えてくれて食事をさせてくれました。古い構えの家で裕に240坪を越える敷地内には新旧の2棟が繋がっていて、古い構造の方の本宅には戦後の駐留軍の兵士達が何人も下宿住まいをしていたとか・・。

私は食事の世話になる代わりにと庭先の草地を畑に変えては野菜を植えました。大根やラデイッシュ、ニンジン、白菜。中でもカボチャなどは屋根の上にまでツルを伸ばして実を付けるものですから、顔色が黄色くなるほどに食べても食べきれずに近所に分けたのではないかと思います。

自分でも不思議に思うのですが、私が可愛がる植物は皆大きく成長するのです。糸瓜などは1.8mにもなります。

当時、この水上家の父親は既に他界していて、当時のキンちゃんは女手一つで子供達を育てたのです。決して裕福な家庭ではなかったのですが古い和室にはグランドピアノとステレオがドンと置かれ、大量のクラシック音楽のレコードが床の間に重ねて置かれていたのを思い出します。

元々から多少は弾けていたんですが、私はこの家で嫁の厳しい指導の下にピアノを覚えたのです。ホテルキャッスルでの英語での電話交換の仕事で帰宅の遅いキンちゃんに代わってイワシの刺身やイワシバーグ、イカの刺身に塩辛などなど、得意の料理に腕を振るうのですが、私の事をどのように理解されていたのかは分かりません。貧乏でもどこかに優雅さを持った水上家でした。

話が飛びますが、実は私の山篭りはこの嫁の家庭のお陰で終止符をうつ事ができたのです。この水上家との出会いがなければ、私は既に存命してはいなかったような気がします・


☆2006年2月20日。

★:11作目:♪【義母の旅立ち】を書く

キンちゃんが召されたのが1月20日。その後の妻は私のCDの多くを聴かなくなりました。無理もありませんね。しかし、台所で洗い物をしながら【♪義母の旅立ち】だけは鼻をグスグス鳴らしながら聴いているようでした。

1月20日に実母のキヌさんが亡くなって以降、嫁には「私の母の追悼の曲を作って欲しい」、と言われていたのですが、この作品を録音している最中、常に私の背後にはヒトの存在がありました。

ヘッドフォンを掛けて座る私の椅子の右側に人の気配を感じるのです。目前の譜面が風もない部屋でツツーっと50Cmくらい動いたり、ベンチ椅子の片側にギシッと誰かが座る瞬間を感じたり・です。

「あっ、キンちゃんが来ている」、と感じながらの制作でした。そして、キンちゃんが召されて丁度1ヶ月後の2月20日に《♪義母の旅立ち》が完成したのです。


★:キヌさんの入院当初は週末には外出許可を貰って私の家に食事に来る事もありました。

しかし、その頃の私には[ヒトの老い]が理解できてなかったのだろうと思います。私の素知らぬ視線を浴びながら歩けない母親を車から引きずるようにして降ろす嫁は辛さで胸が一杯ではなかったかと思います。

その当時のキヌさんが私に言った言葉があります。「私はいつの間にこんな身体になったんでしょうか?」。 この頃の我が母、既述の2005年12月2日の転倒骨折の為に西日本病院に入院中です。


☆:2006年2月22日。

★:マスコミからの取材打診。
2006.2.27骨折で入院中のN病院にて

我が嫁は11作目の[♪・義母の旅立ち]を作る以前、4曲、5曲、6曲と作品ができる度に友人や知人に私のCDを渡していましたが、その都度に「やめとけ」、「・いや、いいよ」、と私の思いは複雑でした。老いていく私の母の姿を描いた作品群ですから少なからず抵抗があったのです。

しかし、既に5作目の【♪母のクーデター】を書いた直後の2005年の秋くらいからはCDを入手した一部マスコミの方達からの取材電話がありました。

取材には応じるのですが、その度に母や私の写真撮影が必要だと言われ、意図される事は理解できるんですが素直に喜べない・というか否定的な私が居座り続けていました。

★:母がピエロに・なっていく

また、この頃のCDタイトルは、【母に生命を返す時】、ではなく、【母がピエロになっていく】というものだった為、このピエロという言葉自体に賛否両論があり、差別用語だとか素朴でストレートで表現で構わない・、と取材陣の話題に上がりました。マスコミ側にも大きな躊躇いのようなものも感じていました。

このピエロという表現ですが、私自身は聴く人なりの受取り方をすればそれでいいと思っていました。老いの現実を知らない者ほど表現や文字そのものに拘り、介護現場を知れば知る程に形容が許される言葉があってもいいと私は思っていました。

★:この当時、私の実姉も言っていました。

「母をよく観察したいい詩ではあるけど、ピエロという文字は問題にされるかもね」、と。
でも、このピエロという表現を認める事こそが老いの表現には欠かせないものだと私は自信を持っていて、確かに母は日一日とピエロのようになっていくが、それは老いていく誰にでも言える事。

どんなに学歴があろうが、どんなにキャリアを積んだ人だろうが、社会での価値基準なんて無関係に待ち構えているのが老いだと。その老いていくサマをピエロと表現してどこがいけないんだ、と。

「あれほどの人でもこんな状態になるのが老いなのか?」、という私自身の驚きなんです。

それが分からない人には老いは語れないと思っていました。そして、その老いたピエロを介護する家族はその哀れさを抱きしめる勇気を持つ為、自らがピエロを演じてあげる必要に迫られるものなんだ、と。つまり、私自身だってピエロじゃないか、と思っていたのです。

★:「やってられない」、という言葉こそが禁句。

人間って「やってられない」、という言葉を使います。相手を罵る言葉、自分の人生を、運命を呪う
時などに使う言葉ですが、私に言わせれば、この「やってられない」、という言葉こそが介護環境にある者にとっては使ってはいけない禁句だと思うのです。

この言葉こそが一瞬にして周囲の信頼や期待を裏切る言葉であり、介護者と被介護者のそれまでの信頼と期待と時間をゼロにしてしまう言葉だと思います。

★:新聞報道は保留をして貰っていた。

そのような理由もあって、取材には応じましたが新聞などへの記載は保留して頂いたままでした。マスコミの力を借りなくても、「我家と似たような環境の家族だけが聴いてくれたら、作者が誰であってもCDだけが独り歩きをしてくれたらそれでいいじゃないか」、当時の私は一貫してそのように思っていたのです。

つまり、母も私も「社会の表舞台に出る必要が本当にあるのか?」、「CDだけが、介護模様を語る音楽だけが一人歩きをし、その詩の内容が世の中でセンセーションの波を起こせばいいんではないか?」、と考えていたんです。

「新聞、テレビだから映像が必要になるが、ラジオであれば母や私の映像は然程の必要性はなく、聴く側の生活環境、介護レベルに応じた理解のされ方がするはずだ」、と強く思っていたんです。

ラジオって報道の原点ですよね。おこがましく受取って戴きたくありませんが、「モーツアルトを聴くのにモーツアルトが居る必要がありますか?」、「三橋美智也の♪古城を聴くのに貴方の目の前に三橋美智也が居る必要がありますか?」、と思っていました。


★:しかし、「どんな人が作り、唄っているのかって尋ねる人が多いみたいよ」、

「もっと、もっとCDを配って欲しいってよ」、「ピエロという文字を見ただけで胸が一杯になって泣いてしまう、と言う人が多いのよ」、「是非、作者に合ってみたい」という人が多いよ、と姉や嫁が言い始めるのです。

また、私が19歳の頃から通い続け、兄貴みたいに慕っている床屋さん。友人で某公共会館の元営業課長などが、「滅茶苦茶に評判いいよ。誰が作り唄っているのかを知りたがっている人が多い」、と反応を伝えてくるようになりました。これって人が持つ人としての性分なんだと思います。


★:母に生命を返す時

そして、この時期に熊本日々新聞で【母に生命を返す時】という新しいタイトルで私の記事が発表されたのでした。この熊日記事、実は前年の2005年暮れの取材だったのですが、「ピエロに代わる表現を思いつくまで待って欲しい」、という私の希望で新聞発表を二ヶ月半の間だけ保留して頂いたたままになっていたのです。

担当は小嶋さんという女性記者でした。【母に生命を返す時】、というタイトルで発表して頂いて結構です」、と電話先で申し上げたのを覚えています。母と私の写真掲載も了承しました。


★:熊日新聞の記事は大反響

私の周辺だけに限定して言えば、それはもの凄い反響がありました。「あの人が母親の介護をしていたなんて・」、と周囲の誰もが驚いていました。私の事を野球の鬼みたいに思っている人が多かったですからね。

☆:2006年2月?日。

★:RKK

熊本放送局の番組関連で「ミニー号を担当していますが・、」という女性からの電話がありました。丁度、母の骨折部の右足踵を中心に温マッサージをしている最中です。「痛い、痛いからやめようよ」、という母を宥めながら右足膝から下の腫れた部分の浮腫みを無くそうというマッサージです。

「あのう~っ、RKKのミニー号でキャスターをしている〇〇と申します。高橋さんのCDを聴きましたが、面白いことをされていますよね。男性が母親の介護をするなんて珍しいですよね。普通なら女性がすることでしょう?」、「失礼ですが高橋さんは独身ですか?」、と。全く馬鹿げていて、誠意も欠片もなく、自らが女性を蔑視するような冒頭の声掛けでした。

「息子が母親の世話をしたらいかんのですか?」と私はプンプン!。
「そういうことではないんですが、是非とも生番組ラジオでのインタビューに応えて頂きたく、その為の事前連絡です」、と言うんです。

「何という番組中の企画ですか」、と私が問えば、「〇〇という番組中の電話インタビュ-のコーナーで《街の面白オジサン》という企画です」、とキャアキャアと弾んだ声で答えていましたネ・。

★:俺がやっている母親に対する介護行動がそんなに面白いのか?。

、と半ば怒りながら「そんなモノの見方しかできない奴等が作る番組なんかにゃ興味はありませんから出ないよ」と答えると、「あら~、高橋さんはラジオに出たくはないんですか?。他の皆さんは喜んで出られますが、珍しい人ですね」、と。

「お前等は絶対に何かを勘違いをしているよ。堕落だよ、人間としての堕落だよ」、と激しく伝えて電話を一方的に切っていましたね。多分、彼らは彼らの理屈で私という一人の人間をあざ笑っているんだと思います。


☆:2006年3月8日。

★:3月4日に西日本病院を退院。4月からのリハビリ入所待ち》
2006.3.8:4月からのリハビリ入所を待つショートステイ中

2006年3月4日、母は西日本病院を退院。そして、4月からは以前に通所で通っていた鶴翔苑での歩行リハビリの為にロングステイ(入所)が決定されました。

しかし、それまでの約3週間を自宅で待機していては危険が多いし、私の勤務にも再び支障がでるからと理由で2度のショートステイを計画して貰います。ショートステイを2回繰返した段階で4月からの3ヶ月間の入所&歩行訓練をする事になりました。


☆:2006年3月10日。

★:熊本CITY―FMからの出演打診。3月10日、私の作品が電波に乗る。

2月の末、西日本病院で母と私が談笑している時でした。突然に私の携帯電話のベルが鳴りました。「熊日新聞を読みました。エリアが狭い放送局ですが貴方の作品の数点を電波で流したい。出演して頂いて介護話などもして下さい」、というお話でした。

「ありがとうございます。顔を出さないラジオのトーク番組は大好きです」、と答えた事を覚えています。そして、3月10日の本番後にはもの凄い反響があった事を覚えています。

[母のクーデター、金木犀]など3曲くらいがトークの合間を縫うように紹介された記憶があります。この2006年3月10日、私の作品が始めて電波に乗ったのです。


放送直後は一日に百枚単位でCD希望が県内外から寄せられました。CDは無料配布。しかし、知的所有権の存在は明確にした方がいいのではないかと思い、嫁が法務局への全作品の[存在事実証明届け]の登録手続きを開始した時期でした。

放送後の反響、翌日からの反響は凄まじいものでした。
高速道路を鹿児島方面へ走っている最中に私の音楽が流れ始め、居た堪れなくなって高速を降り、今は熊本テルサを目指して水前寺方面へ向かっているが、「是非、CDを1枚だけでも貰えないか」、という運転手の方。

実車中のタクシーの中で流れ始めた私の音楽に「何だ?、この楽曲は!」と後部座席の客に言われるままにタクシーを路肩に停め、乗車客と一緒に聴いているうちに故郷に居る寝たきりの母親を思い出し、客と一緒に声を上げて泣いてしまった」という運転手さんは「方向を変えて熊本テルサへ走ってくれ」と乗客に言われて私へ電話。熊本テルサの駐車場で2枚のCDをお渡ししましたが、それだけでは留まらずに結果的にはこのタクシー会社からは30枚のCDを、乗車していた客が経営する会社からは70枚のCDを追加で郵送することになりました。

やがて、名古屋市周辺で施設を展開しているという馬場記念病院という所から「無償配布らしいが有償でも構わないから500枚のCDが欲しい。名古屋一帯で展開する系列の病院や介護施設の従業者全員に貴方の作品を聴かせたい」という希望がありましたが、これには驚きました。

報道や放送は限られた地区だったはずでしたが、何故かCD希望者は徐々に全国規模になっていくんです。

★:一度の操作で10枚のCDが焼ける機材を2台購入。連日連夜のCD焼き増し作業。

そして、私の携帯電話は鳴り放題、切った途端に鳴り始めますから自宅や職場では充電器に繋いだまま・・。CDを希望される事業所や個人の方々の名称や送付先を控え、職場に1台、自宅に1台とCDコピー機を導入しては次々とコピーしますが、大変な作業が始まりました。

第一、私の作品は歌詞が全てです。この歌詞集の印刷がCD焼き以上に大変な作業でした。更に、自宅と職場に合計4台のプリンターを設置し、歌詞集の連日の印刷を開始しました。


※ この後、CD焼きや歌詞集の印刷に追われる為、この同居記録は暫く休みます。



☆:2006年3月13日。

★:RKK熊本放送から侘びが入る。

「RKK熊本放送の福嶋と申します」、と私も存じ上げるRKK生え抜きの方からのお詫びの電話を頂きました。「先日はミニー号キャスターが失礼な電話を掛けて済まなかった」、という事でした。

「私は自分が己の老いた母親を世話する事を恥とも不幸とも思ってはいない事。むしろ、幸せだと感じていること。少なくとも自分の事を世間外れのオモシロオジサンとも思ってはいない事を福嶋さんには申し上げました。

「ついては・」、と福嶋さんは話を続けられ、「4月のラジオ番組の中で私との介護対談+楽曲紹介をしたい」、と申され、その対談を編集して「3~4週に分けて放送をしたい」、と提案されました。


☆:2006年3月19日。

★:ショートステイ中の母を強引に立たせてみた。

日記を書けなくても私の日常は変わりません。母のご機嫌とりは相変わらずです。鶴翔苑で暫しの歓談の際、「母ちゃん、ちょっと立ってみようか?」、と私。「う~ん、少し怖かよ」、と母。勿論、私は母の手を握っての体位です。骨折以前からそうですが、母は歩き出そうとしない限り、1分位は立っています。

            2006年、3月19日:鶴翔苑にて
              

☆:2006年3月24日。

★:RKK熊本放送で介護対談+介護ソングの放送収録

番組構成上、私への質問事項を予め送信していたそうですが何故か私のパソコンにも携帯にも受信されていないというハプニングが・。私は私で「送信するのを忘れたんだろう」、程度の理解でしたからそのままに録音スタジオでの本番の対談開始・。

福嶋アナウンサーの質問に対する結構なズレを含んだ私の応対になっていたそうですが、「まぁ、いいかと」、というご判断で収録は進行し、間には私の楽曲紹介を含めた3週分くらいの収録ができたようです。残念ですがラジオ放送は聴くことはできませんが対談模様を収録したMDは戴く事ができました。


☆:2006年3月25日。

★:2回目のショートステイを終え、4月からのリハビリ入所が近い3月25日。

施設から外泊許可を貰い、私は母を連れて立田山自然公園を訪ねます。兎も角はこの年の桜を見せたかったのです。母は久しぶりの立田山自然公園にとても喜びましたね。「あぁ、いいね」、「桜はいいね」、と。「以前、私はここを毎日のように歩いとったよね?」、と。

まだ、母の右足には分厚い包帯が巻かれている為、自分には何かの事故があって、歩けないようになってしまったとは理解してくれ、母には母なりに世の中の時間の経過、見逃した季節の変化が悔しかったのだと思います。

「母ちゃん、骨折なんかは経験せんにこしたことはないね」と私が言えば、「うん、それが私は悔しいとよ」、と。

2006.3.25:.立田山自然公園にて





☆:2006年3月26日。

★:「もう、これが私の最後の旅かもね・」、母~入所待ちを利用して歌が浦へ3度目の旅

出発の朝、「もう、これが私の最後の旅かもね・。早く歌が浦の空気を吸いたいよ」、と車の助手席で母がポツリと言ったのを記憶しています。これが私達の歌が浦への3度目の旅です。

熊本インターから高速に乗った私達は鳥栖インターで佐世保方面へ。そして、三河内インターを降りて佐々方面へ。一気に山暖簾(やまのれん)というホテルを目指しました。

★:長崎からは姉が。

そして2度目の歌が浦への旅で道案内をしてくれた深江面鹿町々江迎に住む従兄弟のヨシちゃん(河内義充氏)夫婦と佐々にある[山暖簾]というホテル&レストランで待ち合せ、皆で昼食を取りました。レストラン前に咲き乱れる名物の八重桜がとても綺麗でしたね~。

この佐々の[山暖簾]というレストランですが、TVで全国に報道される程の有名な所らしくてホテルへ宿泊するには半年以上も前から予約をしないといけない程だと聞きましたが、私達は食事休憩だけ。

玄関ロビーから続くように空中に突き出したロッジからの眺望は訪ねた者なら生涯忘れる事のない景観になると思う程の素晴らしさでした。「うわっ・・」、母も感激していました。バンブージャンプが楽にできる高さがあります。

★:昼食後、河内義充氏ご夫婦と別れ、

母と私達夫婦、姉の4人は歌が浦へと向かったのですが、今回の旅は母が車椅子の為、宿舎をこれまでの[歌が浦荘]から車椅子での動線が楽な[なぎさホテル]というご夫婦で経営されている民宿に変更していました。

このなぎさホテルの対岸には平戸島が見え、退院して間もない母には長期の病院暮らしの影響で失語症気味だったり、病院での会話が少ない為の嚥下障害だったり、無感動だったり、いろんな変化が出ていました。しかし、[山暖簾]からの風景やこの[なぎさホテル]からの眺めはそんな母を多いに励まし慰め勇気づけたように思います。

私達は母を母の故郷の歌が浦に連れて行く事になりました。全く歩けない母を連れての旅行はそれは大変な事でした。

★:布団対策

普段の母はベッド生活ですが、そのベッドからの立ち座りでさえ動作介助がなければ無理。つまり、畳床に敷かれた布団からの立ち座りは介助があっても困難です。

この為、事情を理解してくれた[なぎさホテル]側からは簡易式のパイプベッドが事前に用意されました。


この3度目の歌が浦への旅ですが、《裕生の独り言》にも続編を書く予定です。また、この一連の同居記録に関しても、その後に別途の記録記事が見つかった場合、随時の追加、更新をしますので記事内容は日々変化成長することと思います。



〇:2006年3月??日。

★:12作目:♪「母に生命を返す時」を書く。

私は9歳の時に大手術を経験しています。輸血も底をつき、田中さんという看護婦さんからは大量の血液をその場で頂くという大変な手術でした。

この手術室には絶える事のない母の叫び声が聞こえていました。まだ、ガスによる全身麻酔などはなかった頃です。「私が悪かった。勘弁しておくれ。直裕!直裕っ!」、と母は私の名を叫んでいたんです。この時、私は母には2度目の命を貰ったのだと今でも思っています。

そうした思いを新たにした時、CDタイトルとは無関係に[♪・母に生命を返す時]、という作品が生まれました。

こうして、母の熊本での私達夫婦との同居3年目が終わり、来月からは4年目がスタートします。


♪:母に生命を返す時  2006.3  

母は日ごとに老いを深める 今以上を望もうとしない 
自分の足で歩く事 それだけの事を もう、諦めたのかな
私もいつの間にか ため息をつく事が増えた 
若さというか・・やる気というか・・私から何かが消える日がある 
優しさだけで接しても 駄目だヨって誰かが言ってた 
日毎に老いが深まり素直になっていく母 私にはそれが寂しい
母よ立ち上がってくれ そして歩いてくれ あんなに気丈夫のアンタが 弱音ばかりを言うなんて
神よ私の命と引き換えに 母に命を与えてくれ 今こそ命を返す時 母に命を返す時 

思えば私は幼い頃 母には2度目の命を貰った 
今でも私の身体に 大きく残る傷 母はしっかり覚えてる
薄れる意識を引戻すように 母はオペ室のドアの向うで 
誰憚る事なく私の名を叫び続けた 今でも私の耳に残ってる
だからこそ私は今思う 母には命を返そう・と 
母よアンタのおかげで 私は生きてこれた 今しか恩は返せない
母よ立上がってくれ! そして歩いてくれ あんなに気丈夫のアンタが 弱音ばかりを言うなんて
私の命はいらない 神よ母に与えてくれ 今こそ命を返す時 私はそう思う



☆:2006年4月4日。

★:母のリハビリ入所。同居4年目の始まり。
2006.4.04:リハビリの為に入所、4日目の夕食時

★:母の部屋に簡易の水洗トイレと洗面所を作ろう。

この時期、母はロングステイを始めたばかり。2006年3月4日に西日本病院を退院したものの歩けない為、4月1日からの歩行リハビリを目的の鶴翔苑でのロングステイ(入所)です。

このロングステイの間、私達は絶対に母を我が家に戻すという前提で母の部屋の中にトイレと簡易洗面所を作る計画を立てて姉と兄の了承を取ります。勿論、専門業者さんへの依頼です。

とは言え、新しく母の部屋となるのは嫁が使っていた部屋。嫁には私の仕事仲間が泊まれるようにと空けていた2階の部屋に移って貰い、嫁が使っていた洋室に母を移し、介護ベッドを置き、クローゼットを壊して水洗トイレ、残りのスペースには洗面所を作るというものでした。

「んもう・・」、と嫁が鼻をグスグス言わせていました。ピアニストとして頑張っていた頃の高級?なドレス類が実に沢山詰まったクローゼットでしたからね。


★:「うちにもるよね?、花ミズキ」。

そんな4月のある日、鶴翔苑の庭園内を母を車椅子に乗せて散歩していた時、施設の庭に咲く花ミズキを見た母が「うちにもあるよね?・花ミズキ」、と私に尋ねた事が切っ掛けになり、《♪花ミズキ》という作品が誕生したのです。

母のリハビリは大変でした。左股関節が既に疲労骨折でブラブラ状態だった上、その左足踵(かかと)の骨折ですから歩けるはずがないんです。

母は、「もう、私は家には帰れないかも」、と寂しそうに言ったのでした。私は車椅子に座る母の背後で励ましの言葉を必死に探していました。この13作目となる【花ミズキ】という曲はこうした背景で生まれたのです。

西日本病院で3ヶ月を過ごし、更にこの鶴翔苑での3ヶ月間のリハビリ入所ですが、私の日常は変わりません。毎日、母の元へ通っては温シップにマッサージ、車椅子散歩の日々はまだまだ続くのでした。
   
♪:花ミズキ

過ぎ行く季節の中で 母が老いを急ぐ 移ろう季節がまるで 私まで弄んでいる

二年前、母の為にと植えた花ミズキ 私の背丈と同じくらいネって 母が言ってた

朝な夕なに水をやり 大事に育てたが ふと、気付けば母の身体が随分小さくなってる

花ミズキ、君の背丈が伸びたからだけじゃない 母の・母の身体が少しずつ縮んでいる 

教えてくれ花ミズキ 母の心が分からない 近頃、母はめっきり 言葉数が減ってきた

Uh hOO hOO

寒さもどうやら、やり過ごせたね ほら、見てご覧 施設の庭には赤い花ミズキ 夏はもうすぐ

「うちにもあるよネ、花ミズキ」 母は覚えてる 

「もう、見ることもないんだろうネ」って 悲しいことを言う

「よせよ、そんな言い方は 頑張るのはあんただろう!」 母は突然、黙り込む 時折、私を睨む

花ミズキ、君と私は似たもの同士だね 香り持たない君も 母の心に入れない

過ぎ行く季節の中で 母が老いを急ぐ 移ろう季節がまるで 私まで弄んでいる 

Uh hOO hOO


 ☆:2006。4.18。

★:2006年、4月18日:施設を抜け出し、国道沿いを車イス散歩


★:4月21日、再び熊本CITY―FMからの出演依頼。

「出演日は5月5日。今回は多少は長めの時間を準備しますから再出演をお願いします」、というご連絡を既に4月半ばに頂いていました。CTY-FMでの1回目の放送の反響がまだ継続していて、
職場と我が家ではCD焼きと歌詞集印刷にパニックの日々が続いていて、この同居記録の更新と内容が薄くなっている気がしています。


☆:2006.5.3。

★:鶴翔苑・玄関横の庭のバラを見る母


☆:2006年5月5日。

[母がピエロになっていく、蝉しぐれ、春待ち人、母のふるさと、母よ]などが電波に乗ったのですが長崎の長与に住む姉夫婦は、「熊本CITY―FMだと長崎には電波が届かない」、と島原まで車を飛ばし、聴いてくれたようでした。

放送直後に、「よく聴こえたよ」、と姉が涙声で・。放送ではトークの時間も結構あって、介護話に私の言葉が詰まるシーンが結構ありましたからね。「電波の力って偉大だなー」、と思いました。

この熊本CITY-FMへの2回の出演を果たした頃には無料配布をしていたCDへの希望者が更に殺到するようになっていきます。やはり、生放送の中で私の携帯電話番号を広報してくれたのです。
前回は25分程度でしたが、今回は結果的には何と45分以上もの時間を頂いたのです。

城南地区を走っていてラジオから流れる「蝉しぐれ」を聴いているうちに涙で運転ができなくなったから路肩に停車して聴きました、という電話を頂いたりました。

Cd配布を希望する方の1回の枚数も1枚、2枚から「親戚にも聴かせたいから」と10枚単位と増え、介護関連の諸施設などからは、「講習や研修の場で配りたい」、ということで一度に200~300枚を希望される事が当たり前になっていて、それは大変な事態になりつつありました。もう、無償配布だけでは我が家の家計に影響が出始めていました。

★:周辺の騒ぎに驚く。

「一人の老いた母とその息子の同居ストーリーがそんなに共感を呼ぶものなのか?」、「俺なんか、介護族の端くれなのに」、と。私はまだそんな風に感じる事が多かったのですが、「それは違うんじゃない」、「貴方の姿は一般的な介護家族の姿とは全く違うよ」、と嫁は言っていました。

既述したように、嫁は数ヶ月前に実母を亡くしたばかりの時期。【母に生命を返す時】というCDに対する思い入れが私とは違ってきていたのだと思います。嫁の言うように少しづつですが、【母に生命を返す時】という意味が不可解なCDに対する関心が広がり始めたのを実感し始めた頃です。

★:姉が・、

「直裕、【母に生命を返す時】というCDタイトルを見ただけで涙ぐむ友人がいるよ」、と長崎の姉が電話で伝えてきて、そんな現象に驚くばかりの私でした。

                               
☆:2006.5.11。

★:鶴翔苑玄関ロビーにて



☆:2006.5.14。

★:鶴翔苑・リハビリ室前にて

  

☆2006.5.30。

★:NHK熊本放送曲からの取材打診。

先日の事、「NHK熊本放送局です。お母様の老いをテーマにしたCDの事をある喫茶店のオーナーから伺い、実際にCDも聴かせて頂きました。ついては取材をさせて頂きたいのですが」、という趣旨のお電話がありました。

この頃、入所中の母も私達夫婦も大変な時期を過ごしていたのですが、「普段の生活の数場面だけを見て頂けるだけでいいのなら」、と了承。6月から私と母の行動をNHKのTV撮影クルーが追う事が決まりました。


☆2006.6.11。

★:鶴翔苑の中庭で長崎の長女と電話


☆2006.6.19~25。

★:NHKの撮影が始まる。

いざ撮影となるや、母の入所している鶴翔苑の協力が得られずに撮影は難航しました。NHKが欲しかった施設での母の生活風景が全く撮影できませでした。

それならばと母を外泊させる形で立田山自然公園を車椅子で散歩するシーン、私が夕食の支度をするシーン、風呂上がりの母をベッドに休ませるシーンなどが撮影され、6月19日から6月25日までの期間の200時間(重複)以上に及ぶ撮影でした。

母はNHKの撮影隊3人の方々をとても歓待してくれ、自分が撮影される意味が理解できないとしても彼らと共に過ごす時間の瞬間瞬間を非常に楽しんでくれているようでした。

また、母の様子の撮影以外、私が実際に楽器を演奏して録音している最中の現場や譜面を書いている最中、等々、実に多くの場面が撮影されました。

しかし、私の心の中では不本意な日もありました。母の故郷の歌が浦を訪ねましょうか、というディレクター案がボツにされ、やがては一方的に決められてしまい始めた介護ストーリー。そして、結末は息子の親孝行コンサートというお決まりのパターンが待っていたのです。

私の中では「母の老いがテーマなのか、私自身がテーマなのか」、が分からなくなっていたんです。

★:数ヶ月前までの私は、

「人前に出るなどとんでもない」、と言っていたのに何故!、と私は自問自答しました。CDに感動した人達が作り手や歌い手を知りたいと思うのは当然の事なんですが、私の中では母を売り物にしているような気持ちが再び強くなっていくのです。結局、私が望んだCDだけの一人歩きは許されなくなっていました。

コンサートをする事を考えてCDを作り続けた訳ではなく、本来、私はもっともっと遠くを見ていました。よく嫁が「布施明や尾崎キヨヒコに唄って欲しいね」、と言っていました。

私はようやく施行された介護保険制度が改定ばかりされる現状で、介護家族の思いというものを世間に伝えたかったのであって、「歌手になりたい」と思って始めた世に対する啓蒙ではなかったんです。

★:マイナスワン(カラオケ)なんて作ってもいない

「さぁ、番組の仕上げのシーンはコンサートの模様です。もう、会場も準備していますよ」、と突然に言われても私にはCDのオケがありませんでした。つまり、コンサートを念頭に置いたCDオケなどは全く作ってもいなかったのです。

 自分がだらしない言われればその通りですが、それまでの事の流れを読めば分かりそうな事が言われるまで予測できないのが私だったのです。「読みが甘い」、と言われそうですが、介護家庭の日常ってそんなものだと思うのです。母を護る日常が全てであって、その姿を周囲に見せることを目的に生きている訳ではありませんからね。







☆:2006.6.25。

★:6月25日、熊本機能病院ホールでコンサート

   熊本機能病院ホールにて   

このコンサートで使用したCDオケ、実はライブ向けのベースギターの低音やドラムの音を強調したものではなかった為、コンサート会場ではバックのオケの音が聞え辛くて満足に唄えないという大変な事態になってしまいました。

仕事の合間の取材、撮影に追われてコンサート向けのオケを作る発想も時間も全くなかったのです。このコンサートは今でも非常に悔いの残るコンサートになってしまったのです。

しかし、そうした私の残念な思いは別として、撮影もコンサートもTV放映も終わった頃から私の身辺に変化が起き始めたのです。 
   佐世保出身の井上さんと           NHK撮影クルーの皆さん













☆:2006.7.1.

★:施設の庭で長崎に住む長女の紘子と電話
 

☆2006.7.7。

★:NHK熊本放送「ひのくにYOU」で報道される。
    
まだ入所中の母は外泊許可を貰って自宅へ戻り、NHK報道を見ました。番組のコーナーとしてのタイトルは「作り続けたい母の歌」というもの。

前日から番組予告の報道が流れていたらしいんですが、私達はそのことを知らず、友人や知人からの電話でこの番組を知りました。だから、番組のビデオ録画もしていません。

放送中も市内の友人、知人から「見てるよ」、という電話が交互に鳴りっぱなしでしたから最初から最後まで落ち着いて番組自体を見る事ができませんでした。

★:約15分間だったのでしょうか、始まって5分くらい経った頃に母の故郷の歌が浦に住まわれるミツエさん(金木犀の詞に登場します)のご家族からの電話をはじめ、受話器を置けば電話のベル、置けば電話のベル・、次々と連絡があります。その一方で嫁や私の携帯電話も次々と・。
結局、テレビを観ていたのは母だけ。。私達は一週間後の再放送を観る羽目になりました。

まぁ、世間の人には余程の感慨があったのか、私達親子のそうした日常は遡る2003年3月から繰り返されていた訳ですが、介護の方々にとっては様々な受取り方があった筈です。

★:[親の介護と言えば亭主の嫁がやる事]、

という概念が強くある現代社会に大きなショックと勇気を与えることはできたはずです。ここで言う[勇気]、それは男性が親の介護に関わっても何ら不思議ではない、ということ。それまでは躊躇いを持っていた男性の背中を押す切っ掛けを作れたこと、・と思いました。

★:翌日からの暫くは・連日が大変な騒ぎに。

職場の熊本テルサの駐車場に車を停めた途端、既に数名の方々が「テレビを観ました」、と駆け寄ってきます。その輪の中を外れた方が別な方を呼びに行ってはその人の輪が更に広がり・、と大変な騒ぎになりました。

冷静なのは熊本テルサの職員だけ、それはそうです。NHKによる撮影打診には許可を出さず、このテルサでの撮影はホール部3階にある私達の「常駐スペースだけ」、と限定されていたからです。

★:でも、母と私にとっては昨日と今日で何の変化はなく、

今日もいつものようにデイからの帰路にはいつものスーパーへ立ち寄るのですが、そこでも私の姿に気付いた買い物途中の主婦さん達がキャア、キャアと・。[私の事が優しさの教祖様]みたいに見えるんでしょうか?。買うものも買えずに車の所に戻った私は「エーイ、もう、やめてくれ!」、と言えばギョッとする方も・。

その様子を車の中で見ていた母が「そんな失礼な事を言うもんじゃないよ」と。
兎も角、こうした騒動はその後に不定期に始めたコンサートの影響もあってか、この後の数年に渡って続くことになるのです。


☆:2006.7.12。

★:熊本市社会福祉協議会との出会い。

2006年6月25日の熊本機能病院のコンサート会場にも来られ、挨拶だけは交わしていたのですが、熊本市社会福祉協議会の方2名が6月のある日に私の本業での事務所がある熊本テルサというホテルに訪ねて来られたのでした。

喫茶コーナーでお会いした協議会の宮川という女性は目には涙を溜め、「このような作品を作る人が現われるのを私達は待っていたんです」、と申され、私の作品の評価をされたのでした。この時、私は良きにつけ悪しきにつけて自分の運命が激しく動き始めたような気がしたのを憶えています。

★:「俺が公の前に出る?。望まれて人前で唄う?」

「出演料まで準備される?。俺にはそんな力があったのか?」、「俺は歌手と思われているのか?」、と。私は思わず、何度何度も伝えられた言葉の意味を探していました。


★:NHKでの放映後、事実上の初コンサート(同仁堂ホール)が決まる。

こうして、熊本市社会福祉協議会が企画される2006年11月11日の熊本同仁堂ホールで[母に生命を返す時]というタイトルで私の事実上の初コンサートが決まったのでしたが、

実は、私がアーティスト名を《濱野裕生》と名乗りだしたのはこの時からまだずっと後のことであり、実名を使わなかった理由は(母や親族に与える影響、本業への影響)等々からでした。


☆:2006.7。13。

★:今度はNHKの「九州・沖縄スペシャル」で報道される。

約45分間の報道番組でした。この報道の際にも、母の故郷である長崎の歌が浦や博多に住む親族などから・。番組中から番組が終わるまでの間はずっと電話が鳴り通していて落着いてテレビを見ている事ができませんでした。

電話応対は嫁に任せ、私は視力の薄い母がTVを食い入るように見ている横顔だけを見ていましたが、母は首を傾げては「あれー」、と言ったり、「あれは私であれはお前か?」、と私に聞いたりしていましたね。

★:介護家庭であれば普通にある一場面、

一光景は私達親子だけが特別なものとは思いません。しかし、この番組を見る事で介護に関わる関係者の意識に多少の変化が起きれば、という思いが芽生えましたね。そして、私の意識が明確になった瞬間でした。

「よし、介護関係の作品をもっともっと作ってみよう。そして、介護家族の思いを伝える為に大きな何かを残してみたい」、と思ったのでした。NHK熊本放送局には感謝しています。


★:母の入院、入所中を総括・。

2006年4月に書いた[♪・花ミズキ]という作品は2003年3月から始まった母との同居3年間を区切るものです。

これまでに作った作品の改めて見直し、聴直しをしてみると7作目の[♪・頑張れお袋!]から13作目の[♪・花ミズキ]までの7作品は母の3ヶ月間の骨折入院とリハビリ施設へ入所した1ヶ月目の僅か4ヶ月の期間に作っていた事に気づきました。

この期間、私の朝は嫁の作った味噌汁をすする一方、昨夜のうちに洗濯乾燥させていた母の下着類や大小のタオルを紙袋に詰めて職場へ向かい、昼飯は職場でジャムのついたパン2枚をかじるだけで午後2時半には骨折入院中の母の病室やリハビリ入所中の施設の部屋へ駆付けては下着類やタオル類を届ける日々。

★:母の元へ駆けつけるや、

骨折部への温シップとマッサージを1時間。それが終われば母を乗せた車椅子を押して西日本病院の内外(本当は施設外は禁止)への車椅子散歩を1時間。

西日本病院を退院後にリハビリ入所した鶴翔苑では1Fまで車椅子を押して降りてピアノを弾いて母に歌わせたり、3Fの娯楽コーナーで五目並べ対決をしたり(因みに私の負け越し)。

西日本病院時代には18:00になれば母の夕食に合わせて売店で買っていたカップ麺や巻きずしを母と一緒に食い、それが終わると長崎に住む長女の紘子への電話。これが194日間の毎日続けていた事です。

やがて、21:00の消灯を待って病院や施設の非常口から自宅へ帰るという日々。そんな日常の中でよくもまあ次々と詩や曲を作れたものだと自己分析しました。


★:嫁がよく言う・。

私が弱気になったり、落ち込んで心塞ぐ時には嫁がよく言います。「貴方は苦境に立たされる度に底力を発揮してきたのよ」、と。

私は他人の事はよく分かるのですが自分自身の事はなかなか分かりません。何に対してであれ、今を頑張っていれば、その全てが作品を作る時の材料になるはずだと嫁は言いたかったのだと思います。でも、自分自身をそんな劇画みたいに描く訳にはいきません。

2006年3月4日に西日本病院での3ヶ月の入院から解放されたとはいえ、この4月からの母はリハビリ施設の鶴翔苑での更なる3ヶ月間の入所生活を始めたばかり。私の日常には変化はなく、黙々と施設へ通っては母をマッサージしては励まし続けるのみです。


★:自宅改装工事の申請・、あれは駄目、これも駄目。ダメダメ制度。

私は既に始まった3ヶ月間の母の入所期間中に母の部屋の模様替えをしたり、将来的にも歩行困難な生活が予測される母の為に風呂場の浴槽のそばまで車椅子で行けるようにと居間や台所、1階部分のフロア全てに手摺りを付けたいと思いましたが介護制度を利用した改装は認められませんでした。

同じフロアに2箇所のトイレや洗面所は必要ないと。段差解消程度しか認めない、と。

★:極端な解釈をすれば、

「このままで危険な場所で生活し、転んで重度の障害が発生してから介護制度を利用しなさい」、という理屈です。この考えをベースにした助成制度は絶対に間違っています。

転んで怪我をして施設を利用する身体になって始めて制度が動くのです。そうなる前の制度がありません。危険な暮らしになる前に、ここをこうしなさい、という制度がないんです。

介護保険の原資は40歳以上の全国民の拠出金。部屋にトイレや手摺りがあれば転ばずに施設に入る事もなく、在宅で幸せな老後が送れるご老人も居るはずなのに、そのほうが国の財政支出も少なくて済むはずなのに、と思うのです。どこかでズレがある政策ですね。

★:また、仮に改装が認められたとしても

指定された部材、登録された業者を使う必要があり、結果的に一般工事に比して非常に高い工事費になるとか・。

関西に住む市役所勤めの友人から聞いた話では、指定業者からの市への還付(裏金)があるから高くなるらしいと・。これが事実でしょうか?。
結局、国の予算を地方が吸収するシステムになっている分だけ一般工事より高くつくという話でした。

★:コムスン事件だって氷山の一角。

国民のものであるはずの介護資金を事業所によっては(適当に作成される事もある)1枚の請求書類だけで国と介護事業所が勝手にお金をキャッチボールするシステムだからこそ起きた事件だと言います。

西日本病院でもそうでした。行なってもいないリハビリ、母の足元に置いていただけで一度も使われる事がなかった電動加圧式マッサージ機。西日本病院が発行した診療明細書を確認すれば、数々の施術・サービスを提供したかの如き虚偽の請求内容でした。この医療機関の実態を知るだけでも母の元へ毎日通った意味があるというもの・です。

★:こうして介護保険点数の限度額まで使い切り、

3ヶ月を越えて退院間近になると、別な病名を付けて入院延長をさせようか?、との提案。更には要介護度を上げる認定申請をという提案・。

要介護度を上げると同じ治療行為でも請求できる点数が上がるからです。患者に対して医師は滅多に顔を向けず、その目は常に国に提出する請求書に向けるという医療体制。

★:「もっと点数を上げる工夫をしろ」、

と上司(整形外科主任医師)が言うんですよ、と若い主治医が私に言うんです。まるで、ハァハァ・と息を荒げて食い物を強請る犬のようなニッポンの医療体制のある一部の側面をこの西日本病院では知りました。

老人を長生きさせ、ベッドで息をするだけの廃人に追い込み、それをビジネス化するという、多少は言い過ぎかも知れませんが、多少なりとも医療界の実態を知る事ができた西日本病院での3ヶ月間でした。

★:よっしゃ、俺が自分で改装しちゃるっ・・。

介護制度を使った改装助成申請が却下された私は自分で自宅の改装を行う決心をしたのでした。

「こいつら・、国民の積立金を自分の財布を開くが如くグチャグチャと改装許可の条件を並べやがって、もう、自分で内装をするしかないか」、と私は腹を括ります。

学生時代の私は周囲がマージャン漬けの日々を送る中、農家兼工務店をされる方の下で約2年間の大工修業をした時期があり、やがて、母も嫁も誰も知らなかった別な私が我家の大改装に活躍する日が来るのです。母も嫁も目を白黒させて、「・トウリョウ、トウリョウ!」、と私を呼び始めるのでした。


★:思い起こせば・
 
2005年12月2日の転倒骨折による母の入院。これは母にとっては人生の無駄遣いでした。しかし、この数年の暖冬異変が続く中、2005年暮れから翌年に掛けての冬は雪の積もる日もあり小雪が舞う日は珍しくない日が多くありました。インフルエンザだけではなく寒さで体調を壊したご老人が数多く亡くなった季節でもあったのです。

病気や怪我で床に伏す事は確かに人生の無駄遣いではありますが、見方を変えれば母のように暖房が利いた暖かい病院での生活へと環境が変わることで守られる命もあるのでしょうか。でも、それは私にとってはそれまでに経験した事のないような修行の場となりました。

★:194日間に渡る修行の場

2005年12月2日の母の西日本病院への入院から退院。そして、2回のショートステイ後の鶴翔苑という施設への入所・退所の194日間。私は一日も欠かす事なく母の元へ通い続けました。

骨折箇所周囲の筋肉の腫れを氷で冷やしたり、暖めながらマッサージしたり。身体を拭いてあげたり、車イスで庭を散歩させたり。それに、夕食を母とカップラーメンで一緒に食べたり。

少しでも母のそばに居てあげようと、錯覚でもいいから母には家庭で過ごしているような気持ちにさせてあげようと努力したんです。何故なら、【日常の全てが今しかできない事】、というのが私の人生訓だからです。

そして、この後にも続く私の頑張り。それはこの頃の経験が支えてくれているのではないかと思っています。

毎日、毎日・、私は夢遊病者のように母の元に通いました。午後2時には職場を離れ、母の入院している病院近くのスーパーで私の夕食のカップ麺や母の好きな花を買いました。

病室に着くなり、私は給湯室へ向かい洗面器一杯のお湯を入れタオルを浸してはお湯タオルを作り、母の顔から首筋、脇の下と温かい刺激を与えます。母は「気持ちがいい」ととても喜ぶのです。

熱めのお湯に入替えて骨折部を暖め、腫れたままの甲周辺の血流を促すマッサージをするのですが、1時間近くやっていると腫れが消えてしまうんです。でも、翌日になると再び腫れ上がってしまいます。

一見、無駄な事をしているように見えるのですが、そうではありません。母の身体には元に戻る力があるんだという事が分かるのです。そして、その回復力は無駄なように見える事をする事で増してくる事を知りました。

★:西日本病院での入院生活が3ヶ月目を向かえる頃、母には嚥下障害と発語障害が出るようになりました。また、他のお年寄り同様、入院中の母も例に漏れずにお茶を飲む量が極端に減りました。

「他人にトイレの世話になるのが辛い」、「世話をする人の中には私をゴミみたいに扱う人が居る」、かららしいです。それに病院では最低限の会話しかありません。私は嚥下障害を回復させようと母には必死に話し掛けを行いました。

★:「えーと、あんたは誰だったかね」、「つやサンの大事な息子さんさ」、「へー?、ああ、・そうだったね」。こんな会話をしながら車椅子に座らせた母を6階から1階のフロアに降ろして院内の庭に連れ出します。

駐車場の中を巡りながらいろんな会話を交わしました。雨が降った日は外来診察が終わり消灯された病院の各階巡りをしました。

「えーと・ここはどこで、私は何をしに来たのかね?」、「去年の暮れに骨折して入院しとるのさ」、「へー、どこをさ」、「・・・」。

こんなに必死になって毎日母の元へ通っても、母は私に「コンニチハ」、と言った切り、瞬間的に私を忘れている日も数多くありました。


★:混乱、迷走する医療現場を知る。

西日本病院での母の入院生活も終わりの時期、病院からは要介護4を申請しようかという提案がありました。それに、新たな病名をつければ入院延長が可能だという提案もありました。

病院側とすれば請求できる金額を増やせるという意図を深く感じました。確かに、母には嚥下障害も出ていました。ご飯がなかなか喉を通りません。汁物で飲み込ませようとすると咽せます。

★:「でも、これは会話がないのが原因で認知の進行とは無関係。今の誤嚥症状は病院を出て自宅に戻れば私が元通りに治して見せます」、と私は要介護4の申請も入院延長のお話もキッパリと断ります。

★:全く歩けないのに骨折自体は治っているという理由で3ヶ月で退院。別な病名をつければ入院延期もOKという・。実に妙な主治医殿のアドバイスでした。
リハビリ設備が充実しているという事で有名なこの西日本病院でしたが、母が実際にリハビリを受けた回数はほんの数回だけ。もう、これ以上の滞在は意味がないと感じましたね。

この病院はリハビリテーションの学校を持ち、多くの卒業生を輩出する有名な所ではあるようでしたが、「骨折自体既に治っている」、と言う割りに一向に歩行リハビリが行われませんでした。骨折って、横になって寝ているだけなんですがX線撮影が何度された事か。

★:「お母様が足が痛い、痛いと申されますから・」、とX線写真を繰り返した説明を受けるのですが、母が痛いのは捲き爪が原因なんです。

「母は巻き爪が痛いんです」、と何度伝えていても西日本病院ではX線検査が繰り返されました。診療明細書では月平均で6回のX線撮影やCT撮影を受け続けていました。国から少しでも高額な医療費を回収しようというこの総合病院の考え。これは明らかな医療放棄です。

★:「部屋が空くのを待つ者が沢山居るんです」。

「歩けるまで居たいのであれば別な病名を・」、という多いに矛盾を含んだ西日本病院の言葉と態度への不満を多いに残したままのあっさりと決めた母の退院でした。


★:母に他人様の入歯が・。

他人の入歯を与えられた母が歯茎を痛めて以後、退院するまで一環して豆腐料理しか出さない病院の食事にも不満がありました。

「母の歯茎はもう痛まなくなりましたので、以前のように普通食を出して貰って結構です」、と伝えていても絶対に出ないのです。抗議した事への病院側の報復としか思えませんでした。

入院当初、骨折部周辺の腫れ上がった筋肉を冷やすようにと主治医が指示を出し、最初の氷は出るのですがその後の交換が全くありません。看護師長曰く、「手が足らない。コンスタントに交換したいんだったらご自身でどうぞ」、と・・。

★:コンスタントという意味が分からない。

氷が溶けたら交換するのが治療の一環なら看護婦が定期的に交換すべきだと思うのですが・。
職場を14:00に切り上げて西日本病院へ私が駆けつけた時には浮腫んだ母の足は氷が既に溶けてしまってぬるま湯の中に放置・。私が氷と交換する始末。

★:マッサージの電動器具がベッドのソバまで運ばれても

実際に動いたのは2回だけ。私が勝手に機械の操作をしても、「あら、担当が忘れていたんですかね」、と・。毎日が職員同士の責任転嫁なんです。

この電動マッサージの機械、本当は心臓負担があるから脈や血圧を見ながら収縮間隔や強さを決める必要があって、本来はこのような医療行為は素人が行ってはいけないはずなんですが、それを私に操作させるという。。

このようにマッサージ機も実際には稼動させてはいないのに診療明細には日々のマッサージ施術の記録が記載されているのです。これで母が歩けるようになるはずがありません。

★:結局、

浮腫みをとる為の氷湿布や電動マッサージ機の操作の件で言えば、家族が氷交換をしたり機器の操作をするのであれば病院側の人手が浮いて「非常に助かるから勝手にどうぞ」、という姿勢。それでいて診療報酬はしっかりと作成しますというスタンスの病院でした。

★:職員通しの愚痴や雑言が多い西日本病院。

病院フロアの角々や暗がりでは勤務時間中の職員達が腕を組んでは深刻な表情で労働条件や給料明細を巡ってヒソヒソ話。その傍では車椅子のお婆ちゃんが、「寒い寒い」、と膝掛けを欲しがっているんですが、その看護師はお婆ちゃんの膝掛けを取り上げ、自分の首に巻いて話に夢中になっているのです。何と言う看護師ですか!。

★:こうして、私は

西日本病院と鶴翔苑というリハビリ施設に194日間通う中、現代の医療の一現場を目撃しました。医師、看護から介護職員に至るまで様々な資格を持つ正規、非正規の雇用形態の違うスタッフが上司や同僚、職場を信じ切れぬままに時間に追われっぱなしなのです。

使い棄てされる医師。将棋の駒みたいな患者達。そう思いました。


★:白衣の天使は昔話?、今は哀れ若き老い人

西日本病院では母と同室のお婆ちゃんが脱糞し、オムツを通り越してベッドのシーツまで茶色に滲んできている事を看護師さんに伝えても、「はい、それは介護士の仕事ですから伝えておきます」、とだけ・・。
この看護師は人間的に下の下。最下段でしょうね。哀れだと思いました。殺意を覚えました。

★:怒った私は、

「俺はお前に言っとるんじゃ」、と凄もうと思いましたが、「言っても無駄だ」、と本能的に思い止まりました。何故なら、彼女の背中には気持ちの悪い臭く臭う黒い気配を感じたからです。その看護師の身体は病院にあって心は病院にあらず。看護師であって人間にあらずと思いましたね。

職業としては看護師を選択したのでしょうが、我や欲ばかりが先行して周囲が見えずに思い通りに歩けぬ人生に疲れ果てた不満だらけの〔若き老い人〕の姿そのものでした。


★:仕事の充実度と多忙は違う。

自分で自分を過大評価したり、自己主張ばかりをしたり・。こんな人間は今の日本社会には沢山住んでいます。仕事の充実と多忙さは絶対に違うんですけどね。仕事ができないから忙しく感じるというのは・、反省すべきことです。

★:こんな事も・。つい、覗いてしまった天使の変わり様。

母が骨折で微視日本病院に入院していた約3ヶ月間。その後にデイ施設の鶴翔苑にロングステイでお世話になっていた約3ヶ月の時期。そこで見た光景ですが、お年寄りの中には出されたお茶をなかなか飲まない人が居ますよね。

お年寄りの中には若い人達に排尿や排便のお世話をさせる事を苦痛に思う人がいるのは事実です。多分、どこかに大切なプライドを持ち続けているんだと思います。

或いは、お年寄りにプライドを持ち出させるような粗野で敬う念など欠片も持たない看護師や介護士さんが居るのも否定はできません。「あんたが出すお茶など飲めるかい!」、と。
これは介護する側としては喜ぶべきことと私は思います。「意外と矍鑠とした人だね」、と

★:お年寄りにも様々な拘りの違いがあります。排尿や排便のお世話は平気で任せても入歯を洗ってあげようとすると怒るお年寄り。単に自分の言いなりに従わないというだけで特定の看護師や介護士を嫌ったり・。

★:母の事で言えばこんな事もありました。

車椅子に座ったまま、床を足で踏み締めながら自走して必死にトイレまで行った母。母はトイレでは手摺に捕まりながら立ち上がって便座に座り、用を足したんです。

そして、オシッコを終えて車椅子に移り座ろうと椅子の肘掛の部分を掴んで車椅子に体重を掛けたんです。しかし、車椅子のブレーキはロックが解除された状態だった為に車椅子は転がり始めて母が転倒したと・。これは実際に起きた鶴翔苑での我が母に起きたトイレでの転倒事故でした。

★:母がトイレで転倒したこの日。

鶴翔苑から呼出された私は「貴方のお母さんは車椅子の使い方を何度教えても憶えて貰えません」、と当日の母の担当者だった女性介護士からはヒステリックに言われました。

「覚えるはずがないし、必要もないじゃないか」、と私は言い返しました。母が使っている車椅子は我が家から持ち込んだ母専用のモノであって、施設から貸与されているものではないからです。

施設によって違いがあっても、基本的にデイでの通所者の車椅子は原則・自己調達。入所者の車椅子は原則的に施設備品が使われる筈です。

我が母の場合、佐世保から熊本の我が家へ来て以降、入所の過去は全くなく、この鶴翔苑への通所している時期の自宅での転倒による踵の骨折で西日本病院へ入院。その退院後の歩行リハビリの為にこの鶴翔苑に戻って入所しているわけです。つまり、母が使っている車椅子は施設からの貸与ではなく、自前で調達したものであり、デザインも色も全く違っていたはずです。

入所者であれば原則的に施設貸与の車椅子が多いんでしょうが、母の場合は基本的にこの鶴翔苑への通所者です。その通所時期の我が家での転倒で足の踵を骨折、入院。その退院後にこの鶴翔苑へ戻って歩行リハビリを受ける為に入所しているだけのこと。

★:この時の母の転倒の原因を探せば、施設側にあった。

母が使っている車椅子を洗浄する為、この日の母は別な車椅子を与えられていた事でした。この母に臨時的に与えられた車椅子のブレーキ操作は前に倒して利く、後に引いて解除だったのですが、母がいつも使い続けていた車椅子のブレーキ操作はその逆だったのです。つまり、この時の母の車椅子操作には間違いはなかったんです。、

余りにも変化の早い介護現場では物事に対して多角度的に予測思考できる専門家が必要な気がします。それに、車椅子のブレーキ操作の標準規格化もその一つです。

★:モノを忘れて当然なのがお年寄り。

忘れるのがお年寄りの務めでもあるんです。だからこそ生きてられるって・思いません?。もう少し、基本的な配慮や労りが必要だと思います。ご老人に変化を求めてどうするんです?。変わるべきは介護家族を含めて介護する側なんです。

「何度教えても覚えて貰えません」、と言ったこの介護士さん。あんたは老人介護と子育てを混同しているんじゃないか?、と言いたい。

★:老いていくだけのご老人に対して、

まるで子育ての如き態度で接するのは駄目。ご老人は次々と忘れていくのが仕事です。第一、今のあんたは彼らが気付き上げたニッポン社会に住まわせて貰っているんだから・。

確かに看護や介護を職業とするのは大変な日常ではあるんです。目まぐるしく変わる介護制度の中で、専門家であるはずの介護士が車椅子の操作の違いまでを修得する余裕がないのではないかと思います。

施設長の在り方、ケアマネの在り方、まずは施設の在り方でしょうか。否、人としての在り方ですね。

★:命より大切なモノ。それは人としての尊厳。

私が言いたいのは病院が、施設が・ではありません。医療も介護も制度的なものがどのように変化しようと、全ては人が人に行うサービス(介助行為)だという事。

私は194日間、一日も欠かさずに病院に通って本当に良かったと思っています。私は母の尊厳を守ってあげたかったのです。命よりも骨折治療よりも大切なもの・、それは人としての尊厳というものをどうように扱うか、だと思うのです。この尊厳というものを大切にしている病院、医師はどのような時代の制度の下であっても必然的に高い評価を受けているはずなんです。


★:命に触れる医療を。命の背中に触れる介護を・・。

こんな事もありました。西日本病院の廊下を歩いていると見知らぬお年寄りがベッドの上で叫び、私を呼ぶのです。部屋に入り、「どうしたんですか?」、と手を握れば、ただただ、涙を流されるのです。

背中に手を回せば私の腰に抱きついてボロボロボロボロと・。私には分かりました。このご老人は、「私の命に触れたかったんだ」、と。

★:このご老人、身体の痛みを訴えているのではありません。

入院する事で縁遠くなった家族の姿を探し、命を託す主治医との会話を・。否、兎も角、人との触れ合いを欲しがっているのだと思ったのです。

病院や施設に老いた父や母を放り込むかのように入院、入所させる家族もあると聞きます。当然、諸々の事情があるはずですが・・。

また、医師の中には患者を触診する事さえなく、聴診器さえ持たず患者の顔も正視せずにネガフイルムばかりを見ている医師の姿が多くなりました。こんな医者なら暗い部屋で研究でもしてくれ、患者ではなく、医学界に貢献して下さい。

老人は(患者は)医師の手を[神の手に触れられるが如く]、心待ちにしているものなんです・。

★:遠い昔、私が生きる目的を探しては山に篭もり

一人暮らした理由も似たような事からでした。現代のコンクリートジャングルには人の心は存在しないと感じた私は、奥深い自然の山中に温かいモノを感じていたのです。

お年寄りにとってすがるモノがない、身を寄せる場所さえない、心の置き場所がない、というのは辛く苦しい事。それが若者にとってはそれを乗越え、成長する事にも繋がる事であっても、朽ちゆくだけのご老人にとっては失望の対象でしかありません。

現代の医療、介護制度はまさにそうした冷淡さを持っている気がします。果たして、生きる目的や生きる勇気を与えているのだろうかと・。もっと、命に触れる医療を。優しい思いを込め、命の背中をさすってあげる介護を・、と思っています。


★:敬う心が減ってきた

現在、介護を受ける環境にある方々の多くが、敗戦後の瓦礫の中から見事に立ち上がり、今の日本社会を築いてくれた方々です。しかし、私達にはこうした方々の老いに対する尊敬の念が不足していると思っています。

老いに対する労り・、古きモノの持つはずの尊厳さを感じ取ろうとしない現代社会。ご老人へ示すべき礼儀さえ知らぬ日本人にいつの間になってしまったのだろうと思います。

★:コンサートに呼んで頂く事が増えてきた私ですが、

会場の方から次のような意見を聞く機会がありましたので紹介したいと思います。
「自分は幼い頃から託児所で育ったと思っている。物心つく頃までに両親と一緒に食事をした事さえなく、両親への肉親感情よりもあの頃の託児所が懐かしく心に残っているくらいなんです。自分には高橋さんの作品の[♪・ふる里へ帰ろう]という曲の詩の意味が深くは理解できません」、というのです。

更に、「両親が年老いたら施設に預けて、それのどこがいけないのか」、と。「両親が自分をそうして育てたのだから、同じような環境で人生を終えて貰うのが一番いいような気がします」、というのです。こんな若者が増えているのです。

♪:ふるさとへ帰ろう 君が育った町へ 君の母が待ってる 老いた身体を横たえて
 君の帰りを待ってる

自分の命を削り 君を育てた母が 君が忘れかけたふるさとで 老いた身体を横たえて
 君の帰りを・待ってる

ふるさとへ帰ろう 君が育った町へ 老いゆく母は語らない 救いなど求めもしない
それが何故だか分かるかい?

ふるさとへ帰ろう ふるさとへ帰ろう 老いた母の為に・

あの日優しさをふるさとに残し 君は都会に憧れてしまった

そして、君はそこで何を得たんだろう 今でも拘る何かがあるのかい?

ふるさとの沈む夕陽はあの日と同じ だけど君が母を最後に見たのはいつ?

君が何かと戦いもがく間に 君の母も老いに苦しんでる

ふるさとへ帰ろう ふるさとへ帰ろう 君自身の為にも・・



★:命だけを見つめたい。老いの勲章は金色じゃなく、醜さや汚さこそが老いの勲章だ。

老い、それはそれまでの蓄積した知識や経験を捨て去り、ヒトとしての汚れを洗い落として天に召されるまでの時間を過ごす時間。知識や技術、文化を持つがゆえに築き上げた繁栄。

そして、その一方では退廃や戦い、病や心労を新たに作り上げてもいます。私達は自然の中に生まれながら、その自然を無視し破壊して、その上に暮らしてきたんです。

ご老人の持つ醜さや汚さは生きてきた証し、生命そのもの、現世への意欲であって、それは喜ぶべき事だと思います。このご老人達のお陰で今の私達の存在があるんです。

だから、私達はご老人の表情や言葉、仕草だけに反応せず、その方の尊い命だけを見つめたいと思います。

そのご老人達は、老いという現象を持って罪を償い、私達の繁栄の為に自らが破壊してきた自然へ帰る為、許され戻る為に知識や経験という汚れを捨て去ろうとしているのです。それが老いなんです。

誰かを敬う、何かを敬う事で自分の気持ちまでが謙虚になる事はありませんか?。人間って、俺が・私が・ではなく、自分はまだまだ不完全な人間だと思った方が楽な人生を過ごせるような気がします。

194日間、母の元へ通いながら、そして22:00近くの遅い夕食を摂りながら、35度の焼酎を5:5で割った強めの焼酎がすっかり気に入り始めた私はいつの間にかすっかり変わってしまった自分に気づいたのでした。


☆:2006.7.20.

★:鶴翔苑ロビーにて


☆:2006.7.23.

★:退所間近かの夕食時



☆:2006.7.25。

★:明日、母が鶴翔苑を退所。

明日は母の鶴翔苑からの退所の日という、母が熊本に来て3年と4ヶ月目の頃です。母は194日ぶりに私達夫婦のもとへ戻って来ました。
         

☆2006年7月26日。

★:母が退所。デイ送迎は私の役目と心に誓う。

6ヶ月を越える入院、入所期間の為、母にはすっかり依存心が定着して自発性が消失していました。
 
改めての記述ですが、2006年7月26日に3ヶ月半のロングステイを終えた母が退所し、今度は鶴翔苑へのデイに出掛けるのが日課となりました。ようやく、半年前のデイ通いの状態に戻ったんです。しかし、骨折は癒えても歩行リハビリを受けての退所であっても全く歩けない為に車椅子での移動・通所です。

★:「ここで気を抜いてはいけない」。

私はもう少しだけ自分を追い込もうと思い、私は自分で母を毎日のデイに連れていうと決心します。勿論、帰りも私が迎えに行きます。自分で決めた自分への約束程度は守らないといけません。

6:00過ぎに起床して朝食の準備を終えた嫁が母の部屋を覗くのが7:00。母は6時前には起きている事が多いのですが次の行動がありません。今の処、全く踏ん張れない母は立てない、歩けない為に安全ではあります。

ベッドの上で「着替えよう・」、と思うのでしょうが予め嫁が用意した衣類を身につける順番が母の中で狂い始めています。パジャマの上にズボンを前後の区別なく履いたり、紙パンツも穿いていない朝もありました。でも、「自分で着替えよう」、という気持は大事です。でも、着替えようとする気持ちがあるうちはいいのですが、起床しても顔も洗わずに何をしていいのか分からないまま首を傾げている朝が増えてきたのです。

半年以上の長い病院生活と入所生活で自発的な生活パターンをすっかり忘れてしまっているようでした。

また、デイ施設での歩行訓練が母には相当に辛いようで、「もう、私は今日は行きたくない」、と言うのです。でも、母のその言葉を無視した私が仕事着に着替える様子を見ているうちに母自身もコンパクトを出して本能的にお化粧を始めるのです。一緒に買い物にでも出るつもりなんでしょうか?。

兎も角、母の部屋にはトイレと洗面スペースを設けた事で以前に較べて危険度は減っていました。しかし、歩けない母の行動のすべてに嫁か私のどちらかの動作介助が必要であって、これが大変な事でした。だから、この時期には鶴翔苑というデイの有難味ってとても感じました。
契約上では原則的に9:00~14:30まで、延長料を支払えば16:00までは母のお世話をして貰えますからね。


☆:2006.7.27.

★:退所した母を歩行リハビリの為に立田山自然公園に連れ出す。



☆:2006.8.6.

★:退所後の立田山自然公園での連日の特訓の合間。母に野草をプレゼント


★:母の言葉に感激/365日間の夕食作り、入浴介助も私がすると宣言。

母はデイへの車中でよく私に言います。「私はね、何が楽しくて生きているかと言えばさ。アンタと一緒にこうして車で学校(デイの事)に行く毎日の時間が幸せだからさ」、と。

こんな時、デイへの往復の送迎を私がするようになって本当に良かったと思います。このデイへ通う朝の10分間。それに、デイから帰宅する際に買い物をしたり、神社に立ち寄ったりと・・。この時間というものは母と私にとってとても貴重な時間となっていくのです。

因みに、母が使うアンタという表現は私を指している場合が多いのですが、時として幼い頃のイサムお兄さんの場合だったり、甥の向浩巳氏の場合があるんです。母は幸せですね。

もう、楽な生活などは望まないようにしています。母が頑張ってくれている間は私も嫁も母に添い続けてみたいと思います。ついでに私の名前も[高橋イサム]とでも変えようかしら・ネ。

毎日14:00には職場を離れ、14:20頃には母の施設へ着くようにしています。2日に一度は自宅への帰路はスーパーで買物をするのですが母の機嫌がいい日には車椅子をトランクから出して、「はい、一緒に売り場巡りをするよ」、と母を誘う事もあります。

赤い、黄色いピーマンを見た時など、「へー、これは何ですか?」。「ピーマンさ」、と答えると、「へーッ、赤の・」、と母が驚きます。

秋刀魚を見つけた時などは、「あらま、痩せて・、あんたみたいね。、と。「親の育てかたが悪かったのさ」、と言うと、「それも人生、これも人生。あんたは苦労したけど優しい人間になったさ」、と言います。

★:こんな瞬間、私はドキッとします。

お袋には認知なんてないんじゃないかと思う瞬間があるのですが、話を続けているうちに母は私と向浩巳さん(母の甥)を勘違いしている瞬間がある事に気づくのです。

7月26日の母の退所以後、私はデイの送迎だけではなく、毎日の夕食は原則として以前のように私が作る事を嫁に宣言していました。

★:その理由の一つに、

この頃の嫁がケアマネや社会福祉士の資格取得への夢を持ち始めている事に気づいたからでした。【母に生命を返す時】のCDを制作中、よく私はマザコンという周囲の言葉を耳にしました。反論はしません。しかし、私の命を母以外にも差し出すとしたら、それは嫁に対してだと思うようになりました。

私は学生時代、近所の食堂で包丁を握った時期があり、31歳の時には片手間でイタリアンレストランを出店したくらいの料理好き。勿論、大工も造園も電気配線もお手のモノです。辛いとは思いません。私はそうやって必要に応じて周囲からは多くの事を学んで生きてきたんです。私はもう一度、その頃の自分の気持ちに戻ろうと思ったからです。
2006.8:鶴翔苑にて                


☆2006.8月10日。

★:法事で佐世保へ。

8月7日付けの読売新聞の熊本版に【母に生命を返す時】の記事が載りました。取材は7月中旬でした。もう、この頃の私はマスコミに対する抵抗感も完全になくなっていました。

「少しでも多くの介護家族の皆様に私のCDよ届け」、と強く願い始めていました。そして、詩作や曲作りへの意欲も湧き出し始め、【母に生命を返す時:2】の制作を思い始めていた頃です。

何しろ、2006年4月に[♪・花ミズキ]という作品を作って以来、普通の介護おじさんに戻っていましたからね。しかし、CD:1の無料配布も既に7400枚を越えて配布自体は日々継続中でもあり、その上で【母に生命を返す時:2】の制作・配布に移行するには勇気がいる事でした。何故なら自宅改装の事もあり、資金的なモノでためらいがあったからです。

8月10日に佐世保での父の法事に母を伴って帰省。佐世保での母は単に疲れたからだけではなく横になっている事が多く、姉や兄夫婦の話し掛けにも頷くだけの事多く、施設での暮らしがすっかり身についているようでした。

その意味では施設への入所はお世話をして頂く有り難さはあっても、身体機能や会話能力を衰えさせるのは事実。だって、どこの施設でもお年よりは[叱られ役ばかり]です。

★:母にとっては突然の夏。

それに、半年間の長きに渡る入院・入所で季節知らずの暮らしをしていた事もあって、母にとっては突然の夏。だから、この2006年の夏は相当に堪えたんだと思います。

また、母の耳が遠いという理由もあります。補聴器を嫌がるのです。耳がよく聴こえないから自分からは積極的に話し掛けない。もし、話し掛ければ返事が返ってきても聞こえませんからね。だから、話さずに聞き方専門になりがちなんです。それこそ、[何回言っても分かってくれません]。

★:母の聴覚。

事実、「7月7日」が「ひいちが何か?」、と聞こえたり、「俺が分かっていればいいさ」が「お湯が沸いてればいいさ」、と聴こえたりするのはまだいい方です。「おしっこは済んだね?」、が「しっぽはつんだね」、などと意味のない日本語に聞こえたりしているようです。

一般的にお年寄りは長い言葉を聴き取る能力が低いんですが、私の母の場合にはアイウエオという母音しか聞こうとしません。だから、「あの3つの色の着いたものは何だい」、と母が聞く時など、「あれは信号で赤が止まれという意味さ」、と言えば、「チンコーエパカがトカレ」、とか、「シンコーレタカがトマヘ」、等と聞こえ、黄色などもピーロ、チーロと聴こえるようです。

「へーっ、この歳になってピーロという色を始めて知ったよ。チイロ(黄色)じゃないのかい?」、と誠に変な会話になったりします。これは会話している最中に黄色だったと思い出すのですが、黄色だと自覚できてもチイロとしか発音できません。

私の家には[チッチ]という猫さんが同居していますが、私達が、「チッチ」、と呼んでも母には、「ピッピ、チッピ、キッキ」、と聴こえているようです。日によってはチッチと明瞭に聞こえる事もあるようですが、母はピッキとしか発音できません。猫にはいい迷惑ですよね。

★:実家の屋根の補修工事。

この8月10日、朝からの法事を済ませた私はこの年の梅雨時のベタ雨や強風で佐世保の家の屋根の一部が痛んで雨漏りが始まっている事を知っていた為、熊本から運んだ補修材で自宅屋根の南側全面を応急手当をする作業に入りました。ズレた瓦を元の位置に戻し、こーキング剤で固定する程度でしたが午後3時過ぎにはその作業を終えました。でも、この日は真夏日で瓦の上で卵焼きが作れるほどの暑さでした。気を遣う兄嫁の操さんは冷たい氷の入ったお茶を何度も作ってくれた事を覚えています。


★:法事を終え、屋根の補修を終えた後、4度目の歌が浦の旅へ出発。

この自宅屋根の補修工事の後、約1時間ほどの休憩をとった私は母と嫁を連れて母の故郷の歌が浦へと向かいました。佐世保から熊本までの帰るより、走行距離が短い歌が浦へ足を伸ばしてゆっくりと一晩泊まるのもいいかな、と考えたのですが、兄は「非常識」、だと言って機嫌が悪かった事を記憶しています。

何が非常識だと思ったのかは兄にしか分かりませんが、炎天下での4時間に渡る屋根修理の後に別路を目指す私に違和感を抱いたのか、私の疲れを気遣った兄の言葉だったのかも知れません。

★:19:00過ぎに歌が浦に到着。

宿舎の[なぎさホテル]という民宿へ入り、とても豪勢な捕れたて魚料理を頂いた後、母を入浴させるのが大変な作業でした。嫁と私は二人掛かりで汗まみれになったものです。

翌日、母の旧居跡地近くの姫神社を訪ねますが母は気づきません。幼い頃の夏休みにはここの境内でラジオ体操をしたはずなのに・。あれ程、日頃は姫神社の話をする母が、「・ここはどこ?」、と私に聞くのです。
これまでにも歌が浦を訪れる際に、この姫神社前を必ず通過していたはずですが母は今回も気づきません。
  民宿なぎさホテル到着 

私の曲に「母がよく話す幼い頃のラジオ体操、姫神社の夏の境内・」、という詩の【♪・潮騒の町】がありますが、これは母が姫神社が分からなくなっていた時の私の心境を書いたものです。

この8月の歌が浦への旅は長期ステイから退所したばかりの母の事をしとね崎教会のマリア様にお願いしたかったのです。「母が歩けるように」と・・。

この歌が浦への旅では母の幼友達のミッちゃん、フーちゃん姉妹には会う事は叶いませんでしたが帰路の途中、佐々の濱野千代サンと会い、そしていつものように東光寺への参拝もする事ができました。

♪:潮騒の町 2006.8

これが私の最後の旅かしら 母がポツンと言う
そして、窓辺に座り 遠く海を見てる 時折、目を伏せている
今は杖さえ使えない そんな貴女を こんな遠くに連れて来て
済まない・と思ったり これぢいんだと・思ったり 私の心は揺れている
母には届くかしら あの潮騒の音 貴女を育てたふるさとの海
母は遠い昔を語り始める 幼い頃の記憶を探しながら
例えばそれが 青春の日々だとすれば 母には余りにも遠すぎる
せめて時よ止まれ せめて時よ止まれ 


☆2006年8月11日。

2006.8.11長串山から平戸島を望む     2006.8.11:なぎさホテル前で

 濱野千代サン(母は疲れて立てない)             
                   東光寺敷地内に立つ濱野治八翁記念碑]
      歌が浦港                     姫神社

★:2006年8月。2週間の間で一気に5作品を吐き出す。

2006年4月の[♪・花ミズキ]という作品の後、創作活動を停止していた私にはこの歌が浦への旅を切っ掛けに再び制作意欲が湧いて来ました。歌が浦、佐々からの帰熊後の2週間で5作品を一気に作ってしまいます。
                  
母の故郷の歌が浦は長崎県北松浦郡にある北九十九島の美しい港町。透明度は日本でも有数と言われる海。雰囲気ある船泊り・。飛び魚(あご)漁やミキモトの真珠養殖でも有名。ツツジ祭りで知られる長串山から見る360度の大パノラマは絶景。「夕陽を手で掴める」、というキャッチフレーズで知られています。

★:今は跡地しか残っていませんが、幼い頃の母の一家が歌が浦に住んだ頃の家は借家だったそうです。

大きな屋敷で庭には池があり、「コウホネ」というハス科の水生植物が茂るほどだったそうです。因みに、このコウホネは熊本の立田山自然公園の池にもあります。             
  河内松若一家が住んだ家の跡地         国民宿舎[歌が浦荘]  

母が住んでいた家から歌が浦の海岸線までは国道を隔てて200m程の所。この国道も昔はなかったそうです。また、当時の波打ち際一帯は現在は埋め立てられていますから、実際には家から海岸までは130m程度ではなかったと思います。

1度目の訪問の際に宿泊した歌が浦荘という民営・国民宿舎から見る夕日は美しいものでした。しかし、ここの浴場は地下にある為に母には使い辛く、2度目以降の宿泊は「なぎさホテル」という民宿を利用する事になります。

この民宿の対岸には平戸島が横たわり、ここからの眺めも素晴らしく、母は感慨深い表情をしていました。この歌が浦は幼い頃の母の思い出が凝縮した場所です。


★:[♪・老いを嘆かないで]2006.8

母を病院や施設で介助しながらよく感じていた事です。例えば母をトイレでお世話しながらもお隣で一人で便座から立ち上がれないお年寄りを見かける事がありました。転倒でもしたら大変。人生ってそんな一瞬で変わってしまうんです。そして、その家族の人生までも・・。

私は母の世話も大事ですが、お隣のお年寄りも放ってはおけない性格なんで、母には便座座って貰っている間、ついついそのお年寄りのお世話をしてしまうという・。こうやっているうち、母親の老いていく姿だけではなく、別な老いや介護家族の姿などを目撃してしまう機会に恵まれるのでした。

★:老いって素晴らしい事なのだから自慢していいんだと思うのです。

決して嘆いたりしないで下さい。どうして遠慮なんかするのですか、と思うのです。貴方を嘆かせる理由は私達の側にあるのでないですか、と尋ねたいのです。美しい頃の日本を生きた人達の心は皆、美しい。汚れた自然の中で育った私達には心の美しさが足りない。心が荒んでいると思っています。

♪:貴女の傍に居て いつも思うこと 夢は捨てないで 自慢してみせて
老いは誇るもの 老いは生きた証し これが私だと 胸を張ってみせて
老いを嘆かないで 老いを悔やまないで もっと生きてみせて これが人生だと

今の貴女はベッドに横になったままでも 人はこうして朽ちて逝くんだと
老いゆく姿を私に伝えてくれてる そして、おいは決して自分だけのことじゃなく
それはとても耐え難いことだけど 生きる者すべてが迎えるものなんだと
老いは自然なもにお 老いは称えるもの 老いは生きた証し 長い道のりを


★:[♪・DOLL]2006.8

 施設暮らしのお年寄りを数多く見ているといろんな思いにさせられます。朝から晩まで必死に家族の姿を探す方。私のことを我が子と勘違いして、「遅かったじゃないか」、と叱る人。そして、「こんにちは、お元気ですか」、と話し掛けても表情一つ返してくれない人。本当に悲しくて辛い事です。

このドールという曲。母にも該当する部分は多分にありますが、母の施設で見た一光景。それに2006年1月20日に他界した私の嫁の実母が入院中に見せた変化の様子。それに八代市の特養あさひ園で企画された「母に生命を返す時コンサート」の際に見掛けた要介護4,5の方々の表情などを思い出して私なりに表現したものです。

この曲を切っ掛けに、私は母との生活模様以外にも〔老い〕というテーマを改めて求める事にしました。

♪:あんたは気づかない まるで能面みたいに 遠くを見てるだけ
幾ら話しかけても 木彫りの人形みたいさ あんたはないも応えない
戯けてみせようか あんたの好きな役者の 声色真似してさ
だけどアンタは気づかない 暗い老いの世界へと 踏み込む・つもりかも
昨日までのあんたは 陽気に笑っていたのに 今は天井・見てるだけ
もっと傍にお寄りよ 突然、母が話し出す お前は私の・子だよね?
母が両手を伸ばす 細い腕を伸ばす 私の顔を・触りだす
何も心配ないよ・と 私は母を抱き寄せる 背中を擦ってやる
母は無邪気にはしゃぐ 言葉がなまり出す 幼い頃に戻ってる
やがて、母は私の腕の中で 木彫りの人形に・戻りだす
何て悲しいんだろう そして、切ないんだろう 老いはまるで・回転木馬のようさ
5分刻みで母になり そして、人形に戻る 老いはまるで・回転木馬のようさ
これが人生なんだろう これも人生なんだろう 私は一人呟く


★:[♪・水無月の頃] 2006.8

2006年の夏は猛暑の連続でした。この曲は母が7月25日に退所する直前、一時帰宅の許しを受けて近くの立田山自然公園に行った6月末の頃の思いを詩に綴っています。

まだ、梅雨明け前の事ですが強い陽射しの中、「暑くて・・、こりゃ堪らん」、と母が言うのです。無理もありません。前年の暮れからの入院、入所の母は冷暖房の完備された部屋で過ごし、冬の寒さも春の桜も知らずに過ごした母にとって、久しぶりに出会った夏だったのです。

やがて、退所が間近かとは言えそれは制度上の理由退所日であって母はまだ歩けません。しかし「施設を出るんだよ」、と何度も言えば。退所する事自体を母はとても喜んでいました。
「・今年の夏は暑くなるゾ」」。そして、7月25日には予定された通りに母が退所しました。

母が、「砂田さん。砂田みね子さんに会いたい」、と言い始めます。
「そうね。8月にでも会いに行きましょうよ」、と嫁。

みね子さんとの電話でのやり取りが始まりました。このミネ子さんは母の博多時代の親友でした。

2006年8月の歌が浦への旅の帰り、私達は母が博多で働いていた頃に同じ部屋で寝食を共にしていたみね子サンが入所している佐賀市内の[はがくれの里]、というグループホームを訪ねていました。

みね子サンは母の1歳年下の方ですが、今でもパッチワークや書道をされたり、自室で食事を作ったり、とてもお元気な様子で私の母は驚いていました。

しかし、その後はよく「・寂しい」、というお電話や手紙があり、母はその度に電話で必死に励ますのですが、話の途中で「あんたは誰だったかね?」、という質問をしたりして、いつも二人の会話は結論が出ません。でも、それぞれが分かっている部分だけでつき合える。それがお年寄りのつき合い方なのかも知れません。

♪:今は水無月の頃 今年の夏は早い 
母と暮らし始めて・4年目の夏
青空が見えてきた 黒い雲が逃げていく
母は今朝から写真を広げ 首を何度も傾げてる
窓を少し開けましょう 紫陽花が見えますか?
母は右手でめがねをずらし 私を手招きする
雨上がりの立田山 散歩に行きましょう
車椅子も積みましょう 菖蒲も見たいでしょう?
貴女の好きな青空に 虹が掛かるかも 


★:[♪・ふる里へ帰ろう] 2006.8

この曲は2003年3月、長崎の姉からの電話を受けて緊急に帰郷した際、コタツに横になり食事さえ一人では摂れなくなっている母の姿を目にした時の私の心境を元に作りました。

若者は自らの夢や理想の虜になる余りに両親の存在を忘れがちです。親という存在は子供にとっては力強い永遠のふる里ではあるのでしょうが、やがては必ず朽ち、老いるものです。

老いゆく母は語らない、救いさえ求めないもの。ただ、ひたすらに子供の幸せしか考えてはいません。若者は自身の夢や理想を追うばかりで両親への感謝を忘れていては、それは必ずや虚しさとなって戻るはず・・。そんな思いで作った曲です。

人は何故か自分の老いの気配を感じ始め、ようやく親の苦労を知るようです。しかし、それでは遅いのです。自分の命を削りとるようにして育ててくれた親への感謝を忘れてはいけません。せめて、親が存命の時、せめて親が親である時に・・、返せる恩があれば返すべきだと私は思うのです。

2009年の現在の母は私と暮らした2003年から現在までの多くを既に忘れています。今はすっかり動物的になった母。母には激しく罵られる事が多い私の日々です。ただ、それでも、「ウフッ」、と笑える私が居るんです。ここまでに私を変えてくれた母には感謝しています。やはり、母は健在なんです。


☆:2006.10月の頃

★:[♪・四畳半の檻の中で]。

私のHPにはいろんな方たちが書込みをしてくれます。その中で、私の学生時代の生活の一部分をご存知の方がいます。ここでは私自身の当時の生活詳細を書くのは勘弁して頂きますが、この〔四畳半の檻の中で〕は私自身の今後の詩作活動の上での大きな壁を取り除いてくれたような気がします。いろいろと書込みして暮れた先輩、後輩に感謝・・という処でしょうか・・。

♪:四畳半の檻の中で  2006.10                 

①あてのない旅に 憧れた頃がある 時に全てを忘れたい・・そんな頃が
気ままな旅を 勝手に夢見た 世間に背を向けて・・生きていこうと
空に浮かぶ雲にさえ 妬みを覚えた 流れる水の行方を・・追いかけた事も 
風のように生きよう そう思っていた  まるで・・吟遊詩人のように
自分の命さえ 疎ましい頃があった 何で俺が生きてここに・・いるんだろうと
そして、いつも言われた 生きていく価値が 今のお前にあるのかと・・そんな事を
    
 親の思いなど知るか・と 俺の人生だから・と 落ちていく自分を・・一人楽しんでた
 どうせ俺なんか・と どうせ俺なんか・と 心で叫んでた・・あの頃

生きる勇気も持たず 死ぬ事もできず 何の為にこの町に来たのかと・・思ってた
真夜中のアーケード 他人の落としたコインを拾い 獣のように叫んでいた・・あの頃


★:2006年10月の頃。[♪・風よ光よ]を書く。

処で、母は10月の頃が大好き。「ああ、風が気持ちいいね、陽射しもポカポカでいいね」、と。例年だと、この時期にはよく散歩に出るのですが、この2006年10月は予定された11月11日の熊本市コンサート、それに11月24日の八代市でのコンサートの準備に追われる日々。

そこで、母の不満を解消しようと嫁が私に言いました。「お母さんにコスモスを見せよう、貴方も新しい詩が作れるかもよ」、と。

★:母と嫁と3人で久木野に近い町営のコスモス園に向かいました。

コスモス畑の中で食べた嫁の作ったおにぎりがとても美味しかった。例え束の間でもいいんです。こうした空間の中で母と遊ぶ事が大切なんだと再認識させられました。

「どうせ、行った事など直ぐに忘れるんだから」、では駄目です。老いたりとは言え、幾つかの体験の積重ねが記憶になり、記憶の集積が知識になるんだと思うからです。そして、ここで生まれたのが(♪・風よ光よ・)という作品でした。

コスモス畑の中を縦横に巡る起伏の多い凸凹道を非常識?にも車椅子を押した為、私の腕、肩、背中、腰が4日間ほどパンと張っていました。私の身体もいつの間にか頑丈になったものです。

時に、私は老いに悩み戸惑う母を見ると今でも神社に駆け込みます。静寂な境内、山中には神々が住むと私は信じているからです。

「神よ、母の苦しさ辛さは私に与えてくれ。痛みならそれも私が貰う。母の命ならやれない。欲しいなら私から奪ってくれ」、と念じます。母には痛みも苦しみもない今日を過ごして欲しいからです。

現代に生きる者達から消えかかっているものの一つに[念]があるのではないかとも私は思います。この世に言葉が生まれる以前、生き物同士、生き物と自然は[魂の触れ合い]というものを大切にしていました。

老いゆく者は私達に決して言葉だけを求めているのではありません。救いの魂を求めているのです。それはヒトがヒトを思い遣る心、ヒトが自然にすがる祈りである[念]だと思っています。この念がなければ伝統や文化は引継がれる事なく間違いなく衰退していくのです。

♪:風よ、光よ  2006.10

風よ君に・心あるなら 頼んでおきたい・・事がある
もしも母が・ふさぎ込む日は 語り掛けてくれ・・母の耳元で
そして、君は・届けてくれるか 私の思いをそっと・・母のもとへ
光よ君に・優しさがあれば 頼んでおきたい・・事がある
母が遠い・記憶を探し 空を見あげて・・ため息つく時
そんな時には・空一杯に 母のふる里・・描いてくれないか

母の悲しさなら 私が背負うつもり  辛さなら それも私にくれ
苦しい事なら慣れている  母の痛みなら すべて私がもらう
そして、今際の時には 神に伝えてくれ・・
母の命なら・それはやれないと 欲しいなら私から奪えと・・・
母には・誇るものがまだまだあると 私より・生きる価値があると 
風よ光よ・そう・・思うだろう?・・ 

もう少し君らに・言っていいだろうか 私が母を外にいざなう時
その時、君らは・ほんの少しだけ  遠慮してくれ・・母は目が弱い
光よ柔らかに・・そして、そよぐ風よ 君は季節季節の香りを運べ



☆:2006.11月の頃。

★:[♪・秋、夕暮れ]を書く。

施設から退所した7月25日以後の一時期、母には失語や無表情といった症状が出ていました。それに燕下機能の低下もありました。錠剤が飲み込めないのです。

嫁と私は母を連れて佐賀市内のグループホーム[はがくれの里]に暮らすミネ子サンに2度目の面会に行ったり、夏の終わりにはコスモス園に連れて行ったりして刺激を与えようと努めました。

この(♪・秋、夕暮れ)という曲は母に杖の大切さを体感させようと久し振りに行った立田山自然公園からの帰宅時、我を忘れるほどの美しい夕焼け空を眺めた時に浮かびました。

この【秋:夕暮れ】の旋律は私自身も非常に気に入っていて、長崎の姉からは絶賛を受けた作品の一つです。私の知人の中にも、「イントロが始まった途端、異次元の世界へ引き込まれる」、と言ってくれる人が居ます。

♪:秋:夕暮れ   2006.11
ほら・どう思う・あの空を 母が古い映画のヒロインみたい                       
夕焼けを前にして椅子に座ってさ 私の・そばで腕組みしてる
母にはあの空・見えるのだろうか 弱った視力が少し気に掛かる
長い道のりを歩いた母は 時に・ああして昔を探してる

生きる事に疲れた・とか 足でまといになりたくない・とか そんな思いは持って・欲しくない 
生きてきて良かった・とか それなりに幸せだよ・とか そう思って・欲しい
ほら・見てご覧・夕陽が動く オレンジみたいな顔して こっちを見てるよ 

母が・私を見る・空を指さす お前は飛行機・乗った事があるかいって・さ
私は・そんなモノはいらない もうすぐ・あそこに行けると 哀しい・ジョークを言う
突然・母が口にする夕餉の支度 買物に行くのを忘れた・と言う
お前は今夜・何が食べたいかと あり合わせでいいよと・私は答える                                 
そうじゃないでしょう・とか 何回言ったら分かるの・とか こんな時には言わない方が・いい母が母であろうとする・事 柄の間であっても・いい それは・とても大事な・事 
もう・陽が沈む・家の中に戻りましょう 山積みの洗濯物でも畳んでみます・か


☆:2006.11.11。

★:熊本市同仁堂ホールコンサート

次々と大きくなる企画にドキドキと胸騒ぎ。母との日々の同居をしつつ、本業のホールでの仕事を抱えながらCDを作っている頃の私とは違い、公の場でシンガーソングライターとして活動する事が増えたわけですから周囲には様々な反応が起きていました。

この熊本市社会福祉協議会主宰のコンサートでは舞台の袖に2名の手話通訳が付き、観客の全員には前以て歌詞カードを配るという配慮がされていました。私の作品は言葉、詩をどう伝えるかが大切ですからね。

午前の部が協議会主宰で数曲が絶対指定された作品を含む16曲。午後の部が私の主宰という形で私が選んだ作品16曲、という計32作品を一気に発表しましたが、ここでもハプニングが起きていたのです。

私の作品中には[♪・花ミズキ]というものがありますが、在熊の某油絵画家がその♪・花ミズキを既に聴かれていて、その作品から得られたイメージでご自身のお母様を描かれた絵を突然に私へプレゼントをされたんです。

★:コンサート会場に在京のメディア数社と企画会社の方々が・。

このコンサートで私が歌った《♪花ミズキ》、と作ったばかりの《♪ホッホ》という作品が大きな話題になったらしく、在京の数箇所の企画会社からは全国ツアーのコンサート企画が持ち込まれる事態になりました。

しかし、既に複数の社会福祉協議会からのコンサート打診があり、私はこちらの方を優先した為、その在京の企画会社の方々からは「折角のチャンスを作ったのに、考えが横着ではないか」、と非難を浴び始めました。それはそれでいいんです。私は母との暮らしを優先させる理由があり、それこそが私の存在理由だし、彼らが私を求める理由でもあるはずです。


★:同仁堂ホールに併設されるレストラン[仁]は・。

この同仁堂コンサートですが、以前は木造で2階にはレストラン・仁というのがあって、大学1年の頃の私はそこの厨房で時間給¥770~780で皿洗いをしていたんです。いろんな思いが交錯していましたね。今は福田さんが料理長だとか・。

また、この時期のCDの無料配布は全国に広がっていて、既に配布済が20000枚を越え、その上に予約数が4000枚に達しており、私は必死になってCDを焼いては発送するという多忙さで、詩曲を書くなどという時間が全く確保できない日々になっていました。また、これを機会に[コンサート専用のCDオケ]作りという作業も普段から行おうと思いました。

何故なら、このNHKでの報道が切っ掛けになり、いろんな福祉団体・組織から、「当地でもコンサートを」、というお誘いの打診が次々と始まるようになったからです。

★:前述した熊本社会福祉協議会によって企画されたコンサート。

10月頃からこの11.11のコンサート準備の為に私の帰宅時間が時に遅くなりがちでした。最初の機能病院でのコンサートのようなミスは出来ないと、念に念を入れてイコライジングを繰り返したCDオケを制作していた為です。
何度もコンサート会場に足を運んではキャパや構造物による音の反響などを調べたりしました。このような時には嫁が母を施設に迎えに行くようにしています。

こうしたコンサートが近づくと我家では先に帰った嫁が母と私の施設からの帰りのタイミングに合わせ、私の旧作・新作の曲をCDプレイヤーで鳴らすようにしていたみたいです。

母はズーッと聴き入ったり、無視したり・・。時には詩を読んだりしていましたね。本当の理由を言えば、私がコンサート会場で詩や旋律をを間違えないようにと嫁がCDプレイヤーを鳴らすのですが、「こりゃ・誰の唄ね」、とか「あら・また私の事を唄った曲(母のクーデター)が鳴り出した」、とか母が1曲1曲私に話掛けるものですから、全くまともに練習が出来ません。

しかし、こうした遣り取りの日々を1ヶ月近くやっているうちに母の表情が豊かになり始めるのです。そして、コンサート当日、母は長崎から来た娘の紘子と共に会場に見事に顔を出しました。

一部二部を併せて250名程度が集まりました。母は会場の雰囲気が分かったのかとても喜んでくれました。この後、母の失語や無表情は殆どなくなり、今は多少の燕下機能低下がある程度に回復しています。

感動って認知症には確実に効果がありますね。それに代って出始めた症状が杖を忘れる事。これは危険です。


☆:2007.11.24。

★:八代市アサヒ苑でのコンサート

このコンサートは介護家族の会が中心となって介護施設に働きかけられて実現したようでした。新曲の【秋:夕暮れ】が会場の感動を誘っていました。このアサヒ苑は特別養護老人ホームで入所されているご老人は介護度4から5。多くは5だそうで、「車椅子から霊柩車まで・・」、と施設長が申されていたのが印象的でした。

因みに、ここの施設長さんは【♪・ふる里へ帰ろう】がお気に入りのようでした。私にとっても印象の深い施設になっています。また、行きたいですね。


☆:2006.12月の頃。

★:予感的中。昨年12月に続き、今年も母が転倒。

「母ちゃんの去年の今頃は骨折で入院して半年間は病院と施設のベッドの上だったさ」、と説明しても、「私には覚えがない」、と母が。そして、事件が・・。

嫁にも「注意しとけよ」、と言ってはいたのですがデイに出掛ける朝、嫁の介助で一旦は外出用に着替えた母ですが、それでは寒いと思ったのか自分で背伸びをして防寒ジャンパーを着ようと壁のハンガーに手を伸ばしたようでした。そして激しく後方に転倒。

2階の自室で仕事着に着替えていた私の耳にも母の叫び声と転倒した際の激しい物音が聞こえました。朝の母の着替えは嫁がいつも通りにしたのですが、それだけでは寒いと感じた母の次の行動が嫁には予測できなかったのです。

幸いにも骨折はなかったのですが腰部から左足外側が大きく腫上がって内出血が残り、定期的に治療に通わなければいけないようになります。この事故で母は昨年同様、再び完全に歩けなくなったのでした。

★:瞬間的に、「自分は何でもできるんだ」、と思うんです。

更に、問題なのは、「何で私は足腰が痛くて歩けないの?、どこかで転んだの?」、と今朝の事、ついさっきの事を既に忘れている事です。

確かに、母は昨年の2005年暮の骨折も3ヶ月の入院、3ヶ月のリハビリ入所の事も全てを覚えていません。ようやく、2005年12月2日の転倒での足の踵の複雑骨折から始まった入院~退院~リハビリ入所~2006年7月25日の退所という、辛い目に遭いながら、その半年後には転倒という。。

介護って大変。一瞬の転倒で歩けなくなる度に私は仕事の量を減らし、立田山での訓練をゼロからやり直す事になるのです。しかし、これに負けていてはいけない。











Posted by 濱野裕生 at 14:08│Comments(0)〇:同居記録
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