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濱野裕生
濱野裕生

2021年02月09日

〇・2008年の頃

〇・2008年の頃

☆ 2008年1月1日。

★:母に届いた年賀状。

この冬は珍しく寒い。暮れから続く寒気の為に今年の初詣はまだ控えよう。私の仕事始めは契約上から1月2日。

母は年が変わった事を自覚しませんが、そんな事はどうでもよくて無事に暖かく新年を自宅で過ごせる事ほど幸せな事はありません。昨夜の私は作らないと思っていたお節料理を急に作り始め、「形だけでも」、と元旦の朝に間に合わせて作る事ができました。

起きたのは10:00近く。2階は静か。嫁はまだ寝ているようでした。こうして同居記録を書けるのも幸せの一つだと思います。萬の神様に感謝。そして、ご先祖様に感謝。今日の日をありがとうございます。嫁にもありがとう。今年も宜しくねと言いたいです。

さて、今朝の母はというと、年賀状を見ながら盛んに首を傾げっぱなし。母に届いた年賀状は10枚でしたが、母が読む11枚目の年賀状は最初に読んだ1枚目。そして、12枚目に読む年賀状は最初から2枚目に読んだはずの年賀状なのに、読む度に、「えーと、この人は・うーん」・・。

母はお昼過ぎまで延々と年賀状読みを繰返していました。母だけができる感動の仕方ですね。

その母ですが、施設のリハビリ効果が出始めたのか、日中であれば立たせさえすればフラフラと危ないながらも4m程度は杖を使い、手摺りを伝って歩く瞬間が見られるようになりました。2005年暮れからの母は2006年、2007年と転倒の連続でしたからね。

鶴翔苑でのりハビリのお陰だと感謝します。しかし、既に要介護度が4の母です。テンションが低くなり、言葉の呂律もうまく回らない夜間や起き掛けの早朝などはポータブルトイレにもうまく座れない。座らせても一人ではなかなか立てない事が当たり前になっています。リハビリって下半身に重点を置くべきと思いますね。

立てさえすれば何かを掴んででも移動しようとするし、移動する先には掴むものがあるはずだし、掴む為には手の不自由さを実感しては自主的に手首や指を強化しないといけない、と自覚するはずです。


☆2008年年1月4日。

★:菊南病院で母の精密検査。

2時間半をかけて心臓や肺のX線撮影、血液採取、血圧・・等々の検査を受けました。次回の1月18日の診察時にはその結果を教えて戴けるはずです。ブログ記事《2007年の頃》で書いたように、お風呂の水圧に負けて胸が痛むという理由で当分の間の入浴を禁止されている母の世話が大変です。

入浴すると胸が痛み出して呼吸が乱れる事をすっかりと忘れている母を説得する事が大変な仕事になりました。「私はお風呂に入りたいよ。何故、入れないの?」、と連日の抗議・。

但し、浴槽に入るのが禁止されているのであって、シャワーならいいんです。でも、浴槽を横にしてシャワーだけで済ます、というのか酷です。お袋が「お湯が沸いているのに入れないのに何故、」って思うはずです。第一、冬の真っ只中ですからね。

連日、私と嫁は母の罵声を浴びながら暖房の利いた暖かい居間でバケツに入れた湯で足湯をさせ、身体を拭いています。

★:朝日新聞社から取材申し込みの電話を頂く。

「こちらは大阪の朝日新聞社です。インターネットで流れる自作の音楽CD集を聴いて社内で感動しています。ついては取材をしたいのですが・・」、と母と私の健康を気遣う言葉と共に取材申し込みのお電話を頂きました。

2003年以来の母との暮しを綴ったブログの同居記録の記事にも深い関心をお持ちのようでした。このような介護生活を綴った曲と同居日記は貴重なモノですと申されていました。

取材日は後日に双方の都合がいい週末を選びましょうという事です。嫁は、「遅すぎるくらいよ」、と言いますが内心ではとても喜んでいるようでした。

「お母さん、貴女の念願の飛行機に乗って大阪まで行きましょうよ」、と嫁が言えば、母は、「エッヘーッ、それもいいね」、と両手を叩いていました。

しかし、この朝日新聞社記者と名乗る人物からの電話。巨大すぎるメディァ故の宿命なのか、尻切れトンボになっていくのでした。後述します。


☆意思を持ち始め、独り旅を始めた【母に生命を返す時】。それぞれの町でそれぞれの思いに変化。

さて、[母に生命を返す時]が全国規模のメデイアに載る事で世の中の反応がどうなのかが楽しみではあります。私はどうでも、この作品群だけは日の光を浴びさせてやりたいと思います。一見、否、一聴して古い時代の旋律、綺麗で素直な進行の4度進行を避けた和音。セオリー破りの作曲法、言葉数だけが多い詩で綴られた私の作品ですが、全てが意図的にした事。極力、現代の日本人が忘れかけた単純な旋律を用いて、忘れかけた言葉で既に忘れ去られたかも知れない親子の思い、命の尊さというものを表現したかったからです。

ホームページへの書込みで、私の作品や私の事を、「現代に生きる者達へのお経本」、とか、「今に生きる石川啄木」、と表現した方がありましたが、私自身は読書どころか音楽もTVも聴かない見ない人間で、テレビ番組では大相撲中継とマラソン程度。それにラジオ番組ではNHKの深夜番組。

今の私の願いは、【母に生命を返す時】というCDや同居記録が、それぞれの地方に暮らす人々の心の中でそれぞれの色に変化していってくれたらそれでいいと思っています。

★:しかし朝日新聞社の取材打診の電話は・。

何が目的だったかは知りません。この2週間ほど後に、「実は熊本へ取材に経つ数日前から担当者が風邪を拗らせてしまい、行けなくなった」、との電話。受話器を通して聞こえる先方の室内音では確かにマスコミ関係独特の雰囲気を感じるのですが・。「必ず、再々度のご連絡を入れます」、と言った切り・・。

この電話から1年以上を過ぎた2009年4月現在。未だに連絡がない状態。「貴方の書かれるFC2ブログを読み、本当に感動しています」、という涙で途切れがちな言葉で取材希望を伝えてきた社会部の記者を名乗る女性・。

知人を介して調査をして頂くと、大阪の朝日新聞社社会部にはそれらしき女性記者が居るらしい事は分かりました。まァ、何かの深い会社の事情があったんだと思います。私は日本列島に住む個々の人々を相手に人間の老いや介護を問い掛けているつもりだし、組織の意見なんて聞く気もないし、面倒くさいもんです。もう、よくよく考えれば新聞で取り上げられるまでもなく、私のブログ記事は全国では十数万人の方々が読んでくれている訳であって、上出来だと思っています。

それに親の介護記事だけは辛くなるから絶対に読みたくもない、という人種もいるんです。伝えても伝えても、「それっ、止めてくれ」、という現実を直視できない臆病者の絶対数はあるんです。



☆2008年1月7日。

★:京都の西川という方からお電話が

この日、「[母に生命を返す時:短縮版]を頂き、聴いていて深い感動があったので、是非とも完全版を聴きたい」、というお電話を頂きました。

電話の声ではお若いように感じましたが会話の内容からするとそうでもないような・・。電話の向こうでは時折のすすり泣きや嗚咽が・・。明らかに泣いておられるようでした。翌々日、[母に生命を返す時]の1と2を5枚組10枚、それに28曲入り短縮版を10枚送っていた処、お礼状と共に金一封のお心付けをご返付されました。これで完全版のCDが約20枚作れます。ありがとうございました。

☆2008年1月14日。兵庫の中村さん親子から電話を頂く

前出の京都の西川さんからCDを「貰いました」、という親子の方でした。息子さんは市役所勤務で福祉関係を担当されていて、介護制度の盲点などを説明して頂きました。

私も母の入院していた頃の出来事や、デイ施設の模様などをお話しました。1時間を越えるくらいの長電話になりましたが、機会があれば兵庫でもコンサートをやりましょうという話に発展していました。充分に期待できるお話だと思います。宜しくご検討下さい。


☆:2008年1月18日。

★:豊後大野市コンサートが3月23日と決まる。母の検査結果を聞く。

この日は母の受診日。1月4日の検査の結果を聞く為、施設からの帰りに母を菊南病院へ連れて行く車中で私の携帯電話が鳴ります。15:45分でした。

豊後大野市からの連絡で【母に生命を返す時コンサート】を3月16,20、23日のいずれかにするというお話でした。嫁にも相談した処、行政関係には卒業シーズンの多忙な時期でもあるし、23日がいいと言うので2008年3月23日と決め、その旨を豊後大野市に連絡しようと思っています。

母の検査結果ですが、「94歳レベルで言えば血液成分は申し分のない検査内容です」、というお話でした。そして、問題の胸の痛みは、「多分・・」、という前提で逆流性食道炎ではないかと言われました。しかし、一方では狭心症の前触れの疑いは晴れないとの診断結果。

肺気腫や肺梗塞ではないとの診断。念の為、入浴時には半身浴を原則とするようにとアドバイスを受けます。良かった、これでお袋をお風呂に入れることができます。


★:[博堂村]への2度目の出演も3月23日と決まる

昨年8月の博堂村出演以来、次回はいつになるのかなと気を揉んでいましたが、3月にでもというお話を頂き、少しだけ厳しい日程でしたが、偶然にも3月23日には同じ大分県の豊後大野市のコンサートがはいっている為、その豊後大野市のコンサートが終り次第、別府の博堂村へ車を飛ばそうという事になりました。

今回は故大塚博堂の[めぐり会い紡いで、ダステインホフマンになれなかったよ]を唄ってみようかとも思いますが、博堂が「無理だよ。止めとけ」、と言っている気もします。


★:我が家のトイレが檜の香りのする木製壁に生れ変わる。明日の姉の来熊に間に合った。

やればものになる。やり続ければ本物になる・と言いますが、私の木工術が日々上達していくようです。この日、トイレの改装が完全にできあがりました。

腰壁はヒノキ材を使いました。いい香りがして芳香剤などは不要です。壁には手摺りを回し、母は杖を使う事なく出入りができ、立ち座りができるはずですが便座自体が低い為に難しいかも。でも、そうであればトイレのドアの裏側に掴める手摺をつけるつもり。


☆:2008年1月19日。

★:嫁の母の2年祭。私の作品の[♪義母の旅立ち]が教会に流れる・・。

2006年1月20日に逝ったキンちゃんはクリスチャン。仏式だと2回忌と言いますがクリスチャンは2年祭と表現します。
因みに、納骨は仏式で作ったお墓の中に済ませています。納骨時には牧師様がお墓の中に入って納骨され、祈りを捧げて聖歌を歌いました。クリスチャンの場合、日本ではこのスタイルが標準みたいですね。つまり、向こうに逝った時に和風の住まいを選ぶのか、洋風の世界に住むのか・の違いではないでしょうか。


☆:2008年1月23日。

★:上空1.5kmにマイナス2.5度の寒気団/母は足湯に不満足

2ヶ所の病院の診断で狭心症、逆流性食道炎という2つの診断が降りた母の現症状。1月18日の菊南病院受診後の胸の痛み、息苦しさはないが入浴はまだ控えたままです。

嫁は毎晩せっせと居間での足湯を母に施していますが、これが大変な作業。入浴できない理由、足湯の理由を毎回説明しないといけません。嫁が担当している高齢の利用者の方々にも似たような症状が出ているとか。入浴の途中で息苦しくなって慌てて浴室で横にならせたり・・。

嫁はケアマネの受験勉強をしていると言っても看護師ではないし、こんな時には対処に困るという。そうかと思えば、「今日は玄関回りの草むしりでもやっといて」、とか、同居中の息子さんから、「寒いから自分の代わりに買物に行ってくれ」、と言われる日もあるそうです。

「買物が介護士の仕事かい?」、と私が聞くと、「今はそうなったんだ」、と嫁が言います。驚くのは40歳をとうに過ぎた息子が定職にも就かず嫁も取らずに母親の元に居る家庭が急増しているという・。

息子が老いた母親を介護しているかと言えばそうでもなく、自室に引き篭もってパソコンや漫画を読んでいるだけという。不思議の国ニッポン。もう、衰退への道を確実に歩き始めたというのに・・。もう、神の国とは言えず、今の日本に神風は吹きませんよ。

それに・、こんな男性老人もいるそうです。「こんにちわー。〇〇訪問事業所から来ましたー
」、と玄関から叫ぶと、「アワっ、ちょちょっと待ってくれ・」となにやら慌てた様子・。玄関先で時計を気にしながら暫く待っていると・、若い女性が部屋から出てきて「こんにちわ」、と。

何と、嫁の訪問先の介護老人はデリヘル嬢を呼んで汗まみれで頑張っていたそうな。。。まだまだありますこの手の話。

昔、昔にお婆さんが既に亡くなってしまい、それはそれは寂しい思いで暮らしていた独りのお爺ちゃんが居たそうな・。訪問介護の制度があることを知ったこのお爺ちゃんは「そうだ!、珠には若いオナゴとお話でもして愉快なヒトトキを過ごそう・」と思い立ち、「もしも・しもしも」、と訪問介護事業所へ電話をしました。

そこへ、何も知らされていない訪問介護士の(我が)嫁が「こんにちわ」と訪ねた処、「な~んじゃ、あんまり若こ~はないのう」と、このお爺ちゃんは不満顔・。

台所で食事を作っている最中でした。「お~い、障子を開けてアンタの姿が見えるようにしてくれんか?」、と言われた介護士さんは言われた通りにしてあげますが、な~んか嫌~な視線を感じ始めるのです。

そして、食事を作り終えた介護士さんが食事を載せたお膳をお爺ちゃんの元へ運んだ時でした。「はい、ありがとう」、と言いながら手を伸ばし、枕の下に挟んでいた財布を取り出し、「そのスカートを捲ってパンツ姿を見せてくれ」、と。。こんな元気なクソ爺ぃ・がいるんです。取り合えずチョン。


☆:2008年1月25日。

★:寒いけど頑張りましょう

昨日、施設での朝の血圧測定では180-70と高めの値が出ていて、「自宅でも注意して見守りが必要ですよ」、と介護士さんに告げられていた為、昨夜の就寝前と今朝は慎重に血圧測定をする。

母の場合、右腕と左腕の測定では30程度の違いがあるから私自身が測定しないと納得しないのです。血液の流れる方向、心臓に対する負荷の違いで左腕での方が低い数値が出る事は常識ですが、これを知らない家庭もありますね。だから、その傾向を家族側が知った上で病院には伝える必要があります。

嫁の話では便秘や歯茎の痛みも血圧を上げる要素になるとの事。夕食後の左腕測定で154-87だったから母とすれば極端な高めではないような気がして一安心。でも、心臓に欠陥がある人は心臓由来の首筋や肩の凝り、歯茎の痛みもありということを念頭に入れておきましょう。

施設への車の中でも、「曇ってはいるけど今日は雨は降らないよね」、と母。「大丈夫みたいね」、と私。今日は土曜日、そしてこの寒さ。こんな日は施設へ通うお年寄りが減りますね。「家庭で温々と・」、と言うのでしょう。

☆:2008年2月3日。

★:小雨の日曜日。

今日の嫁は朝から17:00まで国家試験の講習会。私は午前10:00から21:00まで頑張りました。お昼はワンタン入りの温麺を作り、夕食はブリの餡かけ、白菜シチュー、小鉢での焼きソバ、野菜ミックスサラダ、味噌汁。母は昼も夕食も完食でした。


☆:2008年年2月4日。

★:母が訪問歯科治療を受ける/私は大工仕事にフル回転

現在時刻は15:20。デイ施設から帰ったばかり。この数日、この2週間ほど前から母が右下の歯茎の痛みを訴えている為、2年半前にもお世話になっていた近所のハロー歯科の訪問治療を受ける予約をしています。

入歯が合わなくなったのが原因のようだが、実は、母には入れ歯を触る癖があって、触っているうちに入れ歯の内側に沿って貼られたクッション剤が少しづつ剥がれているのだ。歯医者さんの訪問は17:00の予定だから本日の私の帰宅後の自宅改装はお休みです。

最近、詩も曲も全く書かなくなりました。職場では居眠りばかり・。昨年の晩秋から続く夜間のトイレのお世話が相当に影響しているようです。思えば、昨年の私が心筋梗塞をやったのがこの時期でした。

デイ施設から一緒に帰宅した母を普段着に着替えさせて横にならせた後の私は・、昼間っから焼酎を浴びています。また、心臓をやりそうで怖くなり、ついつい飲んでしまいます。

右手には朝の残り物の味噌汁をカップに入れ、左手に5:5の強めの大盛りの焼酎。そして、机の上には貰い物の水俣の有名な生菓子の最中をお湯で溶かしたインスタントお汁粉。これらを口に運びながら1時間ほどボーッとした後で大工仕事を始めますが、これが最近の私の帰宅後の日課です。

大工をする期間だけは力仕事だから指が太くなります。既に両手は切り傷だらけで、腕や指のあちこちには0.5~1mmの木の棘が刺さったままになっていたりします。

玄関回りが綺麗になりました。外から帰ってドアを開けるとプンと桧の香りがします。腰板がヒノキで壁板には中国産の杉材を使っています。
2008.2.12:完成間近の玄関の様子

思い起こせば、2005年暮れの転倒で右足骨折~2006年3月まで西日本病院へ入院治療。2006年4月から鶴翔苑へのリハビリ入所。

4月からの鶴翔苑での3ヶ月間のリハビリ入所を終えて戻った時の為に、「ああしたい、ここをこう変えたい。居間を山小屋風に・。母が手摺りを伝って家中を自由に歩けるように」、と思いを巡らすだけでしたが、今では本当に確実に実現しています。

最近の家の内装って壁の石膏ボードにクロスを貼ってチョンですが、本物の木っていいですね。部屋の中を漂う空気が全然違うんです。


★:「直裕っ、あんたが私の乳揉んでどうすっとね」。

母は年間を通して便秘がひどく、2種類の下剤、緩下剤も定期的に飲んではいますがなかなか・・。そこで、「直裕っ、・うんこ!」、と母が言った時には便座に座ったままの母のお腹や背中を軽くさすったり押してやったり、トイレを終えても便秘の為に排便がなかった時などはベッドに横になった母のお腹を暫く右回りに擦ったりします。


処が、この日は要領が悪かったのが垂れ下がったおっぱいの上から母のお腹を揉んでいたみたいです。
「直裕っ、私のお乳を揉むのはやめておくれ」、と。。


☆2008年2月8日。

★:[♪施設にて・・]を書く

2006年から始めた自宅の改装・DIYですが。この2008年も続いています。連日の自宅の改装作業、デイから帰るやギーギー、トントン、ブィーンですから母もうるさくて堪らんのでしょうか、横になっている母が動くとワイヤレスセンサー(俳諧感知器)のブザーが私に知らせてくれます。トイレでした。

部屋の隅に作ったトイレまで母を移動させ、母が用を足すのを手伝っている時に2006年の鶴翔苑でのリハビリ入所中の頃の母の様子がフッと私の脳裏に浮かびました。

その頃、毎日、毎日と職場を早めに離れて母の元へ駆付ける私でしたが母自体はその事を全く覚えていない日が多いんです。
「夕べもここ(鶴翔苑)に消灯まで居たってかい?」、「直裕ッ、遅いよ。買物に行かんと夕食が作れんじゃないか」、「さっきから(施設の)廊下を通るあの人達は我家のお客さんかい?」、「お前の部屋が分かれば毎朝起こしに行くのに」・・。

入院や入所中の母のこのような言葉は日常的でした。病院や施設を自分の家と思イ込んでしまうんです。どのご老人でもそうみたいですね。

そうかと思うと「直裕、・・毎日来てくれてありがとうネ。あんたは疲れとるようだから今日は早よう帰んなさい」とか、「せめて、施設の玄関まで見送るよ」、と言う日もあったりするんです。

鶴翔苑へのリハビリ入所の期間でのそんな母の様子を思い出しながら作ったのが、[♪H18.6施設にて]という作品です。この[♪H18.6施設にて]は後に「♪施設にて」という曲名に変更しています。


★:母の言葉に変調が・・

最近の母は本当に言葉に詰まるようになりました。「ねえ、直裕・」、と言い掛けて私を振り向かせるのですが、私が返事して母を見た瞬間、「えーと、・あは、何を言おうとしたか忘れたよ」、と。記憶そのものはあるようなんですが、その内容を表現しようとすると言葉が続きません。名詞や形容詞、感嘆詞・・、そんなものを次々と忘れ始めているようです。

そして、あれほどに好きだった花の名前、お相撲さんの名前、それに親族や兄弟の名前とその続柄、自分の産んだ子供の順番など。孫に至っては殆ど区別がつかないし、ひ孫の事など関心さえありません。



☆:2008年2月14日。

★:[♪籠の鳥]を書く

デイにいく車中での母はよく空を見上げます。空を見上げていると言うより、歩けずデイでも家ででも日中の生活の全てが車椅子になった母の腹筋、背筋が衰えてしまい、助手席で背筋を伸ばして座ることが出来ない母は運転席との境にある肘掛けの部分に右脇の下を当てるような格好でしか座れない為、自ずと空を見上げる姿勢になってしまうのです。

在宅での車椅子使用時のその姿勢は安全確保にはいいのですが、本人の体力を奪うのは事実ですね。

「ほら、鳥が・気持ち・良さそうに・ずーっとこの車と一緒に飛んでいるね」、と母。
「あれは車のガラスについた鳥の糞さ」、と私。

「エーッ、糞ってかい。・・私はあんたと暮らせて幸せだと思うし、感謝しとるよ。ほんとョ」。体調がいい日の母はデイへの車中でよく喋ります。

「ほら、直裕っ。また、鳥がこの車と一緒に飛んでいるよ」、と母。
「だから、あれは鳥の糞がフロントガラスについとるのさ」、と私。

もう、2分おきに同じ会話が延々と続きます。

★:実は・

私の家の台所横には私の手作りの鳥サン達の餌台があって、嫁は毎日ご飯粒やパンくずを乗せています。だから、我が家の台所横では雀やヒヨドリが一日中舞っています。こうした楽しみは嫁が我が家に持ち込んだものです。

この[籠の鳥]という作品では母を鳥に例えて唄っています。「♪飛んでみろ飛んでみろ籠の鳥、見せてくれお前の命」。


★:母も私も戦士

現在、母は人生という戦場で最後の力を振り絞って自分自身の運命と戦っているのだと思います。そして、私達夫婦の期待に応えようとしているようでもあります。

この[♪籠の鳥]をインターネットに流した途端、もの凄い反響がありました。「貴方の作風が美しく変わってきていています」、「♪籠の鳥、はとても老いを言い得ている曲です。貴方がここまでの詩を書ける人とは思わなかった」、等々、実に多くのコメントを戴きました。

この[♪籠の鳥]という曲ですが、聞き方次第では「曳き篭りの子供のいる家庭が聴くことで何かを考えるようになるかもよ」、と言う方がいます。音楽や詩って作り手に対して聴く側で変化して当然。作り手の意図に反し、聴き手側なりの理解の仕方があって当然と思います。

母の体力がここまで弱ってくると、私としても表現する材料が減りましたね。母の日常の状態を書くというより、母を鳥に例えたり、母を見る私の心理状態を中心に詩に表現するようになっていくしかないのかな、と思う最近です。



☆:2008年3月2日。

★:[♪飛んでけ悲しみ]を書く。

昨年、2007年暮れの審査で母が要介護度4になったと既述しました。実は、これによって家族負担も増えるんです。

認知が進めば進むだけ介護事業所による母の世話が大変になってくるからという意味なんでしょうが、具体的には1日のデイ費用額が高くなるんです。現在、お世話になっている鶴翔苑には私は本当に感謝しています。しかし、後述する保険屋の話ではありませんが、全ては人が人にする事ですから実際にはいろんな日があります。つまり、デイ施設とは言え、結局はそこで働く介護従事者次第です。

高齢の母にはいろんな変調があるのですが、例えば、母の着用する中敷きを丁寧に交換してくれる介護士さん、汚れた中敷きをはぎ取るだけで新しい中敷きさえ与えない介護士さん・。実にいろんな母の一日があります。

ヒトの尊厳ですが、介助するヒトの気分次第で変化させられるってのは辛いものです。でも、私にだって24時間×365日を冷静沈着で優しく思いを込めて・、なんて介助ができているはずありません。自分の母親に対してだって抑えきれない感情が噴出する日が確かにあります。

悲しいもんですね。「あんたは誰ネ。お仕事大変ネ」、なんて私の事を我が子と認識してくれていない時の母の世話など、「エイ、クソッ」、と思う瞬間は多いものです。

母と暮らし始めて5年が過ぎ、もう、6年目がすぐそこ・。思えば、私の人生は大きく変わったものだと思います。でも、どう変わったんだ?。何を失ったんだ?。と問われたら答える事が出来ないんです。それどころか、母と暮らすことで得られた事の方が多いような気さえする時があります。

ゆっくり風呂にも入れない、ゆっくりとトイレにも屈めない。酒を飲んでも酔えない。でも、この分刻み、秒刻みの多忙さの中であって得られたモノは沢山あります。

「思い留まること」、「優しさ」、「いつまでも根に持たない」、「気持を切り替える」、いろんな事を思い、出来るようになりました。何より、一番の収穫は「辛さを知った事」です。

多分、現在の私は自分の命よりも母の命を大切にしていると思います。姉や嫁に言わせると、「自分の命を軽んじている」、と言うのですが・、それこそが《母に生命を返す時》・、私は意外に自分自身を理解しています。母になら、我が命を捧げても構わないという覚悟です。

この[♪:飛んでけ悲しみ]という作品はそうした私の思いを描いています。


☆:2008年3月23日。

★:大分豊後大野市コンサート、別府の博堂村ライブ&ケーブルTVから収録・放映のお話が。

既に既述したように3月23日は大分の豊後大野市で社会福祉協議会のよるコンサート。それが終ると別府市へ向かって博堂村でのライブを強行しました。

この3月23日の4日前。突然にJCN熊本(旧・熊本ケーブルテレビ)からお電話を頂き、撮影隊を同行させて今回の豊後大野市でのコンサート模様を収録したいとの申入れがありました。

私達(私&嫁、音響の上原氏)の3人は豊後大野市へは前日の午後に入り、幾つかの遺跡や名所を訪ねた後で会場下見を行ない、改装したばかりという旅館・三国屋さんへ直行。大きな広いお風呂が気持ち良かったですね。比較的に大柄の私が浴槽にプカプカと・、浮くほどでした。

処で、博堂村の大塚氏によると「大分の焼酎は20度が平均」ですって。水割り、お湯割りではなくオンザロックで飲むのがベストだと言われていました。「熊本の焼酎は一般的に強めの25度が多く、6:4で湯割りしてカボスをギュッですよ」、って言ったら嬉しそうでした。

このコンサートの為、前日から長崎の実姉が、そして当日の朝には佐世保の兄姉が熊本の私の家に来てくれ母のお世話をする事になっていました。

現在の母の世話をするのに女手一つでは無理。介助の中では母の全体重を支える必要のある瞬間が多々あるからです。

三国屋さんでの風呂上がり、嫁がコンビニで買ってきた2種類の大分焼酎を飲みながらも夜の空を見上げ、熊本の母と二人の姉の状況が気になる私でした。それに・、隣室の集団客の声が一晩中・。


★:感動の豊後大野市コンサート & 博堂村ライブ

今回は1曲でも多く介護話も大事・、と言われるコンサート事務局の方々の希望に添えたかどうかは分かりませんが、この処の新曲ラッシュの私としては1曲でも多く披露したいとの思いでいました。

前述したように、多少ですが息が続かないようになっている私は、(ボート漕ぎや車椅子マラソン競技者がよく使っている)気管支拡張剤入りテープのホクナリンを首の付近に貼って心肺能力を高め、本番の舞台に立ちました。

ケーブルTV向けの撮影もあるという事で気持ちのいい緊張感の中でいつものように適当な歌詞の唄い間違いを含めて11~12曲を唄ったようです。

後半には介護に関した質疑応答の時間を設けてはあったのですが実際には会場での質問は無く、コンサートが終わり機材を車に積み終わって別府へ向かおうとする駐車場で質問の輪ができたのには驚きました。
介護に関する個々の家庭の状況は違います。だから、質疑応答の設定があったとしても、他人様の前で我が家の介護事情などは公開できませんよ・ね。

介護では専門職のケアマネさんやら介護家族の方々・と様々な方の悩みが聞けました。

「嫁いだ頃の姑さんからのひどい仕打ちを今でも忘れる事が出来ず、真心からの介護ができない・」、と言う人の話には驚きました。でも、介護って、そんな記憶や感情を棄て去った後にしか語れないと思うのです。

ただ、執念深さというものは大事でもあって、「執念深さ=頑張り屋さん」でもあるんだと思います。また、その思いをご主人(息子)に向けて発してみても面白いと思うのです。

日本の男って、この辺の問題から逃げるのです。自分の母親なのに、その世話は嫁がして当然と思う・。その辺が間違った認識であり、嫁の苦労の始まりなのです。日本の男性は世界で一番男らしくない男ではないかと、私は日頃から思っています。



☆2008年3月26日。

★:JCN熊本が母と私達の暮らし模様の一部を撮影。

3月23日の豊後大野市でのコンサートの同行撮影をされたCCN熊本ですが、帰熊後には母と私の普段の生活の一コマを撮影したいという要望がありました。

私はコンサートの模様だけの撮影だと思っていましたが、考えてみれば有名な歌手の音楽番組なら兎も角、私が何者かも視聴者の多くはご存じなく、老いや介護関係の歌ばかりをなぜ唄うのかさえ知らない訳です。だから普段の母と私の様子を撮影する必要があるんだなと思いました。

そんな訳で、あくまでも日常のありのままを撮影して頂きました。鶴翔苑に母を迎えに行き、帰路に代継神社に詣でる様子、夕飯の支度をする私の姿・等々を撮影されていました。



☆:2008年3月28日。

★:豊後大野市でのコンサート模様が一ヶ月間の放映。

[母に生命を返す時]というCDタイトルではなく、[♪母に生命を返す時]という曲をを番組のオープニングBGMに使い、3月23日の豊後大野市でのコンサートで唄った曲の中から、[母のクーデター]、[「秋:夕暮れ]、[春はまだ]の3曲がケーブルテレビで紹介されました。



☆2008年3月31日。

★:2007年、母との同居に最初の危機を感じる。

実は、2007年の暮れから私の右肩や腹部、胸部に鋭い痛みが走るようになっていました。特には腹部と胸部の痛みは寝ていても唸り声を上げるほどの激痛でした。

右肩の痛みの理由は直ぐに思い当たりました。母をデイに連れていく為に車の助手席に座って貰う際、私は母を殆ど抱きかかえるようにして車に乗せる為、右腕と腰を痛めていたから。デイから家へ帰る際にも同様の力仕事がありますから、治る時間がないからこの痛みは仕方がありません。

第一、私には野球で作ってしまった腰椎分離骨折滑り症という病名の腰部の骨折があり、腹部の痛みは幼い頃の手術の後遺症として、今でも小腸や大腸が胃や肝臓、脾臓、膵臓などと癒着していて、母との同居を始める以前から冬期の寒い時期にはよく起きていた症状だと理解できました。

胸部の痛みにしても既に約十年前の熊大病院での検査では肺気腫寸前だと宣告されながらヘビースモーカーを返上していなかった為に起きている症状だと推測しました。

つまり、2007年事からはそれらの症状が一度に出てしまったんだと思いました。医者に行けば即入院。ダラダラとした日々の中で検査、検査。第一、私にはそんな時間はありません。


★:ステロイド剤の使用を思いつく。

《〇・2007年の頃》で既述したように、2007年10月の私は[♪老い、そして俺達]という作品を書きました。その中で私は「俺にも時間がないからさ・・」、と唄っています。この頃から僅かながら思い感じるものがあったのは事実です。「もう、俺はそんなに持たない・・」、と。自分自身の健康に関して、「これは危ないなぁ」と危機感を抱えながらの日々を送っていました。

思い起こせばこれまでの私の人生って奇跡の連続ですからね。奇跡はそんなに続くものではありません。しかし、この時、私は悪魔の特効薬であるステロイド剤の使用を思いついたのです。兎に角、現状を好転させないと全てが中途半端になってしまうからです。まずは、母を担ぎ上げる事ができるくらいの体力だけでもつけようと思ったのです。

兎も角、母の介護を続けるには私自身が力強い人間でなければいけません。医者にかかる事無く何とかして現状を打破しなければいけません。私は体力をつける為のステロイド剤の使用を覚悟します。  


☆2008年4月2日。

★:[♪道]を書く。

確かに、最近の私の詩の傾向が変化しているようです。具体的には2007年7月に書いた[弓削神社にて]や[命]という作品あたりからの変化を感じています。

2007年7月6日に追突事故の際に感じたのは、「母を施設に届けた直後で良かった」という感慨でした。もし、母が助手席に座っていたとしたら恐らく母の脳はグシャグシャに軟化していたでしょう。
追突時の揺れで脳が損傷し、その損傷箇所次第では呼吸機能が無くなり、加害者には致死罪が適用されていた可能性だってあったと言われました。

追突した相手側の代理人の石川というJA球磨の保険担当の冷淡で無気力な若者を見ていた私は、「彼は生き方を間違っている」、と感じていました。誰が加害者で誰が被害者なのか、自分は誰の為に何をする役目を持って存在しJA球磨で働き、日々の生計を立て続けられるか。果たして、その事に感謝をしながら生きているのか、彼には人の命の重さが分かっていない、と。

この[♪道]という作品はこのような状態で生まれたのです。そして、この詩を書いたのは私が長年に渡って続けていた野球チームで2代目の主将であり捕手をし、2009年の今年で26歳になる平政仁という若者でした。彼の兄が我がチームの最初の主将。彼はその弟であり、私は12歳の頃から彼の存在を知っていて、兄がチームを退いた後の2代目の主将としてチーム最年少でありながら指名起用していました。

しかし、彼が書いたこの[♪道」という詩の内容は後々になってパクリ騒動をひき起こすことになるのです。この件ではお隣のN.K国と関わる為、今は省略して後述します。

その頃の私は140Kmの球速で配球されるゲージに立って20球のうち空振り、ファウル、チップボールなしで全てのボールを打ち返し、6球は確実に左右のホームランボードに運ぶ事ができ、某バッティングセンターでは3年半に渡ってホームラン王という金字塔?を立てていました。

目立って見せて憧れて近づいて来る野球部の高校生や大学生を将来は我がチームへ入れるという戦略で私はチームを強化していたのです。

ため息をついて私を見つめる少年に、「おい、君が大きくなったら俺と野球をしてみるか?」、と私は言うと、彼は、「うん」、と。まだ彼が12歳の時です。

こうして、私は彼が12歳の時に町なかのバッテイングセンターでスカウトの声を掛けていたのでした。その後、彼は某高校の野球部で捕手として頑張り、高校卒業の年に約束通りに私の率いるチームを訪ねてくれたのでしたが、この[道]という詩の中には、「今度こそ。でも、・・春はいつも俺に知らん振り」、という憧れの甲子園に縁がなかった彼の口癖だった言葉があって、彼の心の中からの叫び声だったと信じていました。しかし、そうではなかったのです。


☆2008年4月5日。

★:母の食欲が不安定。そこで、ミニたこ焼き。ミニ蕎麦

食事の際の母は汁物とご飯から食べ始め、汁物がなくなれば今度は次の一品とご飯。そのおかずが無くなれば次のおかずとご飯・、というように一品一品のおかずだけを食べます。注意しても効果がありません。若い頃の母はこんな食べ方をする人ではなかったのに・・。

だから、一皿に盛ったおかずの量が多いとそれだけで満腹になり、他のおかずには手をつけないというパターンが身についてしまったようです。これだと栄養バランスが悪くなるので工夫して作らないといけません。特に、ご飯を食べ残します。デンプン質はカロリー源なのに・。

私は随分と悩み、考えました。そこで、ポンと湧いたのアイデアがありました。食事の時には別皿に焼きそばを盛ってみたり、ミニたこ焼きを盛っていたりすると興味半分からでも箸を伸ばしてくれるようになったんです。これだと、お米の代わりになりますからね。何事も工夫です。デンプンを食べないと便秘も酷くなりますからね。


☆2008年同4月8日。

★:[♪宇留毛神社の春]を書く

この神社を最初に訪ねたのは2007年の暮れの暖かい日。勿論、母と一緒です。立田霊園の地続きにあるこの神社は広大な立田山自然公園の一角にあり、正確には宇留毛菅原神社といいます。

国道から見上げた位置にあるここの桜並木はとても美しく、下から見上げる事によって晴れた日の青空に見事にマッチした桜並木に見えます。熊大が近い為に学生達がランニングに来たり、進学や卒業シーズンになると高校生や熊大生が祈願に集まってくるようです。

祠、本殿共に相当に傷んでいますが、歴史を感じます。近所に住む方々からは宇留毛サンと呼ばれ親しまれているようですが、正式には[宇留毛菅原神社]と言いますから本来は学問の神様なんでしょうね。


★:4月に続いてJCN熊本ケーブルTVからの放映延長の打診がある。

「高橋さん、5月の番組でも[花ミズキ]という曲を使わせて頂きます」、という作品使用許諾の打診がありました。勿論、無条件でOKです。介護家庭だけではなく、いろんな家庭に私の作品を聴いて頂く事が私の希望です。
さて、7月には山鹿市でコンサート、益城町でミニコンサートが企画されていますから、少し気を引き締めよう。


☆:2008年4月9日

★:「私と組まないか?」、と大工さんから声を掛けられる。

近所のホームサンターで自宅改装で使う電動器具の消耗部品を眺めていたところ、この店でよく出会う大工さんから「二人で組んで仕事をしないか?」、と誘われました。自分がやっているリフォームの仕事を一緒にしようと・。大工から左官に電気工事と・、この数年の我が家の改装の全てを一人でやっている私には既にプロの大工さんの雰囲気が漂い始めているんでしょうか?。。

お話を聞けば、その大工さんの家業としては農家なんですが、片手間に独居老人の為にと簡単なリフォームの仕事をしているとか・。確かに、私自身でも母と暮らすようになってからは訪問介護には興味が湧いていて、独居に近い老人家庭の為の食事作りで包丁を握ってみたいという思いは持っています。

訪問介護をする人が長く続かない理由の一つに、[食事作りや草むしり、雑巾掛けや買い物]を嫌う・等の理由があると伝え聞きます。今の若い人って包丁を握る機会が少ないままに大人になり、インスタント食品のせいで下味から作っていくような料理などは苦手なんですよね。


★:棄てる神あれば拾う神あり。& ♪:[風に吹かれて]を書く

最近、CDを有料販売してくれる方々が何人も現われ始めているのが救い。以前の旧ブログで書いた記事ですが、2005年の入札時からは指定金額内での入札競争になって、それまでの我が社の年俸が大幅に減額されていて、我が家では生活が成り立たないほどになっていました。

「棄てる神あれば拾う神あり」、この有料でのCD販売者の出現が本業での我家の収入減による生活苦の足しになる程の収入があれば?と思いますが。つまり、これも母に救われている事になるのでしょうね。また、この貧乏暮らしの中、嫁が妙に穏やかで協力的になっているのが嬉しいこの頃です。

この[♪風に吹かれて]という作品は自分を戒めるつもりで書いたものです。「自棄を起こすな、短気は慎め。今の暮らしを呼び込んだのは自分自身じゃないか」、という自分へのメッセージです。

まず、こうした我が家の経済事情の変化を母には悟られないように暮らしていく事も私の試練なのかなと思います。

★:我が家の困窮に姉が協力・、とはいかなかった。。

生活苦が母に及ばないように、「私なりにできる事をさせて頂戴・・」、と長崎に暮らす姉が支給の開始されたばかりの年金の一部を私達の生活費の一部に充てるようにと送金をしてくれる事になりました。これは有難い事です。それにしてもこれからはいろんな意味で我が家の生活を見直していかねば、と考えています。しかし、この姉の言葉は瞬間的で直情的な姉の性格がストレートに出た言葉だったらしく、結局は一向に履行されず今日に至っています。



☆:2008年4月11日。

★:認知の変化について。温度と脳の血流。季節と記憶など・・。

認知って季節の違いや昼夜の違いで出たり出なかったりします。お昼間に歩ける人でも夜間はフラついて危ないとよく言われます。夜間は脳の血流が停滞気味で呼吸も浅くて酸素不足になるからでしょうか。内気と外気の温度差も関係あるようですね。母などは寒い日などは特に認知の出が激しく、これは血管が萎縮して血流が悪くなるからでしょうね。

自然の変化もあります。例えは、色鮮やかな花の群生などを見た日の母はテンションが高くなり、回りの風景がモノトーンで温度が下がる日が多くなる晩秋、冬から春までの期間は認知がでが激しいものです。

こうした事と関係があるのでしょうか、殺風景なマンションの一部屋を与えられて暮らすお年寄りやアパートで引き篭もるように独居される方々は認知の進みが早いと言いますね。だから、嫁は狭い我が家の庭にせっせといろんなカラーの花を咲かす季節の花を植えているようです。母の認知を少しでも遅らせようとする我が嫁なりの思いからでしょう。


★:入浴と血圧の関係~勘違いはいけません。

私の周囲にも勘違いしている人が結構居ます。「風呂に入ると身体の隅々まで暖まって末梢血管まで広がり血流がよくなるから心臓への負荷も減って血圧が下がるはずだ」、と。でも、これは大きな間違いです。風呂に入る事で水圧が掛かり、心臓を圧迫して却って危険になり、この水圧で肺が押し潰されるケースだってあるんですって。注意しましょう。


★:浴槽に浸かっている際に起きる胸の痛みなど。

医師の中には明らかに心肺に異常が見つかっても、「高齢でもあるし、まァ、良い方。完全を望んではいけませんよ」、などと言葉を濁す事がありますが、あれは家族にとっては迷惑です。

心肺能力に本当に問題がなく、胸が痛い場合は逆流性食道炎のケースが多いそうです。本人にとって、
「どう痛いのか」を伝える必要がありますね。例えば、滲みるような、焼けるような胸の痛みがある場合、更に喉がイガイガして声も枯れるようであれば100&に近い確立で[逆流性食道炎]でしょうね。

或いは、食後の入浴中に水圧で胃が圧迫され、夕食で摂った食物を消化中の胃液が食道を逆流し始めて食道内に炎症を起こさせ、その衝動の痛みを胸や心臓の痛みが如くに勘違いしてしまう、というケースがあります。これも逆流性食道炎です。

今は[ガスター10]みたいな制酸剤がありますから試してみて、痛みが引くようであれば、医師にはそのように伝えましょう。取り敢えずは夕食前に入浴を済ませるのも一つの方法だと思います。それにベッドに横になる際には頭部を上げ気味に、身体は左傾きで就寝するようにすると胃液の逆流も減ると思います。


☆2008年5月3日。

★:[♪母の童唄]を書く。

「オジちゃん、あそこに連れて行ってよ」、・。2008年4月に実際に母が何気なく私に言った言葉です。
熊本市黒髪には宇留毛神社というのがあって、正式には宇留毛菅原神社と言います。近所の方々は宇留毛さん、と呼ぶことが多いそうで私も母を連れてデイからの帰路によく立ち寄る場所です。

ここには西南戦争の犠牲者達が多く眠っているようですが古びた境内に続く裏山は立田山自然公園の一部にもなっていて、兎に角、広い場所で神社の裏山は桜の名所にもなっています。

「おじチャン(私の事です)、私は10歳頃にはどこにおったとキャ。海のそばだったもんネ。周りには山があって緑が茂っとったもんネ・」、と母が言います。宇留毛神社を訪ねた数日後の事でした・。

母の生まれた場所は長崎県北松浦郡の佐々。そして移り住んだ場所は歌が浦と言う地ですが、この歌が浦には姫神社というのがあって母は夏にはイサム兄さんに手を引かれてはラジオ体操に通ったみたいですが、現在の母は佐々時代と歌が浦に暮らした頃の区別が出来ません。歌が浦の家の後ろの山が佐賀県伊万里市に住んだ頃の風景だったりするようです。
もう、母は1日の4割が駄々っ子のような状態でしょうか。

ケアマネージャーさんによると要介護度4の目安は記憶や識別、判断能力がトータルして2~3歳児程度の瞬間が反復される日常を言うそうです。私の事をおじチャンと呼ぶ瞬間があっても何の不思議もなく、それだけ信頼されている証拠だそうです。何か・悲しいです。駄々っ子にだったら私もなってみたい。。


☆2008年5月5日。

★:食事の好みの変化は認知とシンクロするみたい。

青魚、赤魚、白魚・、とどんな魚であっても刺身か塩焼きが大好きな母なんですが、最近の母は好みが変りました。

「直裕っ、魚はやっぱり白身の鯛よ」、と言うのです。こんな日の母は90年も昔の港町・歌が浦に記憶が飛んでいて、両親も健在な贅沢な炭坑経営者の我が儘娘時代に戻っているんです。この母の言葉には堪えます。
20Cmくらいの鯛だと一匹で¥400しますよ。塩焼きなら兎も角、刺身なんて僅かしかとれません。

「貴方達は別な魚を食べ、母にだけでも鯛を食べさせたらいいじゃない」、と姉は言いますが、それは母には通じません。「私だけ鯛なら食べない」、と母言います。

共働きが当たり前の姉の時代と違い、母の育った時代は家族交流の中心はゆっくりとした食事タイムにありました。誰が何を食べているかくらいの観察眼は今の母でも持っています。それに、母の言う鯛は小鯛ではなく、ブリッと大きな鯛。その鯛からとった刺身に煮付け、鯛汁が大好きなようです。


☆ 2008.5.14。今日も母が・。

★:聞いてよ直裕っ、これから大事な事を話すよ・と母。

この2ヶ月近く、デイの行き帰りの車中、それに嫁の留守を確認するかのようにして母が何かを私に伝えようとしている気配を感じています。
私にはそれが何の話だかはなんとなくは分かっていて・、だから、ブログ記事に書いてしまうと嫁にも姉にも兄にも知れてしまう事ではあるのですが、何れにしても母の思うようにはならない事だから書きます。

「直裕、私はネ…、何と言っていいか・、お前にはいろいろと感謝しとっとよ」、と車中の母。助手席に座る母は本当に真顔で私を見ている瞬間があり、そんな時の私はびっくりします。

「こんな・何も分からんようになった私だけど・ネ。誰が私に何をしてくれているか・ぐらいは分かっとると・よ」、と。

「ふーん、で・何を言いたい訳ネ」、といつも私が無愛想に言ってしまうばかりに、その場の雰囲気がガラっと先がおかしくなるんです。私は《日々是名馬、昨日も今日と同じ、明日もまた今日と同じ》みたいな日常が好きなものだから、急な改まった話し方が苦手なんです。第一、母が言いたい事は遠の昔に分かっていて、要は、母は私に感謝の言葉を言いたいんです。

同居も6年目になると互いの存在自体が当り前になっていて特別視をしていないのでしょうね。まあ、何にしても良し悪しってあります。急に改まった母への私の配慮が足りませんでした。

「何が言いたい?って?、そんな口の利き方があるかい!。少しでもお前に対して感謝の気持ちをと思っているのにその言い方は何だ!」、と絡み始めました。

「何の話か分からんから「何ね」、と聞いただけじゃないか。聞かんうちは良い話か迷惑な話かが分からんだろうが」、と私が言うと母は「えーい、もうよか!。お前には言わん」、とプリプリになるんです。

処が、3~4日後なんですが、同じ場面設定と言うかデイ施設からの自宅への帰りの車中で、「さっきの話だけどネ」、と突然に3~4日前の話をしようとするんです。3~4日前の話が母にとってはつい、さっきの話しになっているようです。

「直裕、私はネ…、何と言っていいか・、お前には感謝しとる・よ」、と母が・。
「ハイハイ、分かっとるよ。母チャンは3~4日前からずっと同じ事を言っとるけんネ」、と言うと。

「私がそげん同じ事ば何回も言いよってネ?。あんたは私ばバカんしよっとネ?。もう、よかっ!」、とこんな状態がこの3~4日は続いています。何か母なりに大切な話をしようとしているのは分かるのですが、父母の財産譲渡が絡む話であって、私はその話を改まっては聞きたくはないんです。


☆:2008年5月15日。

★:「佐世保の家を処分しなさい」、と母。

私には何となく分かっていたんです。母は、佐世保の家で一緒に住もう、と言いたいんです。この2年程の間に苦しくなっている我が家の暮らしの変化が母なりに気になっていたんでしょう。

「あのネ。・・ここでの暮らしが大変ならここを出て佐世保に帰ろう。佐世保で暮せばいいじゃないか。それとも、ここに居る必要があるんなら佐世保の家をお前にやるから処分して生活の足しにしなさい」、と。この言葉は母の来熊から3年目の2006年頃の母が何度も私に言った時期があるんです。

14日の深夜とは言っても実際には15日の午前2:30近くです。母のトイレタイムの頃なので私はまだ起きていて待機している最中。

私は強い男。身体に14、15回とメスを入れながらその度に苦境を独りで乗り越えてきた男です。自分の悩みならどうにでも解決してきた人生でしたが母の人生まで背負う事になり、・・近年は確かに考え込むが多くなっています。

姉は姉で、「貴方にも老後の人生は襲い掛かって来るんだからしっかり考えておかないと」、と言います。では、姉に聞くが「例えば、俺はどうしたらいいんだ?。その時の母はどうなるんだ?」、と。

私にとってのこの時の姉の言葉は、まるで一本の映画を見た後で「私が脚本家だったら、あのシーンはこんな風に変えて書くのに」、と批評するようなものでした。絶対に自分の手は汚さず、口ばかりが達者な奴がつかう言葉ですね!。

我が兄も姉も母との同居を試みて既に失敗し、私を蚊帳の外へ置いてどこかの施設へ母を預けようと計画していたはず。しかし、私は私が知らぬうちに母がそうした状況に置かれていることを知れば、私は母が預けられた施設へ迎えに行っていた筈です。

私が持つ我が兄や姉との相違点。それは「俺は母親と暮らすことを我が幸せと思うこと」でした。

でも、強いはずの私も最近は涙もろくなりました。これまでは人の事に泣いても自分の事に泣いた事など久しくなかったのに、と思います。結局、嫁と二人で暮らせた頃を懐かしむ事だってあるんです。

私は兄、姉に言いたい。将来の事は今は何も考えられない。母の世話を心に決めて同居を覚悟した以上、今はこうして夜中に母のトイレタイムが来るのを待つ・、それしかできません。


☆:2008年5月17日。

★:我が家の長男よ、仏壇に手を合わせ心誤魔化すな。魂は我が心に住んでいるもの。

日本人の大きな間違いの一つ。神前、仏壇に手を合わせるのは己の気が安らかになる儀式に過ぎません。儀式によって心安らかになれた者だけが日常の言葉使いや行為が改まり、伴う人に与える印象やその付き合い方までが改まるから病気や怪我とも縁が薄くなり、人生を安らかに成就できるのです。

つまり、信心によって考えを変え、日常を変え、生き方が変ってこそ神仏に手を合わせた意味があるというものです。ただひたすらに仏前、神前で経を読み、写経をし、鈴を鳴らして手を合わせ、それだけでどうにかなるとでも考えているんであれば、それは大きな大きな勘違い。

考えや行ないが変わらない限り、神仏に手を合わせる意味がないんです。そんな時間があれば、一日1回の電話、2ヶ月に1度でも母の手を握ってやる事の方が大切なんです。それは信心ではなく、子が親に示す誠意というもの。

第一、日本人の宗教観というものは己の心を誤魔化したり、周囲の目を誤魔化す手段にしかなっていないケースが多く、我家では神仏に一番縁がある私が言うんだから間違いありません。我が兄よ、一日一回の神棚、仏壇への合掌など今は止め、せめて今は己の老いた母親への珠の電話でも掛けてみろと言いたい。


★:存命する親に対する行ないこそが信心。己の人生に違和感を感じている者ほど神仏を語る。

孝行というのは存命している親に対してする事。母親に背を向け仏壇に手を合わせる者の目の前に仏などいません。それは彼の地に行ってみた者にしか分からない事。親の笑い声こそが息子の勲章であって、親の笑顔を作れない息子は最大の不幸者だと私は思っています。

彼の地では現世での行ない次第で住む世界が違います。彼の地に住む魂の多くは暗黒の世界に住み、現世で功徳を積んだ魂に対してのみ、少しずつ光が与えられ、再びの新たな命を貰うのだと私は信じています。


★:[目があるばかりに欲しくなり]、[耳があるばかりに知りたくなり]、[口があるばかりに災いを呼んでしまう]のが人間。

動物の中で、多少なりとも知恵を持つ動物は[後ずさり]、[振返り]という行動がとれます。しかし、記憶の時間を戻したり、後悔したりできるのは人間だけなんです。これは、「生活を意図的に変える事ができる」、という意味なんですが、本来はそれが人間の特徴なんです。これを出来ない動物的な人間ばかりが増えてきているんです。

己が行く先を阻む者が居れば「お前は邪魔なんだよ」と思い、別な道を授ける者が居れば「うるさいんだよ」と撥ね付け、己が誰かに責められ際には「俺のせいじゃなく、あいつがやったんだよ」と周囲を指差しては尽く己中心だけの人生を歩いてきた者・。こうした人生を抱えて生きる者の末路は哀れなものです。


☆:2008年5月19日。

★:姉や兄は既に要介護度4の母をどのようにとらえているか・。

兄や姉と暮らしていた頃の母は要介護度1~2の頃。オムツや中敷きだって必要がないか、汚す事も少なかった頃。でも、現在の母は既に要介護度4。

「直裕っ、おしっこ!」、と母が私や嫁に告げ、母を便座に座らせた時には既に中敷きはグッショリとオシッコが出てしまった後。認知が激しい日の母は、「オシッコは中敷に出すもの」、と理解しているかのような行動を取ります。まぁ、それでいいんですが。

便座に座った母はというとオシッコのことはすっかり忘れてロールペーパーをグルグルと回しています。「何やってんの?」、と聞くば「オシッコをしたから拭くとヨ」、と。

そして、手を洗わせてベッドに戻って横になって5分もしないうちに再び、「直裕っ、オシッコ!」、と。

「さっき、したばかりじゃないか」、と言うと、「違う。今もしている」、と言います。中敷を調べると確かにタップリと排尿が終わった後。そこで中敷を新しいものに交換し、再び便座に座らせるとロールペーパーから紙を千切って拭くだけ・・。

「まだ、出ていないじゃないか」、と言うと、「もう、ベッドの上で出したからここで手を洗おうと便器に座ったんじゃないか」、と母。母が理解する排尿の仕方はこれでも構わないのですが、これだとデイ施設では敬遠されてしまいます。デイ施設で要介護度4、5のご老人が嫌われる最大の理由がここにあるんです。

最近の母はこんな感じですから、1回のトイレタイムで2枚の中敷を交換する事さえあります。これが1時間に4回も繰り返す日が少なくはありません。つまり、中敷交換が一晩に7~8回。多い夜は12回の中敷交換という日もあります。


★:こうした事が起きる原因は2通りが考えられます。

①:尿意を感じ、ベッドから起きようと力んだ瞬間から排尿が始まり、便座に座った時には既に排尿  
 の大部分が終了している。

②:尿を溜め込む膀胱が満タン状態を越えて始めて排尿感を感じるように感覚が鈍くなっている。そ
 して、残尿感も無くなっている。

多分、我が母は②のような気がします。女性と男性の場合で違うのかも知れませんが、私の場合だと、膀胱にどの程度の量の尿が溜まっている、というのを自覚できます。満タンにならなければ尿意なんてありません。それに、尿を出し切ったか、どのくらい残っているかさえ自覚できます。母の場合、その辺に異常があるのではないかと思うのです。

最近は、介護者側の負担を軽くする目的で開発される薬もあるそうです。つまり、単にオシッコを出し切ってしまう利尿剤だけではなく、チョコチョコと頻繁に少量の排尿しかない患者には、本人の睡眠不足の解消の目的もあって、介護者の負担も楽になるようにと膀胱が満タンになるまで尿を出させない利尿剤もあると聞きます。この母の症状ですが、一度、主治医殿に確認しようと思っています。

デイ施設にいる時間の約5時間の交換回数は分かりませんが、この冬から秋の時期の起床してからデイに行くまで、デイから帰った後の就寝するまで、就寝して翌朝までの在宅時間帯の中敷き交換回数は平均して11回。多い日は22回の交換をしています。この数字が我が家での母の夜間の排尿感を感じた際の起床回数ですから、母は施設で、私は職場で居眠りをするようになります。

頻尿の症状が出ている日の夜間時などは15~20分に1回交換します。恐らく、日中のデイ時間帯の5時間でも裁定でも3回は交換しているはずです。つまり、例のピンク色の1パック57枚入りの中敷きを3日半で使い切ってしまう事が決して珍しくはありません。

それに、私や嫁が気づかない間に中敷きを水洗便器に流してしまい、パイプクリーニングを1ヶ月に2回もした月がありますが、私が手をこじ入れて掴みだした事など何回もあります。

因みに、このパイプ詰まりはクリーニングは1回で¥25,000も掛かります。マンションに住んでいる人などはもっと大変な費用が掛かりそうですね。


☆:2008年5月19日。

★:既に母は物象世界から心象世界に移り住み始めている。

私達夫婦の過ごす時間と姉や兄夫婦が過ごす時間自体が全く異質の時間だという事を理解して欲しいのです。私達夫婦は母と共にッリアルな同居人生を過ごしているんだという事です。

そこには同居する事での疎ましさや頭痛を言訳にする隙間などありません。確かに、こう言う私にだって母を疎ましいと思う瞬間、頭痛がある瞬間は多くあります。

でも、次の瞬間には、「母の言葉、仕草に反応するなっ、細っていく命だけを愛しいと思え。お前が耐える分だけお前も母親の人格も上がるんだ」、と囁くもう一人の私が居るんです。

母が私と暮らす事で私の姉と兄は元通りの暮らしに戻れました。現在の多くの日本人が求める生活は個々が我欲を求める物質追求生活。

俗世とも言い、欲世とも言います。それはそれで一般的な人間らしい姿ではあるのでしょうが、長男には疎ましく思われ、長女と暮らせば体調を崩させてしまい、知らぬ間に実家に戻されて半ば天に召されかけていた母の場合、終の住屋として私のそばを神に与えられたのだと思っています。

正直な処、私は心のどこかで我が姉兄に対して「一体、真に心弱き者は誰だったのか」、と思っています。同居7年目を迎えた私達夫婦の頑張りを姉は海外旅行の宿泊先で、兄は仏壇の前でどのような思いを巡らせているのかと・。

この同居記録の冒頭に「父は姉に受話器を握らせ、そして、母は真に一緒に住むべき者の所へやって来た」、と私は書きました。それは今日の日の事を父は知っていたからだと思っています。母は私の住む熊本へやって来て本当に良かったと思います。姉も兄も私も母も今が一番幸せなはずなんです。
但し、姉と兄には悔いを以って生きていって欲しいと思っています。


☆:2008年5月19日。

★:母ちゃん、どこにも行かせんよ。誰にも渡さんよ」、「俺の命が尽きても護ってやるよ」。

「私をタライ回しにしないで・」。
私と暮らし始めた2003年4月の頃の母がよく言た言葉です。そして、同居4年目を迎えた2008年春、「私はここでずっと暮らすよ」、と言いました。「そうね、母ちゃんはどこにも行かせんよ。誰にも渡さんよ」、と私は母と自分自身に改めて誓いました。

どんなに貧乏しようが持続こそが私流の正義なんです。今の母なら介護に疲れ果て、朽ちた私の屍の傍にだって眠ってくれるはずです。

もう、母はもの静かな心象世界に移り住み始めています。やがて母の住むだろう世界が私が一度訪ねたあの紫の世界であれば、私は簡単に母を呼び、探しあてる事ができる気がしています。その時、私の書く【母に生命を返す時】も完結するのだろうと思います。


★:介護家庭の皆様へ

現在、老いた父親や母親と労苦を共にされる方々に言いたい。「父を、或いは母を最期まで看取ろう」という己への誓い、その誓いの持続こそが正義だと思います。

父母の老いという、どうしようもなく崩れ、薄れいく人生の終焉期。流れ始めた水を止める事に一度失敗した者達はどんな事でも言います。「今なら世話できる」、「今度こそ優しくできる」、と。
でも、それは都合のいい話。

私の母の場合、私達が母に与えた和室の畳の上で、老いた身体から流れ出す臭い便を最初に手の平に受けた私を選んだのだと思っています。「私はこの子の世話になろう」と。


★:我欲を優先させ、介護を片手間に考えるから頭痛や胃潰瘍、過呼吸症候群やうつ病になる。

最近、介護者側の過呼吸症候群やうつ病などが話題になるようになりました。誰かの為に何かをしようと思うなら、今の何かを棄てる事をも同時に考えなければいけません。

好きな事して、果てぬ夢を追う片手間で、ビール片手に老いていく一方の父母の話はして欲しくない、私はそう思います。介護者の病はその辺から来るのではないかと思っています。心と行為のギャップです。

今回、これまではためらっていた部分までを書いてしまいました 。兄弟間の似たような問題はどこの介護家庭でもよく聞かれる事。もう、綺麗事の文章は止めます。介護って臭いし、汚いし、疲れます。でも、この2008年現在で95歳にもなる母親と暮らせる事って素晴らしくて幸せな事なんです。私の場合・ですが。



☆2008年6月1日。

★:このステロイド剤の使用結果、報告。

既述した2008年2月から始めた筋肉増強剤(ステロイド)と草野球時代に培ったトレーニングジムに通わない鍛錬の効果ですが、2008年4月末の時点で肩の痛みや胸、腹部の痛みも80%ですが消えました。

長期間のステロイド使用は危険ですが、急場凌ぎには間違いなく効果がありますね。睡眠不足など何処吹く風の疲れ知らずの体力が付き、体力、特に肩に筋肉がついて腕力が増しているようです。

このステロイド剤は我が国のスポーツ選手にも愛用者が多数いる事は知っています。熊本の草野球関係者でも使っている者は多数います。ステロイド剤とは副腎皮質ホルモンとかいう種類のもので男性ホルモンであったり、それに類似する構造式をもつものです。何れも[蛋白同化作用]を持つもので医学会では多くの分野で効果的に使用されているそうです。

身体の痛みや炎症をコントロールし、骨髄に作用して骨格を大きくしたり、造血を促します。筋肉量を増やしたりする役目を持っているそうですが、日本では特に再生不良性貧血の治療薬として、手術で衰弱した体力を回復させる手段として、また、女性の乳ガンの治療にも効果的に使用されていることは知識として既に持っていました。

私の場合、3ヶ月間の使用だと心に決め、このステロイド剤と気管支拡張剤、不定期な抗生剤を服用する事で体調を回復、維持できるようになりました。全てがインターネットでの個人輸入ですが、本来は法律で禁止され、この話はいい事ではありませんね。

ただ、そこまでしないと左目失明、要介護度4で左股関節骨折の母親のお世話ができないくらいに介護者側の体力を必要としてきているという事です。

車椅子に座っているとは言っても、立って移動させる、座る為に移動させる、横にならせる為、入浴させる為に・、という動作の中では母の全体重を持ち上げる瞬間って結構、あるんです。

私に限らず、介護する側の老いや体調の崩れというものは絶対にあります。母の介護の終わりは何も母の急変だけで終る訳では無く、嫁や私の体力が尽きた時にも終ってしまうのです。もう、ステロイドの使用も仕方ありません。

現代の医者の多くは薬剤師に姿を変えてしまい、命を長らえさせる事はできても、尽きる命を安らかにできる者が少なくなりました。私は心をなくし掛けた医者よりも、薬剤を開発する側に魂を感じます。
結局、薬剤って投与する目的で開発するんだろう?。と言いたいんです。それを規制して何になる。今の世は使い方や副作用なら医者じゃなくても簡単に分かりますからね。



★:余談ですが、このステロイド剤は

服用する人の骨量や造血作用を増し、小腸や大腸を構成する筋肉に至るまで身体各部の筋肉量を増やすだけではなく、副作用もあって、脱毛や心臓機能低下や肝機能障害が報告されていて、陸上競技のジョイナー選手の死亡原因にもなりました。また、このステロイド剤はとんでもないパーツまでも肥大化させてしまうという副作用?があるようです。因みに、私の場合は肥大化して貰っても殆ど意味がありませんが・。

古くはMLBのマックガイヤー、最近ではボンズ選手のようにアメリカの大リーガーや日本の相撲界でも流行り、使い始めたら止められない人が多いと聞きます。使い過ぎは皮膚がブツブツと汚くなり、直ぐに見分けがつきます。そんなお相撲さんやレスラーなど・、居ますよね?。

2006年、2007年は4月の声を聞く頃には母の夜間のトイレの世話はしなくていいくらいに母の体力が回復とともに正常に戻っていました。しかし、2007年の暮れから母の夜間のトイレの世話は2008年6月の現在も続いていて、母の夜間介助は確実に大変なものになってきています。
これだけ長期間に渡る睡眠不足が続けば、私の方が再び倒れてもおかしくはありません。そう思っていた矢先の2008年2月のステロイドとの出合いでした。

私の場合は格段の介護体力がつきましたね。但し、男性ホルモンですから無性に攻撃性が強くなると言われている為、その点に注意して生活しています。一時的にでも疲れ知らずの体力がつく、このステロイド剤。全国の介護家庭への密かな浸透は時間の問題だと思います。

母は要介護度4の上に目が不自由で背骨、股関節の骨折を抱えての同居。車の乗り降りからポータブルトイレに至るまで、母を抱きかかえるようにして移動させる事ができる体力を付けるには仕方のない使用でした。9歳時の柔道事故によって小腸の約50%、大腸の25%を切除した私・。冬場の衰弱時には58kg、年間を通して平均で62kg程度だった私が2008年現在では72kgにまで体重が増加し、体中の筋肉がブリブリと大きくなっています。

但し、現在は副作用を避ける意味での4ヶ月の使用禁止をしている最中であって、体力が落ちてくる9月頃からの3ヶ月間は再使用を予定しています。

今後、在宅介護の問題は危険な薬物までを家庭に浸透させ始めていくのではないでしょうか。それとも、老いぼれはさっさと施設に放り込みますか?。そして、その姿を見ていた子供達が貴方に同じ事をするという・。


☆:2008年6月7日。

★:政治絡みの病院体制の確立なんてあり得ない。待っていてばかりでは助かる者も助からない。

インターネットで身体の異常状態を訴えれば複数の医師からの答えが返ってくるし、その答えを入力して検索すれば日本では手に入らない薬物までもが外国から輸入だってできます。日本では問わない限り医師からは教えてもくれない副作用まで明記してくれるから、薬剤の個人輸入というものはある意味では安心できます。

これだけ医療が分業化され、「そこはあの医者、ここはこの医者」と宝島探検の地図を渡され、老いた我が母を車椅子に乗せたままで病院を探し訪ね回るのは嫌です。

私の周囲には朝から夕方まで一日を要して病院を掛け持ちする生活が日課になっていると言われるお年寄りが大勢います。お昼は公園で弁当広げ、午後からは再び別な病院通い・。この生活ができなくなった時がデイ施設への入所のタイミングなんですか?。これが日本の医療福祉現場の患者家族側から見た日本の医療の現実なんです。


★:日本の制度って理不尽な点だらけ。

「お年寄りが転んで大変な事になる前に杖を下さい」と行政に願っても、「では、転んで立てなくなってから来て下さい」というのが我が国の制度です。誰が作ったんですか?。何故、こんな馬鹿げた制度を守る必要があるんですか?。全国の福祉行政窓口に私はその事を言いたいです。このブログ記事を書く意味の99%がこの点にあります。


★:インターネットによる薬剤の販売システム。ついでに受診、問診システムの構築を

インターネットを利用した受診や投薬アドバイスや薬剤購入システムは利用次第では親の介護に時間を裂かれ、介護者自身が通院できないなど、身動きのとれない介護家族にとってはありがたいものだと確信を持っています。

いっその事、ネットによる医師の問診システムを構築し、効率的な受診ができるようにしたらどうかと思います。ネットで患者が訴え、医師がネットで答え、必要な受診自体は近場の医院でできるという・。

人間社会がここまで崩壊してくれば、一度は完全に無法状態になってみるのもいいことかも知れません。人間が原点に戻れるというか、強い者が優しい心で支配する世界に私は憧れているからでしょうか。

ベトナムの食材が4日で日本の家庭に届けられる時代なのに、いまだにあのサイクロン被害地に日本からの救援物資が届かないという・、実に不思議な惑星、地球号です。



☆:2008年6月9日。

★:交通事故の件。加害者側の加入するJA球磨の話を少々。

既述したように、2007年の私は1月末に心筋梗塞、7月にはの追突事故の被害者と・大変な目にあいました。心筋梗塞と追突事故の症状には似通っていて、私の場合には長期の記憶障害や身体の部分麻痺といったものでした。

心筋梗塞による指の麻痺が戻って一安心という時の追突事故。治りかけていた症状が再び悪化し始めたのです。この追突事故によって普段から天然気味で物忘れの多い私の生活に更に拍車がかかるようになります。

熊本テルサの駐車場に停めたはずの自分の車がどこにあるのか分からない。車を探し当てたのはいいが、今度は自分の家がどの方向にあるのかが思い出せない。北と南が分からない。道が分からない。いつも見ているはずの風景に心当たりがない・、なかなか自宅に帰り着かずに困りましたよ。

この追突事故では信号停車時の事故であった為に100%の加害者責任なのですが、被害者の私が例え赤字会社であったとしても、社長である以上は、「入通院加療期間中の所得保証はしない、という相手側である保険会社JA球磨からの通告があった事です。

これって、おかしいでしょう?。JA球磨という保険会社は加害者が加入している保険屋であって、私とは直接的には無関係。そのような話は保険屋が加害者と話し合うべき事だと思いました。

「貴方の加入している保険ではここまでしか相手に対する保証はできません。その以外の保証は加入者である加害者自身が相手被害者の世話をしなさい」、とか、そうは思いませんか?。

第一、相手側代理人のJA球磨は車の破損修理をしただけで事故後の半年が経過した2008年2月の段階でさえ病院に対する治療費の支払いさえ済ませていないのです。何事も人が成す事ではありますが、追突事故から約1年半を経た2009年4月現在、私は[加害者側である]JA球磨からの保証を受けていないのです。
私が提出した書類には、「不備がある。信頼性に欠ける・」と。ふざけるな!。何が、「我が国は申請主義の国ですから」、だと言いたい。俺は被害者だぞ。

腹切りや特攻に代表されるように、日本人は歴史的にも人の命を粗末に扱う人種。こうした考えが年金や介護保険制度で失態ばかりを繰返す元凶になっているのです。

庶民の掛け金を自国、自社の抱える資産・財産だと勘違いした上での制度改正、ビジネス展開だから質が悪いんです。


★:よく調べれば、

このJA球磨というのは東京海上火災という保険会社の代理店に過ぎず、加入者と東京海上火災という保険会社間の手数料だけを利益としているようなんです。だから、利益を挙げようとすれば事故を過小評価する必要があるらしいのです。

つまり、JA球磨経由で加入するより、東京海上火災に加入していた方が万が一の際の保障が手厚いというシステム。日本のビジネスが分からなくなりますね。幾つかのマルチ商法が摘発されますが、この保険の世界こそがマルチ商法の典型でもあるんです。それを逃れる為に加入者は顧客ではなく、会員、或いは部外社員と表記されているはずなんです。

因みに、私は2001年の腰椎分離骨折辷り症での入院時にも日本生命からも保険料の不払いを受けていて、この件は後述したいと思います。



☆2008年6月10日。

★:浦田剛コンサートの件で打ち合わせ。

私の仕事場の熊本テルサに浦田剛氏が訪ねて来られました。この浦田氏は今は不動産屋さんですが、彼の横浜時代にはゴールデンカップスなどと張り合うグループの一員だったとか。彼は実力的には熊本NO1のシンガーだと思います。

7月21日のこの浦田氏のコンサートのゲストとして私が招待されている為、その打合せにやって来られたようでした。益城文化会館という豪華なコンサートホールで600名は収容できるとか・。私はちょっと、ビビッています。

2週間後に照明の打ち合わせ、その2週間後に最終打ち合わせ、本番日の午前中がリハーサルという事でした。高橋君はお得意の介護ソングの4,5曲を準備しておいてくれとの事。「籠の鳥」、「母の童唄」、「花ミズキ」、「風に吹かれて」、をメインに、「母のクーデター」を予備曲にと考えています。これだとギター2本の持替えで済むし・。


★:その前に、7月5日の山鹿市での私のコンサートを頑張ろう。

ただ、先ずはその前の7月5日に予定されている山鹿市での私のコンサートを成功させないといけません。今回は看護協会絡みだそうで、山鹿市長も観客として来館されるそうで、介護家庭からみた病院への希望なども曲間のトークの中に入れるような指示があっている為、そろそろ選曲とトークの原稿書きをしようと思っています。



☆:2008年6月11日。

★:「母ちゃん来月は山鹿市で俺のコンサートさ」、「えっ、山田市?」。

母の聴覚というか言葉の認識みたいなものが更におかしくなってきた最近です。

「母ちゃん、後1ヵ月後に山鹿市で俺のコンサートが開かれるよ」、と私。
「えっ、山田市で?」、と母。

「違うよ、ヤ・マ・ガ・シ・さ」、と私。
「だから山田市だろう?」、と母。

「違う、ダではなくてホシガキのガのヤマガさ」、と私。
「ほう、ホシガ市ってネ。妙な名前だネ」、といった感じで母はさっぱり要領が得ません。

例えば、「ほら、チョウチョが飛んでいるよ」、と言えば、最初は、「キョウキョ?」、と聞こえるようですが、「♪チョウチョ♪チョウチョのチョウチョさ」、と唄いながら言えば、「あー、チョウチョね」、と話が通じる処をみると、記憶に残っている言葉であれば通じるようです。

その証拠に猫と言えば、最初は「テコ」、と聞こえても、「にゃんにゃんの猫さ」、と言えば、「ああ、猫ね」、と理解してくれ、その後の話に移れますが、・・私がしたかった話の肝心の話題を私自身がすっかり忘れていたりします。


☆めっきり認知が進んだ最近の母

もう、テレビの会話やストーリーなどは全く理解せず、画面の中のタレントやキャスターを見て、「あは、ご覧よ、あのだらしないヒゲ」、とか、「頭の上が薄くて、情けないね・ホホ」、みたいな事ばかり言っています。認知が進んだ母の最近です。多分、これに失語状態が審査されれば要介護5ではないかと思います。何とか阻止しないと・・。


☆2008年。6月15日。

★:母の部屋はタイムカプセル

ついさっき、(0時50分)の事です。私の布団の中のブザーがピコピコと鳴りました。母がベッドから起き上がり、床に設置したセンサーを足で踏んだことでなるようにしています。母のトイレタイムです。

私は眠い目をこすりながら隣の母の部屋に向かい、「入るよ」、「手伝うよ」等と言いながら部屋のドアを開けるのですが、今夜の母は大正10年、8歳くらいの頃に戻っている様子でした。

母は私に向かって幼い表情で「・まだ、起きてござったと?」、と。母は私のことを父親の河内松若氏か12歳上の兄の勇さんだと勘違いをしているようでした。

母は一旦はベッドに身体を起こして床に両足を着地させるのですが、腹筋が弱ってしまっている為に体勢を維持させる事が出来ず、再びヘナヘナと上半身を後ろへ倒してしまいます。

「うん、いろいろと考え事があってね。まだ、起きとったさ」、と適当な言葉を言いながら母の背中に左手を、右手を両足の下に入れて抱き抱えるようにして起こして改めてベッドに座らせます。そして、今度は母の前面に立って両脇の下に手を入れ、ポータブルトイレに何とか座らせます。(この時、母はポータブルトイレの使用に激しい拒否反応を示す時もあります)。

母を便座に座らせるや、「早う、部屋にお戻りまっせ」、と母が言います。多分、この時は8歳の頃に戻っているはずの母はオシッコをする姿を父や兄には見られたくないと思ったのか、座るだけでなかなかオシッコをしようとはしません。

こんな時の私はベッドの横にある蓋のついたお茶飲みコップを咄嗟に掴み、冷たいお茶を入れに台所へ向かいます。
部屋に戻って冷たいお茶を飲ませたりすると、「ああ、あんたネ。まだ、起きとったね」、とようやく2008年6月15日の母に戻るんです。

[母の部屋はタイムカプセル]って、いい表現だと思いませんか?。

この次、母の部屋のセンサーで起こされた私が母の部屋に入る時は、いつの時代の母に戻っているんだろうか、と想像するだけでも《私の夜の楽しみ》がそれなりに出来るものなんです。

翌朝の食事で母と向かい合う時など、「母チャン、歳をとるって羨ましいよ。毎晩、旅行ができてさ」、と言うと、「・・・・私にゃ、あんたの言っとる事がさっぱり分からん。早う、ご飯食べなさい」、と母はすっかり私の母に戻っています。これ、皆さんのご家庭でもよくある光景ではありませんか?。


☆2008年。6月16日。

★:久し振りの照明オペレート。

職場の同僚が法事の為に3日連休の里帰り。この為、テルサホールの14日の土曜日,15日の日曜日のイベントでは私が照明を担当する事になり、私の6月はハードな月になっています。

しかし、私には母の介護があります。また、デイ施設は16:00には閉所される為、14日も15もパートの女性に15:30の緊急出勤をお願いして16:00以降の照明オペレートを引継いで頂く必要があり、お陰様で16:20には自宅に戻る事が出来ました。勿論、鶴翔苑からは超過料金が請求されるはずです。

それでも、15日の日曜の母は、施設への迎えが遅い私を探し、「おじちゃんはどこ」、「直裕の姿が見えないね」、と繰返していたらしいです。この15日の日曜出勤は久し振りの事でした。


☆母の「えーと、あんたは誰だったかね」、に気分屋の兄貴が見事に反応。全く、哀れな奴だ!

14日の土曜日の夕方、兄嫁が佐世保の実家の庭で穫れたミカンケース一杯の枇杷の実を送ってくれていた為、そのお礼を言おうと電話したのですが、何とも見苦しい会話になってしまい、兄嫁には辛い思いをさせる結果になりました。

母と兄嫁が仲良く会話した後で兄と代わったのですが、「えーと、あんたは誰だったかね」、という母の言葉に対して兄は、「分からんならそれでいい」、とプツンと電話を切ってしまったのです。

「何だと。これが長男の口から出る言葉か」。私は母が持つ受話器を通して聴こえる兄の言葉に対し、怒りましたね。実に哀れな母と長男の会話でした。

「直裕、さっきの男は誰ね」と聞く母に、「兄貴さ、我家の長男さ」、と言うと母は、「・・・」。呆然として考え込んでいました。

幾つになろうがあいつは駄目。あんたは何の為に、誰の事を念じて仏壇に手を合わせているんだ・。
我が兄は相変わらず、格好つけだけの奴だと思います。


☆山鹿市保健センターからコンサートに関した確認と挨拶の電話が。

コンサート開催日は7月5日14:00~16:00の2時間と決定。当日の13:00から看護協会の総会があり、その後に2時間の枠でコンサートを設定しているとの事。今回は看護師さんを始めとした病院関係者や施設関係者が多く、研修会形式であって一般客は少ないとの事でした。

私の作品には介護家族の思いが綴られていて、唄そのものがメッセージソングだから介護トークよりも作品を一つでも多く発表して欲しいという事。

コンサートは今日から19日後ですから早いものです。今回のコンサートではインターネットでも評判がいい♪[母の童歌]は外せないと思っています。


☆:2008年。6月17日。

★:最近、凝っている[洋風お好み焼き]が我家で評判。

この春先から母の食欲が落ちている事は既述しました。だから、食卓に[ミニたこ焼き]を追加して見たのですが、タコは歯茎を痛めるし高い食材でもあるから止めました。そこで登場したのが[洋風お好み焼き]です。へへっ、と。

まだまだ、研究の余地だらけのようですが嫁は、「美味い」、と言う日が増え、母も日増しに食べる確率が増えているようです。残れば残ったで翌日の私と嫁の昼の弁当に持っていけますからね。

そこで、料理教室です。

①.中力粉と薄力粉を混ぜて水でトロトロの薄目の状態にしておきます。摺り下ろした山芋をいれてもいいし、水ではなくて牛乳で練ってもいいですね。これに千切りキャベツ、千切りニンジン、千切りカボチャ、千切りジャガイモ、モヤシやタマネギ、茄子に挽肉や乾燥小エビ、日によってはツナやトウモロコシなどを入れておきます。具剤を入れ過ぎても喧嘩します。

また、ピザ風に仕上げたい場合にはトマトやセロリ、パセリを後から強調します。しゃぶしゃぶ用の豚肉も後から追加してもいいですね。

フライパンに薄く油をひき、温まったら①を入れて超弱火で蓋をして焼きます。野菜などに火が通ったら一皿ずつに盛り分けて家族が食卓に揃うまでスタンバイ。

家族が揃ったら最後にとろけるチーズを乗せてオーブンに皿ごと入れて強火で一気に加熱し、チーズの表面に焦げ目が確認できたら完成です。

魚粉と青のりをまぶし、マヨネーズ、カゴメの中農ソースやお好み焼き専用ソースを掛けて食べますが、我家では豚カツソースをベースにした手作りソースを使います。

料理の過程で、シチューの素、カレー粉、デミグラスソースや意外に味噌等を使ってアレンジを加えても面白いです。メリケン粉を多く、堅めに練った奴を使うととんでもない結果になります。薄すぎるくらいの液状に薄く溶く事がポイントです。


☆:2008.6.18。

★:今日の母は人格異常。。。

車椅子に母を乗せ、居間から母の部屋へ移動中、「これは何ネ」、と突然に母が床を指差して前屈み
になったんです。丁度、居間から母の部屋へ入ろうとして左方向へ曲がろうとした瞬間でしたからドスーンと母が見事に車椅子から飛び出したんです。本当に飛び出しました。

「何をしよっとね。注意せんね!」、と怒り床に転がった心頭の母の表情と厳しい声。。まるで世話をさせているような母のキツイ口調。

怪我はなかったのですが、母は顔をガツーンと見事に壁にぶつけてしまったんです。咄嗟の出来事だから防ぎようがありません。「わざとしたね。そんなに私が面倒くさいとね」、と母。

「ごめん。わざとじゃないけど。確かに車椅子のスピードが速かった」、と詫びるのですが母の目は完全に引き攣っています。

実は、これまでにもコーナーを回転する際に、「これは何ね」、と床のフローリングのつなぎ目か何かを指で触ろうとして身を半分乗出させた母が車椅子から飛び出して転倒した事があるんです。車椅子で移動中に座っている者が体重を前に移動すると危険なんですが、母にはそれが分かりません・・。私も嫁も注意はしているのですが・・。

母にも車椅子で移動する時には「前に屈まんでくれよ」、とその度に言うのですが、母は「ハイハイっ」、と答えるだけで聞く気がありません。・・だから事故が起きるんです。

これは、耳が聞こえる聞こえない、ものが見える見えないというレベルの話ではなく、母が若い頃から持つ、周囲を小馬鹿にする悪い癖の名残りなんです。自分の考え方が一番正しいんだと言わんばかりの姿勢なんです・

それに日頃から、「私は倒れたんじゃなく、横になっている」、「立てないのではなく、床に座り込みたかった」、と言う母の言葉にもサッパリ真意が分からない時があります。

何故なら、暑い日の母は本当に、「床に直寝も気持ちいいよ」、とバスタオル一枚で横になる事があるからです。まぁ、この辺の性格は私も同じなんですが・。暑けりゃ服を着ていようが目の前を流れる川に浸かるというような性格です。

車椅子でご老人を搬送する際には必ず背もたれに体重が掛かっているかを確認しましょう。

まぁ、この日の車椅子転倒ですが、怪我がなくて一安心。それに、ベッドに横になる頃の母はついさっきの転倒のことなどはすっかり忘れ、「はい、ありがとうね」、といつもの母に・。


☆:2008.6.19。

★:久し振りに胃が痛むので薬局へ。薬剤師さんが「JCN熊本の10chを見ましたよ」、と。

仕事を終えて施設へ母を向かえに行った帰路、知合いの薬剤師さんを訪ねて時々に顔を出す十二指腸潰瘍の治療薬を買い求めました。

ゼリア製薬の[Uチーフ]という薬は胃痛にはとても効きます。これは食前服用。それに胃酸過多気味の人の痛みには[ガストール]というのが即効性がありますね。

「熊本ケーブルテレビの10Chかな?、豊後大野市での貴方のコンサート模様を見ましたよ」、と。「”花ミズキ”という曲の詩を改めて聴いていると、貴方は大変な日々を送っていると思いますよ」、と薬剤師さんが涙声で申されます。。。

「何にも分からない、知らない、というのは世の中の最大の罪悪だと思います」、とも言われていました。母の事を言われたのです。

「もう、相手は母親じゃなく、ある意味では人間性もない不思議な生物のはずだから正常な精神性はない。どこかで切り離した生活をしたがいいんじゃないですか」、とも。厳しい表情で断言されました。施設への入所を勧められたんです。母の世話を他人の手へ委ねてはどうかと・・。

「高ハッさん、もっとズルくクールに物事を考えなきゃいかんですよ。私にとっては貴方のお母さんはどうでもいい事。たかっさんが元気に元の暮らしに戻る事の方が余程大事です。お姉さん、お兄さんはそこが分かっているんです」、と言われました。

何と、この薬剤師さんは我が姉と兄の”生き方”を支持されたんです。。

私にとってはすごく重い先輩の言葉を聞き、子の瞬間の私はすっかり考え込んでいます。結局、考え方と生活の違いかな。私は、「嫁には子供も作ってやれなかった。嫁には何を残せるのだろうか」、という事と。「母の命は俺の命より重い」、といつも考えているのは間違いありませんが・・。



☆:2008.6.20。

★:ほぼ2週間後に山鹿市コンサートが迫る。選曲とトークの原稿書きでも・。

昨日、いつものように母をデイ施設に迎えに行って一緒に帰宅した際、郵便ポストに山鹿市からの公文書である[出演依頼書]が入っていました。コンサートの趣旨や目的。公演時間帯に出演料などが明記されていて。私のほうからは「了承しました。責任を以ってコンサートを行ないます」、という誓約書を返送し、契約が成立するものです。この契約書が届く度に緊張が走ります。

いつもの事ですが、[シンガー・高橋尚宏(直裕)様]と書かれた宛名書きを見ると独特の気持ちになります。背筋がブルブルっと何か変なんです。普通のおじさんのつもりなんですが・、この文字を見た途端にテンションが上がり始めるんです。今回は医療関係者が多いとか・。

母が骨折して入院していた頃の話や、その頃に感じていたリハビリ施設への不満。ここがこう変わって欲しい・、そんな注文を患者の家族側の意見として伝えて欲しいとも言われています。

しかし、山鹿保健センターの方からは、「作品の詩の中にはそうしたものへのメッセージも十分に含まれているから、トークよりも1曲でも多くの作品を唄って欲しい」、との電話も頂いていて、どうしたものかと今朝早くから職場の事務所の机でずっと考えています。

2時間をどのような作品で埋めていくか、途中のギターの持替えやキーボードを弾くか弾かないかで迷っている事。トークの流れに沿った選曲をと、いろいろ考えています。


★:山鹿保健センターの小林氏から。会場への機材搬入とリハーサルについて電話を頂く。

コンサート当日のお袋の世話の事、会場への道順、機材搬入とリハーサルの件。一つのコンサートを行なうにはいろんな人達の力を借りる必要があります。だからこそ感動的な作品を作って恩返しをしなくてはいけない。そろそろ、酒も抑えて体調を上げていかないと、と思います。



☆:2008.6.21。

★:深夜の1:45。母の夜間トイレの1回目。

ピコピコと私の布団の中のブザーが鳴り、隣室ではモソモソと動く母の気配がしています。私が母の部屋に入り、ポータブルトイレに座らせた時には既に中敷き一杯がグッショリでした。

腹筋がめっきり弱った母はベッドから自分の上体を起こすだけでも大変なんです。起きようとして力むからジョーッと。まぁ、母の部屋に入って来た私の姿を見た安心感でジョーッなのかも知れませんね。だから、ポータブルトイレに座った際には既に出てしまっている時の方が多いんだと思います。

よく、私の嫁が言う事ですが、「私ね、貴方の顔を見た途端に身体の力が抜けてオナラをする事が多いとヨ」・と。そんな事もあるんでしょうね。


☆:2008.6.22。

★:山鹿コンサートの仕掛け人、元看護婦長の福住さんから連絡。

正午近く、「お母様の具合はどうですか?。コンサートへの心準備は?」、と電話を頂きました。介護トークは兎も角、選曲が日によって違うから自身でも困っています。

私の作品は短いものでも4分50秒、長いものだと8分。平均しても6分30秒だから120分間の枠の中でトークを1分として発表できるのは16作品程度。しかし、過去のコンサートでは13曲が限度だから、1分のトークのつもりでいても実際には3分も喋っていたりするんです。この辺の調整が鍵だと答えました。


☆:2008.6.28。

★:4月末から本格的に始めていた体力強化トレーニングで体重が劇的に増加。

3月23日の豊後大野市でのコンサートでは6曲目くらいで息が上がるという不完全燃焼でした。周囲はそうは感じなかったよ、とは言いますが、私に言わせればアップアップの脂汗状態で唄っていたのは間違いありません。

前述のように、この3月23日の夜には別府市に移動して大塚博堂記念館でも1時間のライブを行なうという予定を入れていて、豊後大野市には一日前に入って周到な心積もりをしていたはずでした。

しかし、旅館の我々と同じ階にどこかの会社の研修組の団体が宿泊していて深夜遅くまでボソボソと話し声が聞こえてくるんです。このボソボソという会話がどうも私は苦手なようで、殆ど眠れてなかったんです。

翌朝、「夕べはうるさかったよな」、と嫁に聴けば、「??」。音響担当の上原氏は1階の別部屋で一人熟睡。結局、私一人だけが眠れずに当日の本番を迎えて結果、息が上がってしまうという失態を晒してしまったのでした。そして、その寝不足状態で唄っている私の映像がJCN熊本によって収録され、4月、5月と放映されたのでした。

前述したように、身体機能が落ちていく一方の母を介助する上で感じ始めた体力不足を補う意味で始めたステロイド剤の使用ですが、本格的に使い始めたのはこの豊後大野市のコンサート後でした。そして、4月末からは腕立て伏せ、左右で20Kgのダンベルを、そのダンベルを持ったままでの片足スクワット等、長年の草野球生活で培ったトレーニングを時間を見つけては始め、現在では片方で15.5kg、両手で30kgを越すダンベルになっています。

その成果?と言えるのでしょうか、2008年6月末の時点で首周りが3cm、体重が約7kg増加するという変化がありました。そして、何よりも2001年の腰椎分離骨折による痛みまで軽減しているのです。

これはステロイド剤と筋トレの成果なんですが、何かしら身体も精神もパワフルになった気がしています。この勢いで7月5日の山鹿コンサートを迎えればこれまでとは何かが違う2時間になるような気がしてなりません。


☆:2008.6.30。

★:さあ、自宅で職場で時間を見つけてはオケでリハーサル。

今回は21曲をピックアップ。インターネットでの評価を参考にして、最新の[母の童歌]を含む16曲を最終的に選曲して唄えればと思っています。家でも職場でも時間を見つけてはヘッドフォンを頭に歌詞を確認しています。

ギターの和音を忘れているのには困ります。唄って練習する処か作るテンポの方が速く、作っては録音し、録音を終了しては次の作品作りに取り掛かるから今作り終えたばかりの曲を忘れてしまうのです。

和音なんて一つの旋律に対して複数のつけ方があって、決して一通りではないのが音楽の面白い所なんですが、今付けたコードは次に来るコードに対して責任がある・、という。そうした意味での忘れがあるんです。

「へー、この曲にはこんな和音をつけていたのか?」、といった感じです。でも、詩を書く時だけは集中しています。[♪宇留毛神社の春]、[♪人生万歳]、[♪施設にて]や[♪籠の鳥]、[♪秋:夕暮れ]、[♪ホッホ]、[♪弥生の頃]などはかなりの難産だったんです。



☆2008.7.3。仕事場へ向かう車中で2曲ほど唄ってみる。出辛い声が出ている。

朝の8:40頃に母をデイ施設の鶴翔苑で降ろし、お茶を貰って飲みながら母や周囲のお年寄りと暫く談笑した後で職場へ向かうのが私の朝の日課。

一人になった車の中で[♪飛んでけ悲しみ]と[♪弓削神社にて]のオケを鳴らし、大きな声で唄ってみました。今回は何かが違います。声が楽々と出ています。
[♪老い、そして俺達]などはサビの音程が高くてなかなか唄えないんですが、「老いってそんなもんだよ、悲しいけどね・・」、の部分が軽く出るんです。ステロイド効果で明らかに心肺能力が上がっているようです。

痩せてはいるんですが普段の私は肺活量が4800ccくらいあるんです。それが昨年の心筋梗塞、追突事故以来、ずっと調子が上がらずに悩んでいましたが、今回は声が出そうな気がしています。いい事なのか悪い事なのか、これもステロイド効果なんでしょうね。


☆ 2008.7.4,明日の本番を前に1日早い機材搬入&リハーサル

会場の利用状況の都合で当日の音響機材の設営が困難な為、1日早い音響機器の設営に行きました。そして、リハーサルを約90分。1番だけでもと休憩を挟まずに19曲を唄ってみました。息切れもなく声が十分に思うように丁寧に唄えたんです。

音響を担当する上原氏も、「たかっさん、今日はいつもの息が上がる感じと全然違って唄が前面に出ていてうまく聞こえるよ」、と言うんです。


☆2008.7.5。山鹿コンサート当日。

★:さあ、本番。

今回も長崎から紘子姉が来てくれ、コンサート中の母の世話を自宅でしてくれました。母は最後まで、「私も山鹿という所の会場に行くよ」、と言っていましたが、自宅からの往復時間+2時間のコンサートを考慮し、姉と自宅で過ごして貰う事になりました。

会場控室に音響担当の上原氏が奥さんを連れてやって来ました。奥さんが、「あらっ、タカッサン、太りましたよね?、身体がずいぶんと大きくなっている。顔色もいいし」、と言うんです。

この言葉は私を調子つけてくれました。本番を前に、「痩せましたね。顔色も悪いし・」、なんて言われたら一気にテンション下がりますからね。

さあ、これから本番です。開演30分段階で160名の方が入場済と聞きました。会場の垂れ看板の文字が「母に生命を返す時」ではなく、「母に命を返す時」、 となっているのが多少は気になりますが・・。

そう思っている処へ看護師の福住さんのお知り合いの奈良からのお客様が面会に来られ、「今日は期待していますからね」、と心付けを渡されました。

いつものように、舞台に軽く会釈し、般若心経本をモニタースピーカ裏に立て掛けてマイクに向かいました。

今回は世話人役をされた植木町立病院の元・看護師長も福住さんが事前にパワーポイントで詩の資料を作成され、舞台にプロジェクターで投影するという演出もありました。そこで、開演早々に会場の皆様には詩が読めるようにと歌う位置を舞台左へ移動。

2008年で同居6年目の母が95歳になった事。要介護度が4になった事。日常の全てに介助が必要になった事。私の事を一回り上だったイサム兄さんと勘違いしてオジちゃんと呼ぶ瞬間がある事。そして、一番最新の作品の[♪母の童歌]を唄い始めました。


★:[母の童歌]

[♪母の童歌]の詩は自分でもよく書けたなと思います。もう、今の母は来熊時に語っていた話さえなかなか思い出せません。私は必死に当時の母の話を思いだし、姉に嫁に確認しながらこの[♪母の童歌]の詩を書きました。
この作品は母と一緒に代継神社や宇留毛神社に通ううちに母の故郷にある[姫神社]の事を私自身が思い描いた事から詩が浮かび始めたのです。

どこの神社でもそうですが、祠に相当するような穴が敷地の至る所にあります。皆さん、祠の語源をご存知ですか?。文字通りに昔は季節の鳥が住んだり、獣が住んだ穴ぐらだったり、大きな石が転がり抜けた跡だったり、清水の湧出る穴だったりした場所が[祠・ホコラ]の原形なんです。今に見掛ける祠って畳数枚程の屋根つきで立派に作ってあるのが多いようです。

或いは、清水の湧き出る場所などで感謝の意を込め、岩をくり抜いてお花やオニギリなどを供えて祭壇のようにしたものもありますね。あれも祠の基本形です。そして、遠い昔にはそうした場所の前には聖なる場所として近所に住む方々が木やで作った小さな鳥居を飾ったりしたものです。

「この祠の裏の穴から歌が浦の姫神社に行けたらいいね」、と私が言えば、「ああ、行きたいね。母ちゃまにアンタを会わせて自慢したいよ」、と母が言ったのです。私は母のこの一言でそれまでの5年間の暮らしを納得したものでした。

私はこの山鹿コンサートに掛けるものは十分に在りました。この[♪母の童歌]の内容を世間の介護族に聴いて欲しかったのです。こうして、この日は、「♪母がピエロになっていく」、をラスト曲として全16曲を2時間で唄い切りました。お陰さまで会場の皆様には大量のCDを買って頂いて感謝します。
 

☆2008.7.7。

★:東京から甥の横内滋夫婦が結婚の報告に来熊。

前々日の山鹿市でのコンサートに全神経を集中していた事もあって忘れるところでした。結婚の挨拶回りでと甥の横内滋君がお嫁さんを連れて来熊。「お婆ちゃんに会わせたかった」、と。

因みに滋君のお嫁さんは女医さん。二人ともに研究肌タイプだから仲良く切磋琢磨して頑張って生きていって欲しいと思います。
             

★:失語症、そしてその前兆。~母の場合

最近、本当に母の言葉数が減りました。7月5日の山鹿コンサートの会場のトークでも言いましたが、モノの名前、それを形容する言葉を忘れている為、心で感じてもそれを表現できずにいるんです。

花、皿、水、お茶、箸、コップ、車・・等々の日常的に使う言葉は割と大丈夫なんですが、花瓶、取り皿、真水、塩水、急須、ほうじ茶、グラス、電柱、電線、コンセント、ポット、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、炊飯器、クーラー・・、といったモノの名前を忘れているんです。

「ほら、花の入った・・アレ(花瓶)に水を入れてやりなさい」、「あそこの・・アレ(電柱)に留まった黒い・アレ(鳥)はアレ(鳩)ねどっち(カラス)ね」、とこんな感じの喋り方なんです。

実は、この失語というのはお年寄りが老いを強く意識する瞬間なんです。自分が感じる感動や疑問を周囲の誰かに伝えたい、訊ねたいという意識は強くあるのにそれが表現出来ない、という・・。

モノの名前やそれを形容する言葉を思い出せない事より、その時に感じた自分の思いを周囲に伝えられない苦しさ・。そして、そのモノの名前を思い出した時には自分が何を言おうとしたのかを忘れてしまっているんです。

これは母にとってはとても辛い事だと思います。日本語しか喋れない私達が突然に異国の地に放り出されたような感覚ではないでしょうか。身の回りのモノを表現する言葉や自分の感情が表現できないんですからネ。


★:喋りには聴覚が関係するはず。

失礼な言い方ですが聴覚に異常のある方は喋りにも異常があります。母の耳は昔から遠い方だったんですが、ここ最近は特に聞こえが悪くなっているようです。

2003年に我家に来た頃の母は我家のダイナミックな性格の嫁がいい加減に絞めた8mほど離れた台所の水道の蛇口から滴るピチャッ、ピチャッという水滴の音を気にするほどの聴覚をした母でした。そのくらいの聴力はあったのです。

しかし、この失語症が出始めてからの母は夜中にCDを低めに鳴らしても全く気づかないくらいになっています。失語症には聴覚が関係するようですね。

「つやサンはもの静かでニコニコと聞き上手です」、とデイ施設の介護士さん達が言いますが、そうではありません。実際にはお喋りが大好きなんです。聞こえてないから返事ができない。会話にならないだけなんです。

例えば、母と一緒にデイから帰る途中の赤信号で私達が停車していて、「今日は車が多いね。黄色信号でも次から次にドンドンと交差点に入って来るよ・・こいつら」、と私が言いながら右折してくる車を睨みつけている時など、「へーっ、この近くに黄色いうどんを食べさせる所があるのかい」、と言ったりします。

多分、母は私の言葉の「黄色、ドンドン」、という言葉だけを聴きとって「黄色いウドン」の話を作っているんだと思います。

聞こえないから覚えられない。覚えられなくて忘れる一方。忘れる一方だから徐々にもの静かになっていくんですね。


★:母に対して早口と長い話は御法度。お年寄りには簡単、明瞭にゆっくりと耳元で語り掛けよう。

お年寄りには早口で話し掛けるのは酷。それに長い話も駄目。ゆっくりと端的に必要な事だけを語り掛ける気持ちで接したいですね。早口で喋っても結局は、「はあ?」、ですからこっちは2度3度と同じ言葉を喋る事になります。

だから、ゆっくり目に話掛けて1度で理解して貰った方が話し掛ける側の苛つきもないと思うんです。


★:例えば、嫁のケースは最悪。

「うわーっ、お義母さん見てっ。これなんだろ、これなんだろう。お義母さん知っています?。キッレーな色して・・。この花の名前」。まるで英語の文法みたいな嫁の喋り方。

恐らく、母の耳には「わんこソバ粉がモンゴルで作られていた話を知っています?」、くらいにしか聞こえていないはずです。

★:驚くべき母の体内時計。そして、絶対に忘れない料理への本能。

デイ施設に母を迎えに行った私は真っ直ぐに自宅に向かう日が多いのですが、帰宅途中で夕食の食材を買いにスーパーに寄ったり、木材センターへ向かい大好きな木の匂いを嗅いだり、ホームセンターに立寄っては木工道具を買い足したりもします。

だから、帰宅して母をベッドに横にならせるのは平均して15:00~15:40頃。しかし、どんな日であろうが母はピタッと17:00になると居間に向かおうとベッドの上で騒ぎ始めます。

「直裕っ、居るね?。畳む物(洗濯物)はあるね?。コメは研いだね。そろそろ、ご飯でも炊きましょうかね」、と言い始めます。

「ご飯なら電気釜が勝手に炊いてるよ」、と私。「あ?、そうかそうか」。
この会話が365日の17:00前後に必ず交わされる会話です。もう、驚くべき母の体内時計です。
朝もそう・。5:24~40分になるとピタッと目を覚まし、「朝ご飯の仕度でもせにゃ・」、と。


☆2008.7.11。

★:朝の母から学んだ事。ヒトの老いの究極の姿?。

母は本当に飛行機が好き。それだけではありません。母が歌が浦に暮らした幼い頃には沖合に停泊する石炭運搬船を見ている事が多かったようです。

歌が浦の海は遠浅になっていて港からは小さな船が次々と石炭を積んで沖合に待つタンカーに運び、そこから当時の八幡製鉄所に運ばれていたのです。幼い頃の母の姿が目に浮かびます。

それに母は鳥がとても好きなようです。例え親子であっても兄弟であっても一緒に暮らしてみないと気づく事が出来ない事が沢山あったんだと思います。でも、老いていく中で新たに関心を持ち始める事、モノもあるのかも知れませんネ。

現在の母の場合、自然風景とその中で動くものに関心が強い気がします。飛行機、船、飛ぶ鳥、流れる雲、沈む夕陽、揺れる木の葉・・。そんな物を見た時の母は必ず感想を口にします。

今朝の母は車の助手席に座り、車のハンドルの動きに合わせるように右上に左上に首がねじ切れるほどに空を見ていました。

「あっ、あれ飛行機」、「うわっ、鳥。ほら、鳥・・」。
私には珍しくも何ともない光景なのですがお年寄りに共通するあの自然風景への感動は何なのだろうと私はずっと思っていましたが、今朝になってその答えらしいものに気づいたんです。それは簡単な理屈でした。


☆2008.7.13(日曜)。

★:うらた剛氏のコンサートの件で打ち合せ。

母には何の為に出かけるかを説明し、母の世話を嫁に頼み10:00からの益城文化会館での打ち合せに家を出ました。
私の出番は2部の始まる17:11~17:41の30分間が振分けられていました。ここで①:♪母の童歌、②:♪花ミズキ、③:♪籠の鳥、④:♪風に吹かれて、の4曲を唄う事になったのです。

候補曲としては(♪蝉しぐれ、♪命、♪施設にて)、などもあったのですが、限られた時間の中ではギターの持ち替えが少ない曲の組合せがいいだろうという事が曲指定のポイントになったようです。

その他にどの曲でどの色のカラースポット照明を使うか、マイクは何本必要か、ギターの音はラインで引くかマイクで拾うだけでいいか・・、等々。こうした仕事は普段の私自身がやっている仕事なのですが、こんな経験をするのもいい勉強になるもんだと感じました。利用する側の立場に立つ経験なんて滅多にありません。結局、「全てお任せします」、という事でお願いしました。

私とうらた氏の大きな違いは、お年寄りを介護する家族の側を主な対象として、オリジナル作品しか唄わない私に対し、うらた氏は既存の演歌を中心にお年寄りに直接的に唄い掛けるタイプだという事。

だから、うらた氏のレパートリーは凄く広い。美空ひばり、村田英雄、フランク永井、高倉健からオリジナルソングを含めて600曲を越えるという。それを原曲を遥かに凌ぐ歌唱力。何だか、違う世界の人というか芸能人、という感じがします。

また、音楽に対する姿勢の話になるとバリバリのプロの顔つきになり、上手さがあってこそのシンガーだと強調される。彼にはメジャー志向がない分だけに凄い信念を感じます。


★:薫の約束

このうらた氏、実は最近になって「薫の約束」という作品を発表してNHKで全国放送されて話題になった人でもあるんです。

北朝鮮に拉致された松木薫さんの帰国を待つお姉さまの斉藤さんの心情を唄ったこの作品。コンサート当日は斉藤さんも来られ、NHKやTKU、熊日などの多数のメディアも取材に来るようです。既に400名を越すチケットが売れていて当日までには楽に500名は越えるだろうと主催者の一人が言われていました。

打ち合せの途中、「高橋さんが親子の情というものを唄ってくれて、次の出番のうらたの作品が生きて来るんです。期待していますよ」、と言われて胸がどきっとしました。

500名を越えるような人前で唄った事などないのに・。でも、帰りの車中、音楽ホールとしての設備の充実した益城文化会館で500名を前に唄う自分の姿をイメージしてみました。この経験は自分にとっての凄い一歩になるのかも知れないと思います。明日から、筋トレ・だ!。


☆2008.7,14。

★:嫁が転倒して骨折。

14日早朝、嫁が居間で電気の延長コードに足を取られて転倒、左膝の皿を痛めた。検査の結果は骨折でした。

徘徊防止センサーのブザーの音に慌てた嫁が母の部屋へ小走りで駆けつける最中の出来事。「どっちかというと」、などと言わなくても普段からボーっとしたタイプの嫁だから、「何かをする時には必ず眼鏡を掛けて動け。そろそろ、俺達にも何かがある頃だから注意しろ」」、と言っていた矢先でしたが、嫁はその注意さえもボーっとして聞くタイプだからしょうがない。

昨年は私の心筋梗塞と追突事故、そして、「地獄で暮らせ」、と言わんばかりの本業での熊本テルサの契約更改。骨折が治るまでは嫁の出来る事には限度が生じるから日常の私の負担が重くなるようです。

★:嫁へアドバイス~予知力、それは与えられた運命を切り裂き、新しい人生を切開く一本のナイフ。

人は常にある一定の摂理の中で生かされていると私は思っています。身近な例がこの嫁の骨折です。

自然の摂理には二つの要素があります。それは、目の前に見えている現象と目には見えない現象です。換言すると、日々繰り返している普段の日常生活とその中に含まれる予期できない事故要素の存在。

このバランスの中で私達は暮らしているんですが、この2つの要素の獲得は個々で違っています。事故率が少ない日常は平和です。この予知能力があれば世渡りから草野球に至るまで必ず上達します。

繰り返す日常とは、炊事、洗濯、食事・・、等々。一定の計画性があるもの。予期できない事とは、そうした日常の中で突然に鳴る電話、宅配便や予約のない来客、風で飛ばされた洗濯物の回収・、交通事故等々、を指しています。つまり、日常には起きて欲しくない事案です。

予知する能力や判断、予知した行動があればこのような不本意な事故は起き辛くなってきます。つまり、今日は風が強くなりそうだから洗濯物が飛ばない場所に干そう・とか、そうした予想に基づく判断力です。世の文化に毒されたヒトからはそうした本能が消えているんです。

こうした理屈で言えば、苦労をしない人は予知力に優れていて、苦労をする人は予知力で劣っているが為に不本意な出来事が多く生じてくる、同じ失敗を何度でも繰り返す人と言う事が出来るのです。


★:穏やかな暮らしだけではない、周囲への優しさだって予知能力を高める努力があってこそ。

私の幼い頃は親を絶対視せず、親の欠点や弱点を探す子供でした。ヒネクレ坊主だったとは思いません。それこそが思い遣る心の芽生えだったと私は思っています。私の独立心はそこから生まれているんです。

元外交官で英字の新聞を読み、独語さえ喋る親父の凄さを認め、俺だってと思っていた処に韓国や北の友人が一杯できて朝鮮語や英語が何となく分かるようになっていました。

父が経営を任されていた炭坑が買収され、住んだ家を解体される時の親父の涙を見た11歳の私は、「何だ家くらい、ボクが立派な家を建ててみせるさ」、と親父を励まし、約束から1年半遅れとは言え、その16年後。私は親父が75歳で没した半年後に27歳で1軒目の家を建てました。

刀の鞘を作る親父を見て、「俺だって」、と思っているうちにいつの間にか私は木工名人になっていました。

兄貴と私を両腕にぶら下げて見せる親父を見ていて、「俺だって」、と思っていた親父の背中がいつの間にか曲り始めていました。

やがて、老いの進んだ父が「直裕、台風にやられた外壁の高い危険な所だけはお前が板を打付けてくれんか?、長男には危険で頼めない。・ついでに屋根も頼むかな、それに庇にもトタン板を張っといてくれ」、と頼むようになっていました。

一方、あれほどに期待して大事に育てた長男はプロ野球からは見放され、しっかり凡人に成り下がり、気づけばいつの間にか父は私を身近な存在と感じるようになっていたんです。金も物も与えず、好き勝手に生きていけと育てた?私のほうが父にとっては身近で都合のいい子供になっていたようでした。

★:親父の老いが虚しかった。老いを見つめる心の芽生え・・をくれたのは父。

やがて、父は帰省した私に、「直裕、熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と聞いた父が、「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と再び三度と10分置きに繰返すようにようになっていました。こうして、深い悲しみを感じる私になっていくのです。

「この子だけは」、と手塩にかけて育てた兄より先に、「勝手に生きろ」と見捨てられた私のほうが「親の老い」を悲しみ、慈しむ人間になっていたのです。あれ程に憎かった父親が私に流させた悔し涙、そして、己自身を切り刻んだ痛みが知らぬ間に忍耐強い私を作り上げていたようです。

母との思い出も沢山あります。米を炊く釜戸の前で腰に痛みを訴える母の為に7歳くらいだった私は必死になって1回座っただけで壊れてしまう木製椅子を何度も作りました。壊れた椅子を見ているうちに頑丈な椅子を作れるようになっていくのです。

母の帰りの買物かごが重くならないようにと、幼い私はキュウリや茄子を畑で育てては母の喜ぶ顔を見て嬉しくて堪りませんでした。この頃の行動の全てが私の予知行動の始まりだったのです。

私は父が49歳、母が38歳の時の子供ですから、私が幼くして両親の欠点や弱点を知るのは容易な事でした。余りにも早い父と母の老いの深まりが、幼い私にも手にとるように分かるのです。

「あァ、俺は高校を出たら直ぐに家を離れるべきだ」、「確かに親父の言うとおりだ。大学に行きたくなったら自力で行くべきだ」と思いました。幼子の予知力です。

このままだとこうなってしまうし、その為にはこうするか、ああするかの二通りくらいの選択肢しか残っていない・。その為に今の自分が出来る事を更に2通りくらいを考え、普段の生活の中で変えられるものを変えて備えておこう・、という今でも続く私の生活信条はこの頃からのものなんです。


★:佐世保時代、早く家を飛び出したいと思っていた理由。

私が中学から高校と暮らした佐世保の大和町という所は長い坂道の続く町でした。この長い坂道をやがては70歳にもなろうかとする父が白いハンカチを右手に汗を拭き、フラフラとヨロヨロと歩いて登る姿を見たのは私が高校2年も終わりの頃。それは必死に家族を支える明治生まれの律儀で不器用な父親の老い果てた姿でした。

「せめて長男だけは」、と公言しては私の将来を無視するかのような父ではあったのですが、この父の姿を見た時には父に対する私の思いが180度変化していました。親父、老いって辛いよね・と。

このすっかり老いぼれてしまった親父が「せめて長男だけは」、と言う言葉の意味が私には十分に理解できたのです。この時、私の中の父親への恨みみたいなモノの多くが消えました。
「その通りさ、俺の事はいい、せめて兄貴だけは大学をキチンと出て欲しい・・」、私もそう思いました。
19歳で書いた作品の{♪佐世保めもりぃ}の中、私は「子供のままで大人になってしまった」と書いています。


★:そして、米軍基地に入り浸りの私。

「もう、俺の事はいい・、せめて兄貴だけは大学を」、と思う一方。甘やかされ、好き放題に育てられた長男のこの頃の言動に振り回され続ける両親の情けない姿を見ていると、「こんなどうしようもない奴にどうなって欲しいと思っているんだ」、と再び両親への反発が始まります。

高校生の身の癖に老いた両親を親とも思わず、金を無心しては我が母を蹴り飛ばして持ち去り、その日の我が家の夕餉のおかずはトマトだけ・。

女に惑わされては我が家に連れ込み、大阪まで同伴旅行をしてみせたり・。この頃の兄には自慢の野球で野球特待で大学からの勧誘があり、プロからの誘いもあったのか・?。だから、兄の悪行は特待入学後の大学に入ってからも続きます。

父と母が顔を顰めると、「大学など卒業してやらんゾ」、と・・。こいつはどこまで甘えているんだと私は思いました。

長男もそうした私の心理が分かるのでしょうか、目が合う度に私を挑発します。「誰にガンづけしてんだ」、と。勿論、私も、「俺はお前なんか見ちゃおらんさ」、と言い返します。この2年後には私は韓国空手の選手権で西日本大会に推挙されるくらいですからね。私は兄には殺意さえ持っていました。

兎も角、高校2年から大学3年くらいまでの兄はまるでヤクザ者でしたね。佐世保に移り住んだ当初の私達は炭鉱の倒産一家で貧乏でした。そんな暮らしの中、兄は母が内職してまで買って与えた学生服を切り刻んでは器用にミシンを踏んで学ラン風の学生服に作り直すんです。

自分の部屋には二重瞼を作る小道具まで持っていて・。嘘か誠か、良いも悪いもプロから声が掛かったばかりに女の目を引くだけの野球人生を歩こうとするかのようなニヤけきった兄の姿でした。

私が米軍基地に出入りを始めたのはこの頃でした。誰に八つ当たりをする訳ではありませんが、「このクソ野郎っ」、と。

私は兵隊相手の演奏で貰ったギャラを基地内では換金せず、高校でドル札をレート(当時は1ドル=360)以上で売ったり、米国から直送された米国産の煙草を基地内の自動販売機で大量に買って(全ての銘柄が15セント・¥56で買えた)校内で売ったりして学校でも相当に問題視された事もあったりして退学寸前の話になるのです(喜んで買う教師もいたんですが・)。

しかし、「高橋は本当は真面目で文才のある生徒だ」、と国文や英語などの一部の教師達が私を必ず庇ってくれるんです。

この国文の教師は、「私はお前を最後まで庇ってやる。その代わり、今後は卒業まで月に最低7編の詩を俺に提出するんだ。いいか!」、と。

私は約束を守りました。7編どころか、11編、12編と提出しました。修正などはされません。この国文教師は、「お前の詩は凄いぞ、観察力が凄いぞ」、とだけ言ってくれるヒトでした。

「授業が嫌いな奴は俺について来い」、とか言いながら止めようとする教師に詰め寄っては生徒達を連れて近所の山で遊んだりするのですが、不思議にお咎めがないんです。

「高橋はキューバ産の葉巻は手に入るか?、・Nよ、お前は酒持って来いや」、と言う山岳部の
顧問教師が居たんです。「いいか、山で過ごす時だけだ。山の頂上では教師も生徒もないからな」、と。

この佐世保時代の私の話は書けばキリがありませんからこの辺でやめますが、私が家を早く飛び出したかったのは老いた父の姿を見るのが辛かったから。そして、兄の話を親から伝え聞くのが嫌だったから・・。
つまり、老いた両親、次男坊という持って生まれた捻れた人生を自分の力で早く修正したかったのです。


☆2008.7.15。

★:母がオシッコに1時間10分を要する。

深夜の2:00、ベッドが軋む気配で目を覚ましわ私は母の部屋へ。センサー部には幅があって母がセンサー踏まなかった場合には鳴りません。こんな時には母の動く気配を感じなければいけません。

「眠い眠い」、という母をポータブルトイレに座らせますがオシッコが出ません。出ないというより睡魔の方が勝っていてオシッコをしようとしないのです。暫く様子を見るがなかなか出そうとせずウトウトと眠り出す始末・・。

2時半、私は母に尿意を促そうと台所で氷水を作って母に飲ませますが、「美味しい」、と言う一方で眠り始めるんです。。トホホ。そして、3:00。起きてから1時間を経過しますが、母はまだオシッコをしません。

「起きる時に中敷に出ていたからオシッコは出んのよ」、と言って母を一旦ベッドに戻すのですが、ベッドに戻した途端に、「オシッコ・・」、と母。

結局、3時10分過ぎに僅かの排尿をして眠りに就きましたが、今度は私が眠れません。最近はこうした傾向が強いようです。何だか、今朝の私は寝不足で身体全体が浮腫んでいるような気がします。少しだけ怒っています。プリプリ。


☆2008.7.16。

★:うらた剛コンサート~選曲に変更。

うらた剛氏のコンサートのゲストで唄う①:♪母の童歌、②:♪花ミズキ、③:♪籠の鳥、④:♪風に吹かれて、の4曲の中でラストに予定していた[♪風に吹かれて]を[♪施設にて]に変更して貰う事になりました。

介護生活の模様がより伝わりやすい曲をと見直した結果です。4曲唄う中の最後の曲にしては重くはないかな、という気持ちもありましたが、「♪施設にて」の方が日々のリアル感があっていいよ」、と嫁も言っています。

今回の浦田氏のコンサートとの縁は、「ポスターやチケット配りでも手伝える事があれば言って下さい」、と口にした事から始まったんです。「じゃ、ギャラは出ないが出て貰ってもいいかい?」、でした。

浦田氏のミュージックボランテイアは文字通りに手弁当での自主コンサート。
声が掛かればどこにでもワゴン車に音響機材を積んで出発。彼はCDだってプレゼントするんです。熊本~鹿児島を日帰りでコンサートなんか日常的だとか・。勿論、ノンギャラ・・。本業が不動産屋さんですからね。

この出前コンサートを開始した頃には移動用のワゴン車やら楽器に音響機材の購入やら、恐らく数百万の資金が必要だったと思います。それに、彼の場合は作った曲を簡単に録音した後は専門業者に任せますから1つの作品を作り、そのCDオケを持ち歩くだけでも相当な経費が掛かるはずなんです。

プレゼント用のCDの焼き増しだけはご夫婦で頑張ってコピーされるとしても時間だってかなり掛かるはずです。録音機材にしても私のようにデジタルレコーダーを持ってはおられるのですが、そのデジタル何とやらが苦手みたいなんです。これが私との歳の差なんでしょうか?。

私の場合には下手なりに彼よりも弾ける楽器の種類が多いし、録音も自分でする分だけ次々と作品を形にできるんだと思います。

彼は、「俺は高橋君より相当に遅れている」、と言います。そうなんです。ブログの話をしても、「・・ああ」、と。
「アドビ社のフラッシュプレイヤーという奴を張り付けて、それで作った作品をネットで配信すれば数百枚ものサンプルCDを焼いたり郵送する必要もないのに・」、と言えば、「ああ・・ああ・・」、とこんな人です。

私は痩せ型で彼は肥満型。私は用意周到の予知タイプですが追求タイプでは無く、対して彼はとことん追求タイプ。

私は録音時だけは¥数十万のマイクを使っていますがコンサートで使うマイマイクなどは持ってはいません。
対して、彼はコンサートでは数本の高価なマイマイクを使い分ける程に音に関してはすごく神経質です。舞台でも彼は自分で音響機器の調整を行ないながらの熱演です。他人に音質や音量の調整を任せきれないと彼は言います。私の場合、この辺は任せっぱなし。

この浦田剛という人は根っからの音楽好き。人前で唄うのが大好きな人なんです。だから、3度ほどですが母の通うデイ施設で唄って貰うように私や嫁が取り持った事があります。

聴いた事がある人であれば異論はないと思いますが、唄がとてもお上手です。横浜仕込みのロックンロールから演歌、童謡・・、とお年寄りが喜ばれるような楽曲なら何でも唄われ、母などは感激して涙を流して聴き入っていたと嫁が言います。さあ、そんなこんなで7月21日が確実に近づいています。

このブログ記事。今は仕事上がりの職場で書いています。施設に母を迎えに行くには少し早い。今日の夕食は何を作ろうかな・・。

昨日買っていた刺身用の安い羽カツオをたたきにして酢醤油ではなくオイル酢味噌で和えて一品。お袋からようやく認められた高野豆腐とニンジンの別煮込み料理で二品目。

千切りキュウリと乾燥小エビと素麺を使ったサラダに輪切りトマト1個を添えて3品目。それにゴ汁でも作ります。でも、・・痛みかけた山芋をどうしよう。これから職場に置いているアミノ酸のBCAAを飲んで筋トレしよっと。


☆:2008.7,17。

★:飢えた社会に生きる人間達。そこは境界のない動物園の檻の中。

先日、処刑が実行された宮崎勤って憶えています?。女性を10数年もの間監禁していた男の事は憶えていますか? 見知らぬ人を駅の構内から衝動的に線路に突き落とした馬鹿野郎なんて何人も居ますよね。

佐世保の猟銃乱射事件、秋葉原の不特定連続殺人事件・・、まるでTV映画のタイトルのような出来事が日常的に当たり前のように繰返されるようになりました。

全ての事件が、「構って欲しかった」、「分らないだろうと思った」、と答えていますね。構って欲しいから目立つように大衆の面前で殺人事件を起こしてみたかったってか?。そんな理屈は通らない。

自分を構って欲しいのなら、自分の額に[誰か私を構って下さい]と張り紙でもして、交差点の真ん中で自分の腹でも切ってみろと言いたいですね。この世の中、人と人との間が確実に疎遠になっているんですね。だからって許される行為ではない。狂い始めた人間社会が作り出す狂気・です。

最近はカラスが人を襲い始めましたね。弱った生き物にとってカラスって怖いですよ。彼らが戦闘モードに入ったら集団で襲ってきます。私は山に篭もった頃はカラスと目が合うのが怖いくらいでした。本来の彼らは肉が大好きですからね。

ここ最近の事件って、人間同士が食い合っているような気がしませんか?。命の奪い合い、人生の奪い合い・。それも大衆や子供達の面前で起きる事件がとても多い気がします。まるで、子供達が見ている動物園の檻の中で汚い大人達が睨みあっている・。そんな光景が浮かんできます。


★:人は何に飢えているんだ?~神か?、人の心か。

コンクリートジャングルに暮らしていると神の存在など考えなくなります。

暑かろう寒かろうがオートモードでエアコンスイッチを押せば快適な室温にしてくれます。暑いのは嫌だ、寒いのも嫌だ。季節なんて必要ないと考えるようになります。腹が減ればコンビニに走ります。否、ピザの宅配だってあります。

今や、この日本には優しい母親や弟思いの姉の存在も忘れさせる文化が既に蔓延ってしまっています。

戦後64年を過ぎた今、ほぼ60歳代以下の者はそうして環境で育ってしまっているのです。神の存在、自然の怒りなど考える事などないままに生きてきたのです。既に神は様々な現象で私達の前に怒りの姿を見せているというのに・・・。

私の母は長女の紘子が送ってくれた[世界の列車の旅]のビデオが大好きです。それに嫁が与える[季節の花や樹木]を大きな写真で紹介した本を見る事も・・。

こんな時の母はとても穏やかな表情で、「あれはエベレストかい、この花の匂いが漂ってくるようだね」、とまるで自分が本の中に入り込んだかのような反応を示します。

こんな時、神が母のソバに来ているのが私には分ります。母が生まれ育った時代にはそのような光景が日本中に溢れていたのです。神々が日本中に溢れていました。若い頃の私が山中深くに住まいを求めた理由もそうでした。

嫁が今でも古き神社仏閣を訪ね回る理由もそうかも知れません。また、貴方の隣の家の金ピカブレスレットおばさんが南の島ツアーに毎年出掛ける理由だって同じかも知れません。

現在の日本から姿を隠しつつある神の存在を探して、何かを得ようと出掛けているかも知れないのです。

或いは、そうした衝動を神が与えて呼び寄せているのかも知れないのです。選ばれた者とはそうした人達を指すのだろうと思います。

「構って欲しかったから人を殺そうと思った」、「汚職だとは思ったが、組織ぐるみであれば一連託生だ。代々、皆でやってきた事だから。前例に従うとはそうした事だ」、程度にしか理解できない連中のそばには神などは存在しません。

季節がなくなる、心が消えていく、とはそうした事ではないかと思います。暑いと思えば阿蘇の山中に湧出る冷たい清水を思い、腹が減ったと感じれば故郷の母や弟思いの姉の手料理を思う・・、そんな人類が確実に減っている気がします。


★:汚職。

国土交通省の現役局長が絡む官制談合事件・。決して大分県だけの話ではないはずの教育委員会ぐるみでの不正な教員採用・人事、校長・教頭採用試験・。特に、この大分県の事件なんて運が悪いとしか言いようがありません。どこの県でも昔から聞かれた話です。

銀行員を父に持つ子は銀行員に、タバコ専売公社職員を父に、消防署員を、警察官を、自衛隊員を、県庁職員を、市役所職員を父に持つ子は、多くが覚えがあるはずです。

昔から縁故採用、実質的な無試験採用が行われる職業だと言われ続けていた職種のはず。つまり、受験はしても常に採点者側で加点の操作がされてきたんです。保守的な考えを持つ我が国民性丸出しの採用なんです。「おう、君が私の元上司の息子さんか・、宜しくな」、みたいなものです。

特に銀行員などの場合、顧客に対する信用問題がありますから何となく理解できる職種ではありますよね。


★:大分県の事件だって・・

時代を更に遡って調査をすれば、机の向こうに座る調査担当者だって嫌疑が掛かっても不思議ではありません。そう思っている人は多いはず。縁故採用って、昔の方が現在よりも激しかったんです。

熊本県の職員採用だって同じシステムが現存しています。過去から、[知事枠]、[副知事枠]、[部長枠]・、などと言われる採用枠が割り与えられてきたのは誰もが知っている事です。


★:年金問題にしても・・

この熊本県の例を思い出せば、「戦後のある時期から県庁全職員の共済年金の掛け金を熊本県が別予算を設けて負担していた。皆さん、この事件を憶えていますか?。

この不正の中で既に退職した人達は納める事のなかった保険料なんですが、今では年金を受給し続けて悠々自適の暮らしをしている訳です。この事実が発覚した後の結末は公表されていないようです。が、決して忘れてはいけない事件なんです。

この日本という島国にはそうした慣習が至る所に残っています。特定郵便局があった頃は必ず息子が局長を継いでいたし、警察官の子供はどんなに体格が劣っていても警察官になれる確率が高かった。だから、途中で辞める子供も沢山居ました。

県庁マンなどは採用試験の結果に関係なく今でも6割は縁故採用だと聞きます。「あいつは誰の後押し、私の場合には当時の誰々の口利きでした」、と知り合いの現役県庁マンが言うんですからね。

総合案内にいるオレンジガール。あのアルバイトをするにもコネが必要。某建設会社の娘だったり・、何らかで県職員と繋がっている必要があります。

昨今の事件がそうした縁故関係を証明しているんだからこの記事を否定する事は出来ません。必ず、そうなる原因があるんです。個々の能力より、それまでの信用の継続が必要だとする判断があるんでしょうね。これは我が国の文化かもしれません。

事件ではありませんが、政治の世界なんて養子縁組をさせてでも議席を確保しようと策を練ります。根本を断たない限り、文化を絶たない限りはを今後もこのような事は続発します。

その不正を不正の一番の温床の警察が取り調べる事も何か変ですね。警察ほど古い体質を維持している組織はないからです。これは日本の文化の体質なんですね。

動物園には種類によって境界が設けられていますが、人間社会ってまるで境界(モラル)のない動物園だと思いませんか。一番、野蛮で危険な世界です。


☆2008.7.18。

★:うらた剛氏のコンサートは3日後~スイカ、ラーメンの話でも・。

浦田剛氏のミュージックボランテイア300回達成記念、というのが正式呼称。実際には350回を越えるという。

この浦田氏は元プロミュージッシャンの不動産屋さんですが、景気はよくないはずです。何で食ってんだろうと思いますが年金があるのかな?。

因みに私の今年のスイカの初食いはこの浦田さんの家でした。5月でしたか、浦田さんに呼ばれて彼の家へ行った際、「暑かったろう」、「そうですね。こんな日に食べるスイカは美味いでしょうね」、と言っている最中に奥さんが、「ただ今帰りました」、とスイカをぶら下げて玄関に立っておられたんです。。

先日、7月13日にこのコンサートの打ち合せが終って、「帰りに豚骨こってりのラーメンでも食って帰りましょ」、と思ったその瞬間、コンサート当日の司会進行を担当される高田さんが、「浦っさん、タカハッサン。ラーメンでも食って帰りましょうよ」、と・。このタイムリーな現象って何なんでしょうネ。

ついでに書くと、我家の買物だってそうなんです。

「あー、あれとあれを取合わせてあれを作って食いたいな」、と思っている通りの材料をパチンと嫁が買って帰るんです。だから、嫁と私が同じ食材を買って帰るなど茶飯事です。



☆2008.7.19。

★:「膝が痛い・・」、久し振りに母の膝痛が出る。「母ちゃん、午後には長崎から紘子がくるよ」。

「さあ、お母さん。学校(デイ)に出掛けますよ」、と嫁。
「でも・、芸子さん。私しゃここが痛いとよ」、と母が・。

母が膝が痛いと言うのは2年半振り。梅雨が戻ったかのようなこの2、3日の雨と雨上がりの高湿度が母の関節に痛みを呼び戻したようです。

私の放置したままの腰椎分離骨折の個所にも多少の痛みがあります。今朝は経皮鎮痛消炎剤のボルタレン・ゲルを母の膝に塗布して家を出ましたが、暫く様子を見た後に鍼を打ってみようと思っています。鍼を打てば4日は収まるんです。

デイに行くいつもの北バイパスで、「あの何きゃ?(長崎の鹿町弁)、ほら」、と言う母。
母の指さす方に立っている鉄塔。「どのくらい(の高さが)あっときゃ?」、と母。

「高さの事ね」、と私。
「かかさって何ね」、と母。

「かかさちゃ言うとらんよ、たかささ、塔の高さ聞いとるんだろ?」、と私。
「は?・、あんたは私に何の話をしたいのかが分からん」、と母。

もう、母は自分の最初の質問の内容をすっかり忘れています。愉快ですね。

そうかと思えば、「いち、にー、さん、しっ」、と数を数え始めます。
「何を数えとっとね」、と私。

母はこの季節、春から梅雨を経て夏を迎える頃の熊本の緑が大好きです。北バイパスの左右に植えられた赤芝や桜の木、花ミズキなどの数を数えながらデイ施設に向かうんです。最初のうちは相当の数まで数えていましたが、最近の母は10までが限度。悲しい事です。

「何本あったね」、と私が聞くと10本以上は、18本あっても母は「10本」、とだけ答えます。こんな時に母の老いを感じます。

こんな会話をしながらデイに向かううち、最近の私はその時々の母がどの時代に居るのかが何となく分るようになりました。

「午後からは紘子が来るよ」、と私。
「紘子?・平戸から帰って来るとね」、と母。

紘子がおるのは長崎さ」、と私が言えば母は、「・・・」、と暫しの沈黙。
そして、「あのね、私の子供は何人ね」、と・母。


☆2008.7.20。

★:さあ、明日はうらた剛氏のゲストで30分のミニミニコンサート。

さあ、いよいよです。医療や介護関連の集まりの中で唄うという限られた条件下で開催された過去の私のコンサートですが、今回はいつもとは違う緊張感があって、それがピークに達しています。

ただ、過去にも熊本のパラダイスガラージュや別府市の大塚博堂記念館で一般客を対象に唄いました。その印象で言えば介護問題は専門職を対象とするのもいいのですが、介護家族や一般客を対象とした場合には日常の切実さがより深く伝わるような気がしないでもありません。

例えば、[♪DOLL]みたいな曲は介護現場で働く方々には容易に受容れられ、[♪潮騒の町]、[♪金木犀]のような曲は介護家族や一般客に受ける傾向にあります。[♪ホッホ]などは介護家族は泣きながら聴いてくれます。

さて、北朝鮮による拉致問題を扱ったうらた剛氏の[♪薫の約束]ですが、拉致されている松木薫さんのお姉さんが来場されるとか・・。

司会者の高田氏が私のコメントを求める場面を作るという連絡を頂きましたが、どのように対処したらいいものか考え込んでしまいます。拉致問題では私はうらた氏とは異なった意見を持っているからです。


☆:2008.7.21。

★:コンサートは最高に頑張りました。
  
出来自体はリハーサルの時の方が良かったかも・。本番ではハウリングがあったり、唄っている声がオケより大きくてコロバシ(音声モニタースピーカー)の音がよく聞こえなくて大変な舞台になりました。

でも、私は本番に強いというか、今回は浦田さんという大先輩に負けてはいけないという気持ちが心のどこかにあったのだと思います。私の場合はソロコンサートよりも競わせて貰うような立場を作って貰った方がいい結果が出るような気がしました。個性の違い、テーマの違いを考える機会になりました。

向井さん、福住さん始め、普段から応援してくれる方々の笑顔を念じて舞台へ向かいました。北朝鮮による松木薫さん拉致問題は私の追い求めるテーマではない為、私に対する[♪薫の約束]という作品に対するコメントは求めないで、という事を司会進行役の高田氏へは事前に了承して貰いました。

熊本の介護協会?の副会長という方が出番の終わった私の元へ近づきながら涙をポトポトと床まで溢され、「介護生活そのものの貴方の詩に深く感動しました」、と言われました・。本当に涙をボトボトと床に溢されていました。

私のコンサートでは必ずPAを担当してくれる上原氏に嫁、長崎から来ていた姉が車椅子で母を連れてきていて、皆で末席で聴いてくれました。

姉の感想を言えば、[♪母の童歌]は認知症の家族や親族が居ない観客にとっては、何を言いたい詩なのかがさっぱり分からなかったんじゃないか、と批評していました。確かにその通りでしょうね。でも、今は親の介護環境にない者達に対してもそれなりに与えられるインパクトってあった筈だと思います。

兎も角、うらた剛氏のコンサートに少しでも役に立ったのかしらと思っています。さあ、これでここ暫く休んでいた作品作りにようやく移行できます。



☆2008.7.22。

★:汗だくでお袋の入浴介助。「どう、少しは勉強になったね」、だと。

この処、1年近くは母の入浴介助に復帰していた嫁が前述のように左足を骨折した為、私が母の入浴介助に再び復帰。風呂を改装していて良かったと本当に感じます。使い勝手がグンとよくなりました。

でも、今日の熊本市は35.0度の猛暑だから大変。石鹸まみれになると滑って危険だから入浴介助というのは最も危ない介助作業の一つでしょうね。もう、汗だくで頑張りました。

母は、「どう、少しは勉強になったね」、だと・。いつもしている事じゃないかと言いかけましたがグッと我慢。

処で、母の頭を洗髪していて思うのですが、何だか髪の毛が黒くなっているような気がします。私が最近始めた頭部へのマッサージと無関係ではないような気がします。

薄くなった自分の頭にもしてみようかな?。でも、真実は別です。母が飲む血圧降下剤の副作用では毛髪の黒色化があるんですって。「降圧剤を飲み始めたら髪が黒くなる」って皆さんが言われますね。



☆2008.7.23。

★:夢について。

嫁は、「貴方のCDにメジャーが注目してくれたらいいね」、と言います。これは嫁の夢です。一方、私はどこかの県の国定公園の山小屋の管理人を委託されて登山客に食事を出したり、自然を相手に畑を作ったりして暮らしたい、というのが夢です。これは今朝の夫婦の会話。

だから、妥協案としては、メジャーに誘われCDが出せ、全国のコンサートツアーを半年、山小屋の管理人を半年できる生活が私達夫婦の夢でしょうか。ホホ。木工や電工が好きだからどこかの介護施設の用務員(営繕係)にも興味があります。

さて、その夢なんですが、夢って10人が10人全員が実現できそうな事は夢じゃありません。どんなに努力しても100人中99人が実現できないものが夢だと思っています。

次のような事も言えます。
ある看護婦さんは本当は保母さんになるのが夢だったとします。一方、ある保母さんは実は看護婦になるのが夢だったとします。

お互いが、「そんな事くらい今からでも実現できるじゃないか」、と思いますよね。確かに2~3年間頑張れば実現できる可能性が誰にでも100%の確率でありますね。だから、この段階では夢ではなくて日常への不満、或いは今の職業や生活に対する愚痴に過ぎず、熱意も冷めがちですから大して出世も望めません。人生はそうは簡単には歩けないんです。

例え今の職業を捨てて、夜学に通ってでも別な資格を得ようとしても日々の暮らしはどうするんですか?。既に結婚していて子供が2人もいたらどうしますか?。独身だったら尚更です。貴方を誰が支えるんですか。

結局、親の存在があって今の自分があるんです。自分だけではどうしようもないからこそ普段のヒトとの関わりが大切になってきます。

夢って目の前をフワフワと近づいたり遠のいたりしていて、掴もうとしてもなかなか掴めないものではないかと思います。


★:我家の猫は人の世話焼き。

「もう、貴方達はいつまで起きてるの!早く寝なさい、まったくっ」、と我家の猫(チッチ)さんは大変な世話好きです。

「ご飯が炊けたよ。風呂の水が満タンになったよ。湧いてるよ。奥さんが帰ってきたから皆で玄関に並びましょ、」と何かを感じる度に私をつつきます。どこの家庭の猫さんも同じなんですか?。

嫁が外出した時などは、「うふっ、漸く二人きりになれるわね」、と私に言寄ってきて気持ちが悪くなる事もあります。

私のCDを鳴らしていると、プレイヤーの前に座ってじっと聴いてくれます。よく観察していると我家のチッチさんは、[♪:頑張れ!お袋]が鳴り始めると、「ちゅっちゅっ、ちゅるっちゅっ」、と唄うリズムに合わせてシッポを左右に振ります。

猫って機嫌が悪い時にもシッポを振るし、子猫をあやす時にも振りますから、もしかすると[♪:頑張れ!お袋]は耳障りなのかも知れません。それとも私をあやしているのかな・・。



☆2008.7.24。

★:早朝、我が家の[魔の空白の時間]にお袋が転倒。

朝6:20頃、お袋の部屋で「ぎゃっ」、と言う声がしました。「また、やったか」。

部屋に駆付けると母が部屋の中の水洗トイレの中で窮屈そうに倒れ、右手の静脈が切れて血がボタボタと床に垂れ、傷は手首から肘の方にかけて15Cmの長さにも達し、皮膚が破れて肉が露出しています。

私は咄嗟に両手で母の傷の部分を強く握って止血処理をし、その出血自体は問題なかったのですが起こそうとする嫁を制して、「そのままにしとけ」、と言ったものだから、「何だと」、と母が私を睨みつけます。

頭を打っている場合、うかつに起こすと吐いたりする可能性がある為、「動かすな」、という意味で使った言葉でしたが母には別な意味に聞こえたんだと思います。つまり、「放っておけと」、と・。

これ程に依存心があるのに、何故に普段の母は私達夫婦の注意を守らないのだろう、と思います。

今回の転倒も、「朝ご飯の支度をしますからベッドで待っていてね」、という嫁の言葉を聞く気がない耳で聞いていた上での勝手に歩き出しての転倒でした。母は嫁の言葉の多くを無視します。「この小娘が・」、みたいな表情ですね。まぁ、日頃の嫁の言動も無関係ではありませんが・。

私を睨みつけるほどだから気力の減退もなく、倒れた姿勢や位置から推測して頭は打っていないと判断。問題は足首や股関節を痛めていないかでした。

兎も角、トイレの中とは言え静かに横にならせ、5分くらいして上半身を起こしてトイレのドアを背もたれにして気付けにと冷たい水を飲ませて30分程度その姿勢で様子を見ました。

脈もしっかりしていて、吐き気もないのを確認して頭を高くする姿勢で床に直に布団をひき寝かせました。床に寝かせないと、ベッドだと母は再び歩き出そうとするかの予感があったからです。


★:その、魔の空白時間。

我家では夜中のトイレの世話は私の仕事。嫁は6:00には起きて朝食の準備とデイに出掛けるまでの母の世話と決めています。

低血圧の嫁は(そんあに低くないのですが・)一度眠ると夜間に起きるのが辛いんです。それに、朝にも弱く、レスポンスが弱くて暫くボーッとしているんです。だから、朝は朝食を作るのが精一杯。

ただ、夜間のトイレの世話は何回だろうが大だろうが小だろうが私がして、朝の世話は嫁がすると決めてはいても母はそんな事とは関係なく5:30分前後には必ず目を覚まして何かをしようとします。

目を覚ました母は床を這ってでも台所まで行ってご飯を炊こうとしたり、無い歯を磨き、顔を洗ってお化粧をしようとします。

だから、私は母のトイレの世話以外にもう1回余分に起きる事になります。それは、目を覚ました母に、「朝飯は7:00からだからもう少しゆっくりと横になっていてくれ。部屋で動き回られると隣の部屋で寝ている俺が目を覚ましてしまうじゃないか」、と母に頼むのです。

その一方で6:00になるのを待ち、6:00になったら携帯電話を手にして2階に寝ている嫁を起こしては「母が起きたぞ。後は頼むぞ」、と電話連絡をするんです。

私から連絡を受けた嫁は6:00に起きて母の部屋に向かって顔を洗わせ、入歯を填めさせ着替えをさせてから食事の準備に掛かります。でも、これが母の隣室の私には結構うるさくて眠れません。

こうして改めて私が起きるのは6:30~7:00です。だから、5:30~6:30が我家の[魔の時間帯]。この日、母が転倒したのは、この[魔の空白時間帯]でした。


★:処が、この日、嫁は6:00に起きましたが、

いつものように母の部屋に向かわずに台所に直行してしまったのです。これが転倒事故の第一原因。そして、母にもいつもとは違う事情がありました。

朝から珍しく便意があったのです。これが第2原因でした。母は排便をベッドそばのPトイレにしようとは思わずに母の部屋に作った水洗トイレを使おうとしたのです。

母はベッドから苦労して起き上がり、ヨロメク足でトイレまで辿り着き、排便を済ませて居間へ向かおうとしたみたいでした。センサーマットはずれていて鳴りませんでした。

「何で歩こうとしたんだ。いつもそれが原因じゃないか」、と私。
「何だってっ?。歩ける者が歩いてどこが悪い」、と強気な母。
「歩けんから倒れるんでしょうよ!」、と私。

もう、母は2005年暮れから2006年3月4日迄の骨折で西日本病院に入院していた事。その退院後にリハビリの為に鶴翔苑にロングステイしていた事なども完全に忘れています。

私の厳しい言葉の連発に、「イサムさんは優しい人だと思っとったのに・」、と母が呟きました。
「俺はイサムさんじゃねえゾ」。



☆2008.7.28。

★:母の足腰の各部に痛みが出始める。

嫁の左足骨折も確実に良くなっているようですが、母の世話に家事にと、ビッコを曳きながらよく頑張っていると思います。

皆様は私の事を、「あのような優しい詩が書けるのは観察力があるからだ」、と言われます。でも、その観察力が裏目に出る事もあるんです。

観察力があるが為に口が悪い瞬間があるんです。そして、その犠牲者が嫁なんです。ついつい、言わなくてもいい事まで私は言ってしまっては嫁を傷つけてしまうんですが、素直に冷静に聞いてくれさえすれば、結構、参考になるはずの事を伝えているつもりなんですが・・。

嫁の欠点を言えば、時に介護のプロを鼻に掛ける事です。でも、介護にはプロ、アマはありませんからね。理由は受けた研修が全て正しいとは言えないからです。

本能です。本能に基づく瞬間的な判断や行動がどれだけその場で要求された事に適合しているかなんです。2007年に私が心筋梗塞に倒れた際、嫁は心臓マッサージさえ思い浮かばなかったと言います。

さて、24日の転倒の影響で昨日27日から母の身体の各部に痛みが出始めました。転倒の翌日にはデイ施設でも眠っている瞬間があったとか、検査で問題がなくても転倒で頭部が揺れると疲れが出る事をご存知ですか?。脳が揺れると凄い疲労感が出るって知っています?。

私は野球などで盗塁を試みて野手の激しいタッチを頭部に受けた日など、とても疲れる事を経験として知っています。

気圧の変化でも疲労感が生じます。旅客機などでは気圧調整がしてあるから問題はありませんが、スカイダイビングなどで高所から飛び降りて地上に着地するまでの気圧の変化に耐えた後は凄い疲労感を感じるとダイバーから聞いた事があります。。あれは気圧の変化が脳を疲労させているんです。

鶴翔苑に着くとトイレに行って母のスラックスを降ろして、液状のインドメタシン系の痛み止めを腰や股関節から大腿骨に繋がる一帯に塗布したら、母の痛みがスーッと引いていきました。でも、この薬は塗り過ぎると食欲が落ちたり胃が痛んだりする副作用があるから塗りすぎには要注意です。


★:嫁が、「貴方は草野球が生甲斐ではなかったのか・」、と。

辛抱は辛いですね。私は夏の暑さが大好きです。この猛暑続きの夏には猛烈に野球の事を考えます。この数年は野球とは絶縁状態とは言え、事情を知らないチームからは試合の申し込みがあったり、事情を知っているチームの監督さん達からでも助っ人依頼の電話がしょっちゅうです。この野球の事を考え出すと胸が苦しくなります。

一昨日、嫁が、「野球・、また始めなさいよ」、と言いました。

もう、監督として一つのチームを持つ事は経済的にも不可能ですが40~58歳までが参加できるシニアクラブには戻る事ができます。ただ、所属したチームに戻れる保証はありません。

同年齢の会員の中では群を抜いて私の肩が強い為、遊撃手と捕手の兼任で5番を務めていた私が姿を消して以来、チーム内の数人からは逆恨みを買っているとも聞いていますからどうなんでしょうか。

いっその事、別なシニアチームを探そうかとも思いますが試合で元の仲間と戦うは嫌だし、迷っています。せめて、草野球生活に戻れたら月に1回でもと思いますが、レギュラーとれるのは間違いない事だから月に一回程度の少ない参加率だと迷惑を掛けるし、と考え込みます。

母は在宅でも車椅子生活になってしまいましたから、日曜日の6:00~10:00という早朝野球への復帰は不可能でもない気はするんですが・・。とは言え、母は車椅子は勿論、座面の低い座椅子からでも突然に立つ事があるから我が身はグラウンドにあっても母が気になって野球どころではないはず。


☆2008.7.29。

★:午前、久し振りに喫茶ブリランテへ。

熊本市の健軍電停から益城に向かう所に桜木という町があります。自衛隊OBと言われる石橋さんご夫婦が自宅のそばで経営される喫茶・ブリランテはアマチュア写真家、CGアーティスト、路上パフォーマーなど多岐に渡る人達が集まる喫茶店で有名な場所で、マスコミ関係者も結構来店するようです。

私の場合は約2年前にNHKのデイレクターに連れて行かれたのが通い始めの切っ掛けになりました。しかし、昨年はここの69歳になられるご主人が重度のヘルペスの為に入院されたりしていた時期もあって、それ以来、すっかりご無沙汰になっていました。

仕事の振り分け上、今朝は午前中の勤務がなくなった事もあって、母をデイで降ろした足でそのままこの喫茶ブリランテに向かいました。

石橋さん、暑い中で麦わら帽子をかぶり、タオルを首に無心に草むしりをされていましたね。目に非常に力があるという表現がピッタリの石橋さんは69歳とは言え骨太で筋骨逞しい方です。

小柄な方ですが、恐らく腕相撲しても勝てないような気がします。「骨太なのは百姓出身だからね」、と言われますが、武士のような雰囲気を漂わせている方です。

この喫茶ブリランテの営業時間は正午からの為、店には入らずに立ち話のままでご無沙汰していた無礼を詫び、母の近況をお伝えして35曲入りの短縮版CDを差し上げてお別れし、職場へ向かいました。


★:CD制作、そして販売、コンサートの事。応援して頂く方々の事。今後の方向など。

2008年5月に♪:[風に吹かれて]、♪:[母の童歌]を書きました。この2008年は既に7作品を書き、快調に飛ばしているようですが、今後の作品作りはペースが落ちるのかなっていう気がしています。

仕事の事、母の事、コンサートの事やらいろいろと考える事が増えてきているのは事実です。私の中では明確に優先順位はあるのですが、例えば、CD制作にしてもコンサート活動にしてもそれぞれに周囲の応援してくれる方々が純粋な気持ちで本気を出してこられているような気がしているんです。

私は体制作りさえできればコンサートもドンドンしたいと思うし、先が見えなくなった本業よりも収入になるような気がしないではありません。

先日ですが、某配信サイトから、「無料配信とは言え、この半年間のダウンロード数は数十万回を記録していて、普通だと数字が増えるペースが落ち始める時期なのに、逆にピッチが上がっている。

これは「全国の介護家庭に確実に浸透し始めた証拠だ」と言われ、仮に1曲を有料で¥100くらいにセットし、手取りを¥60くらいとします。有料にしたが為にダウンロード数が30%程度に落ちたとしても月に¥○○くらいになり、これにCDの現物販売を加えると・」、という試算が連絡されました。

その数字は私の今の月収入の3倍くらいだったんです。私にも多少の欲がないとは言えませんが、音楽を作る事が身近なだけにそうした発想をする機会がないものだから驚いています。



☆:2008.7.30。

★:作品の数々を振返れば様々な状況を思い出す

思い起こせば、2006年には1年間で13曲を作っています。やはり、母が骨折して入院した事で日常が多忙になり、多忙になるが故に考える事が多くなり書く詩も増え、更に退院後にはリハビリ施設への入所もあり、結果的に詩の作風に変化が生じました。

詩が変われば旋律にも影響があって多くの曲を作る事になったのだと思っています。母が転倒骨折で西日本病院入院したのが2005年12月2日。その退院後の母が鶴翔苑へリハビリ入所したのが4月。リハビリから退所したのが2006年7月。いろいろな事があり、いろいろと思う事が多くありました。

あの日、2005年の12月2日。
例え杖の助けを借りろうが母はこの日を最後に2度と自分の足で歩く事ができなくなったのです。2006年7月のリハビリ退所後の母の姿を見た時、「もう、母との楽しい出来事ばかりを書く事はできない」、と思いました。そして、2006年8月10日の私達は母が育った北松浦郡の歌が浦を訪ねました。

その歌が浦から戻った8月の後半の2週間で[♪潮騒の町、♪老いを嘆かないで、♪DOLL、♪水無月の頃、♪ふる里へ帰ろう]、という5曲を作りました。何と3日で1作品を書くというピッチでした。

実は、私の作風が劇的に変わったのはこの2006年の8月からなんです。2006年に作った13曲は私の失望の日々が書かせたんだと思います。

ただ、学生時代などは一ヶ月で15曲、年に130曲は平気で書いていました。そして、次から次へと忘れてしまうんです。譜面にも丁寧に書くのですが、その譜面をどこに置いたかを忘れてしまうという・・。

私の物忘れ、歌詞忘れは今に始まった事ではなく、昔から徹底していたようです。凄く神経質に見られるんですが、私には妙に無責任でおっとりしたところがあるんです。


★:よく言われる事。CDに収録する作品数の問題。その他。

CD:1は13曲、CD:2には14曲を収録しています。「尚宏、1枚のCDにしては曲が多過ぎる」、と長崎の姉は言い続けていました。多忙な現代の人間に聴かせるには多過ぎると・。

最初の頃はCD化などする気もなく、ただただ友人や知人、野球仲間などに配っていたんです。それは母との同居を始めた事で付合いが薄くなってしまった事に対する言訳でもあったのですが、どうせ言訳するなら1枚のCDにぎゅうぎゅうと沢山の作品を詰め込んでいた方が言い訳になりやすいと判断していたからです。

その流れがあってCD:2を作り始めました。このCD:2を作り出した頃の母は骨折入院とリハビリ入所で約7ヶ月間を費やしました。

そして、母の心のメンテナンスにと母の故郷を訪ねたりして、母も含めて私達の2005年末から2006年末の間の暮らしは騒々しいものでした。だから、CD:2に対する私の思い入れはとても強いものがありました。

母の苦難、私の涙の全てを書いてやろうと思いました。ついつい作り過ぎ、結果はCD:1を上回る14曲もの作品に・。

1枚目のCD:1に13曲を入れていたが為、CD:2にもそれなりの数の作品を入れなければいけないというトラウマ的なものに陥っていました。

だから、例えば作品的にはイントロや間奏に8小節欲しいのに4小節で済ませてみたり、1番の後に間奏を使いたいのに使わずに2番を唄い出さないといけないような作り方になった作品が幾つかあります。

イントロだって立派な作品です。私は一つの作品を書く時にはイントロや間奏に対しては凄い比重を置きます。路上パフォーマーやTVでもよく見かけますが、イントロ(前奏を)弾かずにジャンジャカジャンとコードストロークだけで唄に入りますね。あれは作品としては未完成であって音楽ではありません。

話を戻せば、既に、昨年から幾つかのサイトからの打診があって提案されている事ではありますが、
今後にインターネットでのダウンロード配信やCD販売があるとすれば、1枚のCDアルバムは8~9曲入り程度になり、CD:1、CD:2、CD:3、CD:4のようになるのではないかと思っています。

勿論、ワンコーラスだけの現在のネット無料配信は継続し、CDによる短縮試聴版の無料配布も継続します。今後もいろんなアドバイスを頂きたいと思います。



☆:2008年8月1日。

★:学生時代の仲間に指摘される[♪ピエロ]、[♪人間不信のサンバ]、[♪君よ星になれ]、等について。

学生時代に作った作品についていろんな書込みを頂きます。♪:[ピエロ]は正確には♪:[私はピエロ]ですが、恥ずかしい話ですが完全には憶えていません。

この♪:[私はピエロ]を含め、♪:[君よ星になれ]、♪:[ブラックローズはあるだろうか]・・。その他にも当時にレコード化のお話があった作品が数十曲。

断った末に詩だけ、曲だけの提供を提案されたのが数十曲あった記憶はありますが、今の私の手元にはその残骸さえ残っていません。

また、数人の方から、「母に生命を返す時」という介護生活模様を語る作品作りとは一線を引いた、私本来の作風を全面に出したロック系やバラッド系の作品を発表したらどうだ」、という声があるのですが・、どうなんでしょう。

嫁も、「どうせなら貴方の全てを見せて聴かせて頂戴」、と以前から催促していて、私自身も考えた時期はありましたが、この10ヶ月間は母の夜間のトイレタイムのお世話で睡眠不足だし・、かと言って野球もしたいし、考え込みます。

恐らく、作るとしたら発表する際には高橋直裕という本名は使わないと思うのです。


★:当たり前の話ですが・。スランプって自分自身で勝手に作り出すもの。

若い頃の作品作りってテンポが速く、年齢を重ねていくと遅くなります。例えば、詩が書けなくなったプロの作詞家の中には、「スランプだ、俺にはもう詩なんて書けない」、と格好つける人がいると聞きます。こんな考えをする人は既にプロではないんです。但し、私に言わせれば、作詞家はプロである必要なんてないとさえ思っています。

若い頃には経験も観察力も分析力も薄く、それだから素直な詩が書けるです。喜びを喜びのままに表現できます。やがて、悩みが襲いますが、今度はその悩みを素直に書けるんです。若い、経験がない、という事は武器にもなっているんです。

処が、歳を重ねて人生経験を積んでくると、今の自分の感動や驚きを詩に書こうとすると、「そうじゃないだろう」、と思う自分が感動をしている自分を否定するんです。

何かに対する感動を書き始めた途端、詩を書く一方でその感動を分析するものだから素直な表現ができなくなり、「あー、馬鹿らしい」、とペンが進まなくなってしまうんです。

何かをしようとすると結果が見えるんですね。感動する自分自身をことごとく分析してしまう自分自身が全ての可能性を否定するんです。対象や環境が変わればやって見ないと、書いてみないと分らないものなのに・。



☆:2008年8月3日

★:最近の凶悪変質事件の共通性。

最近は嫌な事件ばかりが起きます。哀れみようのない事件と言うか変質的な事件ばかりです。「誰かに構って欲しかった、目立てばそれで良かった、親に仕返しをしょうと思った」、だと?。気合い入れてやりたくなります。

私がJAGUARSという社会人チームと高校・大学生で構成された野武士という2つの草野球チームを持っていた頃の話をします。

よく私はノックの際には打球を回転させたバウンドボールを打っていました。何故、練習のノックくらいでそんなに捕球の難しい回転ボールを打つかと言うと、私なりの理由があったんです。

試合でよくあるボテボテのボールはバットがボールの芯からずれて当って回転しているケースが多く、内野手の直前で大きく跳ねたりしてイレギュラーバウンドするんです。

だから、守備力のしっかりしたチーム通しの戦いって、一つのイレギュラーバウンドで勝敗が決する事が多いもんです。そうした根拠があって私のチームの練習日には私の行なうノックを受けたくて他のチームの選手までが参加するという評判を買っていたほどです。

処が、この私のノックで突指をした選手がいました。当の本人は、「オッス、大丈夫です」、と言って帰るのですが、この突指は3時間くらいすると大きく腫上がるんです。

「おい、JAGUARSの監督か?。よくも息子に突指をさせてくれたな」、と絡む馬鹿な親が結構いるんです。これって完全な馬鹿親です。多分、この親はまだ40代。そして、私の事を自分と同年代だと思っているようです。

「考え違いをするな。私が突指をさせたんじゃなく、あんたの息子が突き指をしたのさ。捕球技術が未熟だから怪我をするのさ。皆がそうやって上手くなるんだよ」、と言えば、「この野郎、俺の息子を何と思っとる。某○○高校には特待で呼ばれたんだぞ」、と益々絡んできます。

「結局はレギュラーもとれずに秋になっても白背番のまま。そして、退部して草野球を始めたんだろう・」、と私。とうとう最後には、「来週は息子は休ませてお前がグラウンドに出てこい」、と言ってしまいました。

一時期、この構い過ぎの親が多かったのですが、いつの間にか生きていくだけ、食べていくだけでも難しくなった世の中で親子の触合いまでがなくなってしまったようです。息子のほうが余程真剣に生きようとしています。「監督が信じられないなら、別なチームを探せ」、と電話を切りました。

現在の高校野球の育成方法というものは入学時には特待で採用しても秋まで待っても中学生体型のままだと背番は貰えません。それほどに選手の身体が大型化をしているからです。

★:家庭内にスポーツ経験がある親や兄弟がいれば状況は変わる。

こんな場合、父親自身が一人っ子で育ったケースが多いですね。例えば兄と掴み合いになって負けた。何故、負けたのかの理由が分からないままで大人になり、親になったケースです。

兄弟でモノを奪い合う、それを親が言い聞かせて仲直りさせては親の権威を示す。母親はそばで微笑んでいる。目の前には大塚のボンカレー?。そんな時代が懐かしいと思いませんか?。

「兄ちゃん」、と弟が兄を見上げれば、「あー、うるさいな」、と兄。その兄は女みたいに眉毛抜きに夢中になり、ピチャピチャと顔を叩いて化粧水をつけ、「ゲーセンで女が待ってる」、と最後にはフェロモン入りのオーデコロンまでつけて出掛けるご時世です。

処が、こんな奴でも野球すれば結構上手くて、草でもレギュラーとっている奴はゴロゴロ。監督に至っては鼻ピアスしている奴だっているんです。変な日本になってしまいました。

知合いの自衛隊員にも似たような奴がいます。部隊では凛々しい隊員振りですが、自宅に戻れば鼻ピアス、耳ピアスをつけて町に繰り出しています。今や日本中が目立ちたがり屋、構って欲しがり屋の人種ばかりのような気がします。



☆2008.8.4。

★:母が歌が浦を去る日~12歳違いの勇兄さん。7歳上のフサ子姉さん。

最近作った[♪:母の童歌]や以前作った[♪:蝉しぐれ]にも出てくるイサム兄さんは母とは12歳違いの実兄で、正式には河内勇と言い、母とは一回りも歳が違うために、「イサム兄しゃま」、「あんチャマ」、と呼んだり、「おじちゃん」、と呼んでいたと母は言います。

この勇さんは高等師範学校を出た後に数学の教師をしていたのですが、鹿町炭坑を開いた祖父の濱野治八に誘われ、長男の河内進氏と共に鹿町炭坑の経営にあたっています。

母の母親・ライは腎臓病の為に48歳で没しました。その母親の体質を受継いでいた母は平戸の女学校を出た頃には山口県にある有名な俵山温泉に長期の湯治で滞在していたとか。当時から関節が痛んでいたんですね。

男2人、女3人の兄弟の中で歳の離れた末っ子の母は本当に自由気ままな暮らしが許されたんだと思います。この滞在費用は鹿町炭坑の経営にあたっていた長男の河内進さんが負担してくれています。

やがて、鹿町炭坑から大量の石炭を購入して四国で幅広く塩田業を展開していた方の息子さんとの縁談を父親(河内松若)が強引に勧めるようになります。その塩田業の方は母の事を、「嬢ちゃん、嬢ちゃん」、と可愛がり、高価な指輪をお土産にくれたり、それはとても気に入ってくれていたそうですが、母は、「嫌っ」、だったそうです。

やがいぇ、母は歌が浦の町から逃げるように博多へ出て、当時では珍しい英文タイピストの養成学校に通う事になるのです。


★:始めての親友。みね子さんとの出合い。

この博多の町で通った英文タイプの講師を努めていたのが[♪:水無月の頃]の詩に出てくるみね子さんでした。このみね子さんは後に母が取り持った縁談で鹿町町深江免江迎にある砂田旅館へ嫁ぐ事になりますが、博多時代にはタイピストとして就職していた母の下宿に押し掛けて来て同居をする程の仲良しになったようです。

母とは違って結構な派手好きな方だったらしく、深夜まで遊んで下宿に戻っては潔癖な母と口論になったりする事もあったと母は言います。現在、この砂田みね子さんは佐賀県のグループホームで元気に暮らしておられます。



☆:2008.8.6。

★:母の食事の変化を観察する日々。

5月に[♪:母の童歌]を作って以降、7月5日の山鹿市でのコンサートの準備、7月21日の益城町でのうらた剛さんのコンサートの手伝いもあって6月、7月は詩作や曲作りが全くできませんでした。

この3ヶ月ほどは母の食欲が落ちてきた事があって、どんな料理に箸を伸ばし、具材にしてもどのくらいの硬さならいいのか。どんな色に興味を持つか、皿の形や色も食欲と関係があるのだろうかと、母の食事の傾向をチェックする日が続いています。

皆さんのご家庭のお年寄りはどうなんでしょうね。母の食事で気がついた分だけでも書いてみたいと思います。

1.
食べ方として、お吸い物や味噌汁とご飯だけで食べ始め、汁物が終れば次の一品とご飯、それを食べ終れば次の一品とご飯・・、というような食べ方をします。それも小さい皿に盛った料理から食べるようです。
例えば、味噌汁とご飯、お刺身とご飯、酢の物とご飯・、みたいな食べ方です。結果的に魚料理や肉料理が一品残ったりしますから、それがその日のメイン料理であったりすると満遍なく食べていないから栄養的には偏ってしまいます。

2.
例えば、刺身と天ぷら、サラダ類があったとします。途中で刺身にソースをつけて食べたり、サラダに添えたマヨネーズをつけたりして食べ始めます。まあ、カルパッチョを食っているんだと思えば何でもない事ですが、そうではありません。醤油とソースの味覚が区別できていないようなんです。

そうかと言って、母の好きな高野豆腐や卵料理などには口うるさく、「うむ、今日の高野豆腐の味付けには椎茸も入っていて合格」、「この卵料理には日本酒を入れていないから今いちだね」、と言う日があったりしますから一概に味覚が無くなったとも断言できません。

ちょっと汚い事を書きますが、それも従来の母には見られなかった行動です。それは、私達もよくする事ではありますが、堅くて噛みきれなかったものや魚の骨などの食事中に自分の口から吐き出したモノの処理の事。

例えば、野菜の堅い繊維の部分などを無理に飲み込まずに味噌汁椀や空になった小皿などに入れる事です。それ自体は問題無いのですが、フッと気づけば今度はそれをおかずだと思って食べ始めているのです。中身の残っている味噌汁椀に捨てていた場合、それ自体を味噌汁だと思ってしまって飲み始めています。これは記憶と視力の問題でしょうか?。

思わず注意すると・、「何故に私の味噌汁を取り上げるんだ」、と怒るんです。「中身は食べかすじゃないか」、と言っても、「そんな事はない」、と言います。硬いモノや噛みカスを棄てる専用の皿を別に置いていても母のとる行動は同じなんです。それを、オカズだと・・。

それに、食べ終ったご飯茶碗にお茶を入れ、今度は醤油を入れて飲み始める事があるから私と嫁はうかうかとTVさえ見る事ができません。お茶の急須と醤油注しの区別がないんです。

一見して異常行動なんですが、決して母は異常者ではありません。悲しい認知なんです。



☆2008.8.8。

★:寝不足の私、そして、母の食事中の異常行動。

もう、最近は5:30頃には母の部屋で確実に物音がしています。寝不足が蓄積している私の為にはせめて7:00迄は静かにしていて欲しいのですが無理。

この時期、骨折の為に仕事を休んで家にいる嫁が母の部屋へ直行して宥めたり、洗顔や着替えをさせてくれるからまだ助かるものの、今度は隣室での母と嫁の二人の会話が気になって眠れません。母の安全が最優先ではあるんですが・・。

夜中のトイレ3回は当たり前。一晩に6~7回。それも中敷だけではなくオムツ交換の必要があったり、ベッドまで湿潤してしまった後の再セットをした日の朝など、「俺はいつ寝たのかいな」、と思うくらいに朝が来るのが早いものです。一晩に洗濯機を3度回す事も・。

今朝、母がまたしても異常行動をしました。
先に朝食を済ませてお茶を飲んでいた母がテーブルにある私の朝食に突然手を伸ばしてきて手掴みにしたんです。

因みに、テーブルには(ご飯、豆腐とほうれん草の入った味噌汁、佃煮、昨夜の残り物の私が作った野菜天ぷら)が乗っていました。

本当に突然でした。すっと手を伸ばしてきて天ぷらの一つを手に取り、「朝からこんなモノ食べて・」、と掌で握り潰そうとしたんです。

私は直ぐに取り上げて、「何やっとんのじゃ」、と聞きますが、母は私の言葉には返事せずに、「へっ」、と嫌な表情をします。

「返事をしろ。何をする気だったんだと聞いとるんじゃ」、と強く聞くと、「何をね?」、ともう忘れているんです。
「じゃ、その手についた油は何故だと思う?」、と聞くと。「ナムダ?。ソレンゲ。アレゲチョングル!」、と韓国語のような意味不明の言葉を・・。

思うに、今朝の母は私が自分より遅く起きて、食事を始めた事が気に食わないようでした。それに、すっかり冷えてしまったご飯や味噌汁を食べる事も気に食わない。朝からテンプラを食べる事も、それを知っていて暖めてくれない嫁にも・。母は何もかもが気に食わなかったようでした・・。

嫌、若しかすると嫁が母の部屋に入ってトイレや洗顔、歯磨きの世話。そして、デイに向かう為の着替えを担当したこと自体が気に食わないことだったのかも知れません。

興奮するから血圧が上がり、普段から遠い耳が更に聞こえ辛くなっているようでした。母には多少の凶暴性があるんだな、と思います。私の親ですからネ。

しかし、我が家で時間が止まったままなのは母だけ・。私も嫁も必死な毎日なんです。在宅で介護されているご家庭の皆様にはお分かりですね?。


☆2008.8.9。

★:言葉が出ない。話し始めると言葉を忘れていて続かない。

この数週間の母は嫁を、「貞子さん」、と呼び、私の事を「イサムさん」、と勘違いしている場面が非常に目立つようになりました。

今朝も施設に向かう車の中で私の事を、「兄ちゃま(アンチャマ)」、と言うんです。トイレで用を足してもお尻を拭く、手を洗うのを忘れている事が多く、先日などは着ている普段着を脱ぎ、中敷きを外して紙パンツまで脱いでしまってスッポンポンの丸裸でベッドに転んでた為にベッドのシーツをおしっこで濡らしてしまっていました。もう、寝れません。

何故、裸になっているんだと聞けば、「着ている服が自分のモノではないし、新しいから勿体ない」、と言います。中敷きと紙パンツを外した理由は、「これからおしっこをするつもりだった」、と言います。

「いつもはそんな事までしておしっこはしていないでしょうよ」、と言えば、「兎に角、部屋が暑かったから」、とようやく最後に返事らしい答えが戻ってきました。

確かに、母の来ていた家庭着の服は一昨日に嫁が買ってきていたものでした。しかし、その日の夜には母に見せていて、実際に昨日も朝から施設へ着て出かけ、一日中着用しているのです。

この件は単純な物忘れでしょうが、部屋が暑いからと中敷きと紙パンツまでで外してしまうというのは今年になって2度目の出来事でした。

クーラーをつけると、「勿体ない」、と言うんで、「じゃ、俺も眠いし、この部屋でクーラーつけて床に寝かせてくれ」、と床にバスタオル引いて横になり、私はニセいびきを掻いて寝たふりをするんです。そして、母の寝息が聞え始めたのを機にそっと部屋を出ました。介護生活って難しいもんです。

昨日8日の00:00から9日の00:00の間の私の睡眠は僅かに210分。


☆2008.8.10。

★:塩分摂取を巡り嫁を敵視。理解を示さない私を睨む。

夕食はアジの塩焼き、ニンジン・タマネギ・豚肉のすき焼風煮込み、ポテト・トマト&サラダ菜のサラダ、卯の花入り味噌汁。母はいつもだとアジの塩焼きは片側しか食べないのですが今夜は珍しく両面を食べました。しかし、醤油の掛け方が半端ではありません。私の4倍、嫁の6倍は醤油を使っています。

「お母さん、駄目でしょう!、醤油の摂り過ぎです」、と嫁が醤油さしを取り上げようとすると、「何をすっとね」、と怒ります。

嫁が注意をして取り上げると、「どら、その醤油飲んでみせるから渡しなさい」、と言うんです。

「足が今以上に腫れてしまいますよ」、と嫁が言いますが、母はもの凄い形相で嫁を睨み返すついでに私の方を見て味方に付けようとします。

「直裕っ!、この人(嫁)は何というひどいオナゴだろうかね!」、と。

「腎臓を悪くして足が腫れて死んだのは誰かいな。ライさんの苦しむ姿を見たろうに」、と私が言えば、「へっ、そうしてあんた達はいつも二人で私を悪く言う」、と怒ります。

「悪くは言っとらんさ」、と言う私を無視し、ワザと醤油を次々に継ぎ足してはアジの塩焼きを食べるんです。こんな時、私は父親を思い起こすのです。私の父にもこのような部分があったのです。

こんな時、私はフッ・と我が兄を思います。周囲に何かを注意されれば、更にその上をいく行動をワザととる我が兄。多分、その性格は父と母の双方から受け継いだものなんだなぁ、と・。

最近は母の夕食の時間がとても長くなりました。18:30が夕食開始の目安なんですが、母が食べ終るのは平均して20:40頃。2時間は夕食に掛かります。

「ゆっくり食べていていいですよ」、と言いながら嫁は流しでの洗い物や母の(風呂でのお湯掛け、温タオルでの身体拭き)の準備やベッドメイクと居間を骨折した足を引きずりながら動き回るのですが、母にはどうもそれが目障りに見えるらしい。

「一体、あの人(嫁)は私の部屋に勝手に入ったり出たりして何をしているんだろうね」、と今でも言います。

「台所の洗い物は私がするんだし、何を忙しそうに動き回るんだろう。イライラする・」、と言うんです。いつもの事ではないのですが、母は今でも買物や料理、お風呂沸かしなどの家事の一部は自分がしているんだと思っている瞬間があります。瞬間なんです。

★:母の癖が悲しい

「芸子さん、茶碗や皿は流しに置いていて下さいよ、そのままにしといてね、私が洗うんだから」、と母はよく言います。結局、食べ終ったらおしっこを催すまでテレビの前でボーっとしているだけなんですけどね。


★:塩分摂取を控える必要性が分からない。

21:30を目途にベッドに横になって貰うのですが、過剰な塩分摂取の食事をした日には、「直裕、私の足が腫れていないね。見ておくれ。痛いよ」、と必ず言います。

「腫れとるさ。だから、塩分の摂り過ぎはいかん言っとるだろ。勝手に醤油を継ぎ足して食べるからさ」、と言えば、「私はそんな食べ方はしていないよ」、と言います。

夕食の時の話をして説明すると、「先が見えているんだから好きな事してどこが悪いね」、と開き直ったような言葉が返ってきます。母は本当に強気。是も我が兄と一緒です。絶対に「済みません」とは言わず、自分の吐いた言葉や行動を肯定しようとします。「だから、それが何故にいけないんだ?」・と。

嫁が部屋に来て、塩分の事で母に念を押そうとしますが母の顔は既に引きつっています。
私はバレーボールで使うサインのような指使いで嫁を制し、母をベッドに横にならせます。きっと、こんな光景はどこの家庭にでもあるんでしょうね。


☆:2008.8.12。

★:老いた旅人。自らの存在を探し求める母。

同居6年目になっても嫁には辛い瞬間が多いようです。ただ、私の目で見ても嫁自身にもなかなか進歩がありません。

元々、嫁自体が我が強いし、自分の我を通そう、自分の意見の正当性を母に理解させて、「はい、芸子さん。分りましたよ」、と言わせたいんだと思います。そして、それ以上に頑張っている亭主の私の存在を母には理解させようとしているんだと感じています。

私は嫁の考え方も意見が正しい事も、それが母の為を思って言っている事、行なっている事も全部分っています。ただ、そんな嫁が分っていない事が一つだけあります。一つだけなんです。

それは、母には[我]だけしか残っていないんだという事。我を押し通す事で母は自分の立ち位置を確保しようとしていること。

[母にとって、我を通す、我を貫く事は、唯一、自分が生きている、自分が存在していると感じる証し]なんです。まだ、少しでも伸びる芽がある我々と、次々と枝葉を落とし枯れていくだけの老いいく者との違い。それを我が嫁には悟って欲しいと思います。

これは、世の多くの嫁に言える事かも知れません。一歩だけ譲る、もう一回耐える事は《与える事》なんです。そこに初めて母と嫁との信頼が生まれるんです。・でも、これって難しいよネ。



☆:2008.8.12。

★:この時期の母は不思議な事を言い出す。そして、[念]について。

8月旧盆、7月新盆って変なものです。家族によっては7月、8月と両方の実家に行く事もあるのでしょうか。人の都合が人の都合を呼んでしまいます。因みに長崎では旧盆が多いですね。

8月10日は我が親父の命日。2007年からは高齢の母を気遣う私達は実家に集まるのを変更し、姉と兄が佐世保のお寺さんに出向いて法事を済ませるようにしています。

さて、このお盆の時期になると我家では不思議な事が起きます。それは、母が夜な夜ないろんな方の訪問を受ける事なんです。だから、母は朝食の時に、「夕べのお客さんを早く起こしてきなさい」、と言います。毎夜のように誰かが母の夢枕に立つんでしょうね。

★:「もう、いいんじゃない。向こうに逝きましょうか」、

という暗示を受けたと母が言うんです。「だから、その前に佐世保に帰って身辺を整理しないといけない」、と母が言います。

私はそうした心象世界があるらしい事を否定はしません。お盆だからとかいうのではなく、意識の世界は絶対に存在していると信じているからです。これは、全然気持ちの悪いことでもありません。

私がよく使う言葉に、[念]というものがあります。互いの思いの事です。この念こそが意識の世界なんです。念は思い、親の教え・、先輩からの指導・等と置換する事ができます。

親が子を思い、子が親を思う。或いは、教師が遠い昔に卒業した生徒を思い。生徒は、「あの先生は今でもお元気なんだろうな」、と思う合う心などを言います。

決して、互いが存命している、いないの事では無く、「いい先生だったな・今もお元気だろうか」、と存命される教師に対する思いや「いい父親だったよ・もうちょっと生きていて欲しかったな」、と既に旅立った人に対する思いだって全てがこれ[念]です。そう考えれば、現世の我々に対する霊界からの[返事の念]だって存在しても不思議ではありません。

私達の周囲を見渡しても、「あの人はいろんな思いを残して亡くなったんだ」、と思えるような方は沢山いるはずです。誰かが誰かに[影響を残す事]だって[念]なんです。要は、それを我々が感じる能力があるかないか、感じるような環境で暮らしているかいないかの事だと思うのです。

母は5人兄弟の末っ子です。48歳の若さで母親・ライさんが旅立ち。父親もその5年後くらいに亡くなっています。しかし、裕福だった母方の濱野一族の炭坑を引継いで経営に当っていた長男の河内進兄さんや弟の勇兄さんのお陰でお金に困ることはなく、長女のフサ子姉しゃまが母親代わりになり、私の母はこのフサ子さんの嫁ぎ先にまでついていっては、今度は甥や姪の面倒を見て恩返しをしています。母は本当に可愛がられ、大人になってからは信頼されていたんだな、と思います。

そうした母の過去を思った時、母には濱野一族や河内家の方々の様々な[念]が向けられているような気が間違いなくするんです。


★:2004年頃の母は、

「夜中に母親のライさんが足元に立っていた」、「松若さんが心配そうに私を見ていた」、とよく言ったものです。それは、ちょうど母が私の家で同居をすることになった頃です。

添えまでの母は長男との同居がうまくいかずに長女の紘子夫婦との同居を試み、母は幸せなはずでしたが、思わぬ事情が姉に重なって次男の私の住む熊本へ・。紘子の娘の信子が出産のために帰省する、という事態が降って湧いたのです。

この時、母を心配して熊本の我が家へ訪れた霊が数多くあった事でしょう。これ全てが[念が念を呼ぶ]現象なんです。

私の母は両親や兄弟への念をいつも持っています。だから、この時期、特にこうした現象が母には起きるのだろうと思います。

私の作品に[♪ホッホ]というのがありますが、これを作った頃は不思議な日が続きました。「夕べは母ちゃま(ライさん)がニコニコ笑って足元に立っていたよ」、とか、「ツヤ子はここで暮らせて良かったね」、「直裕はいい息子じゃないか」、と言っていたと母が言いました。


★:こうした現象は私にもありました。

実は、今でもこの[♪ホッホ]という曲を私がコンサートで唄っている時、私は会った事もないライお祖母ちゃんの言葉を聞く事があるんです。

詳しく言えば、コンサート会場に来られた方々と握手したり話をしている最中、特定の人が[濱野家や河内家に関わるような話題]をされる事が必ずあるんです。不思議な現象です。

全く見ず知らずの人が、「良かったね。良かった。待っていたよ。ツヤさんも今日は家で元気にしていますからね。思いっきり唄って頂戴っ」、と。まるで、我が家の事情を知っているかのようです。
そして、「ツヤさんは紘子さんとお宅で楽しく過ごしています。貴方は何も気にせずに思いっきり唄っていいんですよ」、と・

「何故、こんな時にこのような事を・・」、というような内容だったりするんです。多分、その方が媒体になって、母親ライさんの言葉の伝言をしているんだろう、と思うのです。


コンサートの舞台で私が歌詞に詰まった時は何かが聞こえた瞬間かも知れません。この【母に生命を返す時】というものを作り始めて以降、ある時期からの私にはいろんなものの力を感じるようになっているのは事実です。

新作を録音している最中、私の背中に誰かが胸を押し付けてくるような感覚があって、その重さや体温までが伝わってきたりします(♪若い女性ならいつでも歓迎♪)。

また、ヘッドフォーンを外した時などは、「たかっさん、たかっさん」、と私を呼ぶ声などはいつも聞こえてきます。これ、「念」が呼び込む現象だと思うのです。


☆:2008.8.13。

★:昨日の件で私の経験を・・。

私が佐世保時代にはこんな経験がありました。中学時代の塾での同窓、そして高校での同窓の女性から突然の電話があったのです。私が41歳の頃です。高校の卒業後に結婚して兵庫県に住んでいるようでした。

「やがて、貴方はお腹にメスを入れる事になる。それが貴方の最期になる」、と飛んでもない事を告げられました。普通だとこんな事言われたら怒りますよね。

でも、この女性は中学時代から何かにつけて私に僅かな思いを寄せてくれている人でした。からかうはずもありません。実は、私はその女性から電話を頂く数ヶ月前から実際に私の胆嚢に異常があって定期検査をしていたんですが、ドンドン大きくなっていたんです。

「何故、そんな事が分かるんだ?」。お寺さん関係からの話が私に面白いはずがありません。喉に何かが引っ掛かったような毎日を送ってはいけないと思った私は兵庫のそのお寺を訪ね、そうした霊力を持つというお坊さんに会いに行きました。

そのお寺は人間の生霊を出してみせるという事で有名で、全国から悩み事で訪れる人が多いらしいのですが、こんな話は私は苦手なんです。信じない訳ではありませんが嫌なこっチャ・、と誰だって思いますよ。

丁度、お昼の食事の時間、私はそのお坊さんが座っておられるテーブルに向かい、「ご一緒させて頂きます」、と告げて真向かいの席に着いてお茶を飲みながら話し掛けるタイミングを探していました。そのお坊さんは何度も私と目を合わせるのですが何にも言いません。ただの糞坊主とは思いませんが。
「霊感があるんだったら、何か言ってみろ」、と思いましたよ。

そこで、「私の事が分かりますよネ。命・、さて、どの辺まで持つのでしょうか?」、と切り出しました。本当に不思議な経験でした。全くの無表情なお坊さんでしたが、その時の会話を再現してみます。

暫くの間、私を凝視していたお坊さんは、「うん、本来なら貴方は既に現世にはいない人のようだが貴方は現世、過去世の実に多くの方々からの思いが掛けられていて、その強力な力が貴方をこの世に留めているようです」、と言われたんです。ゾーンと寒気がしますよね。

それも、「貴方は現世よりも過去世の方々からの信頼がとても厚く、その上に親族・縁者というより全くの赤の他人の多くの霊が貴方を護ってくれていて、貴方は彼らの為に何かをするように求められている」、「早く気づいて欲しい」、と言われるんです。

「貴方は熊本からこのお寺を訪ねてくれました。死なせる訳にはいきません。我が寺で入信なんかする必要もありません。私も頑張って貴方の延命嘆願をします。そして、貴方が私との幾つかの約束を守ってくれるのであれば、貴方は手術台の上で奇跡に出合う事ができます」、と言われたんです。

この時の約束事は書けませんが、その二日後の手術台の上で、そして、院長の特別の配慮で用意された個室のベッドの上で私は凄い光景を見る事になるのです。


★:「あーっ、人間ってこうして生かされているんだ。現世を生きる我々にはこんな力が加わっているのか」、と思いました。

丁度、天に漂う雲のように灰色の無数の霊体(石仏の影のような)が私の目の前に出現していたのです。何か気持ちの悪くなるような表現ですが、そうではなく、それはとても力強く温かいものでした。 

この宙を漂う霊体・。それは、あの9歳の手術時に出会った祖父と弟ほどにくっきりとは認識できないまでも、明らかに私の手術を成功させる為に来てくれたものだという事は瞬間的に理解できました。

これ以上を書くと、まるで私が宗教家のような誤解を受けるのでやめますが、念が念を呼び、命に対する念を持つ者は救われやすい、という事はお伝えしたいと思います。

父方は浄土真宗東本願寺派、母方は禅宗の都合で現在の私は俗に言われる《お東さん》の作法で先祖を供養(お線香は寝せて置く)していますが、神社を中心に展開する私の詩の作風でご理解を戴けるように、私は神道(自然の息吹)を心の中心に据えて日々を暮らしています。一方、様々な宗派のお経本を集めては学んでいて、理由は信心深き者にこそ万の神の力が及ぶと考えているからです。



☆:2008.8.14。

★:【人生は想いの壺】。山中で泣き続け、恨み続け、そして、腹が減り思わず叫んだ両親の名。

あるお坊さんが私に忠告されました。「人生は想いの壺。決して自分だけで生きてはいなくて、実に多くの人達との縁の中で生かされ、歩かされているんだ」、と。そして、「親から与えられた壺なんて小さなものだ。いろんな人の思いを受止める事のできる人間になりたければ、その壺はお前自身で少しづつ大きくしていく必要があるんだ」、と言われました。

「その壷が大きければ大きいほどに現世以外のモノまで入ってくるもんだ」、と。「壷はモノを溜める役割と測る役割がある事を知れ。それが分かれば予知能力が身につくものだ」、と。

若い頃に私が山に篭り独り暮らした一番の理由はそうした事が切っ掛けでした。食べること、生きる事の全てを両親に依存して生きてきた癖に、この上、何を俺は望むつもりなんだ、と思った時、私の中の両親や世間への恨み辛みが少しずつ消え始めたのです。


★:繰返す山籠もりの中で・・。

やがて、私はこの山籠もりを幾度となく繰返すようになり、俗世を断って暮らすうちに独自の人間観を作ってしまうのです。

徐々に過激になる私の山篭り。山には無数の野犬の集団が居て、歯を剥き出して威嚇する奴は私を食料としか見ない犬。以前の飼い主を思いだしてすり寄って来る犬、そして私を護ろうとする奴。しかし、自然の中では所詮は腹が減ると私に牙を剥ける奴らばかりでした。

やがては私も腹が減るでしょう。まるで人間社会と同じだな、と思いました。私は自分をそんな環境に置く事でいろんな事を学びました。泣いてばかりじゃ食われてしまう。

川にさえ逃げ込めれば私を追ってくる野犬の数は半減します。アップアップと泳ぐ事に精一杯のリーダー犬が私に近づいて来ます。私を殺してリーダーである事を誇示したいんです。しかし、顔を上げて泳ぐ野犬の喉を竹やりで突くのは簡単な事でした。

私の山籠もりではそうしないと生きていけなかったのです。動物的で本能的で、自然界では何が偉くて、強いのか。何を以て優しさと言えるのか・。その条件の全てを満たしていて始めて私は生きて下宿に帰る事ができました。私のこの体験談、今でも私の身体中に残る切り傷、その縫い傷が物語るのみですが・。


★:この頃の体験が信念として残っていて、今でも顔を出す倫理観や道徳観。

私のこの当時の体験は時に今でも頭を持上げる事があります。以前にも書きましたが、大雨による地崩れで自宅が傾き、今にも川に引きづり込まれようとする自分の家を見ながら、「腹が減った。役場からのサンドイッチか握り飯の配給はないのか?」、とマスコミのインタビューにヘラヘラと笑い顔で答える典型的な現代の日本人の姿をテレビで見たりすると無性に腹が立ちます。

「今からでも傾いた家に飛び込んで米櫃持って来いよ。火くらい、自分で起こして飯くらいなら自分で炊けるだろう」、と思ってしまうんです。


☆:2008.8.15。

★:嫁の脱介護心~冒険、探求心に惑わされ、癒された時期。

私にとっての嫁は天女のような一面があり、私は嫁の声が大好きです。しかし、嫁にはこの天使のような声以外、これこそが世界中の神々から与えられたのではないかと思える程の天性のものがあるのです。嫁の心の壺には

私の場合、すっかり朽ち果てた神官も居ない神社、住職も居ないようなお寺を見ては昔を回想するのが好きなんです。まぁ、老いた母を伴って全国の神社仏閣を巡るなんてことは絶対に不可能なことでもすからね。

逆に開放的な嫁は威風堂々とした大きくな神社仏閣が好みという大きな違いがありますが、時には義理の母の介護から離れて心身ともに世間の風に晒すことで自分をリフレッシュしたいんだろうな、と思っています。

そんな嫁は時に写真に撮って帰っては、「このお寺の屋根の先端の装飾の冠の神々しいこと」、「この廊下の長さには圧倒されたよ」等々、普段の生活では経験できない感動があるようで、全国を旅する毎にいろんな感動を持って帰るようです。

要は、普段の私が抱え持つものは余りにも小さく、実際の世間ではもっと大きくて偉大なものがあるんだと言いたいんだと思います。

写真で見て描いていたイメージを遥かに凌ぐ体験と感動というのは、実際にはそこを訪ねてみないと分からないものばかり、そこに流れる風や陽の光、影、参拝する人々の数といったものによってより立体的に伝わるものがあるからだと思います。

どこの土地だったかは忘れましたが、嫁が行き当たりばったりで訪ねた古い酒蔵の歴史話を聞いた時には私の頭の中に酒蔵に出入りする監視役の侍や買い付ける商人達の姿が浮かぶのでした。古き日本の様子です。


★:母の故郷の歌が浦の地で夫婦で民宿を経営される方、

考古学の研究をしてインターネットでも論文を発表している方、ある地方の小さな町で花屋さんをしている方、長崎で電気屋工事店を経営する方・、大分では団塊のシニア世代に勇気ある人生を過ごせるようにと講演や執筆活動を行っている方・、実に多くの方々との交流もできるようになりました。

実は、私の作る音楽の多くは次々と嫁が与えてくれたイメージが元になっている面が多分にあるんです。嫁が訪ね歩きをする事で、写真を撮ってきてくれる事で、その場所の素晴らしさ、訪ねた土地に住む人の人柄や使う方言などに、いつに間にか私までもが憧れたり、嫉妬したり・、そんな日々の中で誕生した作品って多いものです。

このように嫁や母の目で見たり、体感したものが私に伝わり、それをイメージした私が作るというケースも結構あるんです。

例えば、嫁は歌が浦の夜景とその時の母の表情だけを記憶していたとして、私は私で潮騒の音や母が発した言葉だけを観察記憶していて、旅行から帰った際にそうした記憶を披露しあって始めて作れたのが♪:[潮騒の町]という作品だったりします。

要介護4になった母の介護が大変な時期なんですが、私にはこんな嫁であって欲しいという理想は今でもあります。嫁は、「私だけが自由にいい思いをしては申し訳ない」、と言いますが、この嫁の冒険、探求心は捨てて欲しくありません。

夫婦ってどちらかの今際が見えた時、そして召されて逝く瞬間までをそばに居てくれたらそれでいいのではないかと思います。


★:集団検診の結果通知で「肺ガンの疑い・要再検査」という文字をみた時。

昔の話です。40歳無料検診の通知が回覧で回り、記事を読み間違えた私が当時35歳なのも関わらずに保健所に出向いたのも私の強運なのかどうかは分りません。

受付で、「今日は40歳検診ですが¥1500さえ払って頂ければ35歳でも撮影しますよ」、と言われて撮影して貰った時の話です。

3週間ほど経ってから私の妻宛に1通の葉書が届きました。表からは見えない例のシールドされた葉書に[親展]と書かれているではありませんか。保健所からの通知ですから私には覚えがありますし急な胸騒ぎを感じた私はべリッと剥がして・見たんです。

「撮影の結果、胸部右側に・・」、それは肺ガンの疑いがあって日赤病院で精密再検査を受けるようにと、担当の専門医師の名前まで指示されていました。もう、がーんです。

小心者の私は別な病院に行き、再度の撮影をして頂いたのですが、「あー、これだな。結構大きいですよ」、と無情な医師の言葉。しかし、不思議に人生を諦める気にはなりませんでした。嫁には保険だけは掛けとけよと告げて、以来20年を生きています。

私には幼少時の大手術の後にも腸の数カ所に癒着が残っていて慢性的な炎症状態が残り、白血球が常時14000~17000とあるんです。この数値は成人の通常値の2倍から3倍程度でしょうか、故に常に白血球が臨戦態勢で風邪もひきません。

セレニウム、ゲルマニウム・・外国から個人輸入して飲んだ時期がありました。そして、この10年間は何にも対処していません。私は生きているんです。



☆:2008.8.16。

★:9年に1度の割で不思議な訪問者がやって来る。「如何に生きるか」、と彼らが言う。

この話、信じる必要はありません。私が見た夢という事で読み流してください。

夜中にフッと身体が浮き上がる気配を感じて目を覚ませば、背後では烏帽子(えぼし)を被った神官さんが私の背中を支え、足元にはジャランと音のする棒を持った高野山系の修験者の大男が立っています。

見るからに力を持つ高僧の雰囲気を感じます。そして、目の前には天女達が宙を舞っています。赤や緑の衣装を纏い、私を励ますように微笑んでいるんです。美しい音楽が聞こえています。

戸惑う私を無視するように修験者は私の上に跨って大きな顔を近づけ、「お前の身体は相当に病んでいる。だが、こことここに重大な疾患がある事をお前は知っていながら悩む事なく闘い、己の母の命さえ護ろうと力一杯に生き抜こうとしている。

それに、我々はお前には大願がある事も知っている。だから私達はお前を死なせる訳にはいかない。今日は此処と此処を治してやろう」、と私の耳元に囁きながら私の胸を大きな指でトントン、トントンと何度も叩き、今度は腹部の癒着したままになっている腸の部分をやはり指で回すように擦るんです。やがて、私の身体は熱くなり腹部からはゴロゴロと音さえ聞え始めます。

「いいか、9年経ったらまたお前の様子を見に来る。お前が必死に生きている姿が分れば再び、三度と何度でもお前を救ってやろう」、と言い残してフッと宙に姿を消すんです。

私は何故か感謝の気持ちで体中が熱くなり、布団の中で声高に泣いてしまいます。翌朝、トイレでは激しい血便がありますが、何となく信じない訳にはいかないような話ですね。とても不思議な事です。

実は、[♪金木犀]、[♪弓削神社にて]という作品に使っているイントロの部分、あれはこの時の夢の中で流れていた旋律の一部を使用しているんです。二匹の猫が神社の境内で喧嘩をしているようなイントロです。

元々が熊大の教育学部卒でピアノを弾き、音楽では私よりも先輩になる嫁は私の事を、「貴方はイントロ名人」、と言いますが、本来の私には[♪金木犀]や[♪弓削神社にて]のようなイントロを作る感性はありません。まさに、生かされている、そして何かを伝えさせられているという気がします。

私が自然や神仏、老いや命という・・、現在の自分が成り得ないもの、自然やそのサイクルみたいなもの、自身では絶対にコントロールできない力のような事、現象に対して畏怖を感じる一番の理由はこうした経験があったからだと思います。そして、世間の皆様は余りにもその事に無関心過ぎるのではないかと思うのです。

人の心を察する能力を持つ者の先には必ず新たな何かが見えてきます。自然を称え感謝する者の先に必ず見えてくる何かがあるはず。命湧く泉・、そんなものです。



☆:2008.8.17。

★:何年振りかのバッテイングセンターで右手首を痛める。

酒の話。ずっと25度以上、どうかすると城南地区で作られる47度くらいの焼酎を飲んでいた為に胃潰瘍が出たり引っ込んだりの状態が続いていました。

2007年8月3月に大分県別府市にある大塚博堂記念館でライブをした際、大塚ご夫婦から、「大分の焼酎は20度が一般的でこれをロックで飲むのがいい」、と勧められたのが切っ掛けになって熊本に戻ってからは20度の焼酎を探し回っています。本当に美味いんです。

今月の8月9日の事。施設に母を迎えに行くにはちょっと早いと感じた私はスーパーに立寄って、「ビッグマン」という¥1600で4リットル入りの安物焼酎を買いました。これが20度なんです。

幾ら私が夏が大好き人間とは言え、場所によっては36度、37度のここ最近の暑さは異常です。こんな日には20度の焼酎に凍らせたポカリスエットを砕いて入れてロックで飲むのが最高のひとときになっています。

この焼酎を買ってすぐに施設に向かえば良かったのですが、まだ少しの時間がありました。バッテイングセンターの文字が目に入ったものだから、つい車のトランクを開けてバットを出してやってしまいました。

実は、3年前まで在籍した40歳以上で編成されたシニアチームから8月9日に電話を頂き、「もう一度やらんか。明日の10日は球場で待っているよ」、という誘いを受けていたんです。音楽も好きですが野球はもっと好きですからね。

数年前までは140kmのゲージに入ってホームランを連発して38ヶ月連続のチャンピオンになった程の私ですが、120kmのスローボールでもバットがボールに当りません。

1ゲーム(1ゲーム20球)目の終了間際にようやくチップできるようになりましたが、ブランクなのか歳のせいか、動体視力自体も落ちてしまったのか、とお得意の瞬間分析が始まりました。

本当の心を言えば、体重が7kg増えるとどの程度のパワーが増すのかという事を実感してみたかったのです。

分析の結果、ブランクを意識し過ぎている、120kmのボールでも今の自分には速すぎるかも知れないという意識があること。腕力や握力が強くなった分だけバットが軽くなってしまった、結果としてバットの出が速くなってしまって突っ込み気味のタイミングで打ちにいってしまっている、という結論を出して痛い腰をさすりながら2ゲーム目に望みました。

ポン、分析は正解。打席でのオープンスタンス(左足を外に開く)を止めて、スクエアからクローズドスタンス気味に変えただけで同じタイミングの振りでもバットの出が遅くなり、多少の詰まる感じがありながらでもポンポンと面白いように当り始めました。ボールを叩いた時は詰まる感じがあった方がいいんです。体重7kg増の影響は凄いモノです。打球が全く垂れる事なく鋭い勢いで飛んでいきます。

「これならチームに復帰しても迷惑は掛けないかな」、と思いましたが、施設に母を迎えに行き、帰宅する途中で右手首が激しく痛み始めたんです。

私の右手首には長い間の草野球生活で作ってしまった軟骨が突き出していて、除去手術をせずに放ったままにしているから無理な動きを繰返すと痛み始めるのです。

そんな訳で8月10日の早朝野球の練習への参加は見送ってしまい、次回の17日の練習からキャッチボールくらいには参加しようかなと思っています。2007年の1月に心筋梗塞やって、7月には痙攣起こすくらいの追突事故に遭った人が2008年の8月に野球を再開するって信じて貰えますか・?嫁は、隣で「アホ」、と叫んでいました。



☆2008.8.18。

★:朝から私の大好きなお赤飯。午後、施設で母が転倒したらしい。・・させられたのが事実みたい。

いつからか嫁は毎月の1日、15日にはお赤飯を炊いてくれるようになりました。私はお赤飯があればごま塩だけでいいという人。

小豆は腹掃除、医者倒し・等と言われる程にお腹にいいんです。また、赤飯は古くから庶民が神への感謝の印として家族にとって特別な日には差し出していたようです。我家に目出度い事がありました。神様、あなたも一緒に祝ってやって下さい、みたいな意味が込められていたのだと思います。

嫁は赤飯名人、それに鶏釜飯などが上手なんです。これだけは現役の頃のお袋より上手ですね。他に…、といってもなかなか浮かびませんが、ま、嫁の赤飯は美味いんです。

さて、母がお世話になっている鶴翔苑という介護施設には厳しい意見になりますが、言わせて貰います。母が例によって施設のトイレで転倒したみたいなんです。母が今年になって介助のないトイレで転倒したのは施設から私に申告されただけで4回目。

「済みません・、ツヤさんを座らせた後に別な方の世話をしている隙にツヤさんが勝手に立たれたみたいで…」、とあくまでも施設側には責任はないかのような説明。いつもそんな説明しかありません。

昨年暮れ、どんな理由があって母が要介護度3から4になったのか。その意味が全くこの施設には理解され徹底されていません。この鶴翔苑では8ヶ月間で同じ老人が4度も転倒しているんです。2ヶ月に1回、同じ老人を転倒させる施設に信頼は存在しません。

私は介護士の資格試験など必要ない、実技研修だけで充分だと日頃から思っている理由がこうした事故からなんです。プロのキャリアを重ねる程に手を抜くというのは世の常識。決して、行政の責任ではありません。車の片手運転、信号無視と何ら変わらないのです。プロほど自分の力や判断を優先するんです。責任感が薄れていくんです。

「母が自力ではトイレができない事を一体何人の介護士さんが知っているんですか」、と訊ねましたが返事もなく、「済みません、今後は徹底させます」、と言うだけです。今日はそんな日でした(プリプリ)。



☆:2008.8.16。

★:この夏は来訪者が一杯。母の意識がしゃきっとするみたい。

昨日の朝、「夕べは庄三おじちゃんが訪ねて来てさ・・」、と母。
嫁が、「あれま、それで何か言っていましたか」、と。
「そりゃ、そうさ。私に何か言いに来たんだろうし。ん?・でも、か覚えちゃおらんけど」、と母。

母の言う庄三おじちゃんとは、元平戸市長の故・青崎庄三氏の事で母の4歳上の故・みつ子姉さんのご主人の事。

正三さんは「つや子さん、つや子さん」、といつも気に掛けてくれ、とても優しい義兄だったとか。以前のブログ記事にも書いたように、この2008年の夏の母には例年にない来客の多さだったようです。

このお盆の時期になると人の心が彼の地、あちらに住む亡き人の方へ向かうのでしょうね。[念が念を呼ぶという現象です]。

母が高齢でもあり、8月10日の父の法事の為に猛暑の中を佐世保の自宅に母を連れて帰って行なうというのは酷だろうという事で、2007年からは姉と兄夫婦だけがお寺さんに出向いて行なうようにしていて、その事を平戸の青崎家の方に法事場所の変更を知らせていなかったのでしょうか。

「あれ、佐世保の家には誰もおらんな」、とこの熊本まで母に会いに来られたのかも知れません。ホホ。そして、母が施設のトイレで転倒したのはこの日の午後・。あの世に引っ張られ始めたのかな?。冗談じゃありません。


★:先日の母の転倒について。

8月15日の鶴翔苑での母の転倒事故の件ですが、転倒から一日開けた本日、母には特に異常は見掛けられませんが気にはなります。脳の軟化が進行すると痛みも感じなくなるからです。

介護士が駆けつけた時にはトイレの床に仰向けになっていたと言いますからどこかは痛いはずなんですが、「うーん、倒れたような気はするけどいつの事かは分からない」、と母は言います。

今日、母を迎えに行った際、「先日は済みませんでした。以後のトイレの世話は必ず付き添うように徹底しますので・」、とリーダーらしき介護士さんが言うのですが、「当然でしょう」、と言うと一瞬ですがむっとされましたね。でも、その言葉は母が倒れる度に聞く言葉なんです。

施設から家族への申告があった分だけで今年で4度目、2ヶ月に1回は施設で倒れ、その倒れる場所は全てがトイレ。倒れた時の担当者もA,Bの時と特定できているんです。

名前は書きませんが、彼らは中敷が汚れていても滅多に換えていません。それどころか汚れた中敷を外しただけで新しい中敷さえセットしてくれていない日さえあります。

恐らく、こうした個々の仕事振りは仲間内でも気付いてはいないんだと思います。これは家族が施設まで迎えに行って初めて気付く事のできる事ですが、仮に仲間内で気付いていても施設長には報告が為されません。この鶴翔苑に通うお年寄りの転倒事故ですが、介護士通しの仲間うちでは事故を庇いあって報告しない事も多いと聞きます。

介護を専門とする介護士さんが、「済みません」、という言葉を「こんにちは」、みたいに日常的には使うべきではないと思うのですが・。

このデイ施設では療法士さんから定期的な歩行訓練を受けている母ですが、その一方でこんなに何度も転倒させられていてはどうしようもないと思うのです。在宅介護より危険な施設であってはいけません。(ぷりぷり)


☆:2008.8.17。

★:大阪。そして、豊後大野市の皆さんありがとう。

大阪の地域ブログでも【母に生命を返す時:ブログ版】を発表させて頂いていますが、2008年3月の更新以降は放ったらかし状態で追加記事等の一切の更新もしていなかったのですが、今朝、久し振りに覗いて見ると何と音楽の部門に【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が大阪市全体で25位にランクされていました。

あれだけ人口が多い都会では私の作品なんて振向きもされないだろうと思いながら、嫁に、「もっと、貴方自身が積極的になりなさい。都会になればなる程に日陰に苦しむ介護家庭が多いはず」、と言われて作ったブログでした。

怠けずにこれからは定期的にチェックさせて頂きます。音楽だけを聴いてみようと思われる方は、【母に生命を返す時:♪楽曲版】もありますので宜しくお願いしておきます。

豊後大野市では2008年3月にコンサートを企画して頂いた事もあり、その後の私達の暮らしの様子をご報告する意味でもこの「報告ブログ」を続けたいと思っています。

この豊後大野市では一時期は1位を独占していましたが、8月17日現在では【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が5位、【母に生命を返す時:♪楽曲版】が9位のようでした。ここ最近は新しい作品をアップロードできていません。

でも、母のお世話の合間を縫うように作ってはいます。[♪6年目の蝉しぐれ]、[♪蜃気楼]、[♪つもり]、[♪あんたに聞いてもいいかい]等々、仮題ですが5曲ほどを同時進行で作っています。多分、この中の3曲くらいはボツになるのでしょうが頑張ってみたいと思います。豊後大野市にはとても感謝しています。


☆:2008.8.26。

★:昨年の今日は別府の[博堂村]に感激の出演。

この処はブログへの書込み更新をしていません。私のブログ作成方法は仕事の合間を縫うようにして職場のPCを使って書いてはFDに保存するやり方です。職場のPCはインターネットには繋がっていなくて、職場でFDに保存した文章を自宅のPCを使ってブログへコピーするという方法を採っています。

実は、日々のブログを保存していたそのFDが突然に読込みをしなくなったんです。そのFDにはブログへの最後のコピーから後の新規作成した文章が相当に保存されているのですが、どうしても読み込めずに出力できません。WORD1997で作ったり2001で作ったりしているからでしょうか?、それともFD自体に損傷を与えたのでしょうか?。そんな事があってから何となく続けて書く気が消沈しかけています。

今日、朝から例の唄う不動産屋の浦田さんが私の事務所に来られました。先月、7月21日のコンサート模様のDVDを持って来られたんです。

あの益城文化ホールでの私のステージ模様が果たしてどのように撮影されているかが楽しみです。帰宅後に見ようと思っています。

神奈川大時代の浦田さんの後輩が撮影してくれたという写真、益城町社会福祉協議会の方々が撮影してくれたという写真も頂きました。近距離から見事に撮影されたものでした。

コンサートで私が写された写真って本当に少ないんです。あっても会場後方からの画像ばかりで誰が唄っているのやら・、そんな写真ばかりだったからとても嬉しいです。


★:さて、昨年の8月26日。

この日はあの偉大な大塚博堂氏の記念館である、[博堂村]に始めてお邪魔した日。この2ヶ月程遡る6月頃でしたか、「大分の大塚と申します・」、という涙混じりの美しい声の女性からお電話を頂いたのを覚えています。

「貴方のCDを聴かせて頂きました。ここ(別府は)・貴方には遠いですか?」、とそんな意味を滲ませた言葉でした。この方は故・大塚博堂の甥にあたるご主人の奥様だったんです。甥と言っても博堂とは7歳しか違わず、小さい頃には博堂に連れられて一緒に川遊びをした記憶があるとおっしゃっていましたね。

私は、「行きますよ。オーデションを受けるつもりでやらせて頂きます」、と言ったのを記憶しています。そして、8月26日には嫁と二人で別府に向かったのでした。

16:00頃に博堂村に到着し、30m程のそばにある食事なしで1泊¥3700くらいのホテルに荷物を置き、博堂村でのリハーサルを1時間ほど行ないました。いろいろと書きたい事はあるんですが、既に過去のブログに書いた事と重複する事が多いのでこれはこの辺で・・。

丁度、この頃のHPへの書込み欄に、「貴方の唄い方は故大塚博堂に似通った雰囲気がある・・」、というのが増えていました。私自身では全く意識した事もない事でした。第一、私はラブソングは苦手なんですね。ここ最近は作る曲調が長淵剛に似ている・・、みたいな事を言う人もいますが、私はそんな事はどうでもいいんですね。普段の私はTVも音楽も見ない、聴かない人だから分らないんです。


★:豆腐が大好き、納豆が苦手。茶葉の使い方など。

私は大の豆腐好き人間です。味噌汁の具に、冷や奴、豆腐ステーキにどんな形ででも食べます。

おやつにプリン?、飛んでもない。プリン代わりの豆腐がいいですね。豆腐にはフラボノイドが沢山含まれていて気持ちが優しくなる作用があります。また、女性ホルモンの生産には欠かせませんから特に女性が食べないといけません。それにポリフェノールの塊なんです。日本茶にも含まれていますね。

よくポリフェノールが・というサプリメントの宣伝がありますが、日本人にはポリフェノールは足りていると言われる由縁はこの日常的に摂取しているはずの豆腐とお茶にあるんです。

このお茶も我家ではミキサーで粉末にしたものを飲用したりします。夏などは氷を入れて飲むアイステイは最高です。また、この粉末茶葉はテンプラの衣に混ぜたり、酢味噌の隠し味にしたり、サラダオイルなどには封を切った段階で茶葉を容器の中に沈めて入れておいたりしても和風の風味が出ます。他には、野菜のかき揚げに使ったり、ピラフに少々入れても美味しいですね。

そこで納豆・、どうも苦手です。豆腐が好きで納豆苦手って多いのと違いますかね?。あの臭みが何とも・・。

処が、食事の時間以外にだったら幾らでも食べるんです。身体にいい事は分っていますしね。納豆キナーゼには血液をサラサラにする働きがあります。

死んだ古い組織は血液に乗って移動するのですが、これが血管の狭くなった場所で詰ったりして悪さをします。サラサラになるとそれが起きにくくなるそうです。

トマトもそうです。リコピンという成分が心臓にいいんですって。私は食事として出されると殆ど箸を伸ばしませんが、トマトだけなら塩降って丸ごと何個でも食べます。もう、言い出すと止まりません。キュウリだって茄子だってピーマン、ニンジン、唐芋だって塩降って生が食うのが一番。
焼酎ロックを片手に食って見てください。


★:ついでに記事。

私の小さい頃には野菜と言えば季節によって作られる時期が決まっていました。今のように一年中ビニールハウスで温度管理をして育てるんではなく、地植えでしたから太陽光を一杯に浴び、虫にも適当に食われて生き延びた野菜だけを食べていました。

夏も間近の学校帰りの沿道で腹が減ったな、と思えばそばの畑にはトマトが選り取り見取りの食い放題でした。

強い光を浴びたトマトって埃の匂いの味がするんです。少々の泥がついていたのかも知れません。夏が終った畑にも枯れた枝に黄色っぽいトマトが残っているんです。これも食っていました。塩なんてなけりゃないで構いません。

昔のお百姓さんって全てを収穫せずに必ず一部を残すんです。柿の実だって全てを千切らずに必ず数個の実を残していました。そんな田舎の風景を覚えていませんか?。あれは自然への感謝なんですね。

それをカラスや雀や私のような悪戯坊主が食べていたんですね。きっと、別府で育った大塚博堂だって悪戯小僧の頃にはそんな日常を過ごしていたのではないでしょうか。



☆:2008.8.27。

★:スザンヌの告白に驚きと失望。・沙衣ちゃんなりに苦労したんだな。

朝の連続ドラマの[ひとみ]を見る事以外、普段は殆ど見る事のないTVですが、昨夜は嫁の友人からの「TKUにスザンヌが出てるよ」、という連絡でお袋の入浴介助を遅らせてまで見てしまいました。

スザンヌが出ていた番組は私がもっとも苦手な霊能者が出るもので、何とスザンヌはその番組で自分は妊娠を経験していて、水子がいる事を告白したのでした。

スザンヌ・、というより私達夫婦にとっては熊本市の中心街の銀座通りにある山本タバコ屋さんの孫娘の沙衣ちゃん(山本沙衣)なんです。また、自宅は私の家から車で2分程度の所。

沙衣ちゃんは幼い頃からお人形さんのように可愛い子でした。私の行きつけの喫茶店が山本ビルの中にあったせいか、沙衣ちゃんはその喫茶店の椅子に、カウンターにチョンと座ってはいろんなお客さんに可愛がられていました。

その沙衣ちゃんの小学校5年の終わりの頃からでしたか、お祖母ちゃんの頼みで私の家にピアノと声楽を学びに来始めたんです。最初の期間は中学入学の頃までだったから1年半ほどです。

嫁が教師役を引受けたんですが、私の耳には音楽とは無縁の女の子だなという印象が強くありました。とても真面目で周囲に気を遣うのですが、気を遣うばかりに集中心が今ひとつという印象を受けていました。一向に上達しないんです

中学を卒業する頃にもお母さんの車に送られて通って来ました。どこかのプロダクションの唄の審査を受ける為、自分が唄っているテープを送らなければいけないという事でレンッスンを受けに通って来たんです。

嫁はカーペンターズのトップオブザワールド、クロス・ツーユーなどをレッスンしていました・。恐らく、オーデションにはことごとく落ちていたのではないかと思います。

やがて、彼女は福岡の高校の芸能部へ学費免除で入学した事を暫くしてから知らされました。あの氷川きよしが卒業した高校らしいという事でしたから、沙衣ちゃんはどこかのプロダウションにスカウトされたのだと思います。その後、彼女は退学して東京のタレント事務所に移った事を伝え聞いたような記憶があります。

その後は、ポツンと時折のお祖母ちゃんからの電話で沙衣ちゃんの近況を知るくらいでした。何とかいう雑誌のモデルになった・、僅かな給料だからアルバイトを始めた・、そんな話ですから、「女性が志しを維持して都会で暮らしていくって大変なんだな」、と思っていました。

そんなある日。私の記憶ではデビューの1年程前でしたか、プロダクションの事務員をしている、という最後の連絡があった時に、「あ、礼儀作法を教えられているんだな。もしかするとデビューが近いぞ」、と私は感じたんです。

その通りでしたね。でも、例の島田伸助の番組で見るスザンヌは私の知る山本沙衣ちゃんではありません。確かに画面から伝わるように素直で純粋な女の子です。あのキャラクターには変りはありません。しかし、別なデビューのさせ方がなかったのかと思います。

インターネットには山本沙衣時代の乳首丸出しで男性と絡んでいる写真や動画が流れています。その姿はお婆ちゃんから伝え聞く話とは全く違う沙衣ちゃんの姿です。

かと言って、恐らく演技のレッスンも踊りのレッスンもさせて貰ってはいないんじゃないかと思うし、結局、今後の彼女は自分の何を売りにして芸能界で生きていくんだろう、と現在でも思っています。

決して、使い捨てのタレントで終って欲しくはありませんが、何も自分の堕胎の経験までを売りにする必要はないと思うんです。

お祖母ちゃんの話しでは、「付き人も二人いて結構な暮らしが・」、みたいな事でしたが、昨夜のテレビで見た彼女は周囲の企画に使い回され、潰されかけて異臭の漂い始めたタレントのように見えました。「沙衣ちゃん、今のスザンヌを捨てろ」、と思っています。


☆:2008.8.27。

★:我家に居た愛犬ヤスは山本家からの譲り受け。

もう、随分と前の話。我家にはヤスという犬がいました。あのスザンヌ一家からの養子犬です。

このヤスが亡くなってから17年は経つのかな。スザンヌこと山本沙衣ちゃんのお母さん(キャサリン)が妊娠され、お腹の中の妹の為にも動物と一緒には暮らさない方がいい、という事でお母さんの元を離れて山本タバコ店のカウンターの下でお祖母ちゃんに飼われていたこのポメ犬ですが、やがてこの血統書付きのヤス君は私の手の平に乗って我家に移り住む事になりました。勿論、血統証明と引き換えに¥40000は支払いました。

このヤス君は私達夫婦にはいろんなものを運んで来てくれました。優しくて、怒りっぽくて、礼儀正しくて、我慢強くていろんな面を持った犬でした。

★:ペットは自分の生涯を、

飼い主である人間に見せる事で[命を伝える]、と言われます。我々人間に感謝する姿勢、弱り行く姿、そして死の瞬間さえも見せてくれるのです。

今の私が何に一番感謝をしているかと言うと、このヤスという犬と暮らした事なんです。この頃のこの犬との生活の経験がなければ、私は母親との現在の暮らしはできなかったのではないかと思います。

常に飼い主のことを考えてくれますが怒ったらご飯も食べません。誰が主人で自分は何番目、犬の習性は人間にとても近いものがあります。

このヤスが幼い頃には優しさだけを求めました。だから、嫁のそばにいる時間がとても長かったと思います。嫁と散歩に出掛ける時などは飛び跳ねるようにして歩いていヤス君ですが、私が散歩に誘うと嫌々、恐る恐る、私に引きずられるようについてくるんです。まるで人間と同じでしょう?。

犬の成長って速いですよね。やがて、嫁に対して、「おい、今度の新しいフードはうまくないぞ。全くお前はその日の気分で適当な銘柄を買ってきてどうしようもないな」、みたいに注文をつけたりして嫁を説教するようになり、昼間などは嫁よりも私のそばにいる時間が多くなっていきます。

しかし、よく観察していると夕方から朝に掛けては嫁のそばに居て、寝る時も一緒。その姿は嫁を守ってやっているかのような姿でした。

やがて、時に夫婦で言い合いをする時などは仲裁役さえするようになるんです。「お前らうるさいよ。何が原因かは知らないが喧嘩はよせ」、みたいなキリッとした正義感溢れる目つきで私達夫婦を叱るようにさえなりました。

だから、このヤスは、「ゴメン」、「ありがと」、という言葉が大好きでしたね。意味が分っているんです。私が謝ると、「えへっ、いいんだよ。」、と笑うんです。

ヤスは若くしてガンにもなりました。睾丸ガンです。一つを手術で切り取りましたがガン組織の一部が体内に残る手術でしたので常に再発の危険がありました。


★:この手術の際の面白い話しを一つします。

手術は終ったのですが麻酔から覚めきっていないのかボーッとして横になったままだったこのヤス君が切り取ったばかりの自分の睾丸を見つけるや、何と食いつこうとしたんです。

「馬鹿たれ!」、という私の言葉の勢いに驚いたのか、食いつく事はなかったのですが、「美味そうなモノがある」、と思ったんですね。ホ。因みに、某有名なプロレス団体の○野○博という人は牛の睾丸を焼いて食べ、刺身でも食べるんだそうですが・。実際、私の知合いの柔道家にもそんな人います。


★:このヤスの最期の時。

糖尿病を煩い、急激に重度になっていきました。獣医さんからヒトインシュリンを小さなボトルで頂き、朝晩に0.5mgを私が注射していましたが、腎臓が駄目になってしまい排尿困難に苦しみました。
「もう、死なせた方が苦しまないで済みますが・」、という獣医さんの言葉を無視し、獣医さんの言葉に逆らうように八味ジオウガンという漢方の利尿薬を飲ませたんです。

ぐったりしたヤス君の耳元に、「いいか、凄く苦いけどこれを飲めばおしっこが出るんだ。おしっこをしないと死んでしまうぞ」、と言いながらドロリとした苦みの強い薬を差出したんです。私が舐めてもとても苦いんです。ヤス君はジッと私を見上げていましたね・。

そして、ヤス君は私の話が理解できたのか見事に飲むんです。飲んだら見事におしっこが出るんです。勿論、既に立てず歩けずの状態ですから床にひいた雑巾の上にジョージョーと出します。
出す度に身体が小さくなっていきました。最高で9kgもあった体重が死の直前には2kg程度になっていたようです。

こうして獣医さんが見放した日から1ヶ月を過ぎた頃の朝、花壇作りをする嫁のそばに付き添いながらヤスは何度も意識を失いかけます。

無理もありません。この1ヶ月は水や薄く作った練り片栗程度しか口にはしていません。漢方の利尿剤でおしっこを出して生き延びているのですから。こんな身体になってまでも嫁の事を気にしてくれるんです。

「直さん、ヤスがおかしい」、と嫁が玄関から居間にいる私に叫びます。嫁は意識がなくなったヤスの顔を横からポンと叩きます。「ヤス!」、と叫んで叩くと頭をブルブルッと振ってキッと目を開こうとします。

「目を開けろ。目を瞑ってしまったら終わりだ」、と自分でも分っているようでした。私は嫁からヤスを受取り、右手の手の平に乗せました。9kgもあった体重の犬が今は私の右手の平に乗るんです。
何度も何度も私の手の平の上でも意識を失いました。

意識を失ない、ガクッとなる度に私は彼の一番敏感な鼻を私の爪で擦りました。耳さえも千切れるくらいに爪と爪で挟みました。痛みを与える事で意識が戻るんです。でも、それも9回が限度でした。

・彼は私の右手の上で静かな眠りに就いたんです。平成9年3月22日の事でした。

本当に壮絶な死との闘いでしたね。今の私の辛抱強い生き方はこの時のヤスという犬が見せた最後の闘いを記憶しているからです。

今でも何処にいても何をしていてもフッとヤスの気配を感じる瞬間があります。就寝中などは犬の匂いで目を覚ます事があって、「あ・、ヤスが来ている」、と感じます。私はその度に、「ヤス、ありがとうね」、と呟くのです。「えへっ、また来るネ」。


☆:2008.8.28.

★:鶴翔苑にて。伊林さんの老いは空しい? 

母の通う鶴翔苑は正式には毎日10:00が開苑。私は自分の都合ですが契約上は9:00に事務所入りする必要がある為に8:20頃に母を車に乗せて家を出て、この施設に向かい8:40~9:00には到着します。

でも、この時間には既に施設に来ているお年寄りの姿をチラチラと見掛けます。鶴翔苑の近所に住まわれている伊林というお婆ちゃんがいつも1番乗りですから母は2番目に施設に行く日が多くなっています。こうして、早く行く分だけ私と母は早過ぎる分だけ綺麗な空気を吸えますし、1番出しのお茶が頂けます。

しかし、施設に勤める人の朝はもっと早いんです。10:00の一日の始まりに間に合うようにと施設に通うお年寄りの住む地区別に送迎の担当者を決め、早朝から手分けして車で自宅まで迎えに行く事から始まります。雨の日も風の強い日もです。でも、中には、「今日はデイには行かないよ」、と言うお年寄りを説得する日も多いと聞きます。

母が送迎をお願いしている頃もそうでしたが、雨の降る日、風の強い日、便通が悪い日などは施設に行くのを嫌がる日が多いもんでした。そんな時の嫁は焦るってはついつい説教気味になると、「そんなに私と居るのが嫌かい?」、と話題がずれ始めたら修正するのに大変でした。


★:あの2005年12月2日の母の骨折事故も、

そのような天候状態。そのような母の状態、そのような嫁との会話が切っ掛けになった結果、誰も居なくなった家の中で起きた転倒事故による骨折でした。

思えば、この日を最後に母は自力では歩き回る事ができなくなったのです。この骨折が切っ掛けになって母のデイの送迎は私自身がしようと決めたのでした。

この鶴翔苑にいつも1番乗りをされる伊林さんの昨日の朝はとても表情が悪かったですね。「ちょっと、あなた」、と私を呼ばれるものだから私は伊林さんのそばに、「はい?何ですか。元気がないようだけど・・」、と隣の席に座りました。

伊林さん:「私は今日でここに来るのを辞めるんです」。
私:「どうしてですか?」。

伊林さん:「どうしても何も・・、嫁が私に死んでしまえと言うんです」。
私:「ご主人は?、息子さんは何を言っていました?」。

伊林さん:「あれは息子じゃなく、嫁が実子。嫁が私の娘ですタイ」。

こんな会話の後、自分は今夜にでも死ぬからこの鶴翔苑には来れなくなる。ついては手持ちの服で綺麗なもの、まだ1回も着ていない服を貴方のお母さんに差し上げようと思ってね、と言われるんです。

「母は喜ぶでしょうが、良かったら明日の朝に持ってきて母に直接渡して下さい」、と言うと、「そうね、1着1着を着てみて貰い、似合うものだけを差し上げる事にしましょう。似合わない服は他の人にあげてもいいしね。そうしましょう、そうしましょう」、と急に表情が明るくなるのですが、肝心の娘さんとのギクシャク話が途切れたままなんです。


★:幸せはそこら中に転がっているのに。

この伊林さん。28日の今朝の表情も冴えません。

寂しそうに床を凝視していたり、施設の天井の一点を見つめていたり非常に険しい顔つきをしています。今朝も娘さんとの言い争いがあった事が分ります。私が椅子のそばに行って手を握ると、このI林さんが首をうな垂れて涙を零し始めます。

ポタポタと涙が床に落ち、肩が上下に揺れる程に泣始められました。他のお年寄りの血圧や脈拍測定をしていた介護士さん達が駆け寄ろうとしますが、私は指を口に当てて彼らを制しました。3分間ほどしてI林さんが顔を上げられ、「ありがとう」と言われましたね。

「言い争いが出来るのも家族が居るからこそ。流す涙も見せる相手がいてこそ。誰も居ない場所で流す涙ほど空しいものはありませんよ」。

「娘さんは貴女を母親だと思っているからこそ。貴女も相手を娘だと思う事ができるからこそ言い争いになるんです。憎み合うのも相手を認めているからこそ。認めているからこそ互いに説き伏せようとしたくなるんです」、と私は言いました。

この伊林さんは今年で88歳。左の耳が全く聞こえない為に右の耳のそばで話し掛けましたが、果たしてどこまで理解されたやら・・・。

幸せって、そこら中に転がっているはずなのに、人間ってなかなか気づきません。砂糖は甘いものですが、塩を僅かに加えると更に甘くなるんですけどね。砂糖は砂糖、塩は塩という互いを認め合いながら、その微妙な絡みがあって更に砂糖と塩の特徴が出るはずなんです、その適量が分からずに、「我が、我が」と主張が過ぎると揉めるんですね。我が家も一緒です。


★:甘露飴。

あの丸いあめ玉です。

袋の裏の原料表示をよく見て下さい。原料の一部に醤油が使われているんです。あれを煮込み料理の隠し味に使うプロの料理家が結構居るんですよ。先に使うと味に深みが出ますし、後に使うと照り出し効果があります。

小魚や蕗や昆布の佃煮の隠し味には最高。素麺つゆなどには買ったばかりの瓶の中身を一旦は鍋に移し、砕いた甘露飴を入れてジワッと熱を通し、あめ玉が溶けたのを確認して冷ましたものを瓶に戻してストックしておきます。

よく、「あんたが山に篭っていた頃に食っていた植物や動物の探し方、捕え方、料理の仕方などを紹介してくれ」というメールを頂きます。

こんな飽食の時代に生き、甘えの構造の社会の中で火も起こせない、飯も炊けない男が増える中、食える植物、小魚の捕り方、虫の食い方、蛇料理、、罠の掛け方、ねぐらの作り方・、山の中でどうしてテンプラ油が作れるのだというご質問にも答えるような・、いろいろと書く事になるような雰囲気です。



☆:2008.8.29.

①足が痛い。金足を踏んだみたい。お袋の2ヶ月に一度の検診日。
②新鹿、酒井から電話、懐かしい我が草野球チームJAGUARS。

①:
眠っていながら隣の部屋で母が目を覚ます気配を感じるのは、時に難しいものです。母がセンサーを避け、鳴らないようにしてトイレをしようとするワザを覚えた為、ベッドからズリ落ちたり、万が一でも立って歩こうとして転倒してはいけないからと、今はベッド回りに柵を設けています。だから、センサーに依存せずに母の動き出す気配だけ、ベッド周りの柵が軋む音で私は起きなければならない日もあります。

ずっとミスなくやってきたのですが昨夜はちょっと間違ってしまいました。昨年の自身の心筋梗塞もあって、私は目を覚ましたら直ぐには行動せずに2呼吸くらい間合いを作った後に立ちあがるようにしてきたのですが、どうした事か昨夜は布団から突然に立ち上がってしまったんです。

そして、私が寝ている和室と居間との段差10Cmの敷居の差で思いっきりストーンと金足を踏んでしまったのです。この痛みが午後から激しくなってきています。が、今は17:00、嫁と母の2ヶ月に一度の検診日の為に病院からはまだ帰っていません。私は足の痛みに耐えて夕食を作っています。


②:
テルサホールの本日は11:00から国保連合会のイベントが入っていて午前の各機器テストなどのリハーサルも終り、午後からの本番に備えて一休み。

ボツにするかしないかは分りませんが、[♪蜃気楼]という作品の主旋律を譜面に起し、下段にサブ旋律を加える作業をしている最中、携帯電話のベルが鳴りました。

着信表示を見ると[新鹿]と出ています。私の会社が持っていた野球チームのJAGUARSの副主将だった奴です。36名程いた部員の中では若い方に入る選手でしたがチームメイトからの信望が厚い、とても真面目な若者でした。既に2人の男の子の父親になったとか・。

「監督、もう一度野球しましょう・・」、と彼が言います。「もう、自分達も精神的に成長しました。あの頃の監督の思いがよく分るようになりました。とても懐かしく思っています」、とそんな事を言っていました。

チームの運営って難しく、15名なりの会員が集まらなければ野球チームとしては成立しません。あの頃と今では私の状況が大きく変わってしまい、年間に30万近くの緯費を掛けた形でのチーム運営は不可能。私はこんなチームを2つも持っていたんです。

もう一つは[野武士]というチームです。この2つのチームを総称してJAGUARS-CLUBと言っていました。具体的には社会人チームと高校・大学生チームです。これらの草野球については多くを語っても殆ど意味を持たないと思っていますが、この新鹿という選手は私の記憶に残る人です。

もう、私が先頭を走って草野球をやるという事は100%ないでしょう。但し、この新鹿や酒井がもう一度やりたいという気持ちは分かりますから最大限の協力はしたいと思っています。

「最初から意気込まず、当分は対外試合は望まずにノッククラブ、キャッチボールクラブ程度から再開すればいいんじゃないか」、とアドバイスをしました。


★:新作の[♪蜃気楼]について

この作品は最近はすっかり[失語症]気味になった母を唄っています。それに母は耳が遠く、特に左耳が重度の難聴だという事も左目が不自由だという事も母の失語症に拍車をかけているようです。

詩の一部に、「もっとこっちへおいでよ/お前の事が分からない/そして声を聞かせてよ/だって、お前を感じたいから。もっとこっちへおいでよ/私に話し掛けてよ/そして手を握ってよ/だって、お前がよく見えないよ」、というフレーズがあります。

失語症には軽度から重度まで、人によって様々な症状があるようです。何に対しても言えますが、その人の性格も症状の進行には無関係ではないようです。

聴こえないから意味が分からない。分からないから返事ができない。まっ、どうでもいいかと思ってしまう。聴こえ辛い事を訴えるのを本人自身が躊躇ってしまう、・社会とのズレが始まる瞬間です。

問題は、相手の話にニコニコと頷いて相槌を打っている内はいいのですが、「処であなたはどう思いますか」、という質問を相手がした時にニコニコと頷いて相槌を打っていると、相手は気分を害します。

「ツヤさんはニコニコと聞き上手です」、とデイ施設の方々は口を揃えて言われますが、実はそうではないんです。聴こえていないケースが多いんです。これは母と一緒に住んでいる私には母の表情だけで聴こえているのかいないのかが分かります。


☆:2008.8.30.

★:ようやく晴れそうな明日の日曜なのに、足が結構痛い。骨折かも。

8月9日、「明日10日の日曜はグラウンドで待ってるよ」、とシニア野球クラブの監督さんに言われ、その気になったもののムラムラとして来て数年振りに行ったバッテイングセンターで右手首を痛めて不参加。

翌週、翌々週と雨続き。明日の31日こそと思っていた矢先、昨日の金足踏みで今日も左足の踵が相変わらずに痛い。ずっとビッコをひいています。「もう、野球どころじゃない」という神の声かも・。

腫れもなく浮腫みもないから内出血はなく、もしかして骨折(骨の割れ)かなと思います。筋肉増量ステロイド剤で数ヶ月の間に増えた7kgの体重の影響もあるのだと思います。それに、この痛めた場所は2005年暮れにお袋が骨折した場所と全く同じなんです。

7月14日の嫁の骨折もあり、家族全員が骨折なんて、私もそうなら何となく不思議な力を感じてしまいます。お袋の辛さを嫁と私が味合わされているような・。まぁ、どっちにしろ日常を変える訳にはいかないし、このままでやっていこうと思います。

尚、嫁の左膝の皿の部分の骨折は5週間目。ようやくリハビリに入っています。


☆:2008.8.31。

★:「身体に痛い所はありませんか?」、と不思議な方が・・。

今日の記事は嫁に書いて貰った方がいいのかも・・。

足の踵の痛みは昨夜は一段とひどくなりました。アイスノンで冷やしてはいましたが、腫れているわけではないから気休め程度にしかなりません。

過去、私は同時にではありませんが左右の膝の皿を割った(嫁と全く同じ)経験があります。だから骨折痛というものは最初から覚悟はしていましたが、このズーンという痛みには参ります。膝や踵(母のケース)の骨折の場合とは違ってギブスで固定などできません。ひたすらに痛み止めを飲んで安静にして耐えるだけなんです。当然ながら、日曜野球への参加は暫くはできそうにないと諦めました。


★:さて、今日はこんな事がありました。

嫁が作ったオジヤご飯をお昼に食べた後、台所のテーブルに座って新作の[♪蜃気楼]のアレンジをしたり、やはり、失語症や認知による難聴をテーマにした[♪あんたに聞いてもいいかい](仮題)という曲の仕上げをしている最中の事です。

玄関先で、「高橋さん」、という声に呼ばれた嫁が用件を聞こうと玄関に向かいました。「身体に痛い所はありませんか?」、という声が台所に居る私の耳にも聞こえてきたんです。

私は、「痛み止めの漢方の膏薬でも売りに来られたのだろう」、と思ったのですが、そうではありませんでした。熊本では流通情報会館という場所で定期的な講習や実践もやっていますが、「私達は生物そのものが持っているという生体パワーを研究している集団です」、と言われるんです。

「ハンドパワーですね」、というと、「貴方はそうしたものの存在を信じますか?」、と言われるから、「信じるも信じないも、人と人の繋がりなんてハンドパワーそのものだと思っています」、と答えると、その方は非常に喜ばれました。

ただ、私の足の踵は恐らく骨折しているから、骨折自体がハンドパワーでは治るはずがないんです。

しかし、生体が活性化すれが治り自体は早くなるはずです。「せめて、貴方のその骨折痛だけでも弱くしてあげたいと思うのです」、と申されるんです。勿論、お金なんて不用です。これで有料と言われたら犯罪ですからね。

その方は私の左足を両手で挟むように手を翳した途端、「あー、これは折れている(踵が割れている)。相当に痛いでしょう。貴方は我慢強い人です」、と言いながら5分程度ですが治療?をされました。

「どうです?痛み・・」、と言われるのですが、全く変化はありません。「もう一度、やらせて下さい」、という事でしたので再度、お願いしました。「今度はどうです」。「全然、効果がありません」、と私。

その方はガックリとうな垂れ気味でしたが、「私は自然界にはそうような力が存在する事は貴方以上に信じる人間だからガッカリしないで下さい」、と励ましました。

そして、やがて放置してから9年にもなる腰椎分離骨折の部分へハンドパワーを下さい、とお願いして腰の方に手を翳して頂きました。

その方はご自身が腰を痛めて医者にも見離されて長い間寝たきり生活だったのが、このハンドパワーで元気になり、そのお礼にといろんな家庭を自発的に廻っては奉仕をしているのだと言われました。

私にはこの方のような勇気はありません。恐らく、多くの方々はこのような方々を変人扱いするか、流行の宗教団体の者みたいにる理解する事でしょう。目には見えない、形にして見せる事も温度で示す事もできないモノ、コトを人に伝えていくという事は非常に困難な事だと思うのです。

日本人には不思議な常識というものがあります。それは、困り事や悩み事をお寺さんに相談に行く事は自然な事のように思う癖に、名も知らぬお坊さんが托鉢で突然に家に来られた場合には、「乞食坊主」、みたいに罵るような妙な風潮です。

私は、「貴方の気持ちに応えられないのは私の身体の方なんです。失礼な言い方ですが、私の身体には20数回のメスが入っていて、貴方の修行では敵わない、治せない程のものが巣食っているんだと思います」、と慰めてしまいました。

「何か身体に変化があったら必ず連絡しますので、貴方の連絡先を教えて下さい」、と私が言えば、その方は安らかな表情に戻られて私の家を後にされました。

「何か・あの人、貴方に呼ばれたように来たよね」、と嫁。私と暮らす嫁の目から見るとこのような出会いは何度もあるんです。私の苦境を救うように現れる人がいるのは事実です。

今は21:00前。実は、私の骨折痛ですがかなり減ってきているんです。何だか、この件では続編の記事が書けそうな気がします。



☆:2008.9.1。

★:作の[♪蜃気楼]の歌詞。

母の失語症、難聴をテーマにしています。私は周囲の方から、「お母さんは95歳ですからね。それだけでも今をよしとしないと・」、という慰めを頂きますが、母自身にとっては辛い毎日だと思います。

♪:蜃気楼
もっとこっちへおいでよ  お前の事が分からない 
そして声を聞かせてよ   だって、お前を感じたいから
もっとこっちへおいでよ  私に話し掛けてよ   
そして手を握ってよ     だって、お前がよく見えないよ

だって私は何故だか    言葉がうまく喋れない 
ほんのさっきの事がさ    そうさ、お前に伝えられない 
まるでモヤがかかってさ  何かユラユラ揺れてさ 
ずっとボンヤリしててさ   そうさ、言葉を見つけられない

まるで蜃気楼  それは真夏の午後の 土砂降りの雨上がり
まるで蜃気楼  それは天使の悪戯  母の記憶を試してる 
せめて蜃気楼  せめて母のふるさと あの空に浮かべてくれ
そして蜃気楼  君にできるかな   少しピントを合わせてくれ

★:プロって何だろう。

時に、私へのメールにもありますが(日本に於ける)職業芸能家って何でしょう。絵画や彫刻の世界に生きておられる方々に対して無礼にならないよう、音楽に限定してだけ少しだけ私の意見を書いてみたいと思います。

我が国に関してだけ言えば、音楽家というよりタレントなんでしょうね。テレビ写りが良く、ジョークが言えてボケも突込みも理解できて・、私が思うに・純粋に音楽を主体にした活動で食っている人ってマスコミには滅多に登場していない気がしています。こう書けばなんとなく理解をして戴けると思います。

クラシックの世界大会、例えばある世界的な権威と歴史を持つバイオリニストやピアニストの世界大会を例にします。
毎年1位(不在もあります)が誕生し、3年で3人、5年で5人と誕生します。2位の成績だった人を含めば3年で6人、5年で10人も次々と優秀な人達が誕生します。しかしながら、長い歴史を誇る世界大会でこれ程の数多くの優秀な人達が選出されていながら、その後にそれを職業として十分な生計を営んでいる人はそんなにはいません。

では、プロという定義を[それで食べていけてる人]という条件で検索したとします。意外に世界大会では2位だった人がプロとして有名であって引っ張りだこだったりしますね。

何故、そうなのかと調べてみると面白い事が見えてくるのです。演奏者としての技術を競う大会では1位になったAが2位だったBより勝っていたからこそ、そうした結果が出て当然だったのですが、BにはAが驚くような発想力があって、普段から音楽の別な表現で楽しみ方をしていたんです。

音楽というより楽器と一緒に遊ぶ、と言った方がいいかも知れません。あくまでも例えばですが、Bには[楽器の早弾き]という特技があったとします。その他にも弓を左手に持ってさえバイオリンを弾く事ができる人だったとします。結局、我が国の芸能というものは面白いキャラクターだけを求めている気がしてなりません。

また、音楽大学の教授や講師をしたり、人に教える立場に立てばBの方がAよりも能力があったりします。これだって誰もが驚く立派な技術なんです。邪道だと言い切る人は居ないはずです。

[トータルしての音楽をしている。兎も角、食べていけてる事]という前提で語れば、そうなってしまいますね。音楽家としての様々な力量の違いでしょうか。

マジシャンが技より話術やアクションに長けている人が人気があるのと似たようなものがあるのではないでしょうか。この素人から見た感じた人気というのは大切なんでしょうね。

プロとして自分の活動を維持していく為にはいろんな方の世話になる訳ですから、そうした方々の生活も維持できる力が必要になってきます。決して、自分が上手ければそれでいいという訳にはいけません。それに、今年は1位だった人でも来年だと2位だったかも知れないのです。

アレンジだってそうです。編曲家は他人の作った死にかけたような作品を見事に生き返らせてくれたりします。これは凄い能力であって、私はこの編曲家という人をとても尊敬します。

音楽っていろんな分野があるんですよね。例え、楽器が下手でも構わないから、編曲が上手な人には魅力が多いにあります。私が思うプロ音楽家とはこの辺で生きている人でしょうか。

また、最近ではパソコンで曲を作る人が増えました。例え、楽器が弾けなくてもパソコンの中で素晴らしい作品を誕生させる事も立派な音楽のスタイルかも知れません。でも、「そんなのは音楽家ではない」と言う人も居ることでしょう。

例によって話がそれますが、プロ野球選手のダルビッシュ有という投手がいます。彼は右利きで右投げの選手ですが、身体の筋肉がアンバランスに育たないようにと幼い頃から左投げのキャッチボールも練習に取り入れていたお陰で、何と左投げででも塁間送球を正確にできるそうなんです。これは凄い事なんです。まるで左投げから右投投手で復活した星飛雄馬です。

私も野球をやり、同じ練習をやっていたから分るのですが、普通に右投げ選手が左で投げても8~15mがせいぜいでボールもヒョロヒョロした放物線を描くだけです。努力する人には勝てないという事でしょう。


☆:2008.9.1。

★:泉さんという方が私のCDを・。

過日、我が家の留守電に挨拶程度のお話しか録音がされていなかった為、とても気にはなっていましたが昨夜に再び電話があったんです。

「7月5日の濱野さんの山鹿コンサートに私の勤める病院の看護師長が参加し、コンサート会場でCD:1とCD:2を買って来ていたので職場で聴き回しています。このCD:1とCD:2の27曲以外にも作品があるみたいだが、それをどのようにしたら聴く事ができるだろうか?、というお話でした。

これには私の方にも責任があるんです。最近のコンサートでは新しい作品を中心に唄うものだから、コンサート終了後にCD:1とCD:2を買い求めた方にとっては、「あれ?、[♪母の童歌]が入っていない、[♪施設にて]もない、[♪籠の鳥]も[♪老い、そして俺達]もないじゃないか」、となるようです。とても申し訳ない事態を作ってしまっています。

つまり、「コンサートで歌った曲が会場で買って帰ったCDには収録されていない」ケースが多いんです。

概述したように、今後のある時期からか1枚のCDには9曲程度にしてインターネットでのシングル(1曲単位)、アルバム(9曲単位)でのダウンロード配信や販売を委託する計画です。つまり、1枚のCDに9曲を入れ、CD:1~CD:4とするようにとの提案がされています。

勿論、電話を掛けてきて頂いた泉さんには最新の[♪蜃気楼]を含む10曲入りを無償で送らせて戴きます。


☆:2008.9.2。

★:今朝、母が化粧品を飲もうとする。

始めてではありません。2年ほど前にもありました。朝の事ですから誰でも多少はボーっとテンションが下がってはいるものですが、兎も角は白い乳液を牛乳とでも間違えたのかも知れません。

2年前には透き通った色のアストリンゼン(化粧水)を飲もうとしたんです。骨折で西日本病院に入院中の母は小さなバンビさんのガラス細工をポンと口に放り込んだ事もあります。気付いた私が瞬時に吐き出させた為に助かったんですが、母は美味しそうな飴玉と勘違いしたんです。

これには視力も関係あります。白内障の手術を受ける際、どの距離に視力を合わせるかを医師が聞くはずですが、母の場合には空を飛ぶ飛行機や鳥を見るのが好きだからと兄夫婦が超焦点のレンズの装着を依頼してしまったんです。だから、「見えない、見えない」、と母は言います。

ゴボウと瓜の粕漬が同じに見えたり、机に置いた野球帽を「背中を丸めた猫だ」と言ったり、母には可愛そうな白内障の手術に終わったのですが、その当時に私と母が同居していたとしたら絶対にこのような手術ミスは起こさせてはいません。

埋め込むレンズの選択ミスの件。実に多くの親不孝をしている我が兄の、母に対する親不孝の最たるものだと私は思っています。

まぁ、我が嫁さんなどはイワシをサンマと言ったり、サバをアジと思ったり、赤魚と金目鯛が分らない日もありますから・、ね。

嫁には済まないと思いますが、母にはそうした嫁の天然ボケの話をしては、見えない自分を余り責めないように、と言い聞かせていますが、何事にもキッチリとした母だっただけにモノが正確に見えないというのは辛いんだと思います。


★:目が弱った母が認識しやすいよう、食卓に乗せる皿を変え始める。

最近の母はこんな感じですから、私は食事の時に盛りつける皿の色にも配慮するようになりました。
色の濃い皿、多色で模様が多い皿は使わないようにしています。

原則的に白い皿ですが、冷や奴などは素材が白だから逆に濃い色物の皿が使えますね。野菜サラダなんかには黄色い皿などどうでしょう?。レタスの上に赤いトマトなんか乗せると綺麗で箸が伸びそうな気がします。

焼き魚などに添える大根下ろしにはキュウリやピーマンを下ろして薄い緑色にします。兎も角、何とかして母の目には見え易くして食欲を出して欲しいと思います。


★:母は牛肉が大好き。

母はチキンは好きですね。私達が幼い頃にはよくニンニク醤油に漬込んだ奴で美味い唐揚げを作ってくれたものです。自分の好きな料理は特に上手に作ると言いますから、母自身も唐揚げは大好きだったようです。でも、今の母には堅くパリッと揚げた唐揚げは歯が立ちませんから駄目です。

そこで私は圧力鍋で多少柔らかくしたものを使います。強い塩分は禁止されていますのでチキン自体には最初の味は付けません。でも、この時にチキンを除いた後の圧力鍋に残る茹で汁の一部を煮詰めていって最後に少量の塩、胡椒を入れます。

最近のスーパーには粉末のケチャップソーズも粉末味噌もありますから塩代りにまぶしてもいいです(塩分が強いので注意)。この味付けした煮汁にしばらく漬込んでおいたチキンにメリケン粉をつけてあげます。この衣に微塵切りのニンニクを混ぜていてもいいですね。

そして、母は牛肉が大好き。でも、今の我家で牛肉を食べる事は滅多にありません。元来、長い間の野球生活を過ごしていた私自身が蛋白質の摂取はチキンか魚派、豆腐派な時期もありました。牛肉が高いという理由もあります。

でも、最近の母は食物への嗜好が変わりつつあります。あれほど好きな刺身、味噌汁を残すようになりました。納豆だって大好きだったはずなのに・、と思う日が増えています。鯛は刺身、煮付け、塩焼き・、好きみたいです。

★:そこで、

柔らかそうな牛肉を思い切って買いましたよ。牛肉って火を通しすぎると特に堅くなりますから注意しないといけません。

「すき焼風味にするよ」、と言えば、「あんたに料理ができるのね」、と自宅への車の中での私を小馬鹿にした母の言葉をグッと堪えて作ってみました。

買って帰ったばかりの牛肉を私がいつも飲むBIG-MANという4Lで¥1600くらいの安物焼酎に漬込んでから、先ずはタレを作ろうとフライパンに多めの焼酎を入れて火に掛けながら砂糖、醤油を入れ弱火で煮詰めていきます(牛肉には酒、醤油、白砂糖が絶対)。

お皿に牛肉を盛った時にプラス多少のタレが余るくらいになった時に前もって焼酎に漬込んでいた牛肉を焼酎ごと放り込みます。

タレが元の量に戻り肉に軽く火が通ったら直ぐに盛りつけて食卓に出します。特に牛肉は時間が経つとドンドン堅くなりますから注意が必要です。そして、例によって大根とキュウリの合わせおろしを添えます。

「この緑色の大根おろしも綺麗で美味しいね」。この日の母は大喜びですき焼風味の牛肉を食べてくれました。圧力鍋を使った料理教室になってしまったようで・・。   


★:「直裕っ、車椅子は嫌だよ」。お尻が痛いと言う母。可哀想。

「このお尻の痛さはどうにかならんもんかね」、と母が言います。ベッドで横になり、トイレをする時以外はずっと車椅子の生活ですからね。きついし腰も尻も痛いことだと思います。

でも、仕方ありません。別な車椅子を探して貰おうと思っています。私の作品の中で[♪宇留毛神社の春]というのがありますが、この宇留毛神社に行った車中でも、「直有、尻が痛くなるから車椅子には移りたくない。桜なら車からでも見えるし・」、と言っていました。


★:時に、猫のチッチさんが夜中も構わず走り回るのは何故?。

あれは自分の存在をアピールしているんですか?。日中でも柱や壁の角に隠れるようにして私達を片目で観察していて、そんなチッチを無視して夫婦で話込んでいるとわざと目立つようにトイレ付近から居間にトコトコトコっと全力疾走をしてきます。

それでも無視して気づかない振りをしていると、「・なによ~、貴方達はン」、みたいな表情で再び部屋の角に戻り、そこから顔を半分だけ覗かせて私達の方へ走り出すタイミングを見計らっています。

そして、再びトコトコトコトコっと全力疾走して来るんです。あれはどんな心理状態があってやる行動なんですか?。夜中などは部屋のドアに体当たりして音を立てるんです。

母を車椅子に乗せて移動している最中など、わざと車イスを追い越しといて、通り道を塞ぐようにゴロンと横になるんです。

「こら、そこどけ」、と言っても、「なーに言ってんだか。ヘッ」、みたいな目で寝たままで私と母を転んだままで横目で母と私を見上げています。

男1匹、女2匹、猫1匹の我家は静かではありますが、それぞれが心に様々な葛藤を持ちながら今日も暮らしています。



☆:2008.9.4。

★:音楽の話、続き・。路上パフォーマーについて。

先日の音楽話の続きになります。誰しもが何かが切っ掛けで、そして誰かに影響を受けたのが切っ掛けになって音楽を始めるのだと思います。

これも他の分野に及ばない様、音楽に関してだけという前提で書きますが、日本人の音楽観って殆ど明治時代のままだと私は思っています。これは日本人の体質かも知れません。

矢沢栄吉が受けると分ると誰もが矢沢系を追っかけ、サザンが流行るとサザン系を追い、挙句の果ては大麻事件や拳銃の不法所持やらで世間を騒がすばかりの奴が作る音楽を追っかけていて、[自分の音楽]を探そうとする若者が少ないと思います。

実は、音楽を追究しているんではなく、彼らにとってはファッションに過ぎないのかも知れません。
また、「路上、路上」ってよく言いますが、音楽を楽しんで大衆の面前で披露する前に音楽を追究する時間があったんだろうかと思える人達が多過ぎます。
つまり、音楽ってそんなに手軽にやれるものではないと思います。

若者の多くが弾くギターの話で言えば、多くはジャーンジャジャンジャン、ジャジャッジャジャンジャンって訳の分らないものをやってから歌いはじめますが、あれは何なんでしょう?。どんな曲を弾く時でもジャーンジャジャンジャンって弾きますが、あれはイントロのつもりで弾いているんですか?。

感動を伝えるのも安易な事ではありませんが、感動を作り出すって難しい事が多いものです。でも、自分自身の中に多くの言葉や経験があれば表現に幅が出るはずだから、その分だけ伝える、作り出すのが楽になる気がします。


★:イントロ(前奏)はその作品の顔。大切にしたい。

イントロが弾けない、というのは悲しい。弾けなければ練習してから路上しなさい、って言いたいんです。先ずは騒音、暴音を楽しむより、楽器を持つ苦しみを味わってくれ、と言いたいんです。弾けなければ2人で、3人で組みなさい、と言いたいんです。

弾けない理由はギターを持った最初からプラスチック製のピックを使うからなんです。和音だけをジャンジャンやって、それでギターを弾いていると本気で思っているんだろうか、と思います。何年弾こうが前奏を弾かずに和音だけをジャンジャンだけでは自分が哀れでしょう。


★:別府にある[博堂村]について。

今の若者は大塚博堂を知りません。この2008年、彼が生きていれば64歳になる大分出身のシンガーです。東洋音大中退後に博多の町でジャズ、シャンソンを唄いながら生計を立て、一度はメジャーデビューをしますが陽の目を見ずに銀座で弾き語りをしながら長い苦悩の時間を持ちました。

「苦しい、帰りたい、別府が懐かしい、でも戻ったら負けになる」、と手紙にしたためては母親に送りつけていたそうです。私もその当時の彼の手紙を見せて頂きましたが、その綺麗な文字を見るだけで私は激しく心を叩かれるような感覚に陥りました(でも、実際には違っていて、あの手紙はお姉さんが展示用に書かれたモノでした)。

その彼の苦しみの中で生まれたのが、あの[めぐり会い紡いで]、[ダステインホフマンになれなかったよ]なんです。そして、その彼はこれからと言われながら37歳の若さで逝ってしまったのです。

私の一年はここでの演奏から始まるんです。彼はラブソングの貴公子と呼ばれ、私とは全くの無縁の人です。でも、NHKに言わせれば私の作品だって、[母に捧げるラブソング]なんだと・。


★:この博堂村で知合った溝口しんいち、というスパニッシュギターを弾く青年について。

このスーパーギタリストの溝口しんいち、という青年との最初の出会いは2007年8月26日の博堂村での私のライブで前座を務めてくれた2名の方の一人で今年22歳になる人です。

クラシックギターの名手で数年前から全国大会では2位入賞したり落選したり・、別府に住んでいる気のいい青年です。入退院を繰返すほどに体調の優れない母親の世話をする為、仕事もサラリーマンにはならずに土木工事の期間アルバイトや別府市内でギター教室をしながら暮らしています。

この彼の弾くクラシックギターには惹きつけられるものが多いにあります。指で激しく、時に優しく弾くというのはクラシックギターならではの事です。私も26歳の頃には熊本市の勤労青年会館でギター講師をやっていた経験がありますので彼には多いに関心があるんです。

皆様、別府に行く機会があれば、是非、この博堂村をお訪ね下さい(0977.21.8910)。


★:その溝口しんいち君へのアドバイス。

「溝口君をどうにかしてあげたい」、と博堂の甥にあたる大塚ご夫婦は言われます。彼ほどのギターリスト(実は、エレキギターの名手でもあるらしい)であっても活動が限られていて、自腹を切ってコンサートを開くのが誠一杯だとか・。

「高橋さん、何故だと思います?」、と大塚さんが聞かれますから私は即座に答えました。「ギターが上手い!」、という表現以外に称えるものがないんです。この事は、次に書く内容と重なる部分があると思うのです。  


★:誰も指摘しない、[1.規律、5.気をつけ、1.礼]の和音感覚。

我が国の音楽教育の体制作りは整えられている方だと思っていますが、我が嫁を見る限りでは小中校でいう音楽教師のレベルは高くはない気がします。

我が嫁は熊大教育学部出身で貧しいながらもグランドピアノだけは買ってくれていたという家庭に育ち、幼い頃からクラシック音楽を強制的に聞かされ、済々済高高校に入ってからは某音大の元教授に音楽理論を学んではいたんですが、例の学生運動の最中にジャズの世界に入り込んでは支離滅裂のピアニストへ変貌。音楽教師の資格は取得したんですが、結局は確たるものは身につけることもなくホテルロビーやナイトクラブでピアニストをやっていた訳です。

現在は貧乏暮らしのど真ん中ですが、我家の自慢の一つは居間の一角に防音材で固めたピアノルームがあり、中にはグランドピアノがありますす。この1台のグランドピアノだけには嫁の拘りがあって貧乏暮らしがやれているんです。

まだ、母との同居をする以前には秋頃になると毎年のように嫁にピアノを習いに来る子供達が必ずいて、必死になってピアノに向かうんですが、せめて小学校4年生くらいから習い始めるならまだしも、高校2年になってようやく、「小学校の教師になろう」と決心しても基本的にはピアノが弾けないと駄目だから、慌てて習い始めるのです。全ての子供がそういうわけではありませんよ。

こんな感じで音楽教師が生まれる訳ですから教育学部の受験に通るだけの最低限の技量を身につけても音楽理論が身につかないのは当然です。テーマがない人生って寂しいもんです。

クラシック音楽を聴いていると、実際には相当に複雑な和音が使われていて、それはジャズの世界どころではないほどです。でも、実際の教育現場で子供達に伝えられているものの多くはⅠ-Ⅴ-Ⅰの和音の世界で済まされています。

熊本は吹奏楽の全国大会では常に上位入賞を続ける程のレベルだから言い辛い面がありますが、指導者が転勤になったりすると急激にレベルが変わったりする処をみると教師自体の指導力のレベルの違いがあるのでしょうか。これは高校野球のレベルが指導者によって変わるのと同じ。私が指摘する事と非常に関係があるんです。音楽教師のレベルの高低が激しすぎるのではないでしょうか?。

その典型が某地方局が子供達を集めて作っている子供合唱団です。全国大会に出ても予選落ちのレベルだと思います。今のままだと絶対に伸びない。これは断言します。

子供達の持つ能力はあるのでしょうがアレンジをしていると思われる指導者の和音感覚がまるで戦後の[規律・気をつけ・礼]なんですね。でも、あの子供達の指導をヤマハや河合音楽教室などの民間教室で指導にあたっている若い講師に代えるだけで随分と洗練されたコーラスグループに変身するのではないかと思っています。

つまり、和音(ハーモニー)感覚の差なんです。ヤマハ、河合、ビクターにブラザーもまだ音楽教室をやっているのでしょうか?。私はそういった音楽教室とは何の繋がりもありませんが、学校教育の一環で音楽を学ぶより、こうした民間の音楽教室の方を指導者として招聘するほうが余程レベルが上がるのではないかと思います。

現在の教育現場で身に付けさせられる和音感覚では国際的な音楽の進歩にはついていけない気がするんです。G7‐5&‐9とD♭7‐5&‐9が同じ構成だという事さえ知らない方は多いもんです。
Ⅰ‐Ⅴ‐Ⅰの和声から抜けきれずにいる日本の古い教育現場の話を書いてみました。


☆ 2008.9.6。

★:薩摩酒造の麦焼酎“神の河”は美味い。

この1年程は2,7L入りや5L入りなどで売られている格安のペットボトル焼酎を飲んでいました。大五郎、BIG-MANといった銘柄です。

処が、この最近のニュースで言っていますね。殺虫剤のメタミドホス入りの輸入米を国から購入して酒造会社に転売していた事件。また、原料の米も遺伝子組替え米でもあって食用禁止米だったんだって。

東南アジア戦略の一環で付合いで飼料用に輸入したのはいいのでしょうが、それを民間に転売する日本国もどこか変です。それを買った企業が今度は食用だと偽って各地の酒造会社に転売していたんでしょう?。冗談じゃないですよ。「美味い、安い」、って1年近くもがぶ飲みしていたんですよ。私の遺伝子どうなるの?。プリ。

覚えていますか?。古くはガソリンに灯油を混ぜて売っていた事件。表示法違反事件。最近ではメタミドホスという殺虫剤入りの中国ギョーザ事件。このメタミドホス事件はニンニクがありました。その前には中国野菜そのものの事件。

そして今回は飼料用としての輸入米にメタミドホスが見つかり、国が封印していたものを安価で買い取り、更にこの米を食用米として各地の酒造会社に転売していたんでしょう?。更に酒造用としていただけではなく、米菓子の原料用としても販売していたんですね。私はポン菓子も食べているのに・。

流通禁止米を民間に売るという国の判断も変なものですが、飼料用として買ったものを食用として転売する企業の倫理観も壊れていますね。何か狂い始めています。TVや冷蔵庫、洗濯機、トースターに至る迄、我が国に氾濫する生活物資の多くが韓国や中国製なのに韓国や中国では、「日本製が信頼度が高い」、という理由で売れているそうです。私達はこの実態を知り、我がニッポンに誇りを持てる行動をしたいものです。

やがて、設立して30年にもなろうとする私の小さなままの会社ですが、既述したように年商2億から数百万規模にまで落ち込んでしまい、殆どが人件費で消えては実質的に我が家に残される家計費というのはごく僅か・。

当然ながら我が家の毎日の食べ物の内容も極貧状態になり、サリとて新たな何かを、と思っても私の事ですから、「これだ」、と思うアイデアはあっても母との生活を最優先させている現在は身動きが取れません。

音楽関連ではありませんが力強い、「これだ」、という計画は持ってはいるんです。会社の状態がいい頃には常に¥8マンくらいの小遣いが財布に入っていたものですが、今では¥7000くらいですからね。人生って起伏があって面白いものです。

それに、いつの間にか自分の事よりも自分の仕事上のスタッフや嫁や母の事しか考えない人間になってしまっていました。自分はのたれ死んでも構わないが周囲の者にはいい暮らしをしていて欲しい、と思うようになるんです。
その事で私という人間はせめて常に何かをしようと模索していた人間だったと印象つけられれば、このまま朽ちてもそれでいいんだと思うようになったんです。

最近、そんな我が家の窮状を知る姉夫婦が何かと心を配ってくれるのが嬉しくもあります。具体的には、「母に美味しいものでも食べさせて…」、という口実で送ってくれる月々の結構な金子(キンス/カネコさんと呼ばないで)に季節の果物やとても美味しい茶葉など、これにはとても助かっています。

それに先日などは“神の河”という焼酎を送ってくれました。この“神の河”が実に美味いんです。姉や義兄の心が美味しいのかも知れません。酒って心が満たされた時に飲むのが一番美味しい気がします。
メタミドホス入りの焼酎は4L入りの買置きが1本残っていますが、それを最後にやめにします。当分は薩摩酒造の“神の河”に夢中になりそうです。でも、最近の報道ではこの薩摩酒造も禁止米を使用して製造していたんですって・。薩摩酒造さん、新仕込み分からは正しく宜しく!。


☆:2008.9.7(日曜日)。

★:2年半振り?に紳士野球(シニアクラブ)に参加。そして母との昼食中に。

自宅ではスリッパを履き、職場ではサンダルを履くようにしてからは骨折部の左足踵の痛みは急激に減りました。病院通いをせずに治そうという無謀さだから仕方がありませんが、踝の下に軟骨みたいなものが飛び出しているのが気にはなります。でも、ついに早朝野球に参加しました。

「たかっさん、随分と身体が大きくなりましたね」、と大歓迎してくれる者、「こいつは誰だい」、と迷惑そうな顔をする者、いろんな反応があって当り前だと思いました。

15年間もチームをまとめてこられた甲斐という方が高齢を理由に監督を辞任され、新監督の下では随分と会員の顔ぶれが変わったような気もしました。シニアチームってこんな感じの中で新旧の入れ替わり、強化、弱体化があるのだろうと思います。

私が所属する?チームには40歳~58歳のシニアチーム、58歳以上の還暦チームがあって、こうしたチームが県の軟式野球連盟に登録されているだけで県内に12チームくらいあるのでしょうか、シニア、還暦グループ別に国体まで出場できるシステムになっています。

凄いキャリアを感じる方、単にお遊びの域を出ない方・、と様々です。礼儀は正しいのですが、力が入ってくると口の悪い方が非常に多い気がします。

兎も角、遠慮気味に挨拶をして大人しくして外野でトス練習の守備についていたら、「お前は我がチームでは元遊撃手じゃないか、自分の位置を忘れたのか?」、と言ってくれる方があってありがたいものだと思いました。

「一応、後任の遊撃手がいるが打撃力の差で遊撃はアンタだな」、と言われましたが、従来のような参加はできない事は間違いないし、正式な復帰はどうしたものかと思います。

「転勤でチームを去っていた奴が再び戻ってくる事もあるし、考え過ぎない方がいいですよ」、と言ってくれる先輩もいたり、今日は数年振りに顔を出せただけでもよかったのかも。

そんな訳で今日の6:00からの練習は参加者多く、2チームに分けて紅白戦という形式になりました。私は白チームの遊撃3番を任され、守備機会はなくて4打数1安打という不本意な成績でした。

朝の食事は私の帰りを待って始まり、いつもの朝より遅かったという理由で昼食は午後2:00から、今しがた素麺を3人で食べ終わったばかりです。

野球の帰りに私が買って帰ったいなり寿司を出したのですが、気付けば母はいなり寿司を素麺つゆにつけて食べているんです。。。

トイレではお尻を拭き忘れ、手を洗わない・、ここの処の母は多くの感覚を忘れ始めています。まぁ、温タオルで必ず後拭きするから構いません。



☆:2008.9.8。

★:左右の太股がパンパン。踵の痛みは軽減。創作活動。

踵の骨は順調に回復。20代の頃には膝の皿を割られてレントゲンだけ撮り、医者と言い合いになってそのまま放置しているうちに治っていますから今回も勝手に治ると思っています。それよりも右手首の盛上がった軟骨の方が余程酷いようです。

昨日の紳士野球クラブへの2年半振りの参加は気持ちの上ではスッキリしました。正式な復帰は難しいようですが、来週も晴れなら参加しようと思っています。でも、こんな曖昧で中途半端な思いで参加する私のせいで、レギュラーから弾き出される会員が必ず居るのが草野球の嫌~な部分ですね。

音楽創作はペースを落とし、コンサート主体の活動にしたいと思います。嫁はどう思うかですが、元の自分に戻る事で母を観る目がいい方向に変わるかも知れません。そして、その生活の中で生まれる作品もあるのではないかと思っています。


☆:2008.9.12。

★:夜中のトイレ騒動。

昨夜、2:50に母の部屋の蛍光灯が点いた。カチカチッという音と明かりで私は目を覚まして母の部屋に駆付ける。おしっこではなく大便だと言う。母は大便をベッド脇のポータブルトイレでするのを嫌うので部屋のクローゼットスペースに作った水洗トイレまで介助をして歩かせるのですが、今朝は珍しくポータブルですると言います。

Pトイレの前で立たせてパジャマのズボンを降ろすと中敷きには便がたっぷりとついている。最近の母は排尿や排便をしたいと感じた時には既に出した後の事が非常に多くなっています。

歩かない、車椅子での生活ばかりでは安全性は増しても腹筋、背筋といろんなものが弱っていくようです。勿論、運動不足では内臓の筋肉だって力を失っていくんです。その一方で認知が進むと皮膚感覚なども鈍くなるから排尿や排便に気づかないのだと思います。

母はPトイレに座る一方でウトウトと眠り始めます。「あれだけ出ていればもう、出ないと思うよ」、と言うと、「うーん、でも出るような気がする」、といいながら、またウトウトと・・。

「あのさ、出そうという気持を持たないと出んと思うよ」、と言う私の言葉のそばから母はウトウトと・。
結局、3:25に、「もう、出ない。しない」、と言う母を立たせてお尻にべっとりとこびり付いた便を紙で拭き、お風呂場で作ってきたお湯バケツとバスタオルで母のお尻を丁寧に拭きます。

こんな事をしている最中にいつもだと、母は「今日は日曜日。明日から学校(デイ通い)よね」、と適当なことを言ったりするのですが、今朝の母は何故か神妙です。

母は寝ている最中に排便をしてしまった事や真夜中に私を起こしてしまった事に対して罪悪感を感じているようでした。すっかり沈み込んでいました。確かに、何かを喋ろうとはするんですが。 意識がはっきりしない真夜中の為か失語症が出ているようです。何かを言いたいような表情なんですが、言葉が出てきません。

最近の母の傾向としておしっこをしてもお尻を拭くのを忘れたり、手を洗うのを忘れる事が当り前になっています。今朝は食事の時も、デイに向かう車の中でも非常に元気がなかった母。頑張って欲しいものです。


☆:2008.9.13。

★:[♪心の色]のイントロ部分のハーモニーを削除してツインギターに。

一昨日、新作の[心の色]が出来たのですが、どうも嫁からの受けがよくありません。確かに、ハーモニーの部分の音が厚すぎるような気もして、ボツかな・、と思ったりしていたのですが、前奏に使っていたハーモニーを削除して2本のギターでSOLIを取らせ、全体的なコーラス部分も大幅にカットしてみたら、まあまあの感じになりましたが今後の手直しは覚悟しています。


★:PPM,ビートルズ、シャルルアズナブール、スタンゲッツ、トリオロスタバハラス。

私の学生時代にはピーターポール&マリーが全盛の頃。中学時代からシャルルアズナブールやアダモを聞いていた私には新鮮なものでした。

ビートルズのヘルプという曲のコーラスが好き、サイモン&ガーファンクルのギターサウンドに痺れていました。でも、高校時代の私はどちらかというとスタンゲッツのイパネマの娘に聴き入って眠れないくらいでした。ラジオをつけると米軍基地から発信される音楽、朝鮮からの音楽がバンバンと入ってくるのが佐世保でしたから、ラテン音楽やジャズを知らぬ間に聴いて育ったのです。

山岳部の後輩の馬渡という奴を自宅に泊まりがけで呼寄せ、サイドギターを弾かせて弾きまくったのが[トリオロスタバハラス]というガットギタートリオのレパートリーでした。彼らの出したLPレコードの全曲を細部まで譜面に起し、コピー演奏をしていました。

この馬渡という奴は譜面も読めず、ギターもそんなに上手くはないのですがとても耳がよくて、微妙な音の違いを聞き分けて、「先輩、音が違うよ。そこはディミニッシュだからラとドの音を半音下げてくれ。雑に弾くなよ」、などと言ってくれたものでした。

「何言っとる。押さえていてもその弦を弾かなきゃいいのさ。そんな押さえ方をするコードは一杯あるぞ」、と言い合いをしながらギターを教えているはずだったのが、逆に音楽に対する取組み方を教えて貰っていた気もしています。

古賀政男のお弟子さんでアントニオ小賀(猪木じゃありません)という歌手が居て、ただの歌手かと思いきや白黒当時のHNKのTVでレキントギターを弾いた事がありました。当時は凄い人だな、と思ったものですが、後に私自身が音響の仕事を始めて分かった事ですが、オケを使ったパクリ演奏に近いものだった事が分かりました。彼はギタリストではなくて歌手だったんですね。

[夢で会いましょう]という当時のNHKの番組に代表されるTV界。ダニー飯田とパラダイスキング、富松ウシオ、森山加代子、弘田三枝子、坂本九・、振り返れば実に懐かしい人達がいました。音響システムの充実していない頃だったからか、あの頃の放送では殆どの歌手がクチパクをやっていたんですね。

トリオロスタバハラスというギターグループも当時の日本の音楽界に旋風を巻き起こしたのではないかと思います。世界中の名曲を美しいギターサウンドで表現していました。
現在はレキント専用のギターがありますが、このトリオロスタバハラスが作っていたレキントギターサウンド・・。実はミニガットギターを使い、開放弦で細い方からA-E-C-GーD-Aという普通のギターの4度上の調弦をして弾いていたのではないかと記憶しています。

この調弦は結構使えて、FのアルペジオがCで弾け、AmのアルペジオがEmで弾けますからね。1本は持っていたいギターです。まァ、これは私が高校生3年の頃の記憶ですから間違いかも知れません。


☆2008.9.13。

★:(♪心の色)を配信サイトにアップ。早い制作ピッチで2008年は9作目。

母は2008年2月で95歳になりました。母の母、つまり、私の祖母は腎臓病の為に48歳で没している事を思えば凄い事です。
生きていくに自身の拘りや夢、周囲の家族の理解があれば多少の痛みがあろうが頑張って生きてみようという気になるのだと思います。生きていたいと思えば生きるものです。

確かに辛い毎日ではあるのでしょうが、母は可愛い末っ子の私と暮らす楽しさ、嬉しさの方が身体の痛みを上回っているのだと察しています。幸せに限りはありません。決して物質的な充実感や贅沢感ではなく、生きる幸せを追求する、今感じる幸せを全うする事こそが人間の本来の務めだとは思いませんか?。
さて、明日の天候が気になります。
晴れれば2週続きの早朝紳士野球への参加。先週は2年半振りの参加でいきなりの紅白戦に驚きました。やはりランニングやキャッチボールや軽いトスから始めないといけないと思いました。
グラウンド感覚は本能的に持っているから動きそのものに違和感などはありませんが、体重増が気になりました。最初は息の上がりが激しくて胃液が飛び出しそうになりました。体調を越えたトレーニングでは緑っぽい膵液さえ吐いた経験がある方もあるはずです。明日の私はマイペースでやろうと思っています。
さて、作品制作のピッチを落とそうと思うのですが、どうも失語症への私の思いが強くてイメージが次々と湧いてくるようです。

今年は既に9曲を作りました。これは2007年の年間7曲制作をすでに上回っていて、2006年の13曲に次ぐ多さ。このまま作り続ければ2007年を越えてしまう気がしています。


☆:2008.9.17。

★:ブログの作り方で注意を受ける。大分の皆様、ゴメンナサイ。

Hp自体は野球チームを所有していた都合でクラブ員とのコミニュケーションや日程の連絡用にと10年ほど前から作っていましたが、最近になって主流になっているブログの作り方のルールを知らなかったのです。

ブログって簡単で便利ですが幾つかのルールがあるんですね。反省しています。と言うのも、地域ブログで大分に[じゃんぐる公園]というものがあって[母に生命を返す時:介護・同居記録]として利用しているんですが、他県、つまり、同じ記事を熊本ブログに書いてしまったら多重投稿になる、という事でお叱りを受けたんです。「趣旨が同じならせめてアレンジした記事を書きなさい」と。

一日に沢山の記事をまるでフロッピーデイスクからコピーでもしているかのように次々と短時間に投稿する事も多重投稿になるらしい事を始めて知ったのです。投稿時間が制限される私の場合、全くそのご指摘の通りだったのです。

私の [母に生命を返す時:介護・同居記録]というブログの場合、母の生立ちから現在までの母を書き残そうとしているのですが、母の歴史を書こうとするとどうしても関わった方々や兄弟、親族等々を書く事にもなります。

しかし、その基礎となるのは母自身が語った記憶であり、姉が語った記憶であり、従兄弟が語った記憶や私の記憶なのであって、それらの記憶が全て事実であるという確証はありません。だから、どうしても修正の連続になりがちです。

私のブログ作りは昨日、今日の出来事を日記風に書いていくブログと違って家系譜作りに近いものがあります。何と言っても大正2年生まれで2008年で95歳になる母を主人公にして書いている訳ですからね。

私のブログの記事は職場で時間を見つけては書いてフロッピーに保存するやり方。例えば母の45歳の頃の様子を書いている最中に姉に確認の電話をしたりして仕上げていき、帰宅してから大分の[じゃんぐる公園]や長崎の地域ブログの[のらんば長崎]などに投稿しています。

そして、この投稿の仕方は同一日に2週間分くらいの記事を一気にFDからコピーしてアップしていました。記事に誤りがあれば、その修正分も一気にアップしていたのです。これが多重投稿に相当するというお叱りだったのです。でも、介護家族の私には時間が限られ、その規則が厳し過ぎるんです。

一度書いた記事だって更に内容を充実させたい。つまり、より事実に近い文章に修正したい思いだけでそうした多重投稿というものを続けていたのですが、それがルール違反だという事であればアップの仕方を改めないといけないと思っています。大分の[じゃんぐる公園]にはご迷惑をお掛けした事をお詫びしたいと思います。

ただ、この多重投稿なんですが、FC2などでは一日に30件までの連続投稿が許されていて、この違いが何なのかは私には分からないままですが、何れにしても投稿に制限があるというのはブログを別な何かに悪用している人達がいるという事でしょうか。


☆:2008.9.17。

★:今朝の母。

「ねえ、あなた。私は母ちゃまを放ったらかしにしてここに来ているけど。いいんだろうか?」、とデイに向かう車の中で母が言いました。どうも、最近は私が高橋利三郎(私の父)になっている瞬間があるようです。

「ここって、どこの事さ」、と私が聞けば、「ここは佐世保」、と母は言います。
「母(ライさん)を歌が浦に残して嫁いできた為、そろそろこっちに呼寄せて一緒に暮らしたい」、と言うんです。

「ライさんは怖い母親だったんだろう?」、と聞くと、「そうだけど1日中、畑仕事に家事に働き者だったよ」、と言います。

このライさんは夕方から体調を落とす事が多く、よく母はライさんの腎臓の薬を受取りに病院に通ったそうです。その病院も幼なかった母にとっては決して近くではなく、起伏の多い怖い山道を通って病院へ通ったそうです。

「ライさんはもう居ないさ。死んだよ」、と言うと。「えっ?、」、と言って母は黙ります。そして、その沈黙の後、「アハハ、そうだったね。なるほどね」、と思い出すんです。こんな時の私は一気に老け込んでしまいます。

午後になり、今日は少し遅目でしたが15:10分頃に施設に迎えに行った処、母は珍しくTVのそばでニコニコと楽しんでいるようでした。

「遅くなりました。帰るよ」、というと、「あんたの仕事は早く終わっていいね」、と言います。私の給料は税理士さんによって60%もカットされているというのに、全く。「子の心、親知らず」、です。


☆:2008.9.18。

★:新作の[♪:命の重さ]を作る。国民総失語症状態

最近は母の失語状態がずっと気になったままです。脳の軟化に伴って出るものだとは知っていますが、この数ヶ月間に数度の自宅や施設での転倒事故が脳の軟化に拍車を掛けている気がします。転倒事故はいけません。

[♪:蜃気楼]、[♪:心の色]と続けて失語症をテーマに作品を書きました。この[♪:命の重さ]という作品もある意味での失語状態を描いています。

技術の進化は人間の生活に便利さを与え、スピードを与えては食べ物から季節感を奪い、温暖化作用を引き起して衣類や建築物に至るまで季節感を奪ってしまっています。

新幹線は日本列島の距離感さえ縮めてしまいました。そこで暮らす人々からはふる里を奪い、親子愛さえも奪い、ひっそりと静かに暮らしたお年寄りには日々の慌ただしさだけを押しつけ、人からは人の心の余裕さえ奪ってしまっています。

こうした技術の進化は人と人との会話を奪い、親子の繋がりさえ奪ってしまっています。これは私から見ると国民総失語症状態なんです。


★:その中で引き篭もりの人種を作り出しました。

この引き篭もり人種は逆に言えば目立ちたがり人種。疎外感と闘う一方で社会への報復を考えている人種でもあるんです。「何で、俺だけを置いてけぼりに」、と。

実は、その延長上に佐世保で起きた猟銃殺人事件、秋葉原での不特定多数連続殺人事件などが起きたんだと思っています。そんな事を考えながら作ったのが[♪:命の重さ]でした。

最近の母は失語の症状が激しく出ています。モノの名前や言葉の単語を次々に忘れています。自分の感情を表現できないのです。でも、そんな母でもお天気の話だけは大好きです。誰でもそうですが・。
母:風が出てきたね。
私:そうね。

母:ほらご覧、あの雲。
私:ああ、あれは秋の癖に入道雲?さ。

母:入道雲?。・・夏が終わって欲しくないんだろうね。
私:うん、夏の間は居眠りこいて自分の出番を忘れていたのさ。

母:ほほ、お前も面白い事を言う子だね。
私:そうね、あんたの子供だから性格が明るいのさ。

皆さん、お年寄りは天気の話が大好きです。面倒がらずに付き合ってやってくださいネ。


☆:2008.9.19。

★:母が熊本で初めて使った言葉。「早う・しおし」。

「今日は仕事場に急いで行くんだろ?」、「だったら早う・しおし」。

デイ施設に到着した私がいつものように母を車の助手席から降ろそうと両足を左手で抱え。右手を肩に回した時に母がこの言葉を使ったのです。

「早う・しおし」、とは長崎県北松浦郡の佐々や歌が浦一帯で使われていた方言なんでしょうか?。それとも若い頃の母が山口県の俵山温泉に長期間の湯治生活をした折、京都方面から来られた湯治客が使っていた言葉なんでしょうか、「早くしなさい」、という意味。目上の者が年下の者に使う非常に優しい思いの篭った表現です。

今日の母は自身が息子の運転する車で鶴翔苑というデイ施設へ送っていって貰うことが分かっているようです。だから、「早う、しおし」、と。くいつもの母だと私が送迎している事などは殆ど理解してはいないのに・。

母の失語症には改善の傾向がありませんが、その日のテンション次第ではこんな正常な日もあるんです。正確にはこんな瞬間もあると言った方が正しいかも知れません。老いって分からないものですね。

母がそうなる理由として、私には思い当たる事はあるんです。それはこの2ヶ月間は嫁が骨折の為に仕事を休んで家に居る事です。我が家がこんな状態になって久しいのですが・。

以前だと、嫁の起床時間が少しでも遅れるとバタバタと急かせるように食事をし、うがいをさせ、入れ歯を洗っった後にデイに出掛けなければいけませんでしたから、そんな日の母は嫁の慌てる様子を
傍で感じるのが嫌いなんですね。

母のお世話は息子の私がしている訳だから、母にとっての嫁の朝のパニックは無関係なはずなんです。
やはり、母は昔の人だから「家事をしない嫁が・」、「嫁の癖に仕事をしている」「朝から何を急いで何処に行く?」、といった不満があるんでしょうね。だから、周囲がバタバタと騒ぎ始めると母のリズムが狂って苛ついてくるんだと思います。

私としても毎日コンスタントに8:30には家を出て、9:00までには職場入りしなければいけない為、母のイラつきが分かっていても静観するしかありません。お年寄りって[急かされる]ことを嫌います。

母は比較的に心が落ちついていると穏やかになって物事に対する判断力も維持できるような気がします。お年寄りには忙しなさが大敵。穏やかに、穏やかにです。



☆:2008.9.20。

★:平戸高等女学校の思い出など・・。

よく朝どらのドラマで描かれますが、女学校での日常生活は全てが和服で。決められた着物に下は袴着用だったとか。部屋も大部屋、小部屋と畳敷きになって居て、2人部屋から広い部屋だと7人部屋まであったようだと母は言います。母は本当に昔の事は良く憶えているようです。

冬休み、夏休みなど長期に寄宿舎を留守にする時など、部屋の押入れに布団を置いたままではネズミに囓られてボロボロになるからと帰郷の際には布団を持って帰らなければいけなかったそうです。だから、母の場合には鹿町炭坑の関係者が平戸の女学校まで迎えに行っていたのだろうと思います。

そして、家では持って帰った布団をミツ姉シャマが洗い直し、綿の打ち直しに大変だったそうです。当時の高等女学校に通う女学生達はそれなりに裕福な家庭の子供達だったのでしょうが、それでも流石に腕時計を持っている者は少なく、そうした中でも母は特に立派な腕時計をさせて貰っていたと言いますから、黒ダイヤと呼ばれた石炭を掘る事業をしていた濱野家と河内家は「濱野シャマ、河内シャマ」と呼ばれるほどの特段に裕福な家庭だったと言います。

現在でもある北松浦郡(佐世保市)鹿町町の[炭坑資料館]には当時の濱野家が鹿町町の全ての小学校に寄贈したというグランドピアノが誇りを被って保存されています。


☆:2008.9.21。

★:嫁が受けた講義のメモ帖から失語症について。

失語症とは発声器官や聴覚には異常がないのに既に獲得している言葉を話す、聞く、書く、読む、理解するなどが困難になる事を指す、そうです。

原因としては、特に脳血管障害などの右片麻痺に合併する形で起き、大脳の言語野が損傷を受けた為に起こるとされています。言葉を聞き取れて理解できていても話せ返せない[運動性失語症]や言葉自体の概念への理解が失われる[感覚性失語症]、などがあるそうです。


★:認知症高齢者の感情面、心理面について。感情失禁。

感情面で言えば、認知症がかなり進行しても変化が伴って進行する事はないそうです。しかし、健康な高齢者の感情とは異なるケースも多々あるそうです。

例えば、低~中程度の認知症の場合には周囲の人の表情や仕草、使う言葉などに容易に反応して激怒したりするそうです。何故なら不安や焦燥感、依存心や防御心など、普段からうつ状態、被害心理に支配されて苦しんでいて、その苦しみを言葉で適切に周囲に伝えて助けを求める事ができずにいるからです。

だから私達は、我家の母は自立神経失調症だ、自己主張が酷くなった、などと簡単に思うべきではありません。単に、「年老いて何の役にも立たなくなった自分が周囲にどう思われているか」、を悩んでいるかも知れないのです。

★:我が母のツヤさんも、

「私に何かできる事はないかい」、とよく聞いてきます。しかし、腕の力も指の力も衰えた母は和え物に使うゴマを擂る事も出来ません。擂り鉢の中のゴマが殆どつぶれないんです。でも、たとえ、擂り潰すことが出来なくとも、「母ちゃん、ゴマをすってね」、と仕事を手伝わせる事が大事です。

また、一部の認知症高齢者の中にはいつも笑顔で幸せ一杯という表情をした人もいるそうです。私の母の場合、例え機嫌が悪い時でも来宅者があった際にはニコニコと応じますが、あれは見事です。お客様には気まずい思いをさせてはいけない、という考えを持ち続けているからでしょうか?。

「ほら、直裕!、お茶でも出しなさい」、と矍鑠とした日があります。しかし、お客様が帰られた途端、「さっきの人は誰?、何を言いに来られたの?」、となり、更に2時間も経てばお客様が来られた事自体が分らなくなっています。「はっ?、知らんよ」、と。

★:感情失禁。

認知症には嬉しいのに泣いたり、怒ったり。悲しいはずなのに笑うという[感情失禁」というものもあるそうです。私の母の場合にも転んで痛いはずなのに笑っていたり、嫁が頭が痛いと言っているのに笑って見ていたりしますから、これも当てはまります。

個人差が大きくあるそうですが、一般的に認知症の進行と共に言語障害も進み、話題に一貫性がなくなっていき、断片的で事の顛末の全編を理解するのが困難になるようです。当然ですよね。

骨折中の嫁が、「今日はマヨネーズを買って帰ってネ」、と私に言っている最中に、我が母は「そうね、電信柱が傾いていて、あれは危ないよね・」、と全く無関係な話をし始める事がよくあります。でも、私は笑いません。母は母なりに嫁の言葉を理解しようとしているんです。

多分、母の聴覚異常と強い自己主張(常に話題の真ん中に居たがる)の性格などが重なった時にそのような言葉が母の口から発せられるのではないかと思っています。

話が複雑になりますが、我家のそばの道路には実際に傾いた電柱があって、母の座る居間の座椅子からはそれがいつも見えてもいるんです。・・問題はマヨネーズと傾いた電柱の関係ですね。


☆:2008.9.22。

★:既述した施設での母の転倒事故の件に関係があります~自尊心。

認知症高齢者の失敗行動を介護者が叱ったり、注意や強制的な指導をする事は認知症高齢者の自尊心を傷つける事になります。私は常に思っています。人生の年長者に対する指導は困難です。

認知では自分の直前の行動を憶えていない場合があって、叱られた理由を理解せず、指導された際の屈辱感だけを憶えてしまいます。また、本人には到底できない事を無理にさせる事でも深く傷つきます。
介護の研修会では一般的に、叱らない、訂正しない、説得しない、理屈責めにしない,、強制的な指導をしない事が大切だと言われます。でも、ついつい介護者側がやってしまうのが感情的な指導なんです。「一体、何度言ったら分かるの?」って。


★:母の骨折時、ある整形外科医が・。

「お婆ちゃん。何をしようとしていて倒れちゃったの?」、と手首を骨折した母に聞くんです。
「先生っ、馬鹿な質問はせんでくれっ」、と思わず私は言い返しましたよ。そんなもの答えられるはずがありません。


★:2年前と今回の母の転倒のケース。

約2年前、歩行訓練の為にリハビリ入所で3ヶ月間を施設で過ごした頃に母がトイレで転倒しました。
この時、「ツヤさんには車椅子の使い方を何回教えても覚えて貰えないんです」、と介護士さんに凄い剣幕で私は言われました。しかし、これは介護士としての己の立場を忘れた言葉でした。

施設長と一緒によくよく事故の原因を探っていけば、母の転倒の原因は介護士さんによる動作介助がなかった事が原因でした。

更に、その事故時に母に与えられていた車椅子は母がいつも使っている車椅子とはブレーキの掛け方が正反対のタイプだったんです。母が使ういつもの車椅子は殺菌消毒の為に取り上げられていたんです。母が使っている車椅子は手前に引いてブレーキ。この日の母に与えられていた車椅子は向こうへ押して利くブレーキだったのが転倒の原因。つまり、我が母ツヤさんのブレーキ操作は間違ってはいなかったことが分かったんです。

この日の私は、「お前こそ、何を専門家ぶってんだ」、と詰寄りましたよ。でも、この転倒の原因が分るまでの母は哀れでした。施設側に詰め寄る私の横でヘラヘラと笑っているだけですからまるで馬鹿扱いされていました。私は母の尊厳を守りたかったのです。

確かに、この頃の母は便座に座る為の立つ介助。車椅子に戻る為の動作介助さえあれば車椅子を自分で操作してトイレに行く事ができていました。

しかし、この時の母は車椅子からトイレの便座に移るまでの介助を受けただけで、介護士さんがその場を離れてしまったのでした。

そして、用を足した母が車椅子への移動段階での動作介助を受けられず、仕方なく自分でトイレの壁の手摺りを掴んで立ち、車椅子の肘乗せに体重を掛けて乗り移ろうとした途端に車椅子が後方へ動き始めて後頭部からトイレの壁に激突していたのです。大きな瘤ができていました。プンプン。

このように、この時の母の転倒の原因は介護士がトイレでの立つだけの介助をしただけで、車椅子へ座る際の介助をしなかった事が全てでした。母はブレーキを掛けてから立ち上がったはずでしたが、逆だったんです。

人材不足を理由のこうした介護状態はどこの施設にもあって、同じような転倒事故が起きているんだと思うと怖いものです。トイレ介助は食事介助よりも難しいものです。

「ガタン」、という音で我に返った介護士がトイレに戻った際の母は、トイレの床で天井見上げて仰向けに転がっていたそうですが、何がどうなっているのか分らない母だとしても、汚いトイレで横になるという屈辱感は理解していましたからね。


★:母が、「もう、いいですよ」、と言ったから、「持ち場を離れた」、と介護士が弁解。

日常的に便座に座る為の動作介助が必要な老人を、[放置する]、という考えは絶対にいけません。この転倒事故時の母の担当介護者は、「お母様が、もういいですよ」、と言われたからその場を去ったと弁明するんです。こいつは駄目ですね。介護士を辞めた方がいい!。

母にそんな判断が出来るんだったら、こんな施設を利用するはずがないのに。こいつは資格を持つ介護士です。こんな奴と一緒に働く他の介護士さんの気持ちが分かりません。

★:通所から入所へ切替させる為の施設ぐるみの意図的な転倒事故?。

この日の私の脳裏に思わず浮かんだ勘繰りがありました。通所者ばかりが増えて入所者が少ない施設では意図的にこうした転倒事故を起こしては入所者組への移行処置を図っているのかも知れない・と。


★:この日以来の母は、

14:30に私が施設に迎えに行くまでトイレを我慢するようになり、施設に迎えに来た私の顔を確認するや、「直裕っ、早くトイレトイレっ」、と言う日が多くなりました。更には家でも、「お茶は飲みたくてもトイレが近くなるから飲まない」、と言うようになり、一度の転倒事故が引き出す影響は大きいものです。

私は事故の連絡を受けた後で、「母の担当をしていた介護士さんは私の母が95歳で要介護度が4だという事を知っているんですか?」、と施設の責任者に質問した処、下を向いたままなかなか答えてくれません。

「・その質問に正確には答える事は出来ませんが、多分、個々の介護士はそこまでの把握はしていないと思います」、と施設長も言うんです。把握させるのは施設長が申し送りをしているかしていないかの違い。介護士を採用する際の義務事項と思うんですが。

施設の利用者が何歳でどのような既往症を持っているか・、は施設側は知っていてこその介護施設とは思いませんか?。「多分、個々の介護士はそこまでの把握はしていないと思います」、と言った施設長・、己の老人介護観がその程度なら施設長は不向きです。


★:要は、

大勢の者が働く一つの施設の評判を上げたり下げたりするのは一人の介護士さんのファインプレー、ラフプレーであり、そのラフプレーを見た他の介護士が明日は我が身だと思うと報告さえしなくなり、互いに隠し庇い合うようになり、やがてはそれが標準(スクエア)プレーになってしまうんです。そして、その監督は施設長です。

グラウンドの選手にサインを出すのに「個々ではサインを知らないと思う・・」という返事は情けない話。普段は感謝する事のほうが多いのですが、鶴翔苑には組織的な欠陥があると思います。

悪い評判が立つって、そんな事からではないでしょうか。辞めていった介護士さんが作り出す根も葉もない噂だって多いと聞きますが、これは介護士同士の睨み合い、つまりはファインプレー選手とラフプレー選手の混在が招く結果です。


★:メラニン塗装を知らない馬鹿な看護師も・。

母が入院していた頃の病院でのこと。夏の暑さに汗ばんだ母の身体を拭いてあげた後、ベッドのシーツの歪みを直そうと思って塗れたままのタオル類をベッドの縁に置いた処、「たかっさん!、塗れたタオルをベッドの縁に置いたら木が腐ります!」、と注意を受けたんです。

「このベッドは木ではなく金属製であってメラニン塗装までされていて、湿ったタオルでは腐る事はない」と言えば、「・・・・」、と。そして、別な看護師さんは「そうよ」と。今時、こんな会話をしましたが、この看護師さんは単に八つ当たりのようでした。今時の看護師も介護士も家庭での不愉快さを勤務先にまで持ち込んで憂さ晴らしをするんですか?。



☆:2008.9.23。

★:「3ヶ月間に及ぶ治療は軽傷扱い」、とJA球磨。JA保険の加入者は契約を見直したがいい。

昨年7月の追突事故の補償のその後。人の不幸を待つ人種!。他人様の拠出した金で食っている癖に。[JAの会社規定]が俺の遭った事故に何か関係あるのか。

3日程前に加害者の加入するJA球磨の事故担当者である石川という者が私の提出していた請求するに必要な書類に対して、「認定する、しない」、という例によって私の大嫌いな文字を羅列した解答書類を送りつけてきました。

停車中の事故で加害者は100%の責任を認めているというのに、加害者が加入するJA球磨が[会社規定]なるものを被害者の私に突きつけ、[これとこれらの書類を提出しろ、そのうちのこれは認めて、これは認めない」、と一方的に言うのは理解できません。全てがJA球磨が出せという会社規定上での証明書類でした。

「高橋さんは会社経営者ですから所得保証はしない」、と一方的に宣言され、不信に思った私が友人の別な保険代理店に聞いた処、「我が社ではそんな事はない」、と言います。その事をJA球磨に伝えると、「・・実は会社の損金みたいな形でなら・」、と言葉を濁します。

彼は様々な2番目、3番目の言葉を出してくるのです。こちらから問い詰めない限り別な方法を教えないというJAのやり方。こうして、昨年7月の追突事故以来、1年経ってもいまだに何の補償もありません。加害者は全面的に自己過失を認めているのにです。

最初から、「こうした形でなら出せないが、こんな形であれば出せる」、と言えばいいのに、「治療中の会社経営者の所得保証はしない」、とだけ告げたから私は怒ったんです。JA球磨は卑怯と思いませんか?。

貴方のケースではこの方法が駄目だから、こうした書類を集めて下さい・、という訳ではなく、幾つもの申請書類を準備していながら、こちらが、「こんな形でだせないのか」、と聞いて、始めて、「実は、ある」、と言うんです。しかし、その書類を書けば書いたで、「それは認める、認めない」、とまるでどこかの役人気取り。

他人の起こす不幸と掛金で食っている癖に・。第一、私はJA球磨の自動車保険とは無関係の立場です。そんな私にJA球磨の自動車保険の規定を説明しても仕方がないと思うのです。そんな話は加入者と交わすべき内容のはず。

外科、脳外科、脳神経科と3つの病院を転医させられ、3ヶ月も通った病院の書類には書かれていない「軽傷」という文字が、このJA球磨の書類には書かれている。JA球磨は「交通外傷認知症」という診断で我が家への帰宅経路さえ忘れるほどの状態田さえあった私を「それは軽傷だ」、という前提で示談の席につこうとしているんです。こいつは医者か?。と思いました。

私の知る限り、「軽傷とは2週間程度の期間に完治する傷害」、を指していますが、JA球磨の自動車保険では治療期間が3ヶ月間でも軽傷という基準があるのだと思います。こんな保険代理店はキャンセルした方がいいですね。

後述しますが、よくよく調べれば、JA保険というものは東京海上火災、その他の大手保険会社の下部組織であって、仲介料だけを目的としたものでした。

★:食事の塩分について。

最近は特に目が不自由だという母ですが、まぁ、左目は失明してはいますが光がある場所ではそうでもないようです。

既述したように両眼(とは言っても左目は失明)の裸眼で0.2だから不自由には違いない。白内障の術後自体には問題ないのでしょうが食事での塩分の要求量が多く、一向に改めようとしないから仕方がありません。

サラダ類にしても私が醤油風味、味噌風味、紫蘇風味、ニンニク風味、生姜風味にゴマ風味・、と嗜好を凝ったドレッシングでしっかりと味付けをしても、その上から必ず醤油を更にかけて食べます。

「お母さん、ちゃんと直さんが美味しく仕上げてくれているのに・」、と嫁が言えば、「美味くないものは美味くない!」、と作った私を前にして堂々と言います。トホ。

母の育った長崎県北松浦郡の歌が浦は港町で[焼きあご・飛び魚の事]の生産で知られている程の漁業の町でしたから、「取れた魚は刺身に干し物に煮付けに塩焼きと毎日3度でも食べていた」、と母は言います。

母の母、ライさんの腎臓病も塩分の摂り過ぎからだったはず。幾ら歳をとっても、食事の嗜好は変わっても味付けに強い塩分を要求する事だけは変わらないようです。皆様のご家庭ではどうなのでしょうか。

結局、血圧が高いから塩分はいけないと、その塩分を体外に出す薬を病院が調剤するから出した塩分を更に補給したくなるんだと思います。結局、イタチごっこになっているんです。これは私が我が身を以て試してみたんです。

私がこの塩分を体外に出す薬を飲むとグターッと疲れてしまって居眠りばかりしましたから、塩分って生体にとって必要なものでもあるんだ、とつくづく思います。

しかし、母の場合には明らかに塩分の過摂取剰には違いありません。父が健在な頃ですが既に60代の頃から母の両脚は指で押さえるとボクッと凹んでいましたから長年の間の塩分過剰な摂取があったのだと思います。

母はとても料理が上手でした。それに漬け物名人でした。これもライさんやフサ子姉さん、ミツ姉さんが作る姿を観察していて覚えたと母は言います。布団作りも、裁縫も誰にも習った事はなく、見よう見真似だったそうです。

美味しい料理と美味くない料理の差というのは、この塩分調整なんでしょうね。例えば、塩分100で万人が美味い、と感じるとしたら。99では、「うーん、いまいち」。101では、「塩っぱ過ぎてまずい」、と言われるほどに塩分って大事な味覚の要素なんです。

だから、調味料は、[○○○ナトリウム]というように必ず塩分と反応させて作ってあります。生命って、元々が海から誕生したものですからね。


★:母の目。実は視力よりも暗さではないだろうか?。

「あら、あんな高い所で作業して・危ないね」、とデイに通う車中、母はかなりの距離がある所のビルの工事現場を見ながら私に話し掛ける事があります。高く遠くを飛ぶ旅客機や自衛隊のヘリコプターなど蚊みたいに小さく見える物体を私にも見てみろと言うんです。

「後の羽根(尾翼)」にはANAと書いてある」、とさえ言います。その他にも、「ほら、あの建物の上にある尖った棒(避雷針)はお前には何本見える?」、と訊ねたりもします。

腎臓の働きが悪くなってくると血液の浄化能力も弱くなっていき、目の視力にも影響がありますね。目の中の濁りの状態が改善されなければ視力としてはあっても光(映像)が網膜に達しにくくなりボヤけて見えるようになります。
白内障の術後には問題がないとすれば血液の濁り、つまり、腎臓の浄化作用が悪くなっているということでしょうか?。そうであれば前述した塩分の過剰摂取はよくありません。

それと、もう一点、白内障の手術の際にどの距離のモノをくっきりと見えるようにレンズを作り、埋め込んであるかでしょうか。

遠近両用メガネを買う際、「どの距離に焦点を合わせたレンズを作りましょうか?」、という質問が必ずあります。これはその人の生活環境に合わせようとする為です。

タクシードライバーであれば40m手前から信号の矢印がはっきりと認識できる距離。職業としてレジ前に立つ事の多い人は手元に焦点を合わせる、といったレンズの作り方をするはずです。

そういう意味で母の白内障時の手術で作られたレンズは比較的に遠くのモノを認識するように作られているような気がします。しかし、この母の白内障の手術を決めて話を進めていったのは兄夫婦ですから私には分らない事。残念ですが、それを兄嫁に確認しても確信を得られません。

「私にはTVの画面がよく見えない、部屋が暗い」、と言う割に明るい日には遠くの蚊みたいに飛ぶ飛行機を見つけるのが上手い母の日常を見ていると、どうも母の目に埋められたレンズは遠距離用(長焦点レンズ)のような気がしています。
だから、暗いのは目の中の液体の汚れ、近くが見えないのは埋め込まれたレンズが原因ではないかと思います。



☆:2008.9.24。

★:失語症の続き。

失語って辛いと思います。思っている質問や返事が出来ないのですからね。デイ施設では母の言葉が極端に減ったと聞きます。この失語には運動性失語と感覚性失語に大別できるそうです。

(運動性失語)

発音、発声のタイミングが調整出来ず、音をうまく表出できない/口数が少なく、話してもぎこちなく口ごもったり、途切れがちになって、「用件をもう一度、話して下さい」、と催促しても同じ内容の事を復唱できません。また、日常会話程度なら理解できますが、出来事の意味づけは出来ません。文字に関しては読み書きはひらがなの方が困難なケースが多く、漢字の方が理解するケースが多いかも。

(感覚性失語)

言葉の意味、モノがそこにある理由、それを形容する言葉などが理解できない、発せない。すらすらと話す場合でも、モノの名前や形、色を表現する言葉や形容する用語自体に誤りがある場合が多く、発音も違うケースが多い。日本語にならない事が多い。相手の話している言葉自体を理解できない。文字の解読ができない。時に漢字を理解する。

・と、このような事が専門誌には書いてありましたが、どの程度の研究時間を割いての結果なのかは分りませんね。2003年3月末以降の6年間、一日に19時間程度を一緒に過ごしている私の目から観る母の失語がどちらに属した失語なのか・、我が母の場合、文字に関しては漢字も平仮名もスラスラだし・。

大まかに言えば、脳の機能障害がどの部位の軟化に伴うか、その部位への血流がどう阻害されているか、という事みたいです。ただ、重度の失語症は脳卒中の危険因子になるという事には驚きました。母の場合、両者にまたがる部分がありますが、どちらかと言えば運動性失語症でしょうか。

★:医師の診断には【推定診断】という文字で逃げ道が作ってある。

知っていて納得し、知らなければ腹が立つこともある大事なことを皆さんにお伝えします。それは医師の診断とは【推定診断】である事です。これは病院に保存される診断資料をよく見れば書いてあります。

まぁ、医者にしたって患者本人ではなく、患者を我が身のことのように思って診察や検査をしても結局は痛みや苦しみは本人にしか分からないことであって医者には想像でしか理解できません。

また、高齢な医師の場合にはその日の医師自身の脳の回転状態によっては診断に曖昧さがあるだろうし、逆に若い医師の場合、キャリア不足によって己の診断に曖昧さが出たりするはずです。また、介護家族側が己の老いた父母の瞬間瞬間の言動を一日中観察しているわけではないから、医師からの質問に正確に答えているとも思えません。全ての診断というものはこうした考慮の上での断定ではなく、推定という但し書きがついていることを肝に命じておきましょう。

ただ、高齢な患者自身には次のような心理が働いている事を医師や看護師、介護士さんには理解して欲しいと思います。
ご高齢の方々には、「何事にも積極的で話す意欲がある、参加する意欲がある。でも、申し訳ない、済まない、こんな自分になってしまって・」、と現在の自分を理解している事が多く、従って見栄も自尊心もしっかりと持っていて、しかし、その気持ちをうまく伝えられない、という悔しい思い。

伝えようとすると簡単な言葉しか出てこない。感謝や怒りなどの幾つもの言葉を繋いでいこうとすればする程に自分が何を伝えようとしたかさえ忘れてしまう、といった状況です。ここにご高齢者に対する畏怖や尊厳の意が必要になってくるんだと思います。


☆:2008.9.25。

★:母との付合い方~母の自慢を話題にしてげる事。

認知に難聴は関係がないと言われますが、私は母を見る限りそうは思っていません。面倒がり屋の母は真剣に周囲の話を聞いていない事が多いんです。

つまり、難聴がある為、理解出来ないが為、その繰り返しの日常が続くうちに次第に投げやりになり、憶えようとする気力も失せては時間的に身近な記憶から順に消えているように周囲の者の目には見えてしまいます。

「どうせ聴え辛いから、聞かない」、みたいな処があって性格的なものがあります。補聴器は映画鑑賞時や講演会などでアンプ側の周波数合わせの設定さえして頂ければワイヤレスででも使える立派なものを我が母は持っていますが、デイ以外では家庭ででも使おうとはしません。首から提げるのが嫌いなんです。

そうした生活を続けているから記憶しないのです。私達だってそうではないですか?。

聴えない上、聞こうと努力もしないものは覚えません。自分自身に追求する思いさえあれば、仮に母が何度でも説明を求めれば私は何度でも同じ事を答える気持は持ってはいます。でも、「は~い。分かった」、「はいはいはいーっ」、と答える時の母は投げやりになって適当に答えている時の母。

逆に、幼い頃からの母の旧知の方から戴いた最近の手紙を手に、母の昔話を聞こうとすると母は豹変します。「昔話の前にその手紙をゆっくりと読んで聞かせておくれ」と言い、母の望み通りに私が読め始めると、「そうか、そうか。お孫さんに子供ができたんだね。良かった良かった」、と旧知の方からの手紙の内容をすべて理解するんです。

そして、「この人の若い頃はネ・・」と次々と母とその旧知の方とのエピソードが母の口から飛び出してきます。・・が、問題は15分もすると「さっきの手紙は誰に来た手紙だったの?」、と。


★:どうせ聴こえないから、聴く気もない・の繰り返しは怖い。

聴く気もない、だから聴かない。そして、覚えることもない、という事を繰返していると感動することもなくなり、記憶もしなくなります。つまり、脳という本棚に大事に保存する事がなければ、後になってその時の話題が出ても思い出せないのだと思います。皆様のご家庭ではどうなんでしょうか?。

☆:2008.9.26。

★:母の難聴について

これも既述した事ですが、水と言われたら水と理解しますが、私が「真水」と言うと理解しません。水に真がつくと駄目なんです。(なみす)とでも聴えているのでしょうか。清水と言っても(きみす)と聴こえてしまうようです。「キミズっちゃ何ネ」、と母が聞き返しますが、実はこの反応が大事なことで、母には《聴く気がある》証拠なんです。

「キヨ・ミズさ」、とゆっくり言えば、「あぁ、キヨミズの舞台から飛び降りる・清水のことね」、と、そして「お前の喋りは早すぎる。最初からシ・ミ・ズとはっきり言いなさい」、と。。

★:手振りでアクションをつけて話すと

湧出る清水くらいは、「ハイハイ」、と多少遅れて分ってくれます。或いは、そうした水が湧き出る場所に行って《水を話題に関した会話》だと成立するような感触を持っています。その場所が母との散歩コースにある八景水谷公園ですが、ここには至る所から湧き出る水があり、敷地内には水の博物館まであって、母とは水を話題の会話が続きます。

「ここは気持ちがいいね、涼しいね」、みたいな中で使う言葉の真水や清水、湧き水という言葉への母の理解は早いんです。これは耳からだけではなく、実際に目や肌で感じる涼しさが言葉に対する母の理解を手伝っているのではないでしょうか?。


★:認知を遅らせる方法。

その他、頭の中でイメージさせる事で会話がスムーズに運ぶ事があるんです。以下は全てが母の耳元でゆっくりと話し掛けをして、母が聞こえているという前提での事です。

漠然とした海や空や山の話をするより、母の育った歌が浦という場所の話をして母の脳裏に歌が浦の海を空や山を母自身に描かせるのです。

自分の育った故郷の自然をイメージさせる事によって海の水や空の青さや山々の緑の話ができるようになります。母は歌が浦の話をするのが大好きで母にとっては自慢話でもあります。

この地の話をさせる事で母の認知の進行を知る事ができます。一つの質問をする事でその数倍もの言葉が母の口から正確に発せられます。この時には失語の症状も驚くほどに減っています。

単に母が幼い頃の歌が浦の自然風景が母の脳裏に浮かぶだけではなく、身体が不自由になった分だけ、「教えを求められる事への喜び、自分だって頼りにされている」、という感動が湧いて言葉になるのではないかと思っています。誰だって嬉しさ、喜びは正確に伝えたいですからね。

母は老いた脳ミソをフル回転させて自慢話をするのだと思います。日々の充実感、生甲斐を与えるってそういう事ではないでしょうか?。誰だってそうですね。言葉には心地いいものと非常に汚いものがありますからね。



☆:2008.9.27。

★:ぽーれぽーれ。

私の手元に「ぽーれぽーれ」という[(社)認知症の人と家族の会] が発行する冊子があります。
2006年の頃でしょうか、私の作る音楽CD集[母に生命を返す時]、を富山支部の方へ送った処、丁寧な礼状と共に毎月送られてくるようになった出版物がその「ぽーれぽーれ」、というものです。

アルツハイマーを主体に広く老いや介護について専門家から介護家族の方など、実に様々な方々が研究論文みたいに、或いはエッセー風に、短歌や俳句で老いを語っているものです。その中で長崎の会員さんが寄せられた記事の一部を紹介します。

質問者:兼業農家の嫁:54歳)

76歳の姑は、2年程前からかなりの物忘れがありました。最近では暴言やおかしな行動も始まり介護が大変になりました。専門医に相談したいのですが、夫も実の娘達も「それは年相応。ボケではない」と言って反対します。どうしたらいいのでしょう。

回答者A:
私の場合も、夫が自分の母親が認知症である事を認めようとはしませんでした。結局、夜中に自宅を抜け出した母が警察の世話になって初めて理解したんです。

回答者B:
我家の姑は、余りにも異常行動が多くなったので専門医受診の必要性を義妹たちと話すのですが、断固たる拒否が続きました。私が膝を悪くし10日間ほどの検査入院をし、その間の母の世話を義妹たちに頼んだことで義妹たちも姑の状態を理解したんです。 

回答者C:
そんな姑を世話する忙しさの中で、その状況を理解しない家族を相手にしていても始まらない。症状が進んでしまうかも知れません。家族への相談より先に貴女が一人で姑さんを専門医に連れて行き、その結果をご主人に伝えたら如何ですか?。

回答者D:
私の場合、回りの無理解の中で一人泣きながら、「いっそ、死んでくれたら」と思う毎日でした。私自身が神経内科を受診し、その先生が私の状況を夫に伝え、姑も診せてみようということになりました。

ここで一呼吸、富山県の方の独り言をご紹介します。

・父を看る 母の小さな肩を抱き 優しき心の鼓動を聞けり
・大トンボ 人居ることに関わりを もたぬがに飛ぶあけすけの部屋

いろんな記事を紹介したいのですが、私にもなかなか自由に使える時間がありません。以前、読売新聞に掲載されたという記事を載せてみます。
 
 私は最近まで特別養護老人ホームに預けられていた。私の介護を一手に引受けていた褄が無理がたたって股関節の置換手術を受けたからである。老老介護の行き着く先である。妻の股関節の金属骨への術後はリハビリも含めて、約2ヶ月の入院が必要だった。

 一人では寝起きもままならない私は途方に暮れた。しかし、棄てる神あれば拾う神ありで、たまたま私の実妹が茨城県つくば市で特養を経営していたので文字通りの緊急避難となった。

お陰で誰もが一度は通らねばならぬ人生の終末期を過ごす終(つい)の宿りを一足先に経験することになった。ここで私は、想像を絶する超高齢化社会の現実を目撃したのです。

 私が居た棟には重度の認知症の老人が多かった。一日中、「痛い痛い」と叫ぶ老人。鈴をつけて黙々と院内の徘徊を続ける老婦人。口紅を塗って童女のように華やいでいる老女。「あいやあ」と終日泣き続ける百歳になるお婆さん。何かがなくなった、誰が盗んだんだと言い張る老婆・・、凝縮した老いの姿が私を直撃した。

生きて出所する人は希で、みんなここで死を待つ老人であった。実際、私が居る間だけででも3人の方が世を去った。そんな老人たちを支えているのは介護職員たちのたとえようのない優しさであった。

全員がそうだとは言わないが、彼らには滅び行くものへの共感があった。人の嫌がることも率先してやる事は勿論、何度繰返されても嫌がらず、優しく受け答えする。夜中にひっきりなしに鳴るブザーに嫌な顔ひとつしない。職業とはいえ、なかなか出来ないことだ。

認知症とはいえども、人には生きてきた歴史がある。その積重ねがあって今の存在があるのだ。老人の記憶は今は失われていても、彼自身が長い過去の時間の記憶なのだ。介護する人は一人ひとりの老人の一生、全存在と向き合わねばならないのだ。

大声で叫ぶ老人が元自衛隊の幹部だったらなだめるのに軍歌を唄ってあげる。元大学の教授だっら先生と呼ぼう。介護をする為には老人の隠された過去の人格を認めるしかない。

ー省略ー

介護には、介護する人される人。人それぞれの本性が現われる。そして、人間の本性とはなんと奥深いものであろうか。.ようやく分かりだしました。母ちゃんごめん。そして、ありがとう。



☆:2008.9.28。

★:ある友人の話。崖の上のポニョ。

母との同居以前には米大リーグ中継を夜が明けるまで見たりしていましたが、今の私は映画、TV、小説・、などを見る読む時間がなかなかとれません。。先日、先輩が私の事務所を訪ねてくれ、次のような話をしていました。

お盆に里帰りしていた息子夫婦や孫と一緒に「崖の上のポニョ」とかいう映画を観に行って気づいた事だというのです。子供達の振る舞いを見ていて、「あー、このままだと将来はどんな大人になるな・」、というのが何となく分ると言われるんです。

映画のシーン展開に合わせて泣いたり、ヒヤヒヤしたり、ホッとしたり表情豊かに映画の世界に浸る子供がいるかと思えば、最初から映画自体が作りモノだと分っていてポニョを観る気がない子供。

必死に観ているかと思えば、「ワーッ、綺麗。イヤッ、怖い」、と映画のストーリーを無視してシーンの中のキャラクターだけに興味を示す子供・、と我が身の血を引く子供達とは言え、昔の子供達の示した反応とはすっかり様変わりした現在の日本の平均的な子供の表情を見たと言われます。

刺激があり過ぎる世の中、モノの溢れ過ぎる世の中、テンポの早い世の中・、とありとあらゆるものが溢れた世の中に育って、物事を深く追求しない、急ぎ過ぎて追求できない世の中がそうした子供の個性を作り出しているのだろうか。これが個性だとは言わないかも知れません。自由気ままな性格、制御を知らない自我だけが勝手に発達している姿ではないでしょうか?。

自己をコントロールできない性格、思うまま、思ったままに自分を表に出す習慣を修正しないままで大人に仕上げてしまうと、いい結果よりも悲惨な結果を出すケースが多いもんです。

余りTVを見る機会がない私でもドキュメント番組などを見掛けた際には最後まで見てしまう事が多いのですが、東南アジア、ソマリア等を取材したモノなどで現地の子供達の笑顔、泣き顔など多様な表情の中に本当の人間らしい、子供らしい表情を見てとるのは私だけではない気がします。

あの素朴であどけない表情は今の日本ではなかなか見つける事のできない表情だと思います。先輩と私はそんな事を話したものです。


☆:2008.9.29。

★:私の幼い頃の記憶を拾って・。

最近のいろんな殺伐とした事件を考察していくと、幾つかの理由を見つける事ができます。

兄弟が少ない、或いは居ない。親との触合いがない。考える事をしない、相談する知人がいない。兄弟が居ても全てが危険で悲惨な結末になるという理由だけで喧嘩をさせない。そして、既にそんな環境で育った者達が社会の重要なポストに就いていて、決め事を作ってしまっている。

本来、別な意味での言葉だと分っていて使いますが、「火がない所に煙はたたない」、と言いますね。私はこのことわざ自体が間違っている気がしています。

実は、「煙がたった後にボッと火が立つんです」。災害時の緊急救助隊などは着火用のグッズを持たされていて、確かに揮発性の化学物質であれば煙より先に火がたつんでしょうが、何もない手ぶら状態で山の中に放り出されたとして火を起こせるくらいの知恵を昔の方々は持っていたんです(私は起こせますが・)。


★:雪ゾリ作り

冬には雪が降る日を心待ちにしながられば雪車(そり)を作ったものでした。遊びの上手な子供は道具作りから上手かった。雪車などはもっとよく滑るようにと、孟宗竹を切り割って火であぶっては先を曲げ、雪車の下にこの竹の下駄を履かせるのです。危険なほどによく滑りました。

冬が終ればボタ山に持って行き、急傾斜の山を滑り落ちるのが愉しくて仕方ありませんでした。肘や膝は擦り傷で血だらけでした。傷を負った日などは、帰宅して母親から赤チンキを塗って貰いながら説教をされるのが嬉しくて仕方ありませんでした。子供らしいと思いませんか?。


★:駒回しの紐作り

正月が近づけば棕櫚(シュロ)の木の堅い葉の部分を水にさらして叩き、その繊維を集めて乾燥させて縄を編んで駒回し専用の縄紐を作りました。


★:喧嘩駒の剣先作り

その駒ですが、買った奴をそのままで使っては回りが悪いんです。私の場合、まず、本体から鉄製の剣先を抜き、駒本体は塩水に漬けておきます。抜いた剣先は燃え盛る風呂釜の火で熱します。鉄は火で柔らかくしては叩き、更に火で柔らかくしては叩く毎に強くなるからです。

この剣先を金槌で叩いて更に尖らせるんです。この尖った剣先を今度は砥石で研いで先ッぽを調整します。この時、金槌で本体に打ち込む分の凹みを考えて研がないと駄目。

できあがった芯を本体に打ち込む際には塩を本体の穴にたっぷりと埋めてから芯を打ち込みます。塩分がグッと本体の木の部分を締めて打ち込んだ剣先をしっかりとホールドしてくれるんです。また、塩分による芯の錆が木への食いつきをよくする効果もあります。

こうして、最強の駒を作っては「喧嘩駒」と言って互いの駒を目掛けて投げ回しをしては互いの持ち駒を割り合うのですが、・私はいつも割られる役が多かったですね。私より加工の仕方が上手い子供がいたんです。実は、このような理詰めな作業は私より我が兄貴の方が上手かったんです。


★:クスの実鉄砲~連発銃

クスの実鉄砲を作って遊ぶのは日本中で見られた風景でしたが、それに加工を加えて単発銃ではなく連発銃を作る子供も多かったようです。勿論、私も作りました。

木工が趣味の私が竹細工が特に好きなのは、幼い頃のクス鉄砲作りとお袋の釜戸前で使う火吹き竹や椅子作りがその起源なんです。


★:集団でのいびり

元々、私は相撲と柔道では幼い頃から強かったからか、同窓生を殴る蹴るという行為は殆どやったことなどなく、「高っさん、ゆうさん」と呼ばれて頼りにされる事の方が多かったんですが、中学の1年から2年にかけて身長が14cmも伸びて177cmに近づいた頃から、塾への行き来の際などには物干し竿を持った中・高校生の4~5人の連中に集団で襲われては血だらけにされては踏みつけられていました。

青あざを作って帰宅した私を見た母は「悔しかったら喧嘩をやり直せ」、「一人ずつ呼び出して1対1でやり直せ」、と叱りました。「兄ちゃんになんか頼らず、自分で相手を踏みつけ返せっ」、と叱りました。だから、私は1対1で相手を呼びつけ、時には相手の家にまで上がりこみ、親が居ようが構わずに障子は蹴破り、鍋釜潰すまで暴れては相手の親からは勇気があると褒められましたよ。


★:列車のホームで突き落とそうとする変質者

最近はニュースで多いですね。狂った都会はやめて田舎に移住しましょう。万が一、組み付かれても手に持った荷物を捨ててでも組み倒すくらいの気概を持ち、私なら逆に相手を線路上に蹴落としますね。

見ず知らずの他人を列車のホームへ突き落とす・など、こんな変質者はこの世には不要。精神鑑定の必要などなく、《やった事、やろうとした事が全て》だと思いませんか?。

都会暮らしの皆さん、マッチョになる必要はありません。痩せたままでいいから体幹だけは鍛えましょう。その為には重いバイクに乗るんです。楽しく遊べて体幹が強くなって、交通費掛けずに通勤できて、列車のホームで絡まれても絡んだ相手を逆に突き飛ばせます。


☆2008.9.30。

★:私の野球への目覚め。

私の野球好きの起源もこの子供の頃にあります。我が兄は小学校6年の頃には170cmを楽に越えていたのでしょうか、常に2~3歳年長の人と遊んでいました。野球は天性のうまさがありますが、最初の頃は足の速さで目立っていたんです。この兄は陸上競技では市や県の大会ではいつも沢山のメダルを持って帰っていたようです。兄が野球で本格的に世間に見出されたのは中学2年頃ではないかと思います。当然、陸上競技との掛け持ちです。

兄同様、私も同学年の子供よりも頭一つが出るくらいに大きくて、小学校4年生の時(私が腹膜炎大手術をする直前)には、4年~6年生が一同に会して行なわれた全校相撲大会で4年生の私が6年生を次々と放り投げて優勝しています。負けず嫌いでお人好しの子供だったと言われます。

私も同学年の子供と遊んでいても何となく面白くなく、いつも2歳上の鳴神工(たくみ)さんという先輩と遊んでいましたが、この人は週末に柔道を習っていた為に毎日は相手をしてくれません。

時々ですが、この工さんについて道場に行き、借り物の柔道着で独り受身をして遊んでいたのを悲しい思い出として覚えています。私の父の長男偏重は激しくて、多分、柔道を習いたいと言っても許可は貰えなかったと思います。

隣の鳴神さんと遊べない日の私は自宅横にあった薬師堂そばの山で赤い粘土を掘ってきて水で練り、公式ボール大のサイズに丸めた土を黙々と何百個と作り、13mくらい離れた所に丸印をつけた板を置いてはそれに向かってこれまた黙々と投げ込んで独り遊びをしたものです。

たかが13mとは言っても水を含ませて丸めた粘土の重さは大人が使う硬球3個分ほどの重さがあって、それを小学校3~4年生の私が13mを投げるというのは大変な事でした。それも、丸い的(まと)は直径が30cmくらいしかないんです。

今でも地肩が強くキャッチボールに時間を掛けないで余り放物線を描かない遠投で70mを軽く投げるのはこうした頃の名残りなんだろうと思っています。70mというと捕手~中翼手が定位置から少し下がったくらいの距離です。それまでの遊び相手の兄を中距離走と野球に奪われてしまった私は赤粘土で造ったボール投げを延々と14歳を越える頃まで行なっていたんです。


★:炭坑町、石炭運搬トラックの通る道幅の狭い道路。細い青竹バットで手作りのボール打ち。

滅多に一緒に遊ぶ事がなかった私と兄ですが、共通の遊びが二つくらいはありました。それは相撲と野球の真似事でした。佐賀県や伊万里市では陸上競技のスターであり、体格のいい兄は私の憧れでした。

そして、兄は隣の家に住む2歳上の鳴神実さんというバリバリの高校球児に、私はその弟さんで私より2歳上で柔道の強い工(たくみ)さんに影響を受けていたのかも知れません。

だから、野球や相撲の話になるとこの4人が一緒に遊ぶのです。この2組の兄弟のそれぞれの体格が同じくらいだったのでした。相撲では実さんと兄がいい勝負をし、私と工さんがいい勝負をしていました。

この4人が一緒に遊ぶ時はいつも真剣勝負。私の家の畑の中に本格的な土俵を作りました。土俵作りも10日くらい掛けて作り、仕切線などは木材を埋め込んで設けるなど、本当に本格的な土俵だったのを覚えています。この土俵作りも兄貴は上手いんです。

さて、野球の話ですが、今でも私は左、真ん中(センター返し)、右へ流し打ちと小学生の頃にマスターした感覚というモノが残っていて、所属したシニアチームでは「どうして、あんたはそんなに器用に左右真ん中と器用に打ち分けるんだ?」、と聞かれたものです。

佐賀県伊万里市。正確に言えば東山代町大久保という所にあった私の家の下には道幅が6mあるかないかのような道路があって、その道を炭坑から掘り出した石炭を30kmほど離れた久原港という所にトラックで運んでいました。

石炭を満載したトラックと港に石炭を降ろして帰る途中のトラックが出合った時などは膨らんで道幅が広くなった場所までどちらか一方のトラックがバックしなければ離合できないという大変さでした。この時代の頃ですから舗装などしてはありません。この狭い道路が私達の野球場だったのです。

今でも売っている赤玉ポートワインのコルク栓を丸く削り、この削ったコルクに器用に凧糸を丸く巻き付けていくのですが、私の兄はこうした細かい作業が本当に上手かったですね。

こうして出来たモノがボールでした。立派な硬式ボールです。バットは腕が上達するようにとワザと細目の真竹を使っていました。

鳴神実さんは伊万里商業高校の野球部の練習があって、なかなか参加出来ません。兄が投げ、工さんが兄の後を守り私が打ちます。そして、工さんが投げ、兄が打ち、私が工さんの背後を守る、というローテーションで遊びました。つまり、センター返ししか打てません。左右の道路の路肩に打てばアウト。

捕手はいませんから正確に投げ、正確に真っ直ぐに打ち返さなければいけません。道路の左右の畑に打ち込んだらアウトで打った者が取りに行くんです。こんな条件ですから投球術も打撃術も上達しないはずがありません。

稲の刈り取りが終った時期には畑がグラウンドになりました。こんな時には村中の子供達を呼んで遊びましたが、やはり、私達4人だけが目立ってしまうんです。だから、この4人は常に兄と工さん、実さんと私というように兄弟が敵味方に別れるようにしていました。

時には、遊んではいけないボタ池で大人達に呼ばれて本格的な試合をしました。ボタ池とは洗炭と言って、掘ったばかりの石炭にこびり付いたドロを大量の水で洗った後のヘドロのようなものを捨ててできる池の事です。

福岡ドーム球場2個分くらいの広さがあるのでしょうか、大部分の場所は乾燥して固まっていて大丈夫なんですが、場所によっては[底なし沼]なんです。蛇だって這って進む間に沈んでしまって絶対に浮かんでさえ来ないという危険な遊び場でしたが、そんな場所の乾燥地で野球をやっていました。

実は、この池に兄が填った事があるんです。しかし、鳴神実さんの我が身を捨てた救出で兄が救われた事があります。兄は記憶しているかどうか・。兄と私はそれ程に野球が好きだったのです。


☆:2008.10.1。

★:父や兄に対して不思議な感情を持つようになっていく。

私達の住む家の上の段には中別府さんという父の炭坑とはライバルになる別な炭坑の経営に携わるご家庭があったのですが、そこの子供達は兄弟全員が剣道をしていました。

すぐ隣の鳴神さん兄弟も野球と柔道を習っているのに、何故、我家では兄だけがそうした事が許され、私には習い事はおろか、下着から下駄に至るまで兄貴のお古なんだと・、とても悲しかったですね。決して貧乏ではなかったはずなのに・・。

相撲では時に兄さえ倒し、野球だって兄には及ばないながらも学校では、「兄さんの方は体力で他を圧倒しているからだが、弟さんの方が繊細で野球センスがあるようだ」、と兄を指導した大河内という監督さんが言っておられたのを覚えています。

この頃、少しずつですが父や兄に対する考えが変わりつつある自分が育ち始めたような気がします。父を見返すには憧れの兄貴を追い越すしかない・、と。

兄が卒業した後の野球部では私は3番でポジションは兄(後に投手に転向、兄は中学から大型投手として本格的に頭角を伸ばし、マスコミからの注目を受けるようになります)と同じ遊撃手を務めていたのです。遊撃手は守備範囲が広く、肩が強くなければ務まらないポジションです。

伊万里市内の小学生チームを招待して行なった試合が移転の為に使われなくなった中学校のグラウンドで行なわれた事があります。

ここで私は4年生ながら6年生のレギュラー組に混じって3番ショートで起用され、2打席連続のホームランを打ちました。その試合で私はグラウンドのそばを走る国道を越え、右中間方向にあった川原商店という文房具屋さんの屋根やレフト方向にあったグラウンド外の防火水槽までボールを打ち込んだのです。

現在のように学童野球という特別ルールも呼び名さえない頃。ダイヤモンドの広さ、つまり塁間距離も大人の試合で使われるレギュラーサイズだけしかなかった頃です。

その姿を見た前出の大河内監督や井出という先生が、「これは兄さん以上の素質があるぞ」、と私を二人で抱きかかえて喜んでおられたのを覚えています。

でも、こんなに嬉しい出来事だって私は父にも母にも話す事はありませんでした。この頃でさえ私は借り物のグラブ。周囲の誰もが持っていて当然の頃でしたが、私は自分のバットさえ両親からは与えられてはいませんでした。
私を拾いもののダイヤモンドのように喜ぶ監督達の姿があるかと思えば、当時の父親の目には兄だけしか見えていなかったんです。


★:父は私の存在に気付かない。

当時の父にとって、長男は黒く光輝く石炭。そして、私はその石炭に纏わりついた汚く面倒臭いボタ泥のようではなかったかと思うのです。何せ、私は父が50歳の時の子供。こうした子供なりの寂しさ、次男坊ゆえの妬み。この恨み辛みのようなものが私の幼い心に少しずつ育ち始めていたのでしょうか。


★:私の神社通いの原点。

私は独りで近くの天満宮に行き、いかつい2頭の狛犬の背中に跨っては、「ボクは邪魔者なの?。何の役にも立たず、誰も喜ばす事ができない人間なの?」、と涙をこぼして語り掛けていました。

私の神社通いは今に始まった事ではなく、この頃から始まっていたんです。そして、やがて、私はあの忌まわしい事故に遭うのです。5年生も近い3月。もうすぐ桜の咲く季節のはずでした。


☆:2008.10.2。

★:私の3~7歳くらいの頃。母は情操教育の名人。

コルク栓に凧糸を巻いて作る硬球や青竹バットの話をしましたが、決して我が家が貧乏だったからではなく、当時の私達の家族は黒ダイヤと呼ばれた石炭を掘る炭坑の経営者一族ですから贅沢な暮らしをしていました。しかし、母親(つやサン)が金銭に厳しかったのです。

「作れるモノは自分達で作って遊びなさい。小遣いが欲しけりゃ子供なりに働きなさい」、という子育て方針。だから、小遣いが欲しくなった時の為に私は畑で茄子や胡瓜を常に作っていました。

柳川の農家の三男であるが故に苦学して高等文官という外交官にまでなった父の前では母は贅沢という言葉が禁句だったのだろうと思います。しかし、周囲の家からは羨ましがられる部分もありました。

風呂釜や小鍋に使う七輪用の燃料は炭坑から運ばせた製鉄所用のコークスを使っていたからです。我家の回りにはこのコークス用の収納庫が取り囲んでいましたからね。

ご飯を炊く釜戸では柔らかく炊けるようにと木の燃料を使っていました。ですから、大きなコークスの塊を手の拳大に割ったり、丸太を割って薪(まき)にしたりは日常的に私と兄の仕事でした(姉はひたすらに勉強机でゴリゴリと鉛筆削り・。本当に勉強机に向かっている姿しか記憶にありません)。

父と母が使う爪楊枝作りだってしました。私と兄は近くの山に自然に枯れた竹を拾いに行き、肥後刀というナイフで兄が器用に細く割り、更に8cmくらいに切ったものを私がガラスの破片で削って爪楊枝に仕上げていくのです。

それは大変な作業でした。300本くらい作っても母から貰えるのは10円か15円ですから、今の価値で言えば170円くらいでしょうか。でも、当時にこの爪楊枝を買えばもっと安く売ってあったのだから、母は手間賃を含めて買上げてくれていたのだと思います。確か、当時の修学旅行で兄が渡された小遣いが150円。私が50円程度ですからね。


★:父の事を少し。

明治35年、柳川の農家の三男で生まれた父は伝習館高校を卒業後、苦学して明治大学に進み、同時期に特別聴講生として東京外国語大学でも学んでいます。

福岡出身の議員などを頼りに学資の援助をお願いして回った話なども聞きました。しかし、父は飛んでもない試験に僅か19歳で合格してしまったのです。東京大学や早稲田大学などからの受験生に混じって受けた外交官試験に合格して英国へ渡る切符を手にしたのでした。それは、我が国が社会保険制度導入の為の設けた試験だったのですが、正式には《高等文官》という役職です。

この父は帰国後は宮崎県庁に勤めるのですが、母と結婚後、暫くして母方の経営する炭鉱業に転身するのですが、この父の教育熱心さには子供なりに苦労しました。なんせ、かなりの高齢になってさえ英語を喋っては手紙を書いたり、独語の本さえも辞書片手に読む人でした。

この父の遺伝子を受継いだのが長女の紘子。紘子、と言えば「夜中遅くまで毎日毎日勉強。そして鉛筆を削る音のゴリゴリ」、という記憶で一杯です。


★:母の吹くハーモニカに胸騒ぎ。

父はよく子供達を集めて読み書きテストという奴をしていました。新聞の記事から適当な漢字を拾っては私達兄弟に書かせるのです。家族でトランプや花札をした時期もあります。

圧巻だったのは母の吹くハーモニカ。兎に角、上手かったですね。バリトンハーモニカという大きな楽器でした。軍歌に童謡に流行歌・、母は何でも吹いていました。まだまだ、兄も私も野球に目覚めるずっと以前の話です。



☆:2008.10.3。

★:今日の母。「私は走れんし、運動会には出らんよ」。

10月26日に鶴翔苑の秋の運動会があるようです。苑内にはポスターが貼ってあって家族の者への広報がしてあります。母がこのポスターをどこまで理解したかは分りませんが、「誰かが運動会の話をしていたような気がする」、と言います。

「運動会と言っても走り回るんじゃなくて、柔らかいゴムボールを向かい側の人の方に手で弾いたり、隣の人に手渡しする程度さ」、と説明しましたが・、多分、私の言葉が長すぎて母は理解してはいないようでした。

先日、デイに行く車中で、「母ちゃん、思った事を口に出せんのは辛かろうね?」、と思い切って訊ねてみました。
返事は、「うん、凍ったもんは口にせん方がいいよ。段々、寒くなるし」、とこれまた母らしい返事が返ってきましたが、まぁ、母にはそのように聴こえているんなら、それはそれでいいんです。

そして、今朝はいつものように信号停車の際に面白い会話になりました。

「直裕っ、あそこに飛ぶのは何だろうね」、と母。
「俺には何にも見えんよ」、と私。

母:あらっ、可哀想に。お前にはあれも見えんとね。ありゃ、二つに割れたからよ、と。
私:ほほっ、飛んどる奴が二つに割れたかい。こりゃまた器用にね、と。

母:私は正直に言っとるよ。二つに割れたから割れたと言うとるだけ。ありゃ、一つに戻った、と。
私:あんたの目が増えたり減ったりしてるんじゃないの、と。
母:お前も変な事ばかり言う子だねえ、と。

こんな会話の後、施設でお茶を飲みながら話の続きをしようと、「さっきの飛んでいた奴の話だけど」、と言えば、「あは?、何の話ね」、と全く似た者親子だなと自分でも思いました。

この話、実は二台のバスが交差している時の様子だった事が分かりました。

物忘れが激しいのか、気持ちの切り替えが早いのかは分りません。でも、実はこんな時の母は覚えていて、答えが出なかった事に対して少し怒っている事もあるんです。
「あの2つに割れ、元に戻ったのは何だったのか・」、と考えているのかも知れないんです。

同居が6年になっても母の事が分らない時は沢山あります。食事しかり、趣味嗜好しかり。老いの進みに合わせるかのように変化していくものは多いものです。今朝はそんな朝でした。


★:私の母はある意味でドン欲。

結構、いろんな事に興味を示してくれます。生活欲とでも言うんですか。例えば、私がギターを弾いていると、「ちょっとお貸し。そのくらいなら私にも弾けると思うよ」、と興味を示してギターを持っては愛おしそうな表情でギターを撫でたりします。

「おおっ、この鉄の弦を弾くというのは指が痛いだろうね」、と母。
「うん、その痛みに慣れるのが最初の試練さ」、と私。

「ああ、そうだろうね。こりゃ堪らん」、と母。
「俺がプロでやっていた頃には左右の指を砥石で研いで指の皮を厚く厚くしていたよ」、と私。

「何で右の指まで研ぐのね?。痛いのは左の手の指だけだろう」、と母。
「ウッドベースってあるよね。コントラバスの事だけど、あれを弾こうとすると左右の指の皮が厚く、それにとても握力が必要になるから辛かったよ」、と私。


★:母の記憶・、息子の40年前に遡ることも。

「へーっ、お前はハモニカもピアノも弾くし、プープー(トランペット)も昔は持っていたよね。あれはどうした?」、と母。
「あー、あれ(トランペット)は借り物で米軍基地では大受けしてたさ」、と私が高校生の頃にまで飛躍する日だってあります。

それに、母の難聴や失語に関して最近になってフッと感じた事があります。

母から持ち掛けた話題に関しては難聴や失語症の出が少ないのです。例えば、音楽や楽器の話題だと結構な会話が成立します。普通のお年寄りには理解不可能だと思われる「調律」、「調弦」、「音程」、「1弦」、「2弦」、「フレット」、等々。

勿論、楽器を抱いて指差しやアクションを交えながらではあるのですが、母には話の筋道がしっかりと理解できているんです。何故なら、私の話の途中で入る母の質問が全く正確に話の流れに沿っているからです。「ハハー、そのフレットの押さえ場所で音が変わるんだね」、と

多分、こんな時の母の脳裏には自分が弾いていた三味線やハーモニカ。それに平戸高等女学校時代の音楽の先生が弾かれていたというマンドリンの映像や演奏が浮かんでいるのだと思います。

そして、最後に、「はあーっ、音楽っていいね。愉しいよね。お前はいろんな楽器をやってて良かったね」。という満足そうな言葉さえもが母の口からは出るんです。

認知や失語の回復には、その人の携わっていた職業や趣味。そんなものに対する知識や技術の事を華族側が話題にして対処するようにすると意外なほどに効果があるのではないかと思います。


★:かと思うと、

「母ちゃん、お風呂に入るよ」、と言えば、「あはっ、私があんたとね。ほほっ、それは出来ません。女がパンツを脱いだ殿方と一緒に風呂には入れないでございます」、と母。

「何を考えとんね。背中にお湯をかけて洗ってやるのさ。いつもの事じゃないね」、と私。
「そんな事はございません。私は貴方様から背中を流して貰った事など一度もございません」、と母。
こんな調子ですから、認知って奥が深いものです。



☆:2008.10.3。

★:私への一通のメール。あの頃に戻れたら・。奇跡について。

HPの方では自由に書込みを頂く欄を準備していますが、ご自身の家族の模様を書くのは気が引けますよね。だから、メールを頂くことがあります。最近、大分の48歳の方から頂いたメールを一つご紹介します。

「要介護5の私の母は特養に入所して3年になります。義歯も壊れてしまって久しく、入歯を新しく作り、固形物を噛めたとしても既に消化器官が弱っていて、身体への負担が大きいからと刻み食とトロトロご飯を食べています。

このトロトロ食だと咽せる事はなく、今の処はいつも完食しています。発語する事はめっきり減りましたが夜間はグッスリと眠れ、会いに行った際などには高橋さんが詩の中でよう使われる「天使」のようにニッコリと笑ってくれ、施設では穏やかな日々を過ごしているようです。

こんな母を見ていると、ふと、母が要介護3、4だった頃の大変な時期に戻れないものだろうかと思う時があります。今となっては母の介護に追われていた頃の事が懐かしいんです。

家では常に動き回ろうとし、寒くても暑くても散歩に出たがっていた母。そして、それがとても嫌だった私。母の話す内容も古い話ばかりで私には面倒くさい話ばかり。時には私の名前さえ間違えて呼んだり、私を他人のように扱ったり・・。

そんな時の私は母の問い掛けに返事もせずに車椅子のそばで母を放ったらかしにしていました。

今思えば、私の思いが足らないばかりに母には申し訳のなさで一杯になるのです。あの頃に戻りたい。そして、あの頃の母と話をしたい。あの時の母の問い掛けにも答えてみたい。私の悩みだって母に相談してみたい・・、でも、もうすべてが遅いんですよね。

来週、母に会ったら車椅子を押して施設内をいつもより長い時間を掛けて散歩しようと思います。例え、言葉が交わせなくても、母はせめて私の涙だけは分ってくれるかも知れません。

私がこんな思いに至ったのは高橋さんの作品の中の、「♪花ミズキ」という作品を聴いてから・。この曲を聴いていると母の寂しい気持ちがよく分かるんです。そして、ここまで母の認知を進めたのは私なんだと反省するんです。

3月に豊後大野市で【母に生命を返す時】のコンサートが開かれましたが、私は母の施設に行く日だった事とコンサート会場までは結構な距離があって行く事が叶いませんでした。

でも、後に地元の方からCDを頂くご縁があって貴方の作品を聞く事ができました。作品の中に【♪花ミズキ】というのがありますが、車椅子の母親と話ができる貴方が羨ましくて堪りません。

また、最近ブログで発表された作品に【♪施設にて】というのがありますが、この2つの作品を聴いていて介護家庭の壮絶な呻き声のようなものを感じました。

もう少し早く貴方のCDに出合いたかったと思いますが、今は施設に行く度に奇跡が起きる事を願って貴方の作品を天使のようになった母にヘッドフォンで聴かせています。高橋さんは奇跡って信じますか・・・」。こんな内容のメールでした。


★:待っていては奇跡は起きない。奇跡は自分で作るもの。

具体的には書けませんが、私はこの方への返信の中で「奇跡は信じない」、と答えました。でも、「奇跡は貴方自身が起こすような気がします」、と答えました。「貴女が変わる事でいろんな目に見えない事が変り始めるはずです」、と答えました。

貴女が変わる事でそれまでは見えていなかったものまでが見えてくるかも知れない。見えるようになる事で伝える言葉や表現までが変わってくるはず。伝えるものが変われば相手までが変わってくるはず。

貴女の日常の表情が変わる事で介護士さん達の日々の表情やお母さんへの接し方も話し掛けも変わるでしょう。奇跡ってそうした事の積重ねの中でポンと意外なほど簡単に起きたりするのではないでしょうか、と。私はそんな言葉で返信しました。

私は奇跡は待つものではなく自分の力で作り出すものだと思っているからです。



☆:2008.10.4。

★:もう、金木犀が香り始めた。

「あらっ、こりゃ何きゃ?」。デイに行く為に母を玄関先の車まで運ぶ最中、車のボンネットに乗っている金木犀の花の一部を見つけた母が言いました。

金木犀は覆うようにして包んでいる殻を破って黄色い花が顔を出すのですが、私の家の庭には以前に住んでいた西合志町の家を処分して現在の家を建てる際に運んできて移植したもので、今では随分と広く庭を占拠していて、既に30年間も我家に秋を運んでくれている金木犀なんです。

「私の鼻は馬鹿になっていて分らないが、この花は匂いが強いから好き嫌いが激しい花だよ」、と母が車中で言います。
「昔ははばかり(便所)のそばに植えたり、トイレの中の匂い消しにと切って使ったもんさ」、と言います。デイ施設にも植えてありますし、よく行く代継神社には金木犀と銀木犀が仲良く並んでいます。

でも、秋はまだこれから深くなり、その姿にいろんな色を纏いながら冬のモノトーンへの衣替えをしていく事でしょう。

2005年11月に[♪金木犀]という作品を作っています。この作品には2005年8月に母の故郷の歌が浦を私達夫婦と母との3人で訊ねた時、それに10月に長崎に住む長女の紘子を加えて訪ねた時の感動を盛り込んでいます。

8月の旅では母が歌が浦で暮らした住まい跡まで20mの距離まで行っていたというのに気づかなかった旅でした。でも、宿舎の歌が浦荘から見る夜景、光る港の月明り。部屋に入る潮風に母は遠い記憶を探す一方で旅の疲れを楽しむように癒しているようでした。

翌日は母が生まれた土地の佐々に立寄り、幼い頃に可愛がった(旧姓)濱野千代サンにも会えました。息子さんは佐世保市内で外科医として立派な病院を経営されています。

その8月の旅から2ヶ月後には長崎の紘子を加えた4人で歌が浦を訪ねました。この10月の旅では従兄弟の河内義統氏の道案内で母の住んでいた住居跡にも行け、お隣だった川尻さん姉妹のミッちゃんとフーちゃんにも会えました。

「・つや子姉シャマ!」、と駆け寄るミツエさんに対し、しばし考えた母は、「ありゃ、貴女はミッちゃんネ!」、と大喜びで抱きしめていましたね。

この頃までの私は【母に生命を返す時】などという一連の作品群を作るつもりなどなく、作品もまだ5作程度のものを草野球仲間に対して近況報告みたいに送っていた程度でした。でも、この旅での感動は残さないといけないな、と思いましたね。


★:10月だと言うのに、蝉の集団が・。

実は、随分前に既述した事ですが、この翌日の10月26日に訪ねた佐々の東光寺で体験したもの凄い集団の蝉しぐれが私に本格的な作品CD作りを決めさせたのです。

10月26日と言えば、既に金木犀が咲き誇る頃でした。いい感じの秋日和でしたが、この東光寺は佐々の町並みよりもかなりの高台にあって結構涼しく、その裏山となると寒いくらいの場所にあるのですが、この時にお寺の境内で聞いた蝉しぐれは今でもはっきりと覚えています。

「ああ、これは何かの力が加わっている。・俺に何かをしろ、という意味かも」、私はそう感じたんです。

そして、熊本の自宅に帰りついた時には、もういつでも唄えるくらいの詩と旋律ができ上がっていたんです。この♪金木犀という作品を唄っている私の声は自分で聞いても感動するほどに優しい声で、詩の中に入り込んでいて、まるで子供になっているかのようです。

2003年3月に始まった母親との同居。来熊直後の転倒で完全に歩けなくなった母を私は4月の半ばから5月6月と仕事も放棄しては母の身体を温浴と鍼とマッサージで立てるまでにし、近くの立田山自然公園の遊歩道で歩行訓練に明け暮れました。

そして、その母を母の故郷の一つの歌が浦へ・といろんな事を考え、いろんな思いを込めて作ったのがこの♪:金木犀でした。

しかし・、この♪:金木犀の録音が済んだ翌月の12月2日、母は折角歩けるようになった喜びも束の間、部屋の天井の照明を消そうと杖も使わずにソファーに登り、蛍光灯のペンダントを掴もうとした後、母の人生を決定的なものにしてしまう転倒をして右足の踵を複雑骨折してしまったのです。

この2005年の12月2日。私のそれまでの努力が水泡に帰し、母の自立での歩行姿が二度と見れなくなってしまったのです。そして、その後の3ヶ月間の入院中、退院後には3ヶ月間のリハビリ入所と、この6ヶ月の間に母の認知が急激に進む事になったのでした。



☆:2008.10.5。

★:2005年暮れの母の転倒骨折。欠かさず病院に通った194日間。

私は母のこの入院・入所の6ヶ月、正確には194日の間。14:00~21:00の間を一日も欠かさずに母の元へ通いました。

周囲からはマザコンと言われようが、職場放棄と言われようが、周囲の目なんて関係ないゾ、と。私は私の頑張りを母に伝えたかったのです。

「もう、今日はいいよ。早く帰りなさい」、と母はよく言いました。
「何しとった!。ずっと寝ていたのか」、と決めつけて怒る日もよくありました。

やがて、「どれ、お前の部屋に行こうかい」、と言う日もあり、母は少しずつ西日本病院自体を自分の家だと思いこむようになっていくのでした。

毎日、それこそ毎日。私は病室に着くと母を車椅子に乗せて院内の庭を1時間近くも散歩しました。散歩が終ると温タオルで母の身体を拭き、温タオルを骨折部付近や後頭部に当ててはマッサージを繰り返しました。

夕飯は病室で母と一緒に食べました。私は1Fの売店や近所のスーパーで買ってきたカップヌードルや稲荷捲き寿司パック程度ですが、母は病院の決まり切った豆腐料理に飽きて、「私はそっちが食べたい」、と言っては交換して食べる日もありました。

時に、刺身などを買って行くと母は私の分など無視してペロッと独りで食べてしまう日もありました。
「魚は鯛だよ鯛。今度は鯛を買っておいでよ」、と言う日もありましたね。使う言葉は母親の言葉ですが、経済感覚がない分だけは子供の頃の贅沢な感覚が戻っている母の姿でした。

食事が済むと19:10には必ず長崎の長女・紘子への電話が日課になっていて、これを母はとても楽しみにしていました。母はすっかり病院を我家だと思い込んでいる日が多くなっていきます。

介助に疲れ果てた私が母のベッドの横で眠りこけている時、「どれ、買物に行くよ。そろそろ晩ご飯を作らにゃ・・」、と言う母の声が遠くから聞こえ、フッと目を覚ました私の目に飛び込んできたのはベッドから逆さまに落ちる寸前の母の姿だった事もありました。


★:この194日間というものは、私の目の前で母から母が消えていく時間でもありました。

穏やかな観音様のようであったり、まるで狂人のような目つきをしていたり・。この頃の母はある意味での人間崩壊の姿を私に見せてくれていました。私しか信じない。私の前でなら狂人にもなれると自覚しているように見えて悲しかったです。母はそれほどに息子の私を絶対視していたんだと思います。


★:骨折から入院~リハビリ入所の194日間。

もし、神が私の命との交換を条件に明日の朝、母の目が覚めた瞬間から2本足でスイスイと歩けるようなら・、それが神の突きつけた条件ならば、俺はいつでも構わんゾ、という気持ちの194日間でした。私も闘っていたんです。

俺の命の尽きる時こそが母への誠意の証だ。俺の2度目の命が尽きた時こそが親父越え、兄貴越えをした時だ、と思っていたんです。それ程に気合いの入った私の194日の日々だったのか、辛過ぎた日々でした。私は全てを棄てていましたからね。

そして、徐々に・、私は一滴も飲まなかった酒を飲むようになりました。泣き虫にもなりました。紙パック1800cc入りの焼酎を2日で飲むペースでがぶ飲みしました。本当に、胃の薬をおつまみ代りに飲んでいました。しかし、そんな私の日々を救ってくれたのは、やはり、母の遺伝子を受継いだ音楽でした。

疲れ果て、悩む私を励ますような詩が次々と私自身の中から生まれてくるんです。悩めば悩むほどにそれを癒すような詩を書く私が私自身の中から登場して来るんです。

♪:頑張れ!お袋、♪:ひととき、♪:母のふるさと、♪:母よ・、♪:義母の旅立ち、♪:母に生命を返す時、♪:花ミズキ、♪:潮騒の町、♪:老いを嘆かないで、♪:DOLL、♪:水無月の頃、♪:ふる里へ帰ろう、と本当に次々と湧いて来るんです。

私は涙と酒にまみれながらも詩を次々と書き殴りました。この中には作品としての完成は母の退所後のものもありますが、詩としては母の入院・入所中に作ったものが多く含まれています。

この194日間、私は母と一緒に認知症というものと闘いました。その闘いの中で人間の老いというものを知りました。それはもう、悟りに近いもの。

そして、同時に本人の闘いよりも周囲の理解が大切だという事を知りました。老いゆく親を、進みゆく認知というものを家族がどのように受け止めてあげるかということです。老いへの理解と畏怖です。


☆:2008・10.6。

★:母と嫁が大好きなイカ刺し。

土曜のデイからの帰路。新南部(シンナベ)にあるスーパーACEに立ち寄り、母と嫁が共に大好きな刺身用イカを買いました。勿論、私も好物ですが・。

以前、買った際には25cm台の槍イカで1匹¥480でしたが結構な量がとれました。この時の槍イカの刺身は柔らかく美味くて母も嫁も喜んで食べてくれました。内臓と足は長崎から姉が来た時の為に塩辛にして今も保存しています。

処が、この4日に買ったのは30cmくらいあるマツイカという奴で見た目は槍イカそっくりですが1匹¥168。刺身用とは書いてありますが、マツイカは薄くて歯ごたえがありすぎて美味くはないんです。

やはり、刺身にする部分と塩辛にする部分を分けて作りましたが、安いからと買うと失敗しますね。でも、嫁も母も皿にボリュームたっぷりに盛られた刺身に大喜びで食べてくれました。でも、私は腸管に癒着による通過障害がある為、飲み込めば腸捻転の危険があっていつも噛んでは吐き出さないといけません。

よく母はイカ刺しを食べる時には薄くスライスした玉ねぎを添えてくれ、イカの甘みと玉ねぎの甘くピリ辛感のマッチングが絶妙だったのを覚えています。

でも、今の玉ねぎって美味くありませんね。皮をむき易いように、ヌメリが鼻にツンと来ないように、ヌメリで指を滑らせて指を切らないように改良され、固くなってしまったから香辛料の代わりをしなくなりました。

だから、私は母が噛み易いようにと薄く輪切りにした白ネギを使います。ピリピリ感を出そうとすれば今の玉ネギよりもこっちの方がいいみたい。


☆:2008・10.7。

★:嫁の言葉に反発した母が狂人のように叫ぶ。

今日は一昨日の夕食時の母が箸を伸ばさなかった南蛮漬けを甘辛く煮て再調理したり、ニンニク醤油に漬込んでいたチキンや魚類を照焼き風にしたものをメインに嫁の好きな豚肉の塩焼き、母の好物のニンジンと椎茸の煮付け、軟らかく煮たキャベツなどを作りました。勿論、流し台の上の段には20度の白岳ロックの入ったグラスを置きながらの料理でした。

我家の料理は大変なんです。嫁は嫁で好き嫌いの主張が凄く激しく、ニンニク大好きな癖に、「明日は人に会うから生姜風味にして欲しかった」、と。「俺はお袋の便秘解消にはニンニク風味がいいと思ってさ・」、とそれなりの都合を勝手に言い合いながらの夕食風景になります。

味噌汁だけは家族が飯台に就いてから作ろうと思い、「出来たよっ」、とこの日は母の部屋で歓談している母と嫁を呼びに行こうとした時でした。母の部屋からもの凄い母の声が始まりました。

「うぎゃっ○○××!、×△、♯&♭!」、と激しく叫ぶ母の声が・・。
嫁は嫁で母には絶対に聞こえない音量と早口で、「一人こう○トイ×レサバ車イス○でしょうが!、貴女はいつも△にゃ××△△、ぶんぶにゃにゃ」、みたいな感じの言葉を言返しているようでした。

私は、「お前らは何を叫びあっているんだ!」、と半年に一度くらいのセリフを吐きました。
「もう、晩飯など食べんでいい。一人一人が勝手に思うようにやってみろ。お袋、あんたは一人で寝起きが出来、一人でトイレを済ませ、いつも一人で風呂にも入っていると思っているのなら入ってみろ」、次々と言葉を荒げました。これが、本来の私の姿かも知れません。

結局、母も嫁も認知やその介助の意味が分っていないのです。この時も多分コンタクトを装着していない嫁は視点の定まらない目でキョロキョロしているだけ・。これは嫁の最大の欠点です。

私は嫁を含めて女性というものを差別したくないからこそ言いますが、介護に於いて少しでも周囲より高い評価を得たいなら、昔の剣豪みたい気配を感じる、表情や心を読む努力をすべきだと思います。それこそが実践に繋がる能力と思うのですが・。

多分、嫁はいつも通りに、「お母さん、ご飯が出来たようですよ。はい、居間に行きますよ」、と車椅子を母のベッドに近づけんだと思います。そして、母が叫ぶ理由もいつものと同じく、「何故、私に車椅子が必要なんだ?。あんた達は私を小馬鹿にするのか?」、なんです。

母は何故、自分に車椅子が必要なのかが分っていない瞬間が多く、どこかへ移動する度に車イスが何故必要なのかを訊ねます。トイレ、食事、風呂、デイ・・、移動の全てに車椅子、その操作と介助が必要な事を母に理解させなければ車椅子を利用しようとはしません。

「あんた達は私の事を障害者とでも思っとるんだろう!」、と怒るんです。勿論、「あら、いつもいつも世話になってゴメンね」、と言う日が多いんですよ。でも、何かしら機嫌が悪い時には「何で、私が車椅子なんかに!」となるんです。

ただ、要介護4とは言っても左股関節の骨折があっての要介護4。認知がある母ではあっても天候や気温、湿度などと連動して出たり出なかったり、或いは失語が原因なのか、発語障害があって周囲には認知だと過剰に判断されるのか・。要は、歩行介助が必要なだけであって、「今日は要介護2くらいじゃないのか?」、と思える日がある事は事実。
実は、こんな日の母には要注意なんだということが嫁は分かっていないんです。


★:時に母は私達夫婦の言葉遣いや仕草、目の動きまでを観察し、いろいろと考えている時がある。

「私の事を煙たがったいるかも知れない」、「何だか嫁の様子がおかしい。私に話し掛ける時の嫁の目の視点が定まっていない。私を見ているようで視線がズレている。ほらっ、また私から目を逸らしている・」。この私の指摘は99。9%の確率で正解。この日の母の叫びの理由に直結しています。

★:近視の人がメガネを外すと感動がなくなり、ヒステリックになり易い。

嫁は裸眼だと0.02でしたか、あの吉永小百合さん並の近視なんです。多分、この時の嫁は目が見えていないはずです。差別したくないからこそ言いますが、強度の近視の人がメガネを外した時の表情はまるで能面みたいに表情が一定で、ボーっとしてて、「ホラっ」、と何かを見せて話掛けてもそれが見えていないから感動がなく無表情のことが多いんです。それどころか、見えないことに対する苛立ちを優先させ、周囲に対して攻撃的になり易んです。

例えば、「今日は学校(デイ)の帰りに神社にも付き合わされたし、もう立ったり座ったりさせるのは勘弁してください、芸子さん」、と母が目で訴えていても、弱視の嫁は「はい、立って下さい。座り直して貰いますから、もう一度立って下さい」、と機会的な言葉を繰り返すだけの嫁にはこの日に限っての弱音を吐く母の表情が全く見えていなかったのだと思うのです。

だから、母は嫁の無表情、無反応、無理解、無機的な言葉の羅列に怒りを爆発させたのだと思います。
決して、母に対する嫁の心が篭っていないのではなく、嫁の視力が弱い為に母にはそう思えてしまうんです。


★:動作介助とリハビリは違う。

介助はリハビリとは180度違った意味を持ちます。嫁を含めて介護のプロの多くの方はそのことが分かっていません。動作介助はお年寄りが為そうとする行為を手伝う行為です。立ちたいお年寄りのお尻を持上げてやる。歩きたいお年寄りが歩きやすいように手伝ってあげる。そうしたことが介助のはずです。そして、レベルが高い介護職の方になると、「察してやれる」ようになるんです。

対して、嫁の介助法は時に私から見ると附に落ちない事が多くあります。

「はい、立って下さい。これに掴まっていて下さい。まだですよ、まだですよ。そのままですよ」。「はい、座って下さい・。違います。もっと右ですよ。はい、もう一度立って座り直して下さい。はい、もう一度立って!」、と。

このように嫁の行なう介助は介助ではなく、「瞬間リハビリ」になってしまっているんです。

今日の母には体力的に余力があるという嫁の推測だけで強引に立たせたり座らせたり・。私はその嫁の母への無知が怖いのです。これは嫁だけではなく、プロの介護現場でもよく見掛けたものです。

「そのままで立っていて下さいね」、という介助者の言葉に対する「ハイハイ、分りましたよ」、というお年寄りの返事を信じてはいけません。お年寄りが立っていてくれる保証はどこにもありません。それが認知の特徴だからです。

[目は口ほどにモノを言う」と言います。相手の目を見れば怒っている、優しい思いになっている、不安一杯で依存度が強くなっている、見栄を張っている・いない、が分かります。

私は嫁に「相手の目を見ろ」、とよく言うのですが、嫁はなかなか相手の目を見ません。そして、仮に見てもメガネもコンタクトレンズを装着していなければ嫁には意味もありません。

その嫁の様子が母には無責任な介助態度に見え、そう思えてしまうんだと思います。

「はいっ、私はドアを閉めますからお義母さんは自分で電気消して」、という嫁の言葉に知らず知らず我慢の限界を超え、「この上、まだアンタは私に命令するのか?」、と母は叫ぶのかも知れません。

確かに、命令長の嫁の言葉に従い、「よーいしょっ」、と全身全霊の力を振り絞って母が立上がる事があります。しかし、それを、「お義母さん、掴むのはそこではないでしょう?。はい、もう一度立って座り直して下さい」、と言われた際の母は体力を使いきっている事が多いんだと思います。だから怒りともなるんです。視力の弱い嫁にはその気配が見えず、その為に母を理解できないんです。


★:決め付けての介助はいけない。

嫁の認識では「95歳ならここまではできるはず」、というのがあるのかも知れません。しかし、「95歳ならそこまでは出来ないだろう」、という見方もある事を嫁には知って欲しいのです。少しでも皆様の参考になればと、我が家の恥を書いてみました。


☆:2008.10.8。

★:金木犀が一斉に黄色い声を・。

「さあ、さあ、冬が始まりますよ。今夜からは念の為に薄手の毛布を一枚準備して下さい」、とでも告げるかのように今朝の我家の庭で金木犀が黄色い声を上げていました。もう、車のボンネットやフロントガラスの上は黄色一色。母を車の助手席に座らせ、さぁデイに出掛けようとした時です。

母:こりゃ何ネ。
私:金木犀さ。
母:金木犀ってネー。

助手席の母はフロントガラスばかりを見ていますから、「窓の上さ、ほら、これが金木犀さ」、と教えますが、この距離が母には見え辛い距離なのか、「アーッ、泡だらけでよう見えん」、と言います。

母の目には金木犀の花が石鹸の泡のようにしか見えないみたいでした。車の外に出て、枝を折って母の方へ向けて香りを嗅がせるのですが「分らない」、と母が言います。勿論、もっと色濃くなって強い香りを本格的に放つのはこれからですから無理もありません。

デイ施設に向かって車を走らせている最中、母が「こりゃ何ネ」、と再び言います。デイに行く車中でも風に飛ばされずにフロントガラスにしがみつく金木犀の花クズが気になる度に、母は「こりゃ何ネ」、と質問を繰返したのは当然です。

「ふーん」、と分ったような分らないような。10秒間隔くらいに「こりゃ何ネ」。ですからね。
母にとっては私の答えは何でもいいようで、フロントガラスに何かが付着している事が気になって仕方がないんです。

だから、私がワイパーを動かしてフロントガラスに付着した花を除去しても、今度はフロントガラスに残った扇状のワイパーの擦り跡が気になるのです。つまり、フロントガラスの綺麗になった部分とその外側の曇ったままの部分が気になる人なんです。潔癖さが過ぎるんですね。昔からこうした傾向にある人でしたが、最近は特に強まっているようです。母がイラついているんです。
そして、「こりゃ、何?」、と・・。

実は、これには何か伏線があるような気がしないでもありません。それは、日頃の身体の不自由さを強く自覚した時、「この足は何とかならんものだろうか」、「私は歩きたい。歩いて台所で食器だって洗える姿を見せたい」、と苛つく一方で、「はい、お母さん。オシッコに行きますよ」、としたくもないおしっこを指示された時、など、母から見れば「この小娘が横着に私に向かって・」、と感じて母が叫んでしまうんじゃないのかと考えたりします。

嫁の一風変わった考えにも関係がありそうなんです。

嫁の父親は長い間床に伏した生活をしていて、嫁は父親が力強く働く姿を嫁は知りません。若くして父親を亡くしたのですが、長男は学生結婚をして家を出たままの期間が長く、現在は鹿児島大の教授ですが若くしてケニアの野口研究所に学ぶなどの言葉が非常に少ない学究肌。

熊本県庁に勤める弟も言葉が非常に少なく、感情を表になかなか出さない男性です。三人兄弟の中で嫁だけが快活に見えるのですが、それは一面に過ぎず、私と同じように幼い頃からの何かを背負い続けて生きている女だと思っています。

そうした環境で育った嫁は自分の言葉を聞かない、認めない、言葉が少ない者に対してその心を知ろうとして更に激しい言葉や行動で挑発する悪い癖が嫁にはあります。

「世の中、お前と相手の二人しかいないかのように1対1の会話に拘り過ぎる」、といつも注意するのですが・。自分では気付かないままに周囲の者の関心を自分に惹きつけてしまう場違いな人って必ず居て、我が嫁が近いタイプではないかと思います。


☆:2008.10.9。

★:またも・嫁の挑発で母が狂乱。自分に気付かない天然嫁。

前述したように、嫁は強い近視の癖に朝からはメガネを掛けない日が多いんです。強度のメガネは慢性的な頭痛を呼びますからね。そうした理由で自宅では滅多にメガネを使用しない嫁は母や私の表情を読む事なく、全く悪気がなくて自分の思う言葉を次々と投げ掛けてくるんです。

嫁には嫁なりの理屈はあるのですが、凄く本能的で自我が強い配慮を知らない女だなあと私でさえも思う事があります。夫婦だけで暮らした頃にはそれが嫁の魅力でもあったのですが・・。

随分前の事ですが、嫁が所属した訪問介護事業所から、「お宅の奥様は自己主張が激しい方。会議をでの多くの者は仕方なくも大筋で賛同しているに関わらず、お宅の奥様だけが、『でも、でも・・』、と言いながらご自分が経験したすごく稀な例を出してきて反対に回られます」、と。

挙句の果て、「『たとえ皆さんとは違おうが私は自分のやり方でやります』、と周囲を挑発されて組織を混乱されることが多々あります」、と。
「奥様なりの正義感だとは思うのですが私たちは迷惑しています」、という意味の電話を頂いたことがあります。「・・あ~ぁ、天然の嫁がまたもややらかしたか」、と思いました。

私は、「貴方たちの組織を知らない私が貴方たちの組織上のトラブルを聞かされても何とも返事のしようがない。貴方たちが出した結論が曖昧なものであって、長い目で見れば嫁の意見が正しいのかも知れませんが・」、と答えました。

でも、本心を言えば、「いつも世間にボーッとしている印象を与えている嫁が会議で正義感を発揮しても他人様から見れば大きな矛盾に見えるのだろうな」、と思ったものです。


★:結局、嫁はこの組織を辞めることになりました。

嫁の自我が強い事は悪いとは言いませんが、我がままと自我はまったく違うんですね。我侭は人との触れ合いの中で壁となり易いんです。

今朝、嫁は突然に、何の予告もなく、何の話をしていたからでもなく、本当に唐突に、「私はお義母さんが怖い」、という強烈な非難の言葉を母に投掛けてその場を離れたんです。多分、嫁のこうした面が周囲には違和感を与えてしまうんだと思うんです。

短い言葉だから母には理解できたのでしょう。驚いた母は背を向けて去ろうとする嫁に、「今、何て言ったね?・」、と真意を正そうとしましたが、嫁は返事もせずに母の部屋を出たんです。

そこで、私が、「おい、自分の方からお袋に話掛けといて何だその態度は。映画のヒロインぶって」、と注意した処、ブリっとふくれて再び母の部屋に戻った嫁は、「私はお義母さんが怖いから怖いと言ったんです」、と堂々と喧嘩セリフを吐き、その場を去ったんです。

「日頃のお義母さん何が、どこが自分にとってどうだから、私は怖くなる時がある」、という説明がない訳だから母は怒るはずです。こんな嫁の態度は失礼極まるものであって誰だって怒ります。

★:周囲に与える違和感。世間知らずの嫁。

「皆さん、どうも済みません」、私は嫁に関わる世間の皆様にお詫びするしかありません。我が嫁が発する言葉って幼児並みでしょう?。

嫁はいつも誰とでもこのような言葉を使ってしまっては友人をなくしているんです。結婚以来、私がずっと注意し続けていることなんですが、嫁は改めません。

「嫌っ。嫌って言ったら嫌っ」、「あのオジちゃん嫌いっ」みたいな会話で始まった私と嫁との出会い・。私は彼女の事を「お嫁ちゃん」、と呼んでいたほどです・。

母は嫁の挑発的な言葉の連発と、それを上塗りするかのような挑発的な態度に怒りました。「××〇〇このわた〇ほにゃ×♪・・ぶりぶり〇どちゃ△!!こらドン×」、と物凄い勢いで叫び始めたんです。

実は、私は、「最近の母は理不尽な事を言うようになったが、すべて認知のせいだから辛抱しろ。血圧が高いから挑発するような会話はするな」、と嫁に昨晩言ったばかりだったのです。

嫁は相手が誰であろうが、いつもこの言葉を言いながらその場を去っては、「どういう意味だ」、という問いには一切返事をせずに物事を済ませてしまおうとします。折角、収まりかけた火に油を注ぐようなものなんです。何故なんだろうと思います。


★:ネットで調べた心理学の本では、

「自分に自信が持てなく、周囲から自分の存在を軽視されがちだと思い込むタイプに多い。さしたる努力をする訳でもなく、頭の中で妄想するだけで現実を見ようとしないタイプ。一発千金の妄想タイプ。肉体と精神のバランスがとれていない幼稚な者に多く見られる。

自分の良さに気付かず、他人の良さだけにおののくタイプ・」、といろいろと書かれていましたが、ものの見事に全部が嫁に該当しているような気がします。何か、最近は母も嫁も壊れていっている気がする我が家です。

「私は争いごとが嫌い」、と言う割りに何故か争いごとの切っ掛けを作る嫁・。劣等意識の塊りというか、世間を知らないんでしょうね。ネっ、お嫁ちゃん。


☆:2008.10.10。

★:嫁なりにはよくやっている。しかし、プロの介護士としては・・?。

私の周囲の人の意見を聞けば、①.近視の人には朝からメガネを掛けてクッキリとモノが見えて気持ちいいと思う人と②.周囲がボーッと見える状態に快感?を覚える人の2タイプあるようです。

しかし、②は人生の中での大きなロスタイムだと思います。世の中、必ず相手がいて、常に誰かがどこかでか自分を見つめているものなんです。行き先が分からない列車に乗っているだけのようです。

笑い事で済んだから書くんですが、嫁はこれまでにも来客に砂糖を入れたつもりの塩入珈琲を出したり、さっきまで飲んでいた自分の口紅付のカップに珈琲を注いでは来客に渡し、自分は来客用のカップに入った珈琲を飲んでいたり・。

食事の際などは私の位置に母の箸を置いたり、嫁の湯飲みを母に出したり・。これらは日常茶飯事で特に珍しい事ではありません。

本来、これはとんでもない事であって、単に天然ボケでは済まされないケースにだって発展しかねません。それが我が天然嫁の日常なんです。場所や状況次第では勤める組織の信用問題にまで発展するんだという事が嫁に分からないようなんです。否、分かっていて「何よ、それだけのことよ」と思ってしまうんでしょうか?ネ。

多分、この記事を読む嫁は、「たったそれだけの事で?」、と思うはずですが、嫁の欠点はそこなんです。それだけなんです。でも、「たったそれだけ」、から発展して大事になる事って世の中には多いものです。


★:ピアノは弾くしスタイルいいし、

料理は今いちですが声はうっとりするくらいに綺麗な我が嫁。しかし、嫁の言い分は、「人間、誰でもボーっとしていたい事ってあるでしょう。私という人間は朝のうちは食事を摂ることよりメガネもコンタクトもせずに、何にもせずにボンヤリとした時間を持つことが大好きな人なの」、とこれまた自分の人生観だけを押し付けて強制してきます。そんな事は世間に言うべき事ではないと思うのです。

今の世に限らず昔から人との交わりの中でボーッとしている人間なんて居ません。そんな言葉は独りで登った山の上でこそ許される言葉だと言うことが嫁には分からないんです。

私に言わせれば、母の介護を兄弟から引き継いだ時点でボーッとしている時間なんてない、と覚悟していますから、嫁の問いに、「うん」、という返事はできません。第一、嫁はプロの介護士なんです。

結局、積極性に欠けた生活をしてきた者には介護職は難しいんだと思います。与えられる事だけを期待して自助努力がない。自助努力がないから能力は身に付かないし真似すらできない。身に付かないままに大人になった者はそれを常識だと勘違いしてしまうんです。

でも、その常識を他人に押し付けてはいけません。世界中の人間ががボーッとしていたらどうします?。言い訳だらけの人生を嫁が好きなはずはないと思うのですが・。実際の処、嫁には言い訳が多い気がします。使い続ける鎮痛剤が効かなくなるのと同様、言い訳は使い続ける事は出来ません。

確かに、嫁はよく頑張ってはいるんです。でも、それが周囲には理解されていません。その理解されない理由は嫁の心の中にあるんだろうと思っています。

コンサートの依頼にしても、「ぜひ、奥さんピアノ演奏で・」、という希望があるのに一向に実現しない理由は、「嫁のボーッ」、が最大の理由でもあるんです。私は嫁の歌の伴奏は喜んでしますが、嫁のピアノで唄うのが怖いです。

この件で、「一緒に演奏しようよ」、と誘う私に嫁が言った事があります。「私が間違って弾いた時のアナタが湯気を出して怒る姿を思うと嫌よ」と・。結局、嫁は「自分にはいろんな場面での間違いが多い」と言う事が自覚できてはいるんです。失敗するという前提、そうした前提で世の中を生きていてはいけないのに・。


☆:2008.10.11。

★:母自身の中に女性を蔑視する傾向があった。

母は自分自身が昭和10年代初期から中期に掛けて博多で英文タイピストとして働いたキャリアを持っていながら、2003年の同居開始直後には我が家の嫁が働く姿を見て、「女の癖に働いて」、と非難したものでした。

「夕飯の買出しを息子にさせるなんて酷い嫁だ」、とか、「女の癖に、女の癖に」、と何かにつけて嫁を非難する事がありました。似たような事は長男と暮らした時期の数週の間にもあって、母の言動によって兄嫁は過呼吸症候群という厄介なものに悩まされたそうです。

「あのひと(長男の嫁)は一日に1回、必ず1時間くらいは外に出ては近所のお喋り女達と馬鹿話をしている」、と実家に戻った母は熊本の私への電話の中で兄嫁を評していました。実に憎しみの篭った表現でした。実際には兄嫁は夕飯の買い物に出掛けているだけなのですが、母にはこうした見方をする面が多分にあるんです。

電話だってそう。嫁や私が少しでも相手と話し込んでいると、「また、馬鹿話をして・」、と非難します。認知の進行に従い、こうした面が消失するかと思うと、それまでとは違う醜い部分が顔を出してきて人によっては以前にも増して増幅することもありますね。

そして、それはデイ施設という狭い隔離された世界で起きるケースが多いと聞きます。馴れ合いになってくるのか、施設で介護士さんや通所される自分より若いお年寄りに対して失礼な言葉を投げ掛ける母の姿を見ることが結構あります。

「あんたになんか頼まんよ」、「へーっ、あんたにも〇〇ができるのね」、みたいな周囲を小馬鹿にした態度と口利きです。こんな時の母は自分のことを歌が浦時代のお姫様とでも思っているような感じにさえ思えます。

前述の記事の「母と嫁との叫び合い」の遠因はこの辺にもあるんです。

「あら、どうしたの今日に限って」、「し慣れない事はやらん方がいいよ」、と認知の進んだ母が投げ掛ける言葉を嫁が必要以上に気に留め、それを何日間にも渡って悩み引きづり考え続けているからあのような突然の叫び合いになるんだと思います。つまり、「私はお義母さんが怖い」。と

嫁が使った、「私はお義母さんが怖い」、という本当の意味は、「どう考えても私はあの日のお義母さんの言葉の意味が理不尽で理解できない」、「これ程に必死になってお世話しているのに」、「あんな酷い言葉しか返され、私はお義母さんの心が分からない。お義母さんが私のことをどう思っているか」、「私はお義母さんが怖い」、という意味で使ったはずなんです。


★:嫁の日本語は英語の文法に近い。

しかし、日常的に嫁の使う言葉は非常に誤解を受ける事が多く、「お前の使う言葉は意味が分かりにくいから、周囲に誤解されやすいゾ。文法に沿った日本語を使え」、といつも注意するのですが・・、これが頑固な嫁は絶対に直さないんです。多分、直せないんです。否、・冶せないというというほうが適正かも・。

「あぁ、大変だった+皆さんも走り回っていてね+予想が当らない事ってあるのね+8時過ぎ頃からよ+大丈夫だと思ったんだけど+朝はね+あぁ、大変大変+干しといてくれる?+雨が降るとは思わなかったよ」、と・・。突然の雨に降られて帰宅した際の嫁はこんな喋り方をするんです。

私は嫁の態度や言葉をそこまで理解した上で嫁を責めているんですが、今度はその私の心を嫁が分からなくてプリプリと私を睨みつけるんです。多分、この記事も読むんでしょうね?ドキドキ。


★:姉のアドバイスにブログ上で答えたい。

家庭内の親子の衝突などの恥ずかしい出来事はブログには書かない方がいいのでなないか、と姉が注意してくれました。

私は我が家が介護家庭ではないのであれば「母と嫁の叫び合い」など書きません。でも、在宅で必死に暮らしている介護家庭では似たような親子の過ちや夫婦の衝突などは日常的だと思っています。書く以上は根拠を述べているし、読んだ嫁が介護に対する私の考えを分かってくれたらそれでいいんです。

差し支えのない事しか書かないならただのノロケ日記になるし、誰も介護生活への参考にはしないと思います。 私は嫁だけを責めているのではありません。嫁はプロの介護士ですよ、という断りを必ず入れてから書いているつもりです。嫁と似たような考えを持つ介護士さんも他にいるだろうし・。

姉は兄嫁と私の嫁を比較しますが、その事の方の方が恥ずかしい事だと思います。母が兄の元に身を寄せた僅か2週間とその後の母と既に6年を暮らす私たちとの暮らしを比較する事自体が意味がないんです。我が兄夫婦は母との同居に失敗したし、姉夫婦もそうだったはず。自分自身を棚に置いた意見は・私は聞けません。

兄夫婦と暮らした当時の母は要介護1~2。兄夫婦がギブアップして姉夫婦と暮らした頃でさえ要介護度2でしかありません。兄嫁と私の嫁の比較なんて今の母には何の意味もなしません。私に言わせれば要介護度2までは単に同居に過ぎません。

「ここは嫌だと実家に戻る母にはまだ自活能力があり、目が不自由だった程度。要介護度2だからこそ生じる大変な事態があれば、要介護4だからこそ生じる大変な事態があるはず。その比較ができるはずがない。


★:要介護4の今の母に対する介護というのは姉が思うようなスタンスでは語れない。

確かに母と兄嫁はとても仲が良かった、兄嫁はお料理が上手だったということは比較的に心身ともに健常なお年寄りには一番喜ばしい事でしょうが、要介護4にもなるお年寄りの世話となるとそんな精神的な面だけでは絶対に危険です。

第一、その兄嫁だって過呼吸症候群に陥ったり円形脱毛症を患ったほどだから、姉が評価している部分は非常に表面的なものに過ぎないと思っています。

母は兄の所に居て、姉の所に居て・、もう、私たちには母の世話ができない、ということで私が世話をすることになった経緯を姉は思い出すべきであって、第三者のような語り口で我々夫婦を評価する資格は姉には全くないと思っています。

現在の母、それに私たち夫婦は叫んでいます。叫び合っているように見えますが、目には見えない何かを恐れ、目には見えない何かを避けようとして叫んでいるんです。どう説明していいか分かりません。我が姉には母と私達夫婦の叫びを分かる筈もありません。

母の余命に最期まで付き合おうと、私は仕事を半ば放棄し、人生を棄ててまで介護に臨んでいます。生活に逼迫しながらも、「後は任せなさいと」、夢を語り続けるだけの嫁。

私の人生観と嫁の夢が実現できればそれに越したことはありません。しかし、頼りの綱が切れ掛かっているのは事実のようです。私は母を最後まで立派に看取り、そこで私の命が尽きても本望。気になるのは夢を語る嫁のその後の暮らしです。

できることなら、来春も母と桜が見たいものです。後ろからは天然嫁がカメラ片手にブツブツいいながらチョコチョコとついて回っているはずだから・。



☆:2008.10.13。

★:コンサート会場で・。

私のCDを聴いた方からのメールや電話、或いはコンサートが終わった後の会場などでよくご質問を受けます。

「貴方ってよくもまあ、こんな美しくて優しい詩が書けるものですね。女でも書けない優しさです」。「貴方に会うまでは小柄で色白の坊ちゃんのようなイメージを持っていましたが、会ってみて大男にビックリ」など、といろんな事を評する方がいらっしゃいます。

聴く人の心を癒し、時に愚痴っぽい詩で言い訳をしてくれ、時に聴く者の代わりに泣いて唄ってくれる・。そんな詩を書く男はひ弱で、か細く、色白で・、というイメージに繋がっていくのでしょうね。私に言わせればそんなイメージを抱く方の方が甘い。

特に私のコンサートでは常に同行するPA(音響機器)のオペレートをする上原氏が私よりも一回り大きく190cm近い人で、更に時々ですが映像関係の会社をされている山田という友人がハイビジョンカメラで撮影してくれるのですが、この人が190cmを越すほどの大柄な人で、私は彼等スタッフの中では一番小さいんです。だから、この大きな男達がジーンズ姿で会場にPA機器の設営をしている際中など、何だか会場が狭く感じる事があります。

「ねえ・貴方達、打ち合わせをしたいんだけど濱野裕生さんはどこかしら・」、と聞かれ、「ハイ、私です」、と立ち上がると、「えーっ、意外に大きい人なんですね・」、と言われる事は確かに多くあります。

そんな光景を見て、「ホー、ウッヒョヒョヒョッ」、とトーンの高い声で笑うのは上原氏。「ボッシュシュー、ボッシュッ」、と低い声で笑うのが山田氏。「ウッフフ」、と少しだけおカマっぽい私ですが、この3人の中で一番気が短くて喧嘩ッ早いのは私なんです。

私の作る作品の言葉の使い方が優しくなるのは介護が主なテーマになっているだけに仕方のないことですね。ただ、優しさ=女、小柄で色白。という定義つけには苦笑をさせられます。実際の介護現場に関して言えばそんな優しいイメージは通用しませんよ。


★:介助は腕力勝負、行動力。

介護は相手の行動に対する予知力が必要です。他にも要件は沢山あるのでしょうが、それらの全てに積極的、本能的なモノが付随していて初めてできるものだと思っています。

ダラーっとした性格で、「今日の事は明日でもいいか」、みたいな生活を身につけている人には絶対に向かないのが介護だと思っています。だから、私は自分の気の短さを恥じる気はありません。気の短い人間は比較的に読みと理解が早いんです。短絡的な気の短さではなく、冷静さ、対処の速さのこと。予知に基づく決断と行動です。

自分が目を離した隙に転倒したお年寄りを、「本棚から落ちた本を元の棚に戻すような意識」で扱ってはいけません。目を離した己を、心がズレタ自分を激しく責めるべきだし、周囲にも責められるべきなんです。介護って命を扱っているんです。


★:「男らしさ」、というものへの定義は母と暮らす事で随分と変わりました。

私の思う男らしさって、結局は相手の心を思い遣り、その為の辛抱や優しさを心変わりすることなくコンスタントに発揮できる事。日々の介護にムラがない事・・、そんな事をできる男でしょうか。

その為に女々しく泣いたり酒を浴びたり胃の薬飲んだりする事のどこが悪いんだと言い切れる奴・。そんな奴の方が余程、男っぽいと・思っています。今の私の事を言ってしまっているのですが、私の日常がそうなんだから、そうなんです。私は自分との約束を守ります。

実は、この「男らしい」、という言葉は2006年の暮れ、夜間のトイレのお世話をしている私に対して母が投げ掛けた言葉でした。

「濱野も河内も炭坑の家系だから気の強い者ばかりだけど、私はお前のような親思いの子供を生んだ覚えはないよ。お前のような男らしい子を産んでいて私はご先祖様にも胸が張れるよ・ホホ」、と恥ずかしそうに言ったんです。

私の作品に「ホッホ」、というのがありますが、これは母のその言葉が作る切っ掛けにもなっています。
♪:「人生って老いてからの方が辛いことが多いネ ホッホ母が笑う 朝から何を食べてお昼はどこに居て ホッホ それさえ分からない」、という歌い出しです。全国の皆さん、是非、有線放送なり、ラジオなりでリクエストをして聴いて欲しいと思います。



☆:2008.10.14。

★:「あの~さ」、と何かを言いかけては・・忘れる母。

母:お前に大事な話があって・ね。
私:うん、それで?。

母:佐世保の家には誰も住んじゃおらんのだろう?。あれはどうするんだろうね」。
私:あー、あれは住み人なしの寂しがり屋(家)さんさ。

母:あはっ、そうね。お前は面白い言い方をするね。寂しがりやね・ホホッ・」。
私:・で、それがどうした。

母:×××・・、何がさ?。
私:だから佐世保の家をどうかしろと言うんだろう?。

母:知らん・よ。♪何の話ね。佐世保の家をどうかするってね?」。

「あ~っ、しまった。また余計な事を言ってしまった」、と愚痴る私に母は、「私が余計な事を言い出したってね」、と怒り出します。

私:家をどうにかしろと、あんたが先に言い出したんだろう。
母:いい加減にしろって?。あんたが先に逝ってしまえってね?

と母はいつの間にか話の筋から脱線を始めます。

私:どうして、そういう話に変わってしまうんだろう。頭がおかしくなるよ。
母:何てね?・。どうしたらそういう悲しい話が分かるようになるかってね?。玉が白くなるって、何の玉がね。

私:カナシイじゃなく、ハナシ」さ。タマが白くなるんじゃなくて「アタマがおかしくなる」と言っ
 たのさ。

認知の状態というものは耳の具合、つまり言語の聴き取り能力にも深い関係があるんです。でも、どこかで佐世保の家を気にする母が健在ですが、家のことを真剣に話そうと思ったらしい母に対し、私が返した言葉のせいで何を言いたかったのかを忘れてしまった母でした。


★:最近の母にはこんな事も・・。

職場を14:00過ぎに交代の者に頼み、デイ施設の鶴所苑へ母を迎えに行くのですが、私の姿を見つけた母が、「遅いからあんたの事務所に迎えに行こうとしとったさ」、と。

「あれっ、俺の事務所まで誰かの車に送って貰うつもりだったの?」、と私。
「そう、玄関に赤い籏を立てておくと車が止まって、奥様、今日はどこかにお出掛けですかと運転手が私の家まで来るとさ。いつもそうよ」、と母。

実は、この母の話は半分が本当の話ではあるんです。佐賀県伊万里市で炭坑をしていた頃、ちょっと遠出をしようと思う時の母は南の庭先のツルバラが巻き付いた塀の所に赤い色の小籏を差し込んでいたのです。

そして、私の家の下を通る石炭運搬トラックの運転手達には必ず石垣の上の塀を見るようにと父が申しつけていた為、赤い小籏が風に翻っていたら、一旦、停車して母や子供達が坂道を降りて来るのをトラックを停めたままで待つようにという指示でした。

私達はこの車に乗って近くのバス停に行ったり、トラックに乗っては父を訪ねて炭坑まで乗っていったり、船に積み込む為の貯炭場に行ったり、大きな船が停泊している久原港に行っては船の中で遊んだりしていたのを憶えています。

だから、母は現在でもこの頃の事を記憶している日があるのだと思います。でも、今の母はこの頃と現在が分からなくなっていて、今朝方にデイ施設まで母を車で乗せてきた私の事を忘れ、炭鉱のトラックで来たと思っているようでした。

つまり、私が息子だと認識する一方で、母を運ぶ炭坑のトラックの運転手だとも思っていて、母を迎えに来る息子の時間が遅いから、赤い小籏を施設の玄関に立てておいて、私が運転する車で、私の事務所まで私を迎えに行こうかと・、思っていたのです?。ハイ、そうすると私は誰で、一体、私は何人いるんでしょうか?・。まるで、児玉清のクイズ番組みたい。



☆:2008.10.16。

★:遠い昔の私の事を少しだけ。

19歳間近でこの熊本の地に降り立った私は姉に買って貰った当時¥3800の真っ赤なギター、母が持って行けと言った真っ赤な10cm厚のマットレスにコタツ。

私は高校時代から卒業後1年近く続けた夜間の米軍基地での演奏で得たギャラ。その間、昼間に働いた戸の尾市場での約一年分の給料の全額を母に預けていました。

米軍基地での一晩の演奏で私が手にしていた金額は当時の平均的な日本人サラリーマンの1週間分程の大きな金額。米軍基地での演奏だけで十分だったのですが、怠惰な生活をしてはいけないと、私は戸の尾市場での配送の仕事を本業だと位置付けて働いていました。

熊本へ旅立つ私の懐には母に預けていたお金と母が父に内緒で付け加えてくれた金子。当時の貨幣価値で言えば学資や下宿代を納めた上に2年は裕にアルバイトもせずに暮らせる金額だったはずでした。

米軍基地では人種差別こそありましたが、それはニガーへのものが主であって友好国の日本に対しては必ずしもそうではない友好的な雰囲気がありました。当時の我が国を席巻した学生運動の影響もあったのでしょうか。私は米軍基地ではいろんな貴重な考え方を知りました。

アメリカという国家は歴史がありません。建国後の200年なんてないようなもの。それに、純粋なアメリカ人って誰だ?・と考えるとインディアンくらいかな?。イギリスに清教徒革命が起こり、異教徒達の中で捉えられた者達は流罪の刑で豪州へ。そして、新天地として移り住んだ所がアメリカ大陸でした。

アメリカの心は広いもの。誰でも受け入れてくれます。結局、誰もが自分の歴史を探しているし、誰もが自分から新しく始まり作る歴史を探しているんです。つまり、仲間を求めているんです。私が世話焼きで図々しくて開放的で人懐っこいのはその為なんです。誰にでも与えるし、誰にでも求めてしまうんです。

しかし、この熊本でのそんな私はそれまでには思いもしなかった経験をする事になるのです。大人への第一歩だったのでしょうか。独りの男としての旅の始まりだったのかも知れません。

私は佐世保基地での演奏で稼いだ大切な多額の資金を隣のアパートに住む友人の同棲相手の女に誑かされ一瞬にして一文なしの状態になるのです。友人を責めても責め返されます。

空腹の余り、私は上通り町という繁華街に初めて足を踏み入れ、人目を憚らずに夜のアーケード街の側溝の蓋を開けては昼間の通行人が落としていったかも知れないつり銭の小銭を探したのです。一晩中、夜が明けるまで汚い溝の中に埋まったコインを拾い続けました。その姿は乞食同然・。周囲にはそのように見えたはずです。

「何をしているんだ」、と驚いたように私を見る3,4人の酔客に、「この野郎、見るな。向こうに行け」、と怒鳴りながら殴りかかろうしますが空腹の為にヨタヨタと倒れこみ、逆に彼らに蹴り上げられてしまうのです。

口から血反吐を吐く私はニヤニヤと笑い、泣きましたね。俺は何をやっているんだと己を笑いました。血走った目で狂人のようにヘラヘラと笑っていたんだと思います。一体、俺は何がやりたくて熊本に来たんだと・。ここで何をしているんだと思いました。

見栄も何もかなぐり捨てていました。お腹が空いて仕方がなかったのです。要領を得ない私は乞食以下の精神性を持つ男になり下がっていた事に気付かされたのです。でも、どうしようもありませんでした。

誰に縋ればいいのか、何を信じたらいいのか・、この異郷の地で私は己の不甲斐なさ、だらしのなさ、計画性のなさ・、諸々の自分を罵りました。己の非を周囲のせいだ、世間が悪いんだと押しつけようとする自分に気付かされたのです。

やがて、私は人目を忍ぶように神社に通い神の言葉を待つようになりました。鳥が私を笑っていました。雲が私を笑っていました。涌き出る清水の流れの音が私を笑っていました。
お前なんて虫けらだ、ただの虫けらだと風が私の頬を打ちました。消えてしまえ、溶けて無くなれと雨が私を打つのです。

身体の高熱を雨が冷まし、更に高熱を呼び込むのです。そして、私は1本のナイフを手に宮崎県に続く原生林深くに我が身を埋めようと下宿を離れるのでした。19歳になったばかりの私は父を兄を恨み妬む、世間を恨む。…そんなつまらない奴だったのです。

そして、情けない事に心の中では、「母チャン、母チャン・助けてくれ!。俺を助けてっ。山の中で死なせないでくれっ」、と叫んでいたんです。

私って女々しく実に情けない男だったのです。でも、この自殺願望みたいな切っ掛けから始まった私の山篭もり生活ですが、現代に生きる皆様には恐らくは信じて貰えないような体験をする事になるのです。それは凄まじい体験でした。でも、高校では山岳部でしたからね。少しづつ後述したいと思います。この当時の私自身を扱った作品に《♪・四畳半の檻の中で》というものがあります。



☆:2008.10.18。

★:筋肉増強剤と筋トレで体重が8.5kg増える。嫁が気持ち悪い・・と。

私のベスト体重は62kg。ちょっと食欲が落ちる夏場などは58kgにさえなります。身長が177cmくらいだから本来は痩せているんです。でも、この2008年の春先から始めた筋肉トレーニングによって今日現在の私は70kgを越すほどの体重になり、首回りから腕、肩、両足に至るまでが太くなり、ふくらはぎなどはジーンズの裾幅一杯に筋肉がついてブチブチしている程。

ブログでは以前にも既述した事ですが、この2年近くの間に急激に不自由さが増した母の日常の殆ど全ての動きに対して腕力のいる介助が必要になってきた為、筋肉増強剤という最近の日本プロ野球界でも話題になりだしたステロイド剤を使用しながらのトレーニングをした為の急激な体重増です。

ここまで母の身体能力が落ちるとその行動の全てに誰かの介助がなければ動けません。だから、その母の身体状態に似合った介助を行なっていくには私の方が体力を付けないと介助には限度がくると危機感を感じたんです。男であっても一人では介助が困難になっていたんです。

現在の母。例えば、ロックをかけた車椅子の前に私が立ち、左右の腕を母の脇の下に差し入れて立ち上がらせるのですが、よく倉庫などで使われている2本の腕が伸びたフォークリフトというんですか?、あの状態と同じにならないと車椅子の母を立たせる事ができません。

両手で吊り上げるようにして立たせるんですが、私は腰椎分離骨折の手術を放置したままの身体ですから腰に負荷を掛け過ぎて状態を悪化させていました。それに、既に両肩も腕が上がらないほどに痛めていました。

今度は立ち上がった母をベッドに座らせるのですが、この時には逆にリフトアップした母の身体を横に90度程移動させて静かにベッドの縁に座らせます。母の全体重が私の2本の腕に掛かっていて、そのバランスをとっているのが野球で痛めている私の腰なんです。

次に、この座った母の背中に左手を添え、右手を母の両足の膝の部分にあてて「くの字になった」母の身体を持ち上げてベッドに横にさせるのです。この介助がなければ昨年のある時期の母などは車椅子に座る事も立つことも、寝ることも起きることも出来ませんでした。

私は腰だけではなく、腹筋、背筋、腕、両足の筋肉、関節がメリメリ、ベキベキときしむような日々が続いていたんです。

昨年の今頃の私はこうした介助の無理が祟ったのでしょうか、腹が痛むのですが腹の中が痛いのか外が痛いのかが分からない。肩が痛むのですが肩なのか首からの痛みなのか、頭痛までするんです。

鎖骨の痛みなのか胸が痛むのか、肺なのかさえ自分でも分からないんです。食欲は減るし、下痢や便秘が一緒に起きるし、トイレでは胃液が出るほどに吐くようになっていました。

昨年の暮れからのこの激しい痛みに鎮痛剤や抗生剤を服用しながら対処していましたが体重が50kg台に落ちた時点で、「よし、こうなったらひと勝負するしかない」、と男性ホルモンと構造式が似たステロイド在を使用し始めたんです。

飲み始めたその日の夕方には効果があって私の身体の痛みが殆ど消え、腰椎分離骨折の痛みだけが残る程度になっていて、吐き気もなくなり便の状態も食欲も劇的に回復していました。

しかし、ステロイド剤だけに頼っていては私の健康には良いはずがないからと職場に以前から持ち込んでいた片方で12.5kgのダンベルを使って筋肉トレーニングを行うように日常をアレンジしました。

その他にもスクワットや腕立て伏せや片足屈伸などいろんな運動を取り入れてやっているうちに約4ヶ月で約8.5kgの体重が増え、首や腕回り、お尻や脚、両肩などに驚くほどの筋肉がつき、逆に胴回りは3cm細くなり、ウットリするくらいの細マッチョになりましたが、嫁は、「吐き気がするくらいにいやらしい」、と言い始めています。どこがどう気に召さないのか・。

しかし、この間に副作用と言われる頭部の脱毛が始まった気配を感じた為、知り合いの薬剤師さんに相談してステロイドを3ヶ月間中止し、このブランク期間を過ぎた頃からは今度は男性ホルモン剤と脱毛予防の女性ホルモン似のものを服用しています。

頭髪の発毛には女性ホルモンが関わっているんですって。スケベ親父の頭が薄いのは男性ホルモンの出過ぎと高血圧が理由とか・。確かに降圧剤を飲み始めると頭髪が増え始めるっていいますね。皆さんの周りではどうでしょっ。オンナっぽい男性は黒々頭髪ですか?。

兎も角は母の介護に必要な現在の体格が出来上がって、それが維持できるようであればステロイドは徐々に投与の量を減らそうと思っています。

皆さん、介護って他人事ではありません。プロの介護の現場でもこのような体力的な悩みを持つ介護士さんっているのではないでしょうか。



☆:2008.10.19。

★:アルツハイマー型若年期認知症。

先日もご紹介しましたが、(社)認知症の人と家族の会 という組織があって「ぽーれぽーれ」、という月刊誌が毎月発行されています。私の作っている「母に生命を返す時」、という介護生活を趣旨としたCD集が縁となり、恐れながら無料で送って頂くようになって約2年。どちらかというとアルツハイマータイプに重きを置かれた組織かな・と思うのですが、何れにしろ介護家族の思いは同じなはずですね。

私の作る音楽のテーマも介護される側より、それを見つめ支える家族側の視点を重視して作っている・というのが共通した部分だと思っています。

この組織が発行したぽーれぽーれ338号の中にハッとさせられる記事を見つけたのでピックアップしてご紹介します。奥様はナース。ご主人も同じ病院で事務職をされていたご夫婦です。

「妻がアルツハイマー型若年期認知症の診断を受けたのは51歳の誕生日を目前にした1999年10月の事だった。日々感じていた妻の異常から診断に驚くことはなかったが、私の脳裏を徘徊、失禁、暴力・・、様々な言葉がよぎると、それに自分は耐えられるだろうかとの不安が広がった。今にして思えば診断の下る数年前から妻の変化の兆しはあったように思う。

カレーやおでんなどの料理を大量に作り過ぎるとか、気前の良すぎる買い物振り、火に掛けたやかんを沸騰させたままだったり、風呂釜の点火をしたら最後、沸騰するまで止めなかったり、友人と電話していても非現実な妄想事を展開し始めたり・・、数ヶ月に一度くらいなら笑い事で済まされるでも、その頻度が激しくなるにつれて普通ではないと分かってくる。しかし、共に暮らすうちはなかなか気づかないものだ。否、自覚する事を私が避けていたのかも知れない。

こうして8年が過ぎ、妻の介護に明け暮れる私も体力の低下を感じる場面が増えた。妻への介護疲れかと思ったが受診の結果はそうではなかった。
2007年の暮れ、私の食道上部に悪性の腫瘍が見つかったのだ。検査を含めて3ヶ月間の入院が必要だと言われた。しかし、私には妻の介護の日々があるのだ。
私の入院中の妻の介護について介護事業所に相談すると3ヶ月間もの 泊まりの態勢は摂れないと言う・・、私は頭が真っ青になった。介護保険制度の脆弱さを改めて思い知った。
幸い、ボランテイアの協力や別な事業所の支援を得て取り敢えずの態勢を整えた。

検査の結果、私の腫瘍は既に4センチ。ガンは食道の膜を突破してリンパ腺2つを侵し、私の全身に及ぼうとしている。私はこれから化学療法と放射線を組み合わせてガンと対決する。

私は若年期認知症の妻の介護という特異な経験をさせて貰った。それに加えて自らも病と対決するとは思いもよらない事だった。しかし、これも私の運命。何かのご縁だと思う。
できる事なら、ガンを克服し、認知症の人と家族を守る会の活動の場で、再び仲間と再会したいと思っている。

・・・この方の記事には頭が下がりました。私にはこのような冷静な文章は書けません。人生はこれからだと言うのに、これから夫婦水入らずの人生が待っているんだとよ、いう時期にこうしたケースが多いですね。

私の従兄弟夫婦も似たようなケースで共に闘っています。父親がアルツハイマー型の認知症になり、息子夫婦は在宅に拘って父親のお世話をしていたのですが、この父親に暴力性が出始め、嫁に辛くあたるようになっていき、嫁の表情が徐々に崩れ始めます。

やがて、父親の暴力性に限度を感じた息子はある病院の事務職をしていた関係で長崎では自然環境に気を遣った作りで有名な施設に父親を入所させるのですが、一向に嫁の表情が改善しません。
健常人であれば意味のない行動(徘徊)さえするようになり、心配した息子が嫁に受診させた処、アルツハイマー型若年期認知症だというのがわかったのでした。従兄弟が嫁の発症に気づいたのが51歳の時といいます。
今では筋肉に萎縮が出て歩くことも出来ません。しかし、従兄弟は早期に退職し、自身の日常を棄ててひたすらにお嫁さんの世話をしています。

私は今でもよく言われます。母親だからやれるんだ。父親だったらそこまではしないはず。まして嫁だったら施設に入れてお前は遊びほうけるだろう、って。そんな事を言う奴は愚か者。多分、花に水さえ与えた経験のない者でしょう。他人に言うより、お前がやってみろ、と。
普通の人間だったら目の前で弱り転がる命を放っておけるはずがない。私は車に撥ねられペシャンコになった猫にだって自分の命を吹き込みたいと思う人間です。見て見ぬ振りはできない。逃げればその後の人生が辛くて生きていけない気がするんです。それは安っぽい正義感なんてものじゃない。

私の介護生活はこの従兄弟の姿に多いに支えられているのです。ヨシちゃんには負けてられない。 



☆:2008.10.20。

★:またまた、・今思えば。

幼い頃に小腸のほぼ半分、大腸の25%を失うような大手術を受け、その他にも機能を殆ど停止した臓器がある私の身体ですが、幼い頃には同じ年の子供に較べて常に頭一つ分以上は背が高くて身体が大きく、兄も姉もそうですが家系的には骨格自体は大きいのだと思います。

だから、元来の私は肉がつかずに痩せてはいますが肩幅も並みの人以上に広く、若い頃からオッチョコチョイの嫁が首回りだけを参考にして買ってきたYシャツなどを着ても袖が8cmくらい短くて着れなかった事を思い出します。

最近、「そんなに身体が大きくなってどうするの!。今ある服が全然着れないじゃない」、と嫁がふくれています。体重計も72kgを指しました。

思えば、【母に生命を返す時】という介護CD制作で興味を持たれてNHKで報道された2006年6月の頃には前年の12月2日の母の骨折以来、194日間に渡る介助で私は心身ともにボロボロで体調は最悪の時期でした。

NHKで報道された当時の私の体重は54~56kgくらいに落ちていたと思います。また、その上に酒浸りの上に寝不足、過労で体中が浮腫んでいた頃でした。NHKから戴いたDVDを見る限り、スタジオで歌う私の表情は虚ろでまるで他人の作品を歌うかのような無表情で力のない存在です。


★:今朝の母。「言葉にはリズムがある」、と母。

走る車のフロントガラスに綺麗な緑色をした虫が必死にしがみついているのを母が見つけました。私の車は我が家の庭の大きな金木犀の下に留める為、この虫はついつい落下してしまったのだと思います。

それとも、「つやサンの通う鶴翔苑という施設ってどんな所でしょっ」、てついてきたのかも知れません。何の幼虫なんでしょうか、毛虫のようなんですが2.5cmくらいの綺麗な緑色をした虫でしたが、走る車の揺れに困ったように右に左に首を振りながら、「オイオイオイ、ちょっとちょっと、車が速すぎて吹き飛ばされそうだよ」、って母の前から私の方へフロントガラスの向こうで這い寄って来ます。

母:ほれっ、そっちへ行くよ。ほら、あんたの方に・。
私:うるさいよ。俺は運転中さ。あんたが嫌いでこっちにくるのさ。ムシが好かんのさ。

母:あはっ、面白い。本当にお前は愉快な事ばかり言う子だよ。ムシが好かんのか、うんうん、そん
 ならそれでよか。

母は難聴なんですが私の話は割とよく聞こえるようです。母に言わせると喋り方に起伏があって一本調子じゃないのがいい、と言います。

一方、長崎の長女の喋りは声は明瞭ですが、喋りが早い上に話題が次々に変わっては戻ったりするから母はポイントだけしか聴かない癖がついています。例えば、悟、ノンちゃん、弘さん、武藤さん、川端さん、大久保、伊万里・、そんな感じです。

「姉の長男の悟くんのアメリカ遊学中の話をしているかと思えば、姉が住む長与の名産の梨を買って長女の信子の家庭に届ける予定だと姉が言い。その梨について、「弘さん、弘さん」、というご亭主さんの名前が登場し、「武藤さんって覚えているよね。ほら大久保で・・。博多のり子さんじゃないよ・・」、と母に時間を全く与えずに姉は一気に喋り、「・そんな訳でね母ちゃん。悟が今頃は飛行機に乗る手配を・」、みたいな感じになってしまいますから、母は首をしきりに傾けて受話器を持っています。

「ね、母ちゃん。今日は電話で紘子とどんな話をしたね」、と訊ねると、「うん、悟くんがアメリカに長与の梨を持って行ってね、ノンちゃん達に食べさせようとしたら、弘さんが、それは美味い梨だぞ。なあ紘子、と言ったらしい。

紘子は、「それは高くて我が家は買っていないから食べていない」、と言うと、大久保の武藤さんが、それは博多にいるのり子さんが飛行機に乗っている悟くんに送った梨で・、と母の中ではチンプンカンプンの話になっていたりします。

嫁の言葉は実に早くて分かり辛い上に我が嫁のお喋り同様に文法的に問題があるんです。「サ洗いましょ、手を。先ですよ、先っ、手が先ですよ洗うのは・・」みたいになっていますから、早口というより文法を見直した方がいいと思っています。嫁は小学校の先生になるのが夢だったんですからね。「サ+お母さん+先に手を洗いましょ」、と言えば簡単なのに、といつも思います。

皆さんの周囲にこんな喋り方をする人居ませんか?。「あらっ、うわ~っ困った。やっぱりね。あ~っ、私の努力が何にもならない。クーッ、思わないじゃなかったんだけど干せないよ洗濯物が。雨が降ってる」、みたいにね。


★:この半年で更に酒が入るようになった。

酒・飲んでいます。最近は益々ピッチがあがり、1.8リットル入りの紙パックを夕飯の仕度をしながらの立ち飲みで2日で1本のピッチ。勿論、料理にも使ったりもしていますが飲む量が増えました。頂き物があるからと飲んでいるうちにいつの間にか増えてしまいます。母は、「へヘーッ、流石にお前は濱野の血を引いとる」と言います。

別府の博堂村の大塚さんから、「焼酎は20度をロックで飲むのが一番」、と言われて探し始めた20度の焼酎。この熊本は人吉を中心とした焼酎王国で沢山の蔵本がありますが25度の焼酎が一般的ですね。熊本の城南地区には50度近いモノまであって、原酒だけを出荷していてエチルアルコールで薄めていない為にウオッカ以上の強さです。実は、これを2008年当初に友人Nから頂いたんです。47度の焼酎です。

「高橋さん、これは笹栗さんでお寺に置いてあって、沢山の行者や遍路さんのお経が入った焼酎だから身体にはいいよ!」って貰ったヤツでしたが、見事に胃をやられた事もあります。

今年の夏はいろんなスーパーで20度を見掛けました。白岳の青文字パックをロックでがぶ飲みしています。あれだと6時間で1.8リットルはいけます。

私生活通り、こうだと決めた以上は浮気しないタイプのはずですが、いつも通うスーパーの酒コーナーに居たら、「高橋さん、これとか飲んでみません?」、とジンを勧められたんです。

47.5度もあるwilkinson-ginと書いてあったかな?。若い頃には炭酸で割ったジンライムをよく飲みました。あれは松の葉の香りがしていいんですが、3杯目くらいからは苦さが先に来るんです。でも、このジンを買いました。それにブラックニッカも。

まず、ブラックニッカ720mlを夕方から21:00迄の5時間で飲んでしまい、その合間に20度の白岳ロックをパック半分も飲んでいましたから強くなったもんだと思います。ジンは風呂上がりが美味い気がします。

野球をしていた関係もありますが、この20年くらいは酒はおろか炭酸飲料に至るまで飲まないように心掛けていましたから、あいつは飲まない、飲めないという印象を持った友人・知人が多く、今は彼らを完全に裏切っています。

でも、これでも母の夜間のトイレのお世話はキッチリとやっています。そろそろ、博堂村のライブ予定を決めたいのですが、嫁の骨折回復、国家試験、姉の都合の3条件がマッチしないと決まりません。
でも、こんな事言っていてもどうしようもないですね。私は一介護家族。ミュージシャンではありませんから・。



☆:2008.10.21。

★:最近の母の朝が早い。

昨晩、母の就寝時刻は22:00近く。最初のトイレが1:20。2度目が3:20。そして、「もう、起きる時間だろう?、ご飯でも炊こうかね」、と母が言う。

「早いよ。ほら、外はまだ真っ暗さ」、と私は母の部屋のカーテンをを開けて外の様子を見せます。
「あは、そんなもんかねェ・・」、と母。

母を納得させて再びベッドに横にさせた私はそのまま台所に行き、牛乳を一口飲んで部屋に戻るのですが、母の部屋からはもう軽い寝息さえ聞こえます。しかし、5:40になると母はピタッと判で押したように間違いなく目覚めます。

「あと20分だけ転がっていてくれ。俺をもう20分だけ寝せてくれ」と頼むのですが、無理。私の睡眠不足は恒常的になっています。この生活パターンの蓄積は堪えます。

姉の話では7~8年ほど前の母は寝る前には睡眠薬を飲んでいたと言います。私にも僅かな記憶がありますが、母の50歳代半ばの頃には常備薬みたいに茶の間の棚に置いてあった気がします。でも、この熊本の我が家に来てからの母が眠れていないな、と思う日はあまり見掛けません。

ただ、母がよく眠るようになった事を手放しでは喜べません。それは老いてきて免疫性が低下した為に一日の疲れの回復が遅くなったからではないかとも思えるのです。

私達の一日に較べ、お年寄りの一日は長いもの。疲れ方も私達とは違うはず。しかし、気丈夫な母は、「横になれ、休め」、という言葉をあまり歓迎しません。

最近はデイ施設から帰って横になっても直ぐに起きようとします。1分1秒でも私達と同じ時間を過ごそうとしてしているのようなのです。
まるで、崖から滑り落ちる瞬間に岩壁に見つけた一本のツタを必死に掴み、落ちるのは嫌だ、死ぬのは嫌だと叫んでいるかのような姿にさえ見える時があります。皆さん、老いをそのように捉え考えた事ってありませんか。

今朝、デイに出掛ける車にエンジンをかけ、嫁に車椅子を押された母が玄関先で私に対して言った言葉は「迎えに来るのが・遅いね」。

嫁:誰かが貴女を迎えに来るんですか?。
母:ほほっ、そりゃそうさ。でなきゃ学校には行けんよ。

嫁:そうじゃないでしょ。いつも直裕さんが送って行くでしょ?。
母:知らんよ。ほほっ、あの人はそんな事はせんでしょ。

嫁:あの人って、誰ですか?。
母:あの人はね・・。あの人は・・私の兄タイ。

洗面所にいる私に向かって、「直さ~ん、また、お母さんが変な事言い出して・」、と叫んでいます。
「うふっ、では今日はツヤさんの兄シャマ(勇さん)になりきってみせまっしゅう」と私。

ずっと荒れ気味の母でしたが、ここにきて嫁との雰囲気も元に戻ったようです。とてもいい関係の最近です。


★:2本でも御身足(おみあし)とは、これ如何に。

「はい、着いたよ」、と私はデイ施設や我が家の駐車場で母に車の乗降をさせる度に、「ハイ、オミアシを乗せて・出して」、と繰り返します。我が母には敬語を使われると素直になって協力的になるという一面があるからです。

最初の頃には、「えへっ、御身足ってね」、と照れていましたが、慣れてくると言葉の響きが心地よいのか、「ハイ、御身足。お母様の御身足よ」、と車の乗り降りの度に言うようになっています。

先日などは、「2本でも御身足(おみあし)とは、これ如何に」、と私に言うのです。これには驚きました。母のジョークはお得意の百人1首から来ているようです。


★:遣り残したものこそが自分の宝物、最後の夢。

夢を持ち、挑戦し、夢破れ、別な道を模索し、お腹が空いて一休み。若い頃には幾つでもどんな事にでも挑戦できる能力がありました。時間もありました。気づかない事の方が多かっただけ。でも、気づきさえすれば一心不乱に何度でも挑戦ができました。失敗がエネルギーの源でした

でも、老いてからの挑戦って若者の頃のように思い通りにならなくなる事の方が多いのは何故でしょう?。それは若い頃のようにゼロからのスタートではなく、何かをしながら夢を語ったり、持っていてはいけないモノをぶら下げたままで別な道を模索するから、「どっちつかず」、になるんです。

既に、「捻れの人生」、でも書きましたが、捻れを持つ人の人生ってそんなものだと思います。この捻れを認める事から始めないと再スタート地点に立ったつもりでも立ってはいなんです。

人間って、生きてきた中で築き上げた財産、キャリアがある一方、犯す罪悪だって沢山あるんです。周囲から受ける批判、妬みだって財産の一つ。その事に気づかないうちは何をやり直そうにもそれがスタート地点とは言えません。

人生の垢って言うんですか?。心にこびり付いたモノはなかなか剥がれないし、剥がそうとも思わないのが人間なんですね。そう考えると、私の遣り残したものって音楽だったのでしょうか?。



☆:2008.10.22。

★:直裕っ、待っとったよ。うんこ、うんこっ!」。血圧と排便の関係。

最近の朝夕は冷え込みが、ら・し・くなって来ました。昨日(21日)、デイ施設で測った母の血圧が194と高く、時間を置いて測定し直した処では140台に戻っていたとか・、鶴翔苑からの連絡帳に記されていました。この処、血圧は148~162程度で推移していたのですが、この突然の上昇と下降というのは怖いですね。

ただ、母の場合には便秘との兼ね合いがあって、血圧が上昇気味だなと思うと便秘のピークにきている事が多く、昨日も案の条というか午後から施設に迎えに来た私の顔を見た途端に、「直裕っ、うんこ」、と言います。私は母の座る車椅子を押して施設のトイレへ急ぎます。

「貴方の顔を見るとホッとしてオナラが出たり、トイレに行きたくなる」と普段の嫁もよく言います。友人にも何人もそんな奴がいます。中には「高端さんから肩や背中をポンと叩かれると疲れがスーッと消えたり、急に排便をしたくなる」と言う者がいますが、あれはどうしてでしょうね。凄く神経質に見られる事が多い私ですが、まるで歩く弛緩剤のように感謝する人も居ます。


★:それで、・母の便、見事に出ました。

20分くらいのトイレ時間で1kg近くは出ていたと思います。凄かった。それでも出したらない様子の母は座り続けようとしますが、デイの終了間際にはトイレが混むんです。
「残りは家に帰ってからにしようか?。トイレを待っている人がいるよ」、と母を説得しました。

どこのデイ施設でも感じる事ですが、女性用のトイレの数が足りません。母の世話になる鶴翔苑という施設では30名程度の利用者(女性が8割)に4つ(男性用×2、女性用×2)のトイレしかなく、食事タイム前後や帰宅前の排尿・排便が重なると待たないといけない日が多いんです。

それにお年寄りって、「おしっこ」、のつもりでも便座に座った途端に同時多発便のケースが多いですよね。母の場合でも、おしっこをする合間に便がポタポタと落ちている事が多く、介護士さんって大変だなー、と思っています。

そして、いつものようにスーパーで夕飯の材料の買い物をして帰宅した我が家に着くや、「直裕っ、うんこ、うんこ!」、と再び母が叫びます。便が出ることはいいことです。


★:少しづつ母から故郷、家族が消えていく。

この最近の母、人生の垢とでも言えるのでしょうか。母から故郷やその友人達の話題。娘や息子に対する記憶が消え始め、孫や曾孫に至ってはどうでもいい感じにさえなってきています。気の毒なのは我が姉、兄嫁です。

長崎の紘子姉は毎日。それこそ365日間を通して20:00過ぎには決まって電話を掛けてきてくれますが、話題作りに苦労しているようです。

以前なら母の好きな百人一首に短歌、川柳。伊万里市の炭坑に住んだ頃の近所の様子や姉の同級生、姉の小学校時代の担当の先生達のその後。それに、母の作った弁当抱えて家族全員で行った竹の木場公園やそこから見えた風景・、様々な事を話題に母と姉の会話が弾んだものでした。

しかし、最近は流石に話題が出尽くした感じがあり、姉の英会話教室の事や交換ホームステイで訪ねてきたアメリカの友人の話だったり、姉自身の孫の話が主流になってきていて、母には記憶の薄い、比重の軽いどうでもいい話題になっているのでしょうか、受話器を持っていても姉の話が耳に入っていないかのような日が多くなっています。

本能的に「紘子、紘子からの電話はまだ?」、と感じるだけで、実際に受話器を持って紘子と話し始めた途端に面倒臭さから顔をしかめている瞬間が多くなりました。「・だから、それがどうしたってね」と姉に絡む日もあるようです。

長男が我が家へ電話を掛けてくる事などは一切ありません。兄嫁の美佐緒さんからの電話があるのが年に1度あるかないか。多くは熊本の私の方から月に一度の割で掛ける程度。それでも兄嫁は住み人のいなくなった実家の庭に実る枇杷や甘夏や茗荷、蕗など、季節果物や野菜をお茶の葉と一緒に送ってくれます。

でも、こうした電話やモノの遣り取り。いろんな思いの籠もった贈り物も母にとっては少しずつ意味のないプレゼントになってきています。

「これは美佐緒さんから、これは紘子からの贈り物よ」と言うのですが、「ふーん」、と言うだけの母の意識は違う所にあるようです。

もう、今の母は彼の地にいる実兄や実姉の話ばかりを考えているようです。母親のライさん、父親の松若さんの話にも上の空・・。先日などは数年前に彼の地に逝ったみつ子姉さんを思い涙を流していました。

「あーっ、知らなかった。ミツ姉さん、許しておくれ。いつの間にそっちへ逝ったのね・」、と。
思わず私は、「知らないはずがないじゃない・か」と言いかけたのですが、母の表情がいつもとは違う事に気づいたのです。

母は確実に心象世界に住み始めています。高台に位置する清水岩倉台の私の家から眼下に見える町並みなどは全く見ていない日が多くなりました。

母の目は遠い空を見つめています。母の目は遠い夜空を見つめています。手を差し伸ばして何かを掴もうとするかのような仕草さえする日があります。私も刹那さ、虚しさで胸が一杯になります。

多分、不自由な母の目にしか見えないモノが間違いなくあるのだと思います。「直裕、ほら・あそこ。まだ、お前には見えないよね。うん、それでいい、それでいい」何度も言います。

きっと、母にしか見えないモノがあるのでしょう。でも、私にも見える時があるんです。私の目には母に見えているモノ以外のモノも見える時があり、それが私は切ないのです。母が知らない事が私には少しずつ見えてきているんです。

嫁にも姉にも兄にも伝えたいモノが見えているのに、伝えてはいけないもの・。心象世界って私達の暮らしの隣り合わせにあって、それは母を知り、母を理解し、母の家系への思いを馳せれば誰にでも目を伏せていても見えるものなんです。

★:私には聴こえる。

ライさんの「ありがとう」という声。みつ子さんの「直ちゃん、そんな事を考えるもんじゃないよ」、という叱りの言葉や「直裕君、つや子さんの世話ありがとう」、というイサム叔父の声や笑顔・。私には見え、聞こえる時があるんです。

私に見えないモノ・、それは私自身の命の行方でしょうか。私こそが既に9歳のあの日以来、手術台の上から現世を旅立ち、心象世界のど真ん中に住み続けているのかも知れません。



☆:2008.10.23。

★:在宅介護に付きまとう危険。

2005年12月2日の骨折入院、そして、翌年の退院後のリハビリ入所。2006年7月に退所した母の再びの在宅暮らしが2年を過ぎましたが、思うようにならない日常は母には辛いもののように見えます。

入所中にはリハビリ時間以外でも私は母の手を取って廊下に立たせ、手摺りを伝い歩きさせたり、ベッドのそばで軽い屈伸などをさせていた事もあって杖を使えば立つ事はありましたが、歩こうとして足を踏み出すと2cmと足が上がりません。

特に、左足は股関節の骨折があってぶら下がっていると表現した方が分かりやすいくらい。そんな風だから、コンクリートにビニールクロスを貼った施設のフラットな床こそ3mくらい歩けても、段差のある自宅での歩行訓練は危険でした。

ベッド下には0.5cmの厚さのセンサーマットがあるし、ベッドのそばにはポータブルトイレの肘掛けが15cmくらい突き出していて、母の身体がそれに触れるだけで母はそのまま倒れるだけ・・、足が上がらないというだけでそのような危険があるのです。これは健常者には理解できないでしょう。

普通に暮らしをしている者には「あって便利、無くて不便」なモノが身体の不自由な者にとっては、「無くて不便、あって危険」なモノへと変化します。

例えば、タンスの取っ手やドアのノブ、風呂場の壁から突き出たシャワーの散水部、扇風機のヘッド、回転する座椅子、角の4点に足のあるものではなくセンターに足がある食卓・等々。母は右手に杖を持つ一方、左手でこうしたモノを掴んでは体重を掛けてバランスを取ろうとするかたです。

もし、突然にタンスのドアが開いたら、握ったドアのノブが回転したら母は倒れます。扇風機のヘッド、回転する座椅子、シャワーヘッドに母が体重を掛けたらどうなるか・。センターにしか足がない食卓の角に全体重を預けたら母の身体はどうなるか・。そんな事への配慮が在宅介護では不可欠な事になります。私がよく使う「予知介護」、「予知介助」とはそんな事を意味しています。

要介護度4というのは認知度を表しますが、母の場合には認知の上に左足股関節の不具合があるんです。そして、左目は見えていないと。大変な毎日だと察しています。


★:八代で行なった私のコンサートに来られていた女医さんと話した事があるのですが、

認知というのは脳の軟化状況の指針でもあるとか・。脳の軟化が進むからモノが見え辛く、音も違うように聴こえたり、歩く際のバランス感覚も異常になり、喋り方も普通ではなくなっていく、と。そんなお話でした。

認知というのは様々な要素が絡み合っているんだと思います。だから、日常生活の中で改善できるものがあれば改善したいと思っています。


★:聴覚能力について

お年寄りに対してはこちら側のお喋りのスピードを落とすとか、長過ぎる言葉は使わない。方言は使わず、綺麗な言葉を使ってあげる事も大事です。

母の事を例に出せば、母自身は長崎の平戸の方言を使う方で結構な聞き辛さがあります。だからといって周囲の者が同じような方言で返事すると、その言葉の音が母には分かりません。

例えば、嫁が「今日は暑いよね」と言えば、母は、「そう、暑いよね」とまともな会話になるんですが、逆に母の方から嫁に「今日はヌッカ(暑い)ね」と北部九州全域で使う方便で話し掛けたとして、嫁が「そう、ヌッカね」、と相槌を打っても母には通じないんです。

多分、母の耳には、「そう、ルッカね」か「そう、6日ね」程度にしか聞こえていません。実は、これが老人達の普通の聴覚能力だと私は思っています。だから、綺麗な言葉でゆっくりと話しかける必要があります。


★:記憶について

私はお年寄りに対しては話し掛けも大切ですが、行動はより重要だと思っていて、お年寄りに生き甲斐を与えるような生活パターンを与えるのはとても有効ではないかと思っています。

熊本に母が来て1年を過ぎた2004年4月の頃、私は母を熊本空港に連れて行きました。「あーっ、凄いね。こんなに近くで飛行機を見たのは始めて。羽根のついた船が空に向かって飛び上がるようだ」とその迫力に圧倒されていました。

この日の事を覚えていた母はその1年後の2005年にも、「直裕っ、あの飛行場に行こうよ」と催促をしたんです。母は2008年でも記憶の中にその日の記憶を残し、熊本飛行場行きを私にリクエストしました。

2007年春には益城町の綺麗な絨毯状レンゲ畑を3度ほど見に行きました。まるで涅槃の里みたいに繋がるレンゲ畑に母も嫁もため息をついていました。この日の記憶も2008年10月現在の母には残っています。

そうした事を考えると、通常の生活会話というものは本を見ながら、写真を見ながら、TVを見ながら「いいね、ここに行ってみたいね。今度行こうか?」と思いを馳せるだけではいけません。行動です。写真集を見せて共通の感慨を得るのではなく、実際にその地へ行き、母自身が感じる風や臭いや陽の明るさや現地音を感じる事がより必要ではないかと思っています。


★:会話

姉や嫁が母に話し掛けるにしても、花なら花、列車なら列車に対する共通した認識みたいなものが無ければ会話が成立しません。つまり、母の記憶がしっかりしていて、感性も姉や嫁と近いモノがなければその写真集や絵本についての会話も進展しないはずなんです。

互いの記憶依存型の会話は続くはずが無く、空しいものです。例えば、介護する側が蓮華の花の蜜を吸った経験があるか否か、蓮華の花の首輪を作った経験があるか否か・。その経験があればお年寄りとの会話が弾むはずだと確信します。

その為にはお互いが太陽が降り注ぐお花畑に行った経験がある事が大切になります。そこで感じるモノが姉、嫁、母の3人3様であってもいいんです。従前体験があれば感想が違っていても分かり合えるはずです。

お花畑に降り注ぐ太陽、頬伝う優しい風、プンと飛んでくる小さな虫、遠く流れる雲・。共演する様々なモノが互いを引き立てて立体的な記憶として母の脳裏に刻み込まれるはずだと信じています。

実は、これは私が詩を書く時の大きな要素にもなっているんです。濱野裕生の書く詩が若者には理解できず、お年寄りが会場の天を見上げて目を瞑る、涙を流すのは私の歌う詩から絵が生まれている証拠だと確信しています。


★:佐世保の実家、随分とご無沙汰しているな・・。

今頃の実家。裏庭と南側の石垣下から隣地との隙間にかけて自生しているはずの茗荷がグングンと顔を伸ばしているだろうなと思います。我が実家の茗荷達はこの8月の時期には地下では立派に成長しているはずです。もう、佐世保には2年と帰っていません。

母の体力、歩行能力からして8月の法事に帰るのは辛いだろうと2007年の法事からは姉、兄達がお寺の方に伺って行うようにしています。この2007年には私の心筋梗塞、追突事故に遭うという連続した災いが理由にもなっているようです。

でも、私には誰もいない家の中のいろんな事が分かります。念というんでしょうか、あの佐世保の家には私の念を置いてこの熊本で暮らしていますから、いろんな事が分かります。


★:その実家の荒れる一方の土地について。

次の問題は我が家だけでなく、過疎化が進む日本の各地で生じている問題だとも聞きます。我が実家の北側にある高低差がある隣地の土地が風雨で崩れ始め、境界が分からなくなっていく・。

「修復する義務があるのはどっちの所有者だ?」と兄は悩んでいますが、私は意外とそんな事には無頓着なんです。「どっちでも構わんじゃないか」と思うんです。

雨は天から降って落ち、水は上から下へと流れるのは当たり前。段差がある土地であれば放っておけば神は上から下へと崩れさせ、上から下へと土を運ばせるものです。

風雨が山を削り、河川を作り肥沃な土を平地へと運び、民は常に自然から恵みを頂いて暮らしてきたんです。自然は常に上から下へと崩れゆくもの。

住み人のいなくなった家は朽ち、土地は自然に戻り、再び再生への過程を歩き始めます。我が家同様、きっと隣地の所有者の家庭でも同じような変化が起きているのだと思います。それは家族構成にしたって同じ事・。上から召され、現世から淘汰されていくんです。

今、我が家の土地に手を入れようとすれば、必ずや仕掛けた方が責任を取るような形になってしまうはず。補修をすれば価値を生むからです。価値を生む事を先にやろうとすると、必ずや反発を受けます。神様はいつも私達に現象を示してくれています。

神は我が家より4mほどの高台にある隣地から土を流し去り、隣地の家族が所有権を主張できないようにされているだけ。これは自然の摂理。

何も私達の側から、崩れ落ちて我が家に流れ込む隣地の土を元に戻してあげる必要はないと考えています。もし、隣地の所有者が自分の土地に価値を感じているのなら、今の状況を見て見ぬ振りをするはずがありません。必死になって確保しようとするはず。

私の場合、この北側の土地の事より、南側の境界線の方が気になります。現在、兄が抱えている悩みと同じ悩みを我が家よりも段下になる南側の家族が思っているとしたら、そっちの事の方が重い責任を感じるモノです。私達が住んだ土地でさえ、下に向って崩れ落ちているんです。

将棋って、最初の一手で相手の戦法が分かります。兄貴は将棋が強いはず。これ、次男坊の独り言です。不動産関連の法律では、「地崩れに関し、上位の土地に住む者は下位に住む隣地への保証をしなければいけない」となっているはずです。



☆:2008.10.24。

★:火葬場で感じる無常感、清涼感、孤立感・・諸情。

人生の中で出合う事が少ないものの一つに死というものがあります。親や兄弟親族、友人知人の死です。私がここで言いたいことは畳やベッドの上の死では無く、葬儀場でもなくてあの火葬場での事。

私は何故かあの場所ではあまり悲しみを感じません。葬儀を執りおこなう場には何度も参列した事はありますが、火葬場にまで足を踏み入れたのは僅かに数回で父親、親友、仕事仲間、嫁の母が亡くなった時くらいのもの。その数少ない経験の中でもお骨を拾うまでしたのは僅かに3回。

闘病中の今際の友を見舞っている時など、そして、その人が亡くなった後にお儀式が執りおこなわれている最中など、「あんなにいい人だったのに・。いつも真剣な人で・。本当にいい人から順番に召されていくようだ・」などと感慨深いモノを感じたり涙したりするものですが、火葬場では不思議に私はそれを感じないのです。


★:悲しみを遥かに超越した空間。

まるで神の住む国の真下への侵入が許されたような・。見上げれば遠く眩く光り輝く神の国が僅かだけ見えるような・錯覚。そして、「後の事は任せなさい」とやがては神がすぐそこに姿を現すかのような神聖な心持ちになるんです。

火葬の最中、ロビーで待つ私はいろんな思いに駆り立てられます。いろんな思いが脳裏を巡ります。まるでサムネイルの画像を左上から順に見るように・、私の知る限りでのその方の生前の姿が浮かんでは流れていきます。

でも、不思議に笑顔しか浮かびません。人間って愉しい事しか記憶しないのでしょう。だから、どんなに辛く苦しいことがあっても耐えて生きていけるのでしょうね。

「あんたはよくやったよ」、「ここで一旦は人生に幕を引けて良かったかもね」、「あのままでは辛過ぎたものね」、「借金の返済をせずに済むから奥さん孝行だよ」、「生きた時代が早過ぎたのさ。次に生まれてきた時があんたの時代さ」みたいに思ってしまう事がありませんか?。

「よくやったよ、もう苦しまなくてもいいさ」、みたいな一種の清涼感さえ感じるのは私だけでしょうか?。


★:「死に顔は穏やかだった」とよく言いますが、

死の直後の顔は醜いモノです。この死に顔を見た時にその人の一生がどのようなモノであったかが分かります。人は生前の苦しみ、喘ぎ、悩み、恨み、痛みと闘った証として死に顔の醜さを残すのではないでしょうか。しかし、それこそが人間らしい醜さであって、否定したり恥じたりするモノではないと思います。

それが、数時間、或いは1日が過ぎて「ご家族の皆様、最期のお別れを・」と棺の小窓が開けられて再再々会した時の死人の表情は一転し、葬儀の際の硬く苦しい表情がとても穏やかな顔つきになっています。これは死後硬直がなくなったからなんですね。

死の直後から始まっていた硬直が消え、今度は身体の弛緩が始まった時の顔であれば誰だって穏やかな表情をしています。


★:全てが許し、許される気がする。

この火葬の儀式によって始めて、全てが許し許されるような思いに私は駆られます。私が我が父の火葬に立合った際もそうでした。

「燃えろ、燃えろ!。全てを焼き尽くせ。そして、俺の心も焼いてくれ。父を憎む心を焼き尽くせ」、と私は心で叫んでいたような気がします。

「これから先は魂と魂の語り合いをするよ」ってネ。その瞬間、私の周囲をさ迷っていた親父の魂がキューンと天に向かって飛び立っていったような気がしたんです。

★:何もかもが・。

念というか、生前の様々な思いが火葬によって一つ・二つと確実に焼き消されていくんだろうと思います。本人の苦しみ、喘ぎ、悩み、恨み、痛み、残された家族、友人の苦しみ、喘ぎ、悩み、恨み、痛み、様々なモノが焼き消されていくんです。

そして、知識、技術などのキャリアも共に消え失せ、その存在さえもなくしてしまうのが火葬の儀式のような気がします。天に召される、自然に帰る・。そんな感じです。


★:法事って・。

あれは自然に返(帰)って行った故人を偲ぶというより、親族会みたいだとしか私には思えません。その親族会にしたって長男が仕切る訳ですからうんざりです。「おい、歌の一曲ぐらい唄えよ」、と・

老いが始まった親の世話に十数年と関わったのは次男。それは楽しくもあり、辛い時もあり、夜の寝床の中で泣き叫んだこともあり、そうして親の最期を看取ったのもそう・次男・。この間の長男はゴルフ三昧に長女は海外旅行三昧・・。

洗面所でふと気付けば、鏡に映る己のすっかり老け込んだ姿に次男は唖然・、と。2008年10月の私、まさしくその真っただ中にいるんです。《♪・鏡の中の私・》という作品で描いています。

こんな家族が儀礼的に行なう毎年の法事を仕切るのは長男夫婦・。これって絶対に間違っています。「社会的にはそれが常識だ」と言われるのであれば、私はこんな法事には出ないですね。


★:叱られる気がしますが、

個人的には法事と称したその後の妙に俗世的な儀式は不要だと思うのです。あの火葬の儀というものを以って全てを無に帰し、自然に返してしまって構わないと思うのです。坊主だって・二日酔いのままで読経をしているかも知れないのが今の世。


★:一番に無常感を感じるのは

焼却処理を終えた後の担当官の「ご家族の方、熱が冷めるまで暫くお待ち下さい」という案内の言葉。そして、「・どうぞ、お骨を拾われて下さい」という言葉。全てが消滅したという無常感。
「アンタの人生って・・一体、何だったんだよ」、と。全てに優先して無常感を感じてしまいます。

そう考えると、無常感というものは悲しみを知り尽くした後、悟りに近い形でしか感じる事のできないもののようです。「あ、本当に全てが消えた」と。


★:私は自分が悩みを抱えた時、

火葬場の燃えさかる焼却炉の中の棺の中に横たわる自分。もう一つはロビーの長イスに座る自分。この二つをイメージして考える事があります。

そう思った時、「俺には焼却するようなモノは身体くらいしかない」事に気づきます。「これでは恥ずかしいだろう。男なら築き上げたモノの一つや二つ。せめて拘りぐらいはあるだろう。それがないなら、ここで焼かれる資格はないよ」という3人目の現実の私が言うんです。

★:失礼ながら、

そう思えば我が姉や我が兄には誇れるものが全くない気がします。我が姉兄には私以上に何もないんではないかと思うのですが、私には「俺の傍にはあんた等が手放した母親がまだ居る」、という拘りと誇りがあることに気付くのです。

そして、「俺はまだ死ねない。俺には老いた母を護る義務がある」、と。否、正確に言えば「俺には母親を護る権利がある」、と思うのです。

こんな事を考えるようになったのも母親と同居をする事が切っ掛けになっています。私なんてまだヒヨコです。築き上げたモノなんて何にもないんだから・。でも、拘りだけはありました。

母なんて毎日が死と隣り合わせ・。。母の手首なんて私の薬指と小指をくっつけたくらいの細さなんです。首回りなんて私の手首くらい。よく頑張って生きていると思いますよ。


★:老い人が背負う大きな袋

口を突いて出る言葉から足の先まで生きる歴史みたいな人で、曲がった背中には大きな袋を背負って生きて来たんだなあ、と思わされます。

実は、母はその背負い続けた袋の中身を少しずつ私の目の前に広げ始めたのかな、と思うんです。僅かながら母の事が分かり始めています。何故なら、日々の暮らしの中で「お前にだけ見せようね」と母はその袋の中身を見せてくれているからです。母が背負った袋の中身・、それは誰もが歩む老いの姿というものでした。

そして、私の目には既に袋の底が見え、母の人生の締めが見え初めています。我が兄は母の手を握った事などあるんだろうか?・。姉は己の涙は拭いても、母の涙を拭いてやったことなどはないはず・。

結局、母が背負い続けている袋の中身を見たのは私だけのようです。



☆:2008.10.25。

★:父親に対する印象。しかし、全てが今日の日の為にあったのか。

私は私自身が歳を重ねる度、機会ある事に、「次男坊で良かった」、などと思ったことは一度もありません。常に長男との差を自覚させるような育て方をされたからでしょうか。

次男であるが故に辛抱させられた事がどれほどあった事か・。こんな事を嫁や姉に説明する気もありません。父自身が三男坊として生まれながら、どうしてそのような厳しい考えを持つようになったのか、私に知る由はありませんが父から受けた試練、それは今思えば私の辛抱強さの理由にもなっているかも知れません。
だから、私は父親に対して畏怖の念は持っていても、幼い頃から感謝した事などはなかったような気がします。

ただ、父没後に時折聞く姉の言葉を借りれば、父は老いていく一方で、「直裕、直裕っ」、と寝ても覚めても繰り返すようになっていたと聞きます。父が彼の地へ旅立つ3年ほど前の事でしょうか。
父を諭す神の声の存在が父に届いたのでしょうか、この頃の父には一心腐乱に仏像を彫る姿さえ見られたそうです。

しかし、そういう話を今になって聞いても、「・実はそうだったのか」、と私自身が思い直す事はなく、そんな父に対する哀れみさえ感じます。人生って寂しいものだ・・、父ほどの人でも成長する部分を持っていたのか、寂しい人生を送っていた人なんだなと思ったものです。

私は父親の生き方を非難する気はありません。老いたからこそ気づく事だってあるはず。老いてからこそ振り返る自分ってあるはず。老いてからこそ悔いる事があっても何の不思議はありません。全てが愚かで人間らしい事だからです。

母は「私はこんな心の優しい息子に育てた覚えがないのに」、って私に言います。その意味では私は父の厳しさのお陰だと思っています。でも、父には感謝してはいません。

母の私に対する見方だって必ずしも正しくはありません。私は自分自身に厳しいのです。常に死と対面してきた私です。幾度にも渡る大手術を乗り越え、常に自分の命さえ自分でコントロールしてきた私が始めて、自分以外の命を守ろうとしているんです。決して、母親に対して優しいのではありません。私は自分の心と闘っているんです。


★:姉は晩年の父を語り、

私は私自身が若かりし頃に父から受けた記憶しているんだと思っています。そんな父親との葛藤があって現在の私があり、母の介護への私の頑張りというのもあるんだと姉には理解していて欲しいと思います。

優しいとか癒されるとか、そんな表現はしないで欲しい。私は幼い頃から苦しむ事の連続でした。何故?、何故と天に向かって泣き続けていた弱虫なんです。そんな私が今は天を睨みつけ、天を指差し、「母の命ならまだやれんぞ。取れるものなら俺から先に奪ってみろ」、と叫べるようになったのです。
多分、父親に対する言葉ではないかと思うんです。

苦しみのさ中だからこそ言えるさ。仏像を彫ってなんになる?、仏壇を守ってどうしたい・・?。それで何になる。そんなもの止めてしまえ。そんなまがいごとなど全て慎め。今在る命には命で応えるのが誠意。

座して祈って何になる。365日間、冷たい水の一杯でも母の口に運んでみろ。一日一度でも「ありがとう」、と言われてみろ。

昨日のブログで書いたように、恨み、辛み、悲しみ、苦しみ、悔いも何もかもが消える・。その全てが焼き尽くされて消滅するのが火葬の儀式のような気がするんです。

何より・、「直裕になら・心を許すはず」、と気丈夫な母を熊本の私の家へ連れてきたのは父だと思っています。父は彼の地に行って始めて私を認めてくれたような気がしています。父没後、31年目にして私の父の人生を考えてみました。

「親父よ、あんたの期待を裏切って悪いけど、俺はあんたより兄貴よりもお袋を大切にしているさ。心配するな!」。全てがアンタの厳しさのお陰だよ。


☆:2008.10.26。

★:約3ヶ月振りに長崎から姉が。

昨日の10.25は長崎の姉が約3ヶ月振りに来熊し、写真片手に母との話が弾んでいました。

姉の一番末の子になる亘君の東京での披露宴の様子、お嫁さんやご両親の人柄などを母に説明するのですが、果たして母はどの辺まで理解したのやら。現在の母にとっては姉のそんな話はどうでもいいんですが・。

今年は次男の滋君の披露宴もありましたし、勤務先の日立金属からの指示でアメリカ研修中の長男・悟君の招待でアメリカを長男と旅した姉夫婦です。この孝行息子達に囲まれた姉夫婦は、さぞや思い深く生涯に渡り姉夫婦を支えるであろう感慨深い出来事の続く一年になっているものと思います。この子育てに関しては姉は素晴らしい親であると私は尊敬してやみません。子供達の思いは知りませんが・。

この姉、多分本人は気づいてはいないと思うのですが、私のケースとは全く違って姉こそが突然の炭坑の閉山による我が家での一番の犠牲者なんです。

あれだけ学問が大好きで優秀だった姉。担任教師を始めとして周囲の誰もが紘子の大学進学を疑わなかったのに姉は進学を断念して就職を選択しました。理由は我が家の苦しい家計を助ける為でした(まるで、星飛雄馬の姉みたい/実際に似ています)。

姉の中学時の卒業写真には周囲の全ての生徒たちが制服を着ているというのに姉だけが質素な私服姿。
姉は高校も奨学金で卒業しました。今と違って当時の日本は貧乏な国ですから奨学金を受けるというのは厳しい審査があり、簡単には貰う事ができない時代なんです。

この姉は高卒後に親和銀行へ就職しても尚、更に上のランクを目指して当時10倍とか言われた難関の米軍基地の採用試験に通り、総務の仕事を任される事になります。

お蔭様で我が家の茶の間にはTVが。台所には電子レンジにトースター、冷蔵庫が加わり、浴室には最新型の洗濯機というものが置かれました。

母は・、ずっとずっと姉には詫びと感謝の気持ちを持っていました。この熊本の我が家に来てからの母でさえ、認知が進んで要介護度が2から3へ。そして、3から4になった今でも母は長女の紘子への詫びと感謝の言葉を口にする日があります。

「私はネ、紘子には親らしい事を何にもしてやっていないとよ。学校に来ていく服もカバンもボロボロを着せて、持たせてネ。それが申し訳なくて・。思い出すと今でも私は悲しくて堪らんとよ。紘子、ごめんね、ごめんねと手を合わすっとさ」、と涙さえ流す日があります。

父は、「女が勉強ばかりして・・」、と言っていたそうですが、やがて、紘子は自分に似た子だな、と言いだして自慢さえするようになったそうです。

この姉は米軍基地に務める傍ら、ある将校さんの家庭で子供相手に英語を学ぶ機会を得ます。英語を基本から学ぶには子供の使う短い日常語から入るのが一番なんです。「あたいおしっこしたい。だから、ひろこトイレに連れてって」、みたいな感じですね・。

こうして姉は英語を自由に操る事への憧れを強くしていくのです。そして、ついに当時の毎日新聞が募集した1000ドルヨーロッパ旅行というツアーに参加したりする積極性を発揮したりしました。当時の為替レートは1ドル=¥360ですから現在のレートからすると凄い大金でした。

こんな事を思い起こす時、私の姉・紘子は父が遣り残したヨーロッパ生活までカバリングしているんです。来熊する姉と話していると、まるで姉は父と私の間の通約者のように思えるのはそのような姉の行動力が父の像を私の脳裏に描かせる瞬間があるからかも知れません。そして、私と姉が衝突する事が多いのも私と父との大きな人生観の違いなんだと思わされるのです。

しかし、姉は私達の父よりも広く豊かな心を持った人である事には違いありません。私は姉をそのように評価しています。

その姉ですが、前回は7月19日だったか、私が21日の益城文化ホールで行われるコンサートのお手伝いで30分間の出演をするからと来てくれたものでした。そして、当日は一番末席の中央付近に車椅子の母を横にして聞いてくれていました。

今回の来熊は姉の希望と嫁の都合が合ったのでしょうか、私の知らない間に決まった事のようですが、私達夫婦の都合に合わせてばかり来るだけではなく、今回の様に姉自身の意思で来熊して母の老いの姿を姉なりに確認する事も大切ではないかと思います。孝行って子自身の考えに基づく行ない、って書きますからね。老いた親から乞われてやるのは親孝行ではないみたい。

親が子をどう思い育てていたか、子が親をどう思い、どんな形で恩返しをするのか、というのはこの時期にしか確認できない事です。

多くの生物が子孫を残すと同時に自らの命を絶つ事を思えば、人間を始めとするごく僅かな種だけが子孫を作った後までも生きながらえ、子と一緒に暮らしたり再会する生命力を持っているんです。その宿命は大切にしなければいけません。

姉の子の亘君の結婚の為に夫婦で上京し、その披露宴の模様を写した写真を持参しての母との会話でしたが、果たして母がどこまで理解したのか・。もう、どうでも良かったはずです。

今回の姉の来熊。それは主に我が嫁の金銭管理の件。あってはいけないが必ず訪れる老いの果て。母の今際の際の話。お葬式の形や具体的な葬儀の際のグレードですか。そんな事を話し合うのが目的のようでした。

母の場合、5人兄弟とは言え、末っ子です。母のすぐ上の姉さんのみつ子さんは4歳上、その上のフサ子さんは7歳上、その上のイサム兄さんだと12歳違い、長男の進さんになると14歳も上です。

そして、その兄弟姉妹の全てが今はもう亡き人ですから、母没時の葬儀はそんな大袈裟にはする必要も無く、長寿が多い父方の親族にしてもかなりの高齢者ばかり。それに、私の希望の、「お茶を出すタイミングに気を遣うような人は呼びたくない」、という事も考慮して貰い、質素な家族葬でという事になりました。

縁起でもない!、と言われそうですが、こんな事くらいは考えておくのが母への礼儀だと私は思っています。


★:お天道(てんとう)様は幾つあるの?。

母:あーれ、見てほら。あのお天道さまはさっきからずっと私に付いてくるよ。
私:何言ってんの、誰にでもそう見えるもんさ。俺にだってそう見えとるよ」。

母:あんたにもね。へーっ?。じゃ、一人に一つづつあっとね」。

私:遠い距離にあるモノはそう見えるのさ。三角形の一辺をずーっと引っ張っても大きな三角形はい
 つまで経ってもある程度の三角形のままで、小さな三角形の一辺を引っ張ると直ぐに限りなくただ
 の線に近くなるだろう?。いつまでも見えているものは遠くにあるからで、自分と一緒に同じ方向
 に向かっているように見えるだけさ」、と自信のない私の説明。。。

母:そんな事は聞いとらん。そう見えるという事は一人に一個づつお天童様があるんだろう?。
私:違うよ。遠くにある1個のお日様でも皆が一緒に見れば皆の目に自分だけのお日様のように見え
 るだけさ」、と私自身でも段々訳が分からなくなっていきます。

母:あっ、あっ。・・ふーん」。

母は分かったような、分からないような。何でもその場で解決しないと気の済まない性格です。

母:あんたは。ねっ、あんたはさ。もう少し勉強しとる男と思っとったがね。

実は、これからが大変でした。

私:まっ、俺はどうせ文系だしね、と言ったばかりに母のチャンネルが変わりました。

母:ブンケ?、分家っちゃ何ね?。本家の進さんなら分かるとネ。 
私:あは~っ。

非常に現実的な会話をしているかと思うと、突然に何かが切っ掛けになって話が脱線する事ってありませんか?。母の難聴が原因なんです。



☆:2008.10.27。

★:JCNケーブルTVから連絡。VOD放送について。

現在はJCNと言いますが、旧KCN熊本ケーブルTVです。もう、2ヶ月ほど前になるんでしょうか。デイレクターの井出氏から次のような連絡を受けました。

「ビデオオンデマンドという新しい形式で映像の配信を始める計画があって、既に放映された私の豊後大野市でのコンサートの映像を再び使いたいがその許可を頂きたい、というものでした。更に、未定ではあるが計画として生演奏による収録にも対処できるかという打診もありました。

VOD放送とは簡単に言うと双方向放送の事。現在の様に放送局から一方的に番組を供給するのではなく、家庭の視聴者が見たい時にもう一度見たい過去に放送された番組を茶の間のコントローラーを操作して見ることができるというものです。便利な世の中になったものです。

CDに収録している私の作品はシンセサイザーを使ってフルートやハーモニカ、ビブラフォンにマリンバ等々、実に沢山の音源を使った作品が多い為、生演奏でとなると実に大変なんです。私は作品優先主義ですからね。

だから、現在は生演奏に対処できるようにと再アレンジをしている最中です。ピアノを嫁に弾かせ、リードギターをいつもPAを担当する上原氏に依頼するとして、再現できる作品としては、【♪秋:夕暮れ、♪施設にて、♪花ミズキ、♪母の童歌、♪籠の鳥、♪命、♪老い&俺達・・】、程度でしょうか。

♪ホッホや♪金木犀、♪春はまだ・、などは絶対に生演奏では再現不可能ではないかと思います。
あのフルートの前奏の音、合間に入る16ビートアルペジオがなければホッホではないからです。

特に16ビートアルペジオを引くギタリストには出合った事すらありません。あれは私の財産です。兎も角、そのような心づもりでいる最近です。「生演奏でのライブはOKです!」、と返事をしました。



☆:2008.10.28。

★:今日の熊本は秋晴れ。

先週とは違って随分と秋らしさが出ていました。朝の食事の際などには暖房を入れないと寒いくらい。秋、確実に深まっています。

鶴翔苑へ向かう車中、「空の色って変わるもんだね。何できゃぁ・、分かる?」、と母。
もう、何だか最近は恐怖です。今日はどんな事を言い出すのか、と戦々恐々の私。

私:季節によって太陽の位置が変わってね。ほら・夏の頃よりお日様が低いだろう。
母:うん?、そう言われれば低いね。

「地球の空は本当は真っ暗なのさ。宇宙と言ってね。そこに太陽の光が注ぎ込むんだけども地球を取り囲む空気の層を光が通る時に空気の粒子や浮遊ゴミ等とぶつかり合ってさ・・(もう、母は殆ど聞いてはいません)、そのぶつかる角度が季節や天候、時間によって違うから、地上から空を見た時にいろんな青に見えるのさ・・(もう、母は別なビルの看板を見ています)。

つまり、お日様の位置が季節によって違ったり,季節が同じでも日によって地球を取りまく空気の層の厚さが違うと乱反射が起きたりして複雑な青になったりするのさ。夕方などは青よりも紫や赤になるよね・・(母は私を何じゃ、この子はみたいに見ています)。
だから、同じような青に見えても一日の中で少しずつ変化しているもんさ」、と私。

母はあきれたような表情で、「あんたはさ。・・今日は風邪でもひいちゃおらんね。何かおかしかよ」、と一言だけ言って、後は黙ってしまいました。


★:小学校4年生の時の思い出話。

随分前ですが、「高橋っ、すまんが次を読んどいてくれ 。先生は便所に行ってくるから」、と教室を抜け出して行ったのはいいんですが、終業のベルが鳴っても戻ってこないんです。

「授業時間は終わったぞー、高っしゃん。もう、止めろ~」、とクラス中の同級生が言うのですが、この頃の私はクラスでは喧嘩(というより相撲)が一番強く)、「黙っとれ。先生が戻るまで読んどかんといかん」、と私が言い返します。

そんな時に事件が起きました。いつも私に敵愾心を見せていた転校してきたばかりの鈴木という生徒が私に対して、「皆がやめろって言っとろうが」、と後ろから突然に殴り掛かってきたんです。

この頃の私は身体が同級生よりも頭一つ分くらい大きかったのですが、この鈴木という転校生はその私よりも背が高かったのです。だから、私と転校生の鈴木とは話す機会もなく、睨み合ってばかりでした。

当時、日本の主要なエネルギー源は石炭で大小の炭鉱が日本中に散在していたんですが、そこで働く抗夫達の中には一箇所に留まらずに一定期間毎に移動することがあったようで、詳しくは分かりませんがハッパ(ダイナマイト)職人などがそうでしょうか?。多分、この鈴木の父親もそうした技術を持った人だったんでしょう。父親の移動にしたがって子供達も転校を繰り返すんです。

そんな訳で私はこの鈴木という奴に殴られたのですが、心の中では、「そら来たポン」、と内心ではほくそえんでいたんです。喧嘩にしても仲良くなるにしても何かしらの切っ掛けが必要だし、その為には先生を巻き込んだほうがいい、と考える私はずっとずっとタイミングを待っていたんです。

この鈴木という生徒に何回か殴られながらも決して殴り返さずに先生が教室に戻って来られるのを待ちました。そこへ、「や~っ、すまん、すまん」、と先生が戻って来られたんです。

私の目の上には鈴木に殴られて青いあざが二つほど出来、頭からは彼の爪で切られた為に出血さえあったんですが、先生はそんな私に気づくどころか顔には冷や汗を浮かべて真っ青。

多分、下痢の続きがあって急いでいたんだと思います。直ぐに来た廊下を急ぎ去ろうとします。

先生が姿を消した直後、私が「さあ、鈴木!。もう一丁来い!」、と言うと、私を殴って既に勝ち誇っていた鈴木の表情が急変。ブルブル震えだしてトイレに急ぐ先生を追い越すように走って逃げたんです。

もう、クラス中が大笑いでした。普段の私がそんな大きな声を上げる事がないくらいに私のクラスは仲良しクラスでしたからね。

既述しましたが、私はこの小学校4年生の時に全校相撲大会で6年生を何人も放り投げ、同じように4年生のくせに6年生をポンポンと放り投げて勝ち上がってきた藤川という大きな生徒と4年生同士で3番勝負の優勝決定戦をして2番とも投げ技で勝って優勝するほどに私は掴み合いが強かったんです。この当時の小学生の喧嘩なんて相撲の延長みたいなものですからね。でも・・、

でも、この時の鈴木君は私よりも背が高く、体育の時間などで相撲をとると私を含めてクラス全員が負けていました。でも、私達が鈴木君に負け続けるには理由があったんです。

この鈴木という転校生はいつも汚い爪を5mmほど伸ばしていて、先生にはよく注意を受けるのですが一向に切りません。

体育の相撲の時間では四つに組み合うとマワシ代わりのベルトを掴んだ手の親指の爪を相手の横腹に突き刺してくるんです。だから痛くて皆が土俵の外に逃げていました。この鈴木は普通に相撲をとっても強いのですが、その上に伸ばした爪を使うから更に強く思えるのです。

そして、彼はなかなか四つに組めないと分かると今度は喉輪(のどわ)をし掛けてくるんです。爪を5mmも伸ばした5本の指を喉に立てられたら相手は堪ったものではありません。

だから、「こんな卑怯な奴は許してはおけん。どうにかせんといかんな」、と私は子供ながらに思っていたんだと思います。普段の私はお人好しで人気があるだけのクラス番長でよかったんですがこの時ばかりは仲良くなるにも喧嘩が一度は必要だと思ったんです。

私から、「さあ、鈴木!。もう一丁来い!」、「相撲と喧嘩の違いを教えてやる」、と私に言われて急に怖くなったのか、それからの鈴木君の態度はコロッと変わり、どこに行くにも何をするにも私について歩くようになるんです。まぁ、彼の脳裏には私の兄の存在が浮かんでいたのかも知れませんが・。鈴木君同様、彼の兄が通うことになった中学には私の兄がいたからです。

遠足に修学旅行にこの鈴木とは大の仲良しになり、修学旅行の際に他の県の生徒に絡まれた時など、「高はっしゃん。俺が片付けるから先に行って待っててよ」、と喧嘩を引受けるんです。正直言って怖かったですね。こいつが今度ボクに牙を向けたらどうなるものかと心の底ではヒヤヒヤしていたんです。

この鈴木という奴は休み時間には私のキャッチボールの相手に好都合でした。彼の身体が大きい分だけ思い切り投げることが出来るんです。

既述したように、当時の私は6年生中心で編成されるべき野球部で唯一4年生で遊撃手、3番というレギュラーを与えられていて、同級生とキャッチボールをしようとしても私の投げる強い送球を野球経験のない4年生では受けることが出来ずに練習にはなりませんでした。でも、この鈴木は嫌がりながらも正確にキャッチするんです。

こうして鈴木とは親友になっていくのですが、「爪を5mmも伸ばしていたらボールが投げ返せんだろうよ」、と諭して彼の爪を切らせるのが目的だったんです。そして、やがてはこの彼も父親が別な炭坑に移るという事で転校していく事になるのですが、この鈴木は「高はっしゃんと離れるのが嫌だ」、と教室の隅で大声で泣くんです。でも、私は内心ではホッとしていたんだろうと思います。

そして、この4年時の思い出を抱えながら、翌年の5年次を向かえようとする3月。その春休み中の柔道練習中、中学生3人を相手の乱取りで受身を取りそこなった私は内臓破裂という悲惨な事故に遭うことになるのです。

後々の周囲には「あれは集団暴行だった」と言う者もいましたが、私はそうは思ってはいません。全ては私自身が呼び込んだ事故だったと確信しています。



☆:2008.10.29。

★:保健センターからの要介護認定の検査。

昨2007年11月、母が要介護度4に認定されたのですが、保健センターから来られた方が私に母の日常を質問され、母に対してもいろんな聞き取りをされていました。この様子をそばで見ていた私は随分と勉強になりました。

私から見たその日の母は非常にハイテンションで、普段に較べると物分かりが良く、昔の話から現在の自分の状態など、記憶の行ったり来たりをしながらでも、「ああ、そうか。そうだったね。そうそう」、と私達との会話が進む日ではあったんです。しかし、それであっても母の認知は進んでいるというご説明でした。

★:姉が知らなかった介護制度の現実(オプション)。

この認定が上がるには痛し痒しの部分があって、国からの介護保険適用の範囲や点数が高くなって介護事業所にとってはいろんなサービスを与えやすくなるのですが、個人で負担するオプションなども同時にそれまでよりも高く計算されるようになるんです。

ここで言うオプションを例に挙げれば食事、入浴です。これは介護保険の適用ではなく個人負担であり、要介護度が上がれば食事内容に変化がなくとも金額が上がります。つまり、食事内容ではなくてその動作介助が面倒になるから、という理由付けです。

要介護度が上がるにつれ、寝たきりの生活に近づくにつれて、その介助は楽になるような気もしますが、逆に利用料金が一様に高くなるんですよね。

要介護度は2なのに両足股関節に骨折したままのお年寄りのほうが介護自体は大変だと思うのですが・。介護制度って、見直すところは一杯あるようです。

この日の母の様子からすると、もしかすると母は3から2に戻されるのかな、という僅かな希望を私は抱いていたんですが、流石に認定の専門家だなと思いました。

コインを使った母の能力検査で母は情けないくらいの状態になっていたのです。この場面、私は姉や兄にも見せたかったですね。

★:コインの認識テスト。

母の目の前に全額で¥195のコインが並べられました。百円玉一枚、50円玉一枚、10円玉4枚、5円玉1枚ですが、母はこの計算が出来ませんでした。何回やっても出来ません。

百円玉と50円玉が同じに思える母は¥245と答えます。
違いますよ、と言われると。次の母は¥145と答えます。
間違いですね、と言われた母は¥150と答えました。

目が見える見えていないではなく、はっきりと見えてはいるんです。なのに、母は見えない、と言います。確かに、左目は失明してはいますが右目では何となく見えているんです。落ちついて見れば動かないモノであれば見えるのです。母は分からなくなった時にも「見えない」、というんです。

但し、百円玉と50円玉が同じだと言う時の母はコインの色で区別しているんです。50円玉と5円玉が同じだと思う時の母はコインの穴で区別しているんです。多分、テーブルに1円玉を並べたとしたら母は100円玉との区別でパニックになっていただろうと思います。

次に「色でも穴の有無でも区別をしてはいけませんよ」、と告げた後に正解の¥195を並べて見せてバラバラにしてみます。

そこで、「では正解の¥195になるように並べて下さい」、と言っても母には出来ません。やはり¥245だったり、¥145になっていたり、¥150になってしまいます。

計算ができないだけではなく、正解を教えたのにその通りにできないというのは周囲の言う言葉が理解できていないのです。これは聞く耳を持たないとか、頑固とかいう事とは別なものらしいですね。


★:この検査の別な効用。

認知が始まったお年寄りには丸い白い飴玉と丸くなりかけた白い消しゴムの区別ができずに口に運ぶ危険があるんです。

仮に凸凹にしながらででも母が自分でリンゴを向いたとして、右手に縦に持ったナイフの事を忘れ、リンゴを口に運ぶ事だけを考える母がリンゴを食べようとして持ったままのナイフを自分の右目に突き刺す危険があるんですって・。

この検査で分かった事は、二つの事は勿論、分かり切った一つの事をやろうとしても、やり始めた途端、最初に何をしようとしたか自体を瞬時に忘れてしまっている、という母の姿でした。

「直裕、ちょっとあんたにさ・」、と母が部屋で私を呼ぶからと、「ホイホイ」、と駆け付けた途端、「?あんたは何しに来たのね?」、と。母は2秒前に私を呼んだ事すら覚えてはいません。

かと言って、「・でね、昨日のイカのお刺身だけど・」、と突然に言い始めます。「何さ、昨日っていつの事よ?。お刺身なんて食べちゃおらんよ」、と返事をしたら最後、猛烈に怒るんです。

多分、姉なら、「話を合わせておくものよ」、と言うのでしょうが、そんなことしたら大変です。合わせたら最後、89年くらい時代を遡った歌が浦のある日の夕食に松若お父ちゃまが手造りしてくれたイカの刺身の話だったりするんです。

母がアンタと呼ぶ私は松若お父ちゃまだった事が想像できるのです。しかし、そうであれば、母が父親をアンタと呼ぶはずがありません。

多分、話の切っ掛けが現在であって、部屋に顔を出した私の表情や態度や声が父親の松若さんやイサム兄シャマに似ていて、瞬間的にポンっと記憶が昔に飛んでいくのでしょうか?。母が要介護3から4に認定された昨年のこの時期を思い出してみました。



☆:2008.10.31。

★:「直裕・、老けたね」と姉が・。

2008年10月25日の午後、長崎から姉が約3ヶ月振りに来熊。お姉さんになったり、娘になったり・、母の記憶のまま、時の命ずるままに・、姉は今回の来熊でも見事に彼女の役目を果たして2日後には長崎に戻っていきました。

いつものように高速の停車場に迎えに行った嫁の車に乗ってきた姉は、自宅で台所に立っていた私の横顔を見るなり、開口一番、「直裕、・老けたね・」、と言いました。

この言葉、どう受け取っていいものかと言いたい処ですが、私にとっては吹き抜ける一瞬の風にしか過ぎません。姉にとっては一つの感慨でしょうが、介護生活って持続なんです。迷い考えあぐねる暇なんてありません。

切なそうだ、悲しそうだ、辛そうだ、苦しそうだ・・、そうした諸々の感慨は一瞬にして過ぎ去るものかも知れませんが、私にとっては計算づくの精一杯の笑顔、昨夜から考えていた心隠したボケ演技、そう、・毎日の母に対する私の言葉や行動はある程度の計算づくのものなんです。そうしないと母の安全なんて確保できません。

私は自我を隠してコンスタントな母の介護にあたる必要がありますが、この自我を隠す努力というものは己を成長させます。母の介護を通しての私は私自身を辛抱強くしている実感がありますね。

こんな経験は私には初めての事。母と一緒に時間を人生を、母との瞬間瞬間を楽しんでいると思われているとしたら・、それは大きな間違いとは言いませんが多いに誤りを含んだ感慨です。

本来の私はこのように明るい人間ではありません。人を笑わせるような人間でもありません。常に生と死を隣合わせに考える人間です。たとえナイフを手に持っていたとしても他人に向けるタイプじゃなく、私は自分の心に鋭い切っ先を突きつけて生きてきた人間なんです。常に辛抱、辛抱で生きてきました。

誰かに分かって欲しい訳ではありません。愚痴だと思われても構わない。私は自分の命ならいつでも始末をつける事ができます。そんな事ならあの宮崎県境の深い山の中でとうの昔に一度は覚悟した事。

でも、母の命は自分の命のように粗末に扱うわけにはいかないのです。母親と暮らせるって幸せだね・、と周囲は言います。確かに幸せかも知れません。しかし、それは母が、母であればの話。


★:私はピエロ・。

でも、母は言います。母の笑顔が私に囁いています。「違うよ直裕!。お前はまだまだピエロを演じきってはいないよ」、って。「お前は役者にゃなれんね」、って。老いてなお、母はどこかで私を観察しているんです。

私はピエロ・。そう、私はあの頃と何にも変わってはいません。いつも何かを演じて演じ切れない人間なんです。



☆:2008.11.01。

★:父の事、母の事。母の父の事。

私の父、母の夫(高橋利三郎)没後、母は佐世保で約24年間の独居暮らしをしています。父が没したのは母が64歳になって半年を過ぎた頃の8月。母とて既に老いの始まりを自覚していたはず。夫亡き後の閑散とした家やその周囲の様子を母はどのように感じながら日々を送っていたのでしょうか。母の独居生活は突然に始まったのでした。

64歳の半ばからの母の独居ですが、この間には母をいろんな不都合が襲いました。数十年と悩んでいた痔、それに高血圧による眼底出血とその止血手術による左目の失明、白内障手術・、等々。母の身体は父の死を切っ掛けにして噴出すように具体的な様々な症状を呈す様になっていきます。

いずれも母が長い間持ち続け、辛抱していた心臓の不具合が原因となるものでした。64歳から23年間というと母が87歳ですから、身体が不自由であったとしてもこの頃の母は比較的に矍鑠とした日常の中に認知が入っていたのだと思います(まだらボケというんですか?)。

87歳からの3年間の母は長男と長女の世話になろうと努力はしたのでしょうが同居には至らずに実家に戻って独居に拘っていたようです。

私が思うには、一見して気丈夫に見えるこの母の姿勢は実父である河内松若と嫁いだ夫の高橋利三郎の影響を無視して考える訳にはいかない気もします。少なくとも私の父は自分にも子供達にも厳しさを要求する人でした。


★:没する2年ほど前の父・高橋利三郎。

非常に厳しい考えを持つ父でしたから、今思うと周囲の私達家族も父に対して厳しい見方をしていたのだと思います。つまり、父には(今で言う)認知などは絶対にない・、父にはそんなものは無縁のはずだと。英語を喋り、ドイツ語で書かれた本を読む人でしたからね。私達にはそんな父の印象がずっと残っていたんだと思います。

炭坑を他人に明け渡した後に勤めていた親和銀行を退職した後の父は社会保険労務士事務所を開設したりして頑張っていました。凄く信頼の厚い仕事をしていたようですが、車を持たない父が一日に訪問できる事業所はほんの僅かです。

私は二度ほどこの頃の父の一日に付き合った事があります。軽自動車ではあったのですが私が熊本から乗って帰った車で父は事業所の訪問をしたかったのだと思います。「直裕、今度はいつ帰る?」と
電話があったものです。

勾配の続く新興住宅街に転々と散在する小さな会社を何軒も訪ねては経営者、そこで働く人達の暮らしぶりを知ろうとしていたのです。

あの父の姿、・・多分、デスクワークが多かったはずの父の一生の中、人生で最後の試練だったのではないかと思います。「親父は、こんな坂道を・」、と私が驚いたのですから。

しかし、その父は当初は楽々とこなしていた計算ができなくなり始めたのです。ある年の夏、私も覚えていますが、「直裕・、この計算を頼む」、と父が言うのです。その父の姿はまるで天使・でした。

汗をかくでもなく肌は白くなり、鋭かったはずの眼光も失せて穏やかに、大柄で逞しかった身体からはすっかり筋肉が落ち、そんな天使のような父になっているのでした。


★:直裕・、ミカン食べんか?。

「庭に・、ミカン。・取って・来んね」。私は父が苗から育てたミカンを取ってきては袋まで剥がして父に食べさせるのですが、父は食べる一方で、「直裕・、ミカンを・取っておいで」、と何度も何度も言うんです。

「直裕、熊本からどのくらい(時間が)掛かったか?」、と父。「うーん、2時間半かな」、と私。そして、暫くすると、「直裕、熊本からどのくらい(時間が)掛かったか?」、と再び父が聞くんです。そして、熊本からだと通るはずもない西海橋を通って帰ったのかとも聞くのでした。この時の父は私と長女の紘子を勘違いしているようでした。そして、この頃の父、既に長男の暮らしぶりを気に掛けることはありませんでした。

でも、私も家族の誰もが認知という言葉を知らない頃。多分、父の様子の変化は母は気づいていたとは思いますが、この頃の風潮として日本中のどこの家庭でもボケという表現を避け、放置していた頃ではなかったかと思うのです。

この頃の私はまだ独り者の身ですが、私の父はこんな状態の日もあるかと思えば、この1年半後に私が嫁を貰う際には毅然とした父親振りを発揮したものでした。

宴席ではわざわざ下座まで行き、そこで正座をして挨拶をした父の姿を覚えています。また、私と嫁が最初に住むことになった借家を借りた時など、父は近隣の家へ挨拶回りをするなどしてくれたのを今でもはっきりと覚えています。父が73歳、私が25歳の時でした。


★:晩年の父と母のひととき

夫(利三郎)とは夫唱婦随の暮らしをしていた母ですから、夫を亡くした時点で母の魂の半分が抜け出たのでないでしょうか。父は母の料理が大好きでした。

退職した後の父の生き甲斐の99%は母の作る3度のお料理であったはずと断言ができる程に父は母の作る手料理を子供のように喜んで食べる人でした。

若くして柳川の実家を離れ、上京しての苦学。そして国家試験を受けて高等文官という肩書きでの外国留学。西洋の社会保険制度を最初に我が国に持ち込んだ人でした。

結婚後の宮崎では空襲の恐怖に怯える日々。そして不慣れな炭鉱マンとしての苦労。そして、炭鉱の倒産、苦手な銀行勤め・。

そして余生は社会保険労務士をしながらの父・、74歳で没すまでの我が父は料理名人のツヤさんの作る毎日の3度の食事。妻・ツヤとの安らぎのひとときだったのではないでしょうか。


★:父をあやすかのような母。

小さな庭に作った畑をいじっている時にも、家のそばにあった砂防ダムの空き地でジャガイモや胡瓜を作っている時にも、「食事ですよ」、と母が鍋の蓋をガンガンと叩けば犬が尻尾を振って駆け寄るが如く、父は急ぎ足で母の元に駆け付けては、「母ちゃん、美味しい、美味しい」、と箸を伸ばしていたと母が言った時期があります。

炭鉱を経営した頃にあった殺気のようなものが父の表情から消え、手料理の上手な妻の存在こそが幸せの極みのように思う父の姿があったはずです。

★:そして、その父・利三郎の死。

そんな平和な頃のある日でした。真夜中に父が具合が悪いと言い始めたんです。その日も私は偶然に帰省していて、私の寝ているすぐそばでの父の急変でしたから驚きました。

その時は深夜でもあるし、父の脈をみた限りでは心臓が弱っているのが理解できた私は、「取り敢えず」、と母に告げた私は自分の為にと持ち歩いていた漢方の強心剤を飲ませたんです。

この漢方薬が効を奏して父のその場は収まったのですが、母によると。「父の変調はちょくちょくあるとよ」、と言う事でした。私は自身が持ち歩いていた漢方薬を母に渡して熊本へ戻りました。
この漢方薬、既に輸出禁止、使用禁止になっている麝香を原料に使った強心剤だったのですが、この手の薬を私が所持していたかはここでは書きません。

父の体調の急変が、「ちょくちょくある」、という母の言葉で私は所持していた強心剤を全て母に預け熊本に戻ったのですが、父の急変はその後も続き、やがて父への今際の時が来る事になるのです。

「直裕、あの強心剤はよく効くね。でも・・」、と母は私に2~3度電話してきました。その後も父はちょくちょく体調を壊しているようでしたが、父は具合が悪くなる度に、「そんな量では効かんだろうが」、と母を叱っては私が告げていた規定量の倍の量を飲むようになっている様子を母が電話で言っていたのを覚えています。

父の危篤という報を聞いたのはそんなある日だったんです。父は肝臓がんでした。享年75歳。母64歳、私が27歳の夏。父の最後に立ち合ったのは母と姉。


★:いつも通る熊本~佐世保への道。

父が生死を彷徨っている頃、私は父の育った柳川の町を妻と二人、何故かこの時に限り彷徨っていたんです。熊本から佐世保へ父の急変で駆けつけるのに通る必要のない柳川の市内。私と妻の乗った車は何かに引き込まれるように柳川市内を彷徨ったのです。

そして、気づけば私達は父の生家のそばの道を行ったり来たりしていたのでした。

そして、柳川市内の迷路を抜けだし佐世保への道を高速道路並みのスピードで走る車のファンベルトが高熱で溶けだして煙をはき、動かなくなった時・、私は、「もういい、もういい。無茶をするな」、と言う父の声を聞いたような気がしたんです。

その時の様子を妻も今でも覚えていると言いますが、車から煙が吹き上げた瞬間、「あっ、親父が死んだ・」、私はそう口走っていたんです。


★:佐世保に着いたのはすっかり暮れて闇が垂れ込めた時刻。

冷たい雨さえ降っていました。普通に走って2時間半で着くはずの佐世保への道。この日は6時間も要したのです。

思えば、常に親父と兄の遣り取りを母の背中越しに見ていた私・。まるで、私と親父との関係を象徴するような縁がない、縁が薄く妙に長い一日でした。こうして、私の青春が終わった。です。


★:「これで、サヨナラね」と母の手が父の額に・。

父の火葬の儀の始まる寸前、家族の者が見るようにと開けられた柩の蓋越しに手を差し入れた母は、「サヨナラね」、と囁きながら父・利三郎の夫の額を軽く撫でました。そして、グラッっと身体を揺らした母を私が抱き止めて支えたのを覚えています。この瞬間、今になって思えば、父は母の残り人生を私に預けたんでしょうか。

母は父(利三郎)と私達家族の為だけに人生を過ごしている人のようでした。父が亡くなって始めて気づいたのですが、私は母の生まれた所が佐々であり、育った所が歌が浦だという事すら知らなかったのです。そして、父が存命中の母は己の故郷を訪ねることもなかったようです。

母の口からは歌が浦・という言葉は発せられてはいたんです。でも、父も誰も母にとっての故郷の重さなど感じる事はなかったようです。父は母の故郷の事・、故郷の父親のことを考える事はなかったんだろうか・?。そう思えば母は哀れです。


★:般若心経本を母が読みだした。

父の死後、母の日課は朝一番の花を摘み、父の仏壇に飾ること。そして、浄土真宗経を上げることでした。何年続いたのでしょうか。冬場などは膝や足首の関節が痛むというので私はセラミック温風ヒーターをプレゼントしたりしました。しかし、母に対する私からの一番のプレゼントは読経時間が短い般若心経本だったと思います。

普通のお経に較べて変拍子っぽい読み方になるのですが、母は続けましたね。でも、母の身体の痛みが酷くなり、お経を上げた後には買い物に行くのさえ辛い程の膝の痛みが残るようになったのでしょうか、母はいつの間にか読経を卒業したのです。

そして、持病の心臓の悪化、痔の手術、眼底出血、白内障・・、それらが次々と母を襲うようになり、やがて、母自身にもモヤモヤと認知の症状が迫り始めるのでした。もう、母にとっては利三郎さんの弔いどころではなくなっていくのです。


★:母の父(河内松若)。故郷を棄てた?母・。

母がこの熊本に来て、やがて、私達夫婦と母と3人で訪ねた歌が浦ですが、母にとっては実に70数年振りの里帰りでした。母は父親(河内松若)が勧めた見合い話を振り切るように故郷を離れて博多のタイピスト養成校に入って以降、二度と故郷の歌が浦に帰る事はなかったのです。

大正二年生まれの母が育った時代の父親像が目に浮かぶようですが、母は故郷を離れ、父とは二度と会う事がなかったのです。私の推測に過ぎませんが。母は自分の幼い頃の両親を語る事があっても、女学校を卒業した後の父親を語りません。それは父親との別れ話にまで繋がっていくからだったと推測しています。

母が父親・松若氏を尊敬をしているのは理解できますが、母は今でも好んでは父親を語ろうとはしません。私が父・利三郎に対して男性の生き方として尊敬をしても、父親として尊敬する事がなかったように、母とその父親との関係も似たようなものではなかったかと思います。

父親が一方的に勧めた見合い話を振り切るように博多へ去った母が、その後は一度も実家へ戻らなかった経緯を思うとき、私はその時代の厳しさ、父親に逆らう事への覚悟のようなモノを伺い知るのです。

母は・、尋常小学校5年の時。母が10歳の頃に母親(河内ライ)の死を目撃していますが、父親がいつ死んだのかを知りません。母はこの歌が浦を去る時点で父親との永遠の別離を決心したのだろうと思います。

そう言えば・・、2005年に母を伴って歌が浦を訪ねた際、車中の母は何となく首を縮めていたような・・。お袋にとっての父親の威厳が70数年を経ても存在していたのでしょうか。「お父ちゃま、帰ってまいりました」、と思っていたのか、どうか・・。


★:母の姉、青崎みつ子さんの事。

夫・利三郎を失った母・ツヤの寂しさを癒そうと平戸からみつ子姉さんが佐世保の家へ来ていました。母のすぐ上の4歳違いのお姉さんです。最初は1週間程度の滞在のようでしたが、やがて、一度の滞在で3ヶ月も母のそばにいてくれるようになり、やがては半年近くも佐世保の家で小さな口喧嘩をしつつも姉妹仲良く暮らしたようです。

互いに歌が浦に暮らした頃の思いに浸っていた時期かも知れません。母は父が強引に勧めるお見合い話を耳にするや、その父親に反発するかのように一方的に故郷を棄てように博多へ旅立っています。

姉妹でありながら故郷の歌が浦を離れる切っ掛けが違い、故郷を離れたまま二度と帰ることがなかった妹・ツヤの為にみつ子お姉さんが最後のお姉さん振りを発揮しにきてくれていたのかも知れません。

母が78歳の頃でしょうか、佐世保に帰省した私が撮影したビデオにみつ子姉さんと談笑する母が映っていて、母は左目を盛んに気にしている様子が映っています。そして、左の鼻からは僅かな出血が・・。この数年後に母の白内障が分かって手術をしています。

やがて、このみつ子姉さんにも迫り来るモノがあったのでしょうか、滞在期間が徐々に短くなっていきます。みつ子姉さんの足が遠のき始めると母は寂しがりました。毎日のようにではなく、毎日。我が母は熊本の私の家に毎日、必ず1回は電話を掛けるようになっていくのです。この頃、私は母からの愛情をとても感じたものです。

この頃の母、決して父が居ない事への寂しさではなく、みつ子姉さんの足が遠のいた事への寂しさを口にしていました。やがて、みつ子姉さんは母からの電話へも出る事ができなくなり、可愛い妹への強い思いを残したまま彼の地へ召され、我が姉と兄、我が嫁は母を伴って平戸へ向かっています。私・は、平戸の地は未だに踏んだ事はありません。



☆:2008.11.4。

★:○○性肺炎というのを知っていますか?。

何かの記事で誤嚥性肺炎というのを知りました。嚥下機能の低下したご老人がモノを喉に詰まらせて激しく咳き込み、それが切っ掛けで肺の組織を痛めて炎症を起こし、風邪をひいたかのように発熱して体力低下を落として死に至る事もあるといういう奴です。

この誤嚥性肺炎に限らず○○性肺炎というのは結構多いらしいですね。何かが切っ掛けとなって咳をし、咳が切っ掛けで肺の組織を痛めて炎症を起こして大事に至るもの、つまりは肺炎です。

私の母の場合ですと、正式な名称は知りませんが心臓性の空咳を持っています。例えば、「お義母さん、早く早く・・、」、と嫁が母に何かを急かせた時、近所にある自衛隊駐屯地が定期的に鳴らす地響きがする空砲(何の意味があるんだか・・)、それに夏の雷や、稲妻に驚いた時・・、母は心臓の鼓動に変化があった際にも激しい咳をします。

また、冷たい空気を吸い込んだ時にも激しい咳をします。夜中にフッと寒さを感じた瞬間に咳が出るようですし、特に誤嚥性の咳はこの2年ほど前から目立つようになっています。ご飯粒などが間違って気管の方へ入った時にも母は咽せ、この咽せが切っ掛けで咳き込むんです。

具体的には、卯の花料理(おから)のようなパサパサしたモノもスッと気管の方へ入っていき易いし酸っぱいモノでも咽せて咳をする事があるようだし、どうかするとお茶を飲んでも咽んで激しい咳に発展する事もあります。やはり、嚥下機能というモノを飲み込む機能が低下しているからでしょうか。

どんな理由であれ、一旦激しく咳き込むと喉の調子が悪くなるのか、胸が痒く感じられるのでしょうか母は自分から意図的に咳をしますから、肺に炎症が起きるのだと思います。母のこの様子を私は以前からとても気にしています。

もう、部屋中の空気が揺れるくらいに咳き込むんです。胸から何かが飛び出してきそうな勢いで咳をするんです。こんな咳をする日の母の肺の組織には相当の損傷ができているんだろうな、と思います。

事実、咳の理由が何であれ、こんな日が一晩続いた時の朝などの母の顔は赤らんでいて、発熱もあって声にしても低く枯れていて、完全な疑似邪状態なんです。肺を痛めると酸素の摂取量も減って体力低下に拍車がかかります。


★:デロンギヒーター、酸素ボンベの設置。

晩秋から冬、そして春を迎えるまでの時期には夜間には姉が買ってくれたデロンギの温風ヒーターで母の部屋の空気を暖めるようにしています。勿論、居間にはガスファンヒーターとエアコンが欠かせません。それに、寝る前の母にはボンベから不定期な酸素の吸入をして貰っています。

この空咳ですが、私の友人にも喘息で一年中咳をしている人が居て、食事や運動など生活を変える事で体質を改善する気になりさえすれば喘息は治ると思うのですが、「あんたのタバコ、空気が冷たいから、今日は埃が・、中国からの黄砂が・」、と己の咳の原因を周囲に転嫁してばかりではどうしようもないと思うのです。

周囲からどんな誤解を受けるか分からないんだから・・。若いうちは寒中を咳き込みながら走り込んでいるうちに身体が要領を覚えてくれて結構治ったりすると思うんです。

スポーツ選手って冬場に体力を強化するんですね。冬場に食べ、走り込み、汗を流して必要な脂肪だけを身につけ身体に記憶させては抵抗力を付けるんです。一年の中で一番空気が綺麗で厳しいこの冬場に一杯食べてトレーニングで汗を流すのは大事な事ですね。

夏は体力を落とすとき、冬は体力を回復する時だと思うんですが、それは普通に言って若い人にしか言えない事。お年寄りにはこの理屈は通じませんね。冬場に更に体力を落とすのがお年寄りなんです。

それは免疫力というか身体の中のいろんな調整能力が低下しているからでしょうか。

「暑さ、寒さが全く分からないよ」、と母も言います。老いは冬場に進むようですから介護家族の方々は気を配ってあげましょう。



☆:2008.11.5。

★:糞石/フンセキ

お年寄りって歳を更に重ねる中で新たに作り出す病気や症状が沢山。生きてきた証でしょうか、少しずつ少しずつ蓄積していくモノがあるのでしょう。

母の場合も食欲があって「これはいいぞ」、と思っていると急に食が細くなります。気怠そうで心持ち短気になっているようで赤ら顔で熱もあって・、血圧も高くなっています。私は、「あっ、お袋には便秘が始まった」、と分かるんです。

知人の薬剤師さんと話していると、「たかっさん、糞石というのがあるのよ。知ってる?」、と言います。便秘には違いないんですが、実際に出る便は軟便か下痢便。だから、決して排便ができていない訳ではないんです。

でも、何度トイレに行っても便を出し切ってはいない気がする。だから、またトイレに行ってしまうと。簡単に言えば、母:うんこっ、うんこっ。私:さっき行ったばかりじゃないか。母:でも、うんこがしたいんだよ、ってな感じです。

軟便なり、下痢便なり、排便自体はある訳だから浣腸で排便を促しても意味がありません。でも、当人に言わせれば「間違いなくウンコが残っているようで仕方がない」、と。

「大腸外科とか大袈裟じゃなく、肛門科を受診してみてはどうだろう」、と薬剤師さんが言います。

この[糞石]とは腸内に自然に作られてしまう結石のことで[腸石]とも言い、全く珍しくないものだそうで、大豆サイズから足の親指大の石炭のような堅い固まりの腸石がゴロゴロと腸内に留まっている人が多いそうです。

この薬剤師さんの話を聞いているうち、1年近く前に母の便を指で掻き出してあげた際の事を思い出したんです。母の場合には決して小さくも丸くもなく、3cm×3cm程度。

いや・まるで我が家で使うおろしたての牛乳石鹸大の変則四方形の石状のサイズのモノまでがゴロゴロと出てきました。丸いなら兎も角、肛門から半分は出ているのに角の部分が肛門の中で引っ掛かって出られないでいたんです。それはそれは・・、母が痛がり苦しがるはずです。

肛門が破れそうなので指で糞石を潰そうとしますが潰れません。私の爪が割れそうなくらいに固いんです。その時はその変則四方形の石の向きを変えていたらスポンっと飛び出してきたんですが、奥に順番待ちしていた石が再び肛門を塞いでしまうという・。

結局、そんな感じでこの腸石(糞石)を2個程度取り出したのですが、それだけでも母の便通が随分と楽になったんです。この腸結石は母のお腹の中にはまだまだ随分と残っているはずです。

全国の介護家族の皆さん、決して下痢状の軟便が出たからと安心してはいけません。「お義母さんは今日も快調快調っ」、って思わない事です。糞石とは腸の結石の事です。肛門から奥のほう奥のほうに何十個も詰まっているはずですから注意しましょう。



☆:2008.11.6。

★:老いゆく母を見つめて6年・・。母の心、身に滲みました。

母:いつもじゃないが、私しゃ自分がどこに居るのか分からんようになる。
私:・・・・・。

母:今が何月なのか春なのか秋なのか・。朝なのか、夜なのかが区別がつかん事が多いとサ。
私:そうネ。。

母:つい・さっきだろうが今だろうが、時間の経過がさっぱり分からんとヨ。
私:そうネ。

母:いつも、私には今しかなかとサネ。それば、分かって欲しいとサ。
私:大丈夫ヨ。。俺がちゃんと分かっとるサ。

母:この人は誰かって聞かれても・。第一、あんたが誰かがよう分からん時があるとサネ。
私:勇兄さんだったり、直裕だったりするんだろう?

母:直裕って、さっきまでは分かっとったとヨ。でも、私の身体には穴がいっぱいあるとさ。
私:えっ、何の穴があるとネ。

母:その穴から記憶がドンドン抜け落ちてサ。聞いても聞いても頭の中から消えるとよ。
私:あぁ、そういうことネ。。

母:私はお前にだけは・、それば分かって欲しいとさ。
私:分かっとるよ。心配せんでよかサ。全部任せてくれサ。

母:・・・・。
私:急に黙ってどうした?。今思っていることを言ってご覧よ。

母:私はネ。。「さっき、言うたろうが」、と言われるその言葉が痛かとさ。
私:痛い?・・・。

母:堪えると。真正面から言われるのが嫌さ。せめて、私のそばで肩越しにでも言うて欲しいとさ。
私:確かにそうネ。前から言われると説教みたいになるもんネ。横から言われるそうでもないもんネ。

母:でも、大体は、さっき(五月)言ったろう(祐太朗)が、くらいにしか聞こえちゃおらんがネ。ほほ。
私:ホント。言葉って違う意味にとったり、取られたりするからね。確かに・そうヨ。

母:結局、記憶が繋がらんとサ。忘れちゃおらんとヨ。言葉が正確に聴こえんから記憶にならんとサ。
私:判断さネ。判断。今の自分には関係ないと思ったら覚えようとはせんヨ。それは俺でも一緒ヨ。

母:そう、そう。自分に聞く気がないと頭の中で違う漢字になってしまうとサ。
私:はぁ?。

母:(さっき)が五月、言うたろう(祐太郎)が・、のことたいネ!。
私:あぁ・・。ええっ?。誰のこと?。いつのこと?。

母:この前タイ。あんたの友達の五月祐太郎さんが玄関で私に会いたがっとる、と思ったとサネ。
私:あぁ、あれは宅急便の人がツヤさんに小包ですよって届けてくれた時の話ね。
私:「ご在宅ならばこれから届けます」って最初に電話があった時の事ネ。半年くらい前のことネ。

母:ポーンと玄関で音がしたから。私しゃ「誰ネっ」って聞いたとサ。
母:そしたら「さっき、ゆうたろうが」ってお前が私に言ったじゃないネ。
母:だから、「上がって貰いなさい」って私はお前に言ったわけサ。
私:・・・・。そうか、頭の中では「五月祐太郎が」ってなっていたわけネ。

母:私は最初に電話があったことなんか知らんヨ。
母:な~んかネ。私の周りには五月祐太郎が一年中、一杯居るとサネ・・。
私:ごめん。済みません。その言葉は少し控えます。  

母:大体さ、その都度に言われる事を私しゃ理解しちゃおらんとヨ。
母:入ってこんから記憶になっちゃおらんとさ。もう、一瞬一瞬しか生きておらんとさ。
私:耳が遠いから聴こえんし、聴こえんから何のことか分からんし、分からんから憶えんとサネ。

母:私はお前に怒られた事もお前に私が怒った事も直ぐに忘れとるだろう?。
母:私は覚えちゃおらんのだから、あんたも2分前の私との言い合いを引きずらんでおくれよ。

母:食べ物でも、着るモノの趣味でもえらく変わったと言われるけど、私は自分の事が分からんとさ。母:どんな好みだったか、趣味は何だったか・。
母:お願いだから私の昔の事を調べてさ、時々でいいから教えて欲しいとよ。

母:あんた達から見ると「けだもの」、のようになっていく私だろうけど・・ネ。
母:一人の人間として見ておくれっ。「可哀想」、とか言わないでさ。
母:普通に普通に接して欲しいとよ。あんた達は辛いだろうけどね。

母:私は、自分がおかしくなっていっている事は何となくは気づいているとさね。
母:勘弁しておくれね。どうか、最後まで、最期まで付き合っておくれよ。

母:こんな私でもフワッとなっている時とはっきりとしている時がある事は分かる時があってさ。
母:自分で自分を責める時もあるとよ。

母:あんた達は「何を怒っているんだ」、と思うかも知れんが、妙にイライラする時があるとヨ。母:放っておかんで、私を独りぼっちにせんで欲しい。

母:私はおかしいと?、どこがおかしいと?。いつも精一杯よ・。
母:それに・歩けると思ったり、無理だと思ったり。一体、どっちだろうといつも思っとるさ。

母:自分の言葉・、悪魔が言っとるようだと思う時があるさ。だから、勘弁してよ。
母:おかしくなっている時はいいが、正気に戻る時が辛いとよ。
母:目が覚めてもネ、突然に自分が自分じゃないように思う時が多いとさ。

母:お前はネ。時々でいいからさ。私と同じ年齢になっておくれ。そして、話し掛けておくれよ。
母:娘とか息子嫁とか言われてもサッパリと分からん日が多いんだから・・。
母:今更、大勢と知り合う気もないし、せめてあんただけでも私のお友達になっておくれ、ネ。

母:私は長い話が苦手だよ。「ほら、あの頃は・」、とか言われてもさ、もう、私には無理だよ。
母:歌とか花とか・、いいよね。上手、下手、綺麗、匂う・、くらいの短い話で済むからね。

母:唄っておくれよ。ピアノを弾いてよ。ギターを弾いてよ。直裕っ、お願いだよ。
母:芸子さんも綺麗な声で唄っておくれよ。

今日の母は健在でした。思い切り・、反省させられています。


★:代継神社にて

迫り来る冬ではありますが、ここ最近の陽気のよさに誘われるように11月4日、職場を早めに離れて母と一緒に代継神社に行ってみました。10月16日以来のことです。例によってデイ施設に迎えに行って帰宅する途中の代継神社でしたが、前回の10月16日の神社訪問は2008年春の宇留毛菅原神社以来の訪問でした。

この代継神社の境内には桜や梅、金木犀に銀木犀、銀杏や楠があるのですが何れも小振りなものばかり・。それに雷と白蟻にやられている樹木が多く、この一体から私の住む岩倉台団地、隣の清水が丘一帯・、兎に角、白蟻の被害が広範囲に及んでいます。

熊本は白蟻天国。擂り鉢状の熊本平野だから仕方がありませんね。この神社の銀杏の木は雄の木(銀杏は雌雄一体ではありません)なので実を付けない為、秋の演出が下手ですね。この銀杏の木も楠も大きな木だったみたいですが、白蟻に食われていた部分から台風の為に途中で折れたのか・・。折れた後を見てみるとそんな感じを受けます。

それに、昨年は美しい花を咲かせていた白梅の木も根元から切られていました。切断面を見る限りですが白蟻が切っ掛けで切断されたのだと思います。あれはどうにかしないといけませんね。

実のなる銀杏を植え、楠の大木を天に向かって聳えさせたいですね。この神社の境内に立つとそう思います。この神社は四方を緑に囲まれていて、設計次第では素晴らしい神社になると思うのですが・・。

事実、お話を聞く限りでは既に大規模な修復工事が計画され、完成した暁には素晴らしい庭園を備えた神社さんに生まれ変わるということですから、母共々楽しみにさせて戴きます。

処で、母はこの神社に来ると元気になります。ここは正確には代継稲荷宮といってお狐さん系の神社なんです。炭鉱一族にとってはお稲荷さんとは切っても切れない間柄で父が任されていた炭鉱の抗口にも抗員達の安全と多くの石炭が掘れる事を祈念した朱色の小さな鳥居がありました。

勿論、我が家の座敷の一角にも祭壇があって、シャキッと背筋を伸ばしたお狐さんは何体かあった事を覚えています。母は庭から榊を取ってきては水、ご飯と一緒に毎朝手を合わせていました。キット、お狐さんが覚えていてくれ、母に元気をくれているのだと思います。



☆:2008.11.7。

★:人生、誰だって現在が[今際・イマワ]。

認知って、様々な症状があるんです。育った環境、生きた時代、そして現在の環境・・、そして、今は誰と一緒に過ごしているかによっても大きく違ってくるのでしょうか?。認知の出方は誰と会話するか、誰とどのような暮しをしているかによって随分と違うみたいです。

一体、私達は記憶というものをどのように捉えているんでしょう。例えば、受験勉強などでは非日常的なモノを記憶する事が多いですよね。化学式だとか、歴史にしてもそうだし、この受験で要求されている設問内容には知っていて得する事もあるんですが、その知っている事が日常的に必要かと言うと、そうではないものが出題される事が多いものです。

私は計算音痴。既述したように、幼い頃の柔道事故による長い闘病生活のお陰で算数が苦手。でも、現実の暮らしでは電卓という便利なグッズのお陰で理屈が分かれば計算方法が分かります。つまり、公式を作ることができます。

公式ってものの理屈ですから、それを作ることができる人間は経営者をやっていけるんです。だから、私のように算数が苦手でも会社を経営して生きていける訳です。

現実の高校入試、大学入試問題なんてものは特別に社会性を要求されるものではなく、単に人を選抜する為の手段、狭い範囲での記憶力の試しに過ぎません。試験問題では基本的に記憶力と応用の試し、が出されるんですね。

つまり、一度はどこかで習ったはずのものが出題されるのであって、決して、「食事の後には歯を磨くべきですか?、歯なんて磨くべきではありませんか?。などという問題が出るはずがありませんよね。正常な人の物忘れと、認知でいうもの忘れの違いはそこなんですね。

私達は常に無意識の記憶と共に生きてきているのですが、受験時に要求される意識的な記憶ではなく、無意識の記憶というものに障害が出るのが認知症なんですね。勿論、平行して計算能力等も薄くなっていくんですが、そうした意味では認知度を押し測る際の検査方法はもっと多様化すべきだと思います。

私の母のケースを言えば、箸や茶碗の持ち方や配置を忘れたり、ボタンの外し方が分からなくなったり、母ちゃんの為にと買ってきたんだよ、と幾ら説明しても、「私の服じゃないよ」、と言い張ったり、着たばかりの服を脱いだりします。これは入試の問題どころじゃなく、生活に支障をきたします。

お刺身だけではなく、湯飲み茶碗にまで醤油を入れて飲もうとしたり、Pトイレでおしっこをした後にロールテイッシュで拭くのを忘れたり、手を洗うのを忘れたり、お風呂の事を考えるだけで既に入浴したかのような気になったり・。

例を挙げればキリがありませんが、日常的に無意識に記憶していたはずの事を次々に忘れていくのが認知で言うモノ忘れなんだと思います。

悲しい事ですが・、我が母はこの無意識の記憶しているはずの生活力・社会力というものの多くを忘れ去ろうとしています。

巻き寿司の作り方、塩辛の作り方、高野豆腐の美味しい出汁のとり方、梅干の塩加減、ラッキョウ酢の塩加減、隼人瓜の美味しい食べ方・・、もう、キリがないですね。
あれ程に拘りがあったはずのお料理の事を無意識、意識の双方の世界で忘れ去っています。

責めてはいけません。決して責めてはいないのですが、私の中から少しづつ母の威厳が消えていくのは事実です。母の威厳というものが消えていくと私は母を少しずつ軽蔑し始めるのです。

老いてゆく母を馬鹿にしてはいけない、とは思うのですが。冷静な私の事ですから、そんな自分を観察する自分が居て・、「詰まらん奴だな、お前は!」、と私を叱ります。

「何で、そこまで人の老いを責め、馬鹿にし、揚げ足をとるような言葉使いをしたりするんだ!、と思います。でも、ついつい口に出てしまうんです。「何度言ったら分かるんだ?」、と。

今更、何だ。つまらん詩など書きやがって・、あれは全部嘘だったのか、と責める私が居ます。老いというものを余りにも浅く考えていたのだと思います。最近、ずっと考えるようになりました。究極の誠意ってなんだろう・、と。



☆:2008.11.9。

★:預けたカーデガンが取り違えられる。周囲が信じない、と母が激怒。

昨日の事。午後からデイ施設へ母を迎えに行った際、いつものにこやかな表情とは違って母が異常に興奮していたんです。
「とんでもない。とんでもない事。皆で私を無視して、私の言うことを聞こうともしない」、と母が怒っているんです。

母の話によると、着ていたカーデイガンを、「暑いでしょっ」、と鶴翔苑の介護士さんが持っていったのはいいが、午後から戻ってきたのは柄は似てはいるが全く違うモノだと言うんです。

「あーっ、気持ちが悪い」、と母は茶色の厚手のカーデイガンの匂いさえ嗅いでいます。私には母が朝から着ていたモノと同じモノに見えるのですが、「違う!」、と母は言い張ります。「ザッとしとるお前なんかにゃ分からん事さ」、と皮肉さえ言います。凄い性格でしょう?。でも、こんな日の我が母は素晴らしいと思います。これが本来の母に近い姿なんです。認知の影なんて欠片も見えません。

母と同居をする以前は朝からスーツを着て出社する事が多かった私ですが、今は一年中ジーンズにシャツ姿。家でもTシャツか作務衣程度しか着ない私のセンスを母は言っているんです。私にしてみれば介護服なんですが・・。


★:散々、帰路の車の中で毒つく母は、

服がすり替わった事はまるで私に原因があるかのように責任転嫁をしているようでした。帰宅後も興奮が冷めない母をなだめすかして横にするのですが、ブツブツブツブツと言葉を繋いでは、「えーい」、とか言っていました。余程、悔しかったのでしょうね。


★:実は母の言う事が事実だった。

16:00過ぎに帰宅した嫁が、「直さん、お義母さんのカーデガンが着ていったモノとは違うよっ。あれは私が買ってきたんだから覚えている」、と言うんです。色も素材も同じで、織り方も一緒。でも、「袖口のデザインが全く違う」、と嫁もいうんです。

母は母で、「もし、私の服が戻ってきても着るのは嫌さ。棄てておしまいっ」、っとキッと目を見開いて怒りを現しているじゃないですか。これには恐れ入りました。


★:鶴翔苑の体制つくりじゃ、こんなミスは日常茶飯事。

こうした間違いは鶴翔苑という施設というより、個々の介護士の意識レベルの問題に過ぎません。でも、この個々の意識が施設の評判を上げたり下げたりするのだからお互いの仕事振りには関心を寄せ合いたいものです。

確かに、間違いは誰にだってあります。ありますが、この鶴翔苑では日常的に間違いばかりです。利用者に与える車イスのブレーキが前に押して利く、手前に引いて利く・のが混在しては転倒事故が茶飯事。なのに、絶対にブレーキを統一しようとしない。予算の問題ではなく倫理観の問題です。

「認知症の老婆の事、間違いを言うのはいつもの事」、と決めつけてしまえば余りにもお年寄りが哀れです。お年寄りって人の心の底を感じる能力は私達よりも優れていますからね。


★:骨折して西日本病院に入院していた頃には

違う人の入歯が母に填められていた事さえありました。この入歯事件では私は猛烈に病院に抗議しました。母は歯茎を傷つけていたんです。でも、この抗議の後の母に出される食事は全てが豆腐料理ばかり。。これは私からの抗議に対する完全な辛辣なやり返しでした。

「歯茎は痛まなくなったから元通りの食事を出して貰って結構です」、と頼んでも出されるのは延々と豆腐料理ばかり・。母は約3ヶ月間も豆腐料理ばかりを食べていたんです。

病院という組織の病んで歪んだ人間関係がこうした変態的な看護師長を作り出すんですね。「はい、伝えておきます」、と言うだけで何の改善もありません。抗議すると、「あれっ、伝えているんですがね」、と素知らぬ表情・・。これが西日本病院では3ヶ月間も続きました。


★:点数稼ぎの虚偽診断と検査の連続。

「母が痛いというのは踵の骨折部分ではなく、足の先端の親指の捲き爪が痛いと言う意味です」、と説明しているのに母の足首のレントゲンが何度撮影された事か・。巻き爪の処理は全くせずにX線写真の日々・そんな事もあったのです。西日本病院の医師のレベルは高いのでしょうが、その内部体制作りって最悪でした。


★:「直裕、あそこの桜は綺麗だけどネ。病院は地獄よ・」、と。

退院直後の母が言っていたのを思い出します。お年寄りに年齢以上の老いを自覚させる病院、施設は駄目ですね。母の場合、逆に矍鑠となりましたが・・。
この西日本病院に世話になった頃の母は、「これ以上、私に何をさせて生きていけって言うのか?」、と母はよく言っていました。

お年寄りのプライドは大切にしてあげたいと思います。リハビリの専門学校まで持つほどの大きな病院でしたが・。師長という肩書きを持つ看護婦が多すぎ、ヤクザ世界みたいに互いが縄張りを張り合っているだけの雌野犬の集団でした。



☆:2008.11.9。

★:我が家のお風呂=ゆるりの湯

我が家のお風呂場の入口の上には「ゆるりの湯」、と書かれた9×30cm幅の木板を取り付けています。2007年11月22日・高橋ツヤ とも記してあるその板には昨年の8月から始めた山小屋風の居間への改装がこの風呂場の拡張作業で一段落したのを記念して母に書いて貰ったものでした。

この改装工事期間で1階のフロア全てに手摺をつけました。白かった壁には杉材を張り、居間から台所への段差もゆったりとした段差に変え、お風呂場も25%広めました。入浴用の車椅子に乗り換えれば洗面所から浴槽のそばまで楽に行けるようになりました。

あれから一年、昨日の2008年11月8日(日曜日)からは再びその改装の続きを始めています。とは言っても、今回は熊本テルサとの契約年俸を大幅にカットされた中での作業開始ですから柱や板の木材から周辺部材の購入に鋸の替え刃、ネジ1本まで辛抱しなければいけません。

今回は北側に面した窓4枚を外して約90cm毎に柱を立て、新しいサッシ窓をつけるという大変な作業になります。

建築時に北側1階部分に開放面を取りすぎて屋根や2階の重さに耐えきれずに1階の窓の開け閉めができなくなっていた為です。一度は専門業者の見積もりをとったのですが、二百マン近くの数字が出たので、「じゃ、俺が自分でやろうか」、となったのでした。

昨日の日曜日は昨年に購入していた3mの杉の木材5本を使って床下から立ち上げて補強工事をしました。重量が掛かっているから一歩間違えると大変な事になります。柱を外すにしても3トンまで大丈夫というジャッキを3個使い、ジャッキアップをした上で既存の柱を外さなければいけません。外したら別に準備していた柱を立てます。 

驚きましたね。北側は場所によっては3cm近くも下がっていて、ジャッキアップをした途端に全く開かなくなっていたサッシ窓がスルスルと滑るように開くんです。

この大工仕事ですが、道具が道具なだけに仕上げが荒っぽくなってしまいますが、それは仕方ないこと。でも、これをやっている時って心が静まります。私は心底から木が好きなんだなァ、と思いますね。



☆:2008.11.10。

★:心の通訳=意訳。介護では意訳の努力を!

今朝のデイ。鶴翔苑に着いて出されたお茶を飲みながら母が、「ほら、あの四角い。何きゃ、・赤と、・青か・、黒」、と要領を得ない事を母が言い出します。母はうまく喋れない自分に苛立つ表情をしながらである方向を指差していました。

この瞬間、私は体中の神経にアドレナリンを浸透させます。そして、昨日のデイでの母の開口一番の言葉。先週、先々週、日頃の母のデイでの朝一番の言葉をポンポンポンと思い出すように頑張ります。

お茶、血圧測定、壁に貼られた1週間分のお昼ご飯のメニュー、TV、朝日、眩しい、気持ちいい・、等々。母がデイにつくなりいつも口にする言葉を私の頭の本棚に並べるのです。そうすると「ほら・あの四角い・何きゃ、赤と・、青か・、黒」、と言う母の言葉が理解できるのです。

「そうね、95歳だし仕方ないさ。見えるようになりたかったら晩ご飯の時に塩分を摂り過ぎんようにせんとね」、と答えました。
「はれっ!、あんたは何で私が言いたかった事が分かるとね?」、と嬉しそうに言います。

母が言いたかったのは、「私はあの柱に貼ってある赤や青、黒で書かれたカレンダーの文字がさっぱり見えんとよ」、という言葉。その言葉を私に言いたかったのです。

現在の母からは壁や柱、カレンダーというモノの名前が消えてしまっている日が多く、たったそれだけの事ですが、日常生活を語れなくなっていて、今後、この傾向は更に激しくなっていくんだろう、と思います。

・母は壁の面を白い四角い・、と言っては壁という表現を忘れています。
・カレンダーという表現が出来ません。・柱の事も細長い四角が上から下に・、と表現します。
・出されたお茶を「飲みなさい」、と私に勧めます。

・母は施設のフロアに置かれたTVを、「ほら、あの四角い・動いているモノ。私にはさっぱり見え
 ん」、とよく言います。
・お日様が眩しい。あの白い・、寄せてきておくれ、と・朝日が眩しいから白いカーテン を閉めて
 来いと言いたいんです。

このように、デイ施設に着くなりいつも母が口にする言葉を思い出しているうちに、私はその日の朝に母が言いたかった事が理解できるのです。

介護ってこの辺のメンテが整備されていません。ある種の通訳ですね。意訳と言えるのでしょうか?。

言葉を失う一方の失語者(発語障害)を元に戻そうとするリハビリはあるのですが、私は母を見ていて限度があると思います。失った言葉を元に戻すというのは、脳が成長していく一方の子供が交通事故などで失った発後機能を戻す場合などには有効でしょうが、萎縮していく一方のご老人には相当に困難な事だと思います。やはり、老人の機能回復には在宅での心の触れ合いが一番だと思います。


★:魂の触れ合いこそがリハビリ~意を汲み合う。

多くの専門家は言葉が通じなければ触れ合いはできない、と思われるでしょう。しかし、言葉が通じなくとも理解し合う事が不可能ではありません。それが、「意を汲む」、という会話方法です。意を汲む、という事の繰り返しの中で信頼が生まれるのであれば、障害者側だけの努力を望むのではなく、施術者側の努力も必須なものとなります。

単に言葉だけでの触れ合いではなく、言葉なき魂の触れ合いです。最近の母が苛ついている理由の多くは失語と発語の障害に自身が気づいているからなんです。

思っている事を喋れない、モノの名前が出てこない、失語というのは辛いものです。今の母からは季節や時間の観念、肌で感じる時間経過の能力もなくなっています。周りの者がそれを嘲笑するかのような表情をするからいけないのです。或いは、矯正をする先生であるかのような態度・・。まるで、子供をたしなめる様な態度や言葉使いで正そうとするからいけないんです。


★:余裕を持たせる事が大事。

最近の私が心掛けている事の一つに、「寒くないか、痛くないか、お腹が減っていないか、うんちは、おしっこは?」、と一通りの確認はしますが、矢継ぎ早の質問は起床時の母にはご法度です。

「学校(デイ)に行くにはまだ早いからね、居間に行ってゆっくりしようか?。部屋に戻るかい・」、といった話し掛けをする事で母の心には余裕が生まれるはずだと思っています。

母の側からすると、この話し掛けをして貰う事で、「寒い、寒くはない。痛い、痛くない」、といった意思表示もし易くなると思っています。何より、たとえ短くとも会話が成立しますからね。こうしたスキンシップは在宅介護だからこそ可能であって、デイ施設では困難なことではないでしょうか?。



☆:2008.11.12。

★:夜中のトイレタイムが長くなった。

昨夜から明け方にかけての熊本地方はグッと冷え込みました。寝る前に電気毛布を仕込んでいて良かったな、と思いました。

昨夜の母は2:30頃に1回目のトイレタイム。2回目は4:00前に咳を繰り返していた為、掛け布団の首回りをキチンとしてやり、電気毛布を弱から3に強め、デロンギヒーターの温度設定も高めにセットし直す為に母の部屋に行った際、オシッコをして貰いました。

毎日の夜間のお世話が2回程度なら私の体調管理もうまくいくような気がしますが、寒い夜中に3回以上起きるとなると辛いし、一晩に5回だと流石に徹夜状態になって翌日の私はボーっと。

処が、最近の母の傾向は夜間の回数が減っても、1回のトイレ要する時間が長くなっていて、この傾向は夏の盛りの頃からだから、特に季節柄だからという訳ではありません。夜間のおしっこだけではなく、おしっこ+排便が妙に多くなってきているんです。オシッコをしていて急に排便に切り替わるんです。

短くて15分、長い時は40分くらい便座に座っていて、どうかすると眠り始めているから私には堪えます。それに、昨夜のオシッコタイムなど、母の部屋に入った途端にタイムトリップしました。


★:母がタイムスリップ。

母は、ベッドから抱き起こそうとする私に対し、「よございますのに。私は独りでできますから向こうに行ってて下さい」、と言って協力しようとしません。

母は歌が浦か深江に暮らした頃に戻っていて、私を勇兄さんとでも思っているようでした。

私:母ちゃんは寝とぼけとるね。俺はあんたの息子さんさ。分かるね?。
母:???。

私:直裕ですよ。
母:・・・。

「まずはオシッコが先ですよ」、と私は強引に母を抱え上げてPトイレの便座に座らせると母はもの凄い勢いでオシッコを出し始めました。

そして、オシッコを出し尽くしたら精神状態が変化するのか、「あれっ、直裕じゃないね。いつも、ゴメンね」、と見事に2008年11月12日に戻ってくれました。


★:「あの青い空の所に行ってみたい。あそこに住みたいね」、と母。

デイへの車中、いつもの信号停車の間に「あの青い空の所に行ってみたい。あそこに住みたいね」、と母が言います。

とても旅情的であって、哲学的でもある母の一瞬の言葉です。私の得意とする詩作に使えるような言葉ですが、今の私は普通のおじさんです。

「ここから見るから空は青色だけど、空って本当は真っ暗闇さ。お日様の光がある時間だけが・・」、と言いかけましたが止めました。母にはそんな説明なんて不要でした。

「そうね、あそこからオシッコでもしたら気持ちがいいかもね」、と私が誘ったら母の表情が緩むのです。「あはは、あはは」、と母は陽気に笑っていました。

今朝の私の返事は正解のようでした。お年寄りが求めている日常って、こうしたくだらない瞬間の繰り返しではないかって思う事が多い最近です。

勿論、母だけではなく、要介護度が4程度になったお年寄りが望んでいるモノは自然の摂理とかモノの理屈、常識・、そんな深いモノではない気がします。

「そうね。そうだね、分かるよ。辛いね。辛いだろうね」。という相槌や「俺にもその内に分かるようになるのかしらね?」、という質問程度の方が喜ばれるようだと思うようになりました。モノの真理の説明なんて、決してお年寄りは望んでいない気がするんです。正解なんて、どうでもいいんです。

「今更、何だ」、と笑って欲しくありません。母と暮らして6年目にして、ようやく老いというモノをほんの僅かですが理解できるようになった気がするんです。そして、このような心境になって書けた作品が、「♪蜃気楼」、「♪心の色」、「♪命の重さ」、等々なんです。


★:昨夜のTV報道の認認介護にショック。

昨夜は老老介護レベルではなく、認認介護という現実をTVで観て哀れに感じました。認知のど真ん中に居るご主人のお世話をされてきた奥様自身に認知症状が出てきたケースの報道番組でした。

思わず、神に祈りましたよ。「この野郎っ、何て事をさせるんだ」、と。

お陰様で昨夜は母のお世話に起きる2回以外の時間の私は夢ばかり見て、うなされているようでした。まるで、神が夢の中で答えてくれるかのように不思議な夢ばかりを見ていました。

高齢で認知も激しいご主人を同じく高齢の奥様がお世話を・。そして奥様自身にもジワジワと認知の症状が出て、・やがて包丁がどこにあるのか、まな板には何を乗せ、一体、何を切るつもりだったのか・が、分からなくなっていくという奥様。

ガスコンロの上で沸騰する鍋を見ながら、何の料理をしようとしていたのか、どうしたら燃え盛るガスの火を止める事ができるのか・、首を傾げるだけの奥様。

世話をする側の奥様が台所で呆然と立ち尽くす姿を茶の間のコタツのご主人がニコニコと笑って見ている・・。やがて、こんな光景が日本のアッチコッチで見られるんでしょうネ。

これ、認認介護の一光景です。悲しいじゃありませんか。こんな姿って想像するだけでも辛いです。

そんな訳で、昨夜の私はTV報道にショックを受けて夢でうなされてばかり・。その夢の合間に母のトイレタイムがあったような錯覚を覚えた今朝の目覚めでした。


★:・かと思えば・・。

ある病院のコンサート会場で交通事故による障害を持つ女の子を車椅子に乗せた女性が会場横の廊下を通りかかりました。開演間近でスタンバイしていた私は、「聴いていて下さいよ」、と声を掛けて本番に臨みました。

コンサート終了後、会場を無償で貸してくれた病院へお礼に行った際、再びこの親子と出会ったのですが、女の子が私に言いました。

「あのコンサートは感動しました。母もいつかは私の車椅子を押せない日が来るんだと思うと私は頑張らなければいけないと思いました」、と言うんです。「私、必ず歩けるようになって、今度はお母さんの世話をします」、と言うんです。

「そうさ。今の生活で満足していたら絶対に歩けるようにはならないし、お母さんはドンドン年老いてしまうよ」、と私が言えば、「はい、3年以内に絶対に自分の足で歩いて見せます」、と誓ってくれました。


☆:2008.11.13。

★:母が看板文字を次々と読む。しかし、その後が大変。

デイからの帰路、信号待ちをしているとそばのガソリンスタンドの看板を見ていた母が。「ナ・ン・ゴ・ク・ショク・サン」、と声に出して読むんです。

呆然とする私でしたが、「二シ・ニホン・チケット」、「ヒタチ・コンシューマー」、「大津・阿蘇方面」・・、と次々と看板や道路標識の文字を読み始めたんです。

思わず車のブレーキを何度も踏んでしまいました。時期的に言えば脳の状態には厳しい寒い季節なんですが、こんな日もあるもんですね。

これは何かあるぞ、とは思っていたんですが、帰宅してからの母はそれはもう大変でした。
「トイレは?、おしっこは?」、と聞くと、「しないっ、してきたばかり!」、と言いますが、実際には1時間近く前に施設のトイレに行った時には座っていただけでおしっこは出てはいないんです。

でも、ここは私が引き下がってベッドに横にさせようとすると、「何故、私が横になる必要があるんだ!。私は洗濯物を取り込むつもりなのに・」、と絡んできます。

「洗濯物など畳んだ事はあっても取り込む事などはした事がないじゃないか。危ないからそんな事は無理だ」、と言うと。
「お前はひどい事を言う。洗濯したり、取り込んだりは私が毎日している事じゃないか」、と怒ります。

日頃の母であれば、ここで考え込んで首を傾げたりして自問自答の仕草があるんですが、今日はそれがありません。もう、矢継ぎ早に反論して立とうとさえしています。でも、ベッドからは簡単には立てません。

実は、従来のベッドに代えてより低床型のタイプのベッドに交換して貰ったばかりなんです。これまでのベッドだと、どうかすると立ち上がり、そのままバタンと前方へ倒れる事があった為に交換したのでした。


★:処が・・。

一昨日にきた新しいベッドから立ち上がるのに四苦八苦している母を部屋に残し、私は急いで庭の洗濯物を取り込み、私の寝起きする部屋に放り投げるようにして母の部屋へ戻り、「俺はさ、これから家の改装で柱を入れ替えたりするから静かに横になっていてくれ」、と説得し、母を横にさせるのですが、ジャッキや電動鋸などを準備していると母の部屋のセンサーがピーピーと鳴ります。

母の部屋を覗くと、3分前に横になったはずの母がもう起きて立とうとしています。否、どうかすると立つかも知れない状態・。これでは低床ベッドを導入した意味がない・・。

「一体、何がしたいんだ?」、と聞くと。
「洗濯物を取り込む・」、と言います。

「俺が取り込んだばかりさ。頼むから静かに横になっていてくれ」、と言うのですが、母の目が完全に吊り上がって怒りを現しています。

私は・見事に鋸で左手の親指を切ってしまいました。左人差し指の爪周辺の肉がなくなって白い骨が見えていますよ。ああ・、痛い。でも、病院には行けません。

認知症では正常も異常のうちと言う方がいます。家族にとっては厳しい意見ですが、この母の激変振りを目の当たりにすると納得がいくんです。母の認知は確実に進んでいるようです。



☆:2008.11.16。

★:音、匂い、色、味覚等々と記憶との関係。

私が母を思う時、母を語る時によく使う表現として幼い頃の薄暗い早朝の台所から聞こえたトントントン・、という包丁がまな板を叩く音があります。そしてやがて香ってくる暖かい味噌汁の匂いがあります。

それに、いつも見慣れた白い割烹着姿、母が笑うときに口を隠した左手越しに見えた金色に輝いていた歯冠などです。

夜には必ず母の両手や割烹着から魚をさばいた青臭い香りがしていたのを覚えています。本当にいつまで経っても忘れる事はありません。

この熊本に老いた母を迎えて6年目も8ヶ月目になりました。2008年九州場所の大相撲も今日は中日(なかび)。これから面白い取り組みがある時間帯だというのに母の心は上の空。台所に立つ私が気になって仕方がない様子。

私が母に背中を見せた瞬間に母はテレビの前の車椅子から立とう立とうとします。あれ程に好きだった大相撲中継なんて今の母には興味の外。もう、何度も・、私を見ています。そして、私から何度叱られた事でしょう。

「立たんでくれ。危ないだろう!。料理が出来んじゃないか」。
母は私や嫁に注意される度に寂しそうな表情をします。母は料理が大好きなんですよ。


★:遠い昔の母は私の憧れの人でした。

そして、あれから数十年を経た今、夕餉の仕込みにトントントンと音を立てるのは私。母は本能的に料理に目覚めるのでしょうね。

「お義母さんは台所で物音がし出すと急にソワソワとし始める」、と嫁が言います。確かにそう。私が流しの前に立つと、「お前のそばに行っていいかい」、と台所のカウンターに座りたがります。

そして、「火が強すぎるんじゃないか」、とか。「何か皮を剥くものとか小さく切り分けるものはないか」、などと言っては料理への意欲を盛んに示します。


★:しかし、「やってみるか?」、

と手を貸して椅子から立たせるのですがカウンターに手をつきヨロヨロと流しの方へ移動するだけで、「もう、疲れたよ」、とその場に座り込もうとします。

そして、再びテレビのある居間の方へ連れて戻るのですが、少しでも目を離そうものなら再び台所の方へ向かおうと椅子から立とうとしているんです。老いって哀れですね。

私は専門家ではないから分からない事ですが、長年の[習性による行動]と[記憶による行動]は別個のものなんでしょうか?。
もし、母の行動が習性によるものだとしたら悲しい事だと思います。母親としての性(さが)は認知にも負けない強い信念のような気がするからです。

トントン、トントントン・、という包丁がまな板を叩く音やグツグツと音を立てる鍋の蓋の音も気になるのでしょうか?。「ナオヒロ・、火は大丈夫ね。手伝う事はないネ?。何かあったら言っておくれよ・」、と居間から私に声を掛けてきます。

だから、私の料理は予定変更することがよくあります。野菜の煮込みをするつもりだったのが、母が手伝いたがるものだから胡麻和えやゴマ味噌和えに変わったりするのです。

「あ・、あるよあるよ。では、手伝って貰おうか」、と私は咄嗟に擂り鉢にゴマを入れて母の元へ持っていくのです。


★:母には[過去が今]。

母の場合、目や耳による視覚や聴覚は工夫すればどうにかなります。左目は失明しているとは言え光は感じます。でも、遠近感は損なわれているから包丁類は渡せません。耳に料理は特に関係はありません。

でも、母からは臭覚と味覚の多くがなくなっているのは事実。だから料理は無理。第一、介助をしても同じ場所に同じ姿勢で3分と立っていることができません。左右前後の動きも無理です。

それに、振り向こうとしたら最後、必ず倒れます。実は、母にはそれが日常的に自覚できなくていつも私達と揉めるのです。

かつてはできていた事が今でもできるんだと思う事が認知の特徴なんです。現在を分かろうとしないのではなく、現在が分からないのです。母にとっては[過去が今]なんです。

★:誰もがそうなるのでしょうね。

そんな事を思いながら、母の姿を後ろに見ながら料理を作るのは辛いものです。もう、この母の為の夕飯作り普通の風景になってしまいました。

そんな母の姿を見ながらの料理ですからついつい焼酎をがぶ飲みしてしまいます。でも、「ナオヒロ、そんなに酒を飲むもんじゃないよ」、と注意をしてくれる母を見ると、また、飲んでしまうんです。

まだ、どこかに母を求める私がいるのでしょうか。いつまで親孝行振りを装って見せたいんだ?、と呟く私・。そんな素直じゃない私に気づく事がよくありますよ。

「ナオヒロ、音楽に野球に料理に大工に電気にあんたは本当に器用な子だよ」、と母はよく言います。しかし、私はそう思われるのが辛いんです。

「俺はそんな奴じゃない。努力なんてしていないし必死なだけなんだよ。いつも、今を必死に生きているだけさ。周囲が苦労する姿を見るのが辛いから・。

どうせ辛い目に合うのなら、自分がその役をした方が余程いい・。何もせずに見ているのはもっと辛いから・・」。いつも、私はそうやって生きて来ただけなのに・・。



☆:2008.11.18。

★:毎日、朝からお笑いのネタになるような会話ばかり。

「あんたの事務所はうちからどのくらいの場所にあるんだい?」。
「うーん(もう、何百回言った事か・)、ここからなら10分、信号待ちを入れて15分かな」、と私。

「へーっ?。それで、毎日途中で誰かに会うのかい?」、と母。
「えっ?、・・誰がね?。俺が誰かと会うのね?」、と私。

「知らんよ。会うんだろ?、あんたは」、と母。
「俺は誰とも会わんよ」、と私。

「・うーん、・・そんならそれでよかタイ」、と母。

母を施設に届けた後で笑ったのですが、母の耳には信号がシンゴと聞こえ、私がそのシンゴという人間と待ち合わせているとでも思ったのでしょうか。

そして、いつも会話が変になる魔の交差点での事。地元の九州産交の観光バスが2台信号待ちしていた時の事。車両のボデイーには綺麗な紺色に塗られたラインが横に走っています。

「大きなバスよね」、と私。
「うん、長いバスね」、と母。

「うん?」、と疑問を持つ私。

やがて、動き出して左折し始めたバスを見た母が、「ありゃ、二つに折れた!」、と騒ぐのです。

母の目には2台のバスのボデイに走る紺のラインが繋がって見えていて、2台のバスが1台に見えていたんです。1台目のバスが直進し、後続のバスは左折しただけの事だったのですが・・。

昨日の帰宅時にも、「南国殖産」、というガソリンスタンドの文字を読んだりする処をみると母の目は光りさえ十分にあれば見えている事が分かりました。

遠くを飛ぶ飛行機などは私よりも見え、尾翼に書かれたANAという文字さえ読む日があります。結局、性格からくる早とちりだと思うのです。周囲がゆっくりとしたテンポで喋ってくれ、自分が理解しやすいと感じたら次々と母の方から言葉を繰り出してきます。

しかし、そこに聴覚障害と認知が加わるからトンチンカンな会話になる事が多いのだと思います。聴覚障害の場合には母は必ず、「うん?」、と聞き返しますから耳に近づいてもう一度喋れば理解します。しかし、認知の為に理解できない言葉は厄介です。

例えば、秋深し・、と言えば理解できても、晩秋の・・、と言うと理解しません。雪が積もって・・、と言えば理解できても、積雪が・と言うと理解しません。初鰹、初霜、玄関越し、屋根裏・・、そんな言葉が全くダメです。

処が、焼印を入れる、烙印を押す。矢面(やおもて)に立つ、屋形船、夜会服、金脈、旅愁、迷走神経、万能選手・・など、意外に思えるような言葉を母は理解したりします。

長過ぎる言葉は基本的に無理なんですが、意外な事もあります。それは、「万能」、が理解できなくても「選手」、という言葉を足すだけで「万能選手」を理解する事があるんです。

デイ施設の近くに洋服の青山というのがありますが、その正面にメンズショップ青木というビルが建築中で、「あーあ、青山さんの隣に青木さんか・・。洋服の売りっこだね」、と言います。全くとの通り、母の言う通りです。

まあ、私達夫婦の努力と涙を知らず、母なりに我が儘に頑張ってくれていると思っています。



☆:2008.11.19。

★:神までが魂を棄てる。

人が必死に何かをする時、神は必死にその者を助けるはずです。人が必死に神にすがる時、神は必死にその者を護ろうとするはず。そうであれば、人が笑う時、神も一緒に笑っているはず。

貴方が何かに怯える時、神も怯え、貴方が悲しくて泣き叫ぶ時は神も一緒に泣くもんだと思っています。貴方がやりかけた何かを放棄する時、その時には神も背中を向けて寝転ぶんです。「えーい、馬鹿馬鹿しい」、「なんて奴だ」、と。

この数十年の間、日本中の町から村から教育現場にまで組み込まれる程にカラオケに日本中が興じていました。多分、神も一緒になって踊り狂っていたんです。元々、神は賑やかなものが好きですからね。

人が人らしくなくなり、人から人の心が消え始めると、神も神らしくなくなり、神の心を失い出すのだと思います。人から人としての魂がなくなる時、神も同じように神の魂を棄てがちなのです。崩れ落ちたモノはもう、戻っては来ません。

生きるという事を快楽を求める事と思い込み、生きるという事を享受する事だと理解し、苦しみや試練を求めようとも探そうともせず、生きるという喜びを与えようとも作り出そうともせずに生きてきた私達です。与えられて当然、だからそれを享受するのも当然。予期せぬ事が起きれば自分は弱き犠牲者に過ぎないと勝手に解釈。どうにかしろよと集団で叫ぶ・。

そんな人間達が奉る神が真っ当な神に育つはずがないんです。神は私達が育て上げた後に生活の象徴として奉るものだからです。


★:最近の日本人のだらしなさって、

一体どうなってしまったんだと思います。野菜問題、牛肉問題、うなぎ問題、コメ問題、乳製品問題、社会保険庁問題、公務員採用問題、国土交通省問題、防衛省問題。ビルの偽装建築問題。果ては携帯ブログで殺人予告までしてそれを中継までしようと企てたり、人類が狂い始めたとした言いようがありません。こんな国に神は戸惑っているはず。

偽装、偽装、偽装で済ませてきた人間の繋がり・・。つまりは生産システムの繋がり・。行き着くところは日本という国家の社会構成自体が偽装の塊りといっても過言ではない最近のニッポン。

政治家から役人、そして、国民全部が偽装集団。生産システムから消費システムまで一貫した偽装で塗り固められた国家、我が日本。

いずれの事件も最近の出来事ばかり。決して古くはありません。古いと思うのは私達が忘れ去りかけているだけ・。あまりにもくだらない暮らしに追い回され忙しくて、真剣に考える時間がないんです。

今や神様は出雲大社に篭りっきりで世間の事には無頓着。花札でもして遊び呆けて地元には帰ろうとしないのでしょう。

でも、この現象の全てが私たちが作り上げた事なんです。神だって神を装うようになり、実力のない神ばかりがもてはやされるようになっているようです。もう、この国は簡単には立ち直りません。全ての国民が精神的なものを道として求め、質を素を求める姿勢に今一度立ち戻る必要があります。

人が人の心を失い神が神の心を失いかけた今。この騒々しい宇宙にはひとときの休息が必要な気がしています。休息・とは何か。天地とそこに生きる私達にいっときの破壊を与えることです。

それは丁度、計算が合わなくなって算盤の盤面を指でグシャグシャニにするのと同じこと。考えが纏まらなくなった私達が頭の髪をグシャグシャに掻き毟るように・。現在の生活をグシャグシャに破壊する事かもしれません。


★:神々の神によるリセット。

人を咎め、諫める者が居るように、神を咎めては諫める神がいるはず。平和を求めるなら多少の代償が必要です。それは僅かな苦しみや悲しみのこと。それは神だって味合うでき。もし、神々の神が存在するとしたら、近い将来、私達は神々の神によって今のだらけた暮らしを破壊される時が来る気がします。それは地震や津波、山火事や原発事故。

私達は我が惑星を決して火星化してはいけません。その為には神々の神によるリセットという制裁を甘んじて受け、その絶望の中から再び三度と立ち上がって見せるべきです。



☆:2008.11.21。

★:ミンチ肉で分かるそのお店の誠意。

スーパーの食料品売り場には週に5日は通います。「母ちゃん。何が食べたい?」、と尋ねると、「うーん、何デン良かよ」。「あー、ちょっと待って!。魚がいいね、肉もいいね」、と母が・。
戻ってくる返事ってこんなもんです。

私:豆腐を買おうか?。
母:・・・・。

私:ジャガイモ料理をしようか?。
母:・・・。


★:母は豆腐が苦手なんですが、

圧力鍋で大豆と昆布の合わせ煮込みをつくり、その後に別煮込みの豆腐を加えたりするとご機嫌で食べて、余っても翌日の朝からでも食べます。

それに椎茸+昆布+砂糖+塩+日本酒で美味しく出汁をとって煮込んだ高野豆腐も大好きです。この料理には母が大好きなニンジンを甘辛く別煮込みして盛合せるととても喜んでくれます。

豆腐が苦手で大豆や高野豆腐が大好きというのは不思議ですよね。私なんか、夏などは嫁や母がおやつにプリンを食べる横でミニ豆腐食っていますからね。安上がりでしょっ?。プリン1個でミニ豆腐が3個買えますからね。

母の苦手なジャガイモですが、これがポテトチップスだと・、もう、独りでポリポリと。これはパリパリという食感の良さと塩分好きで食べているのだと思いますが、袋ごとやっちゃ駄目です。


★:本題のミンチ肉。

さて、この食品売り場に通ううちに気付く事があります。肉のミンチの事ですが、あれは食品表示法で言われる食品安全・等々の基準は満たしているのだとは思いますが、余りにも綺麗な色をしていると思いませんか?。

それに3パック幾ら、4パック幾らという特売日にも買う側から見ると明らかに変な小細工がしてある事に目が入った事があるはずです。

まずは色ですが、あれは完全に着色しています。赤い色素が混入されていますね。それに、量についてですが生理食塩水に近い成分の保存液が入っていますよね。特売日に買う肉のミンチなど水っぽくて妙にジュクジュクしていると思いませんか?。意図的な増量ですよね。

勿論、食品衛生法などで許された色素や保存液、増量剤などが使用されている事とは思いますが。あの重さを表示してはいけませんよね。料理の際など、あの表示量に対して食塩や味噌胡椒類の調味料の加減をしていては辛くなり過ぎるからです。

ご自身で確認したい方は次の事をしてみて下さい。牛なら牛。豚なら豚の1種類で作られたミンチ肉のパックをチルドルームに入れておくんです。暫くすると、パックの中の肉に黒い模様が出来てきます。あれは、保存液がうまく混じっていない部分でこれから腐り始めますよ、という警告の部分なんです。ある意味では本来の肉の色なんです。

これが合い挽き肉だと牛と豚の劣化の度合いが違っていますから必ず1種類のミンチ肉でテストして下さい。

何故、こうした提案をするかというと、スーパーは冷凍肉をブロックで仕入れ、ミンチ肉を作ってはスーパー内でパック詰めをします。だから、そのお店の「誠意」が分かるのです。一事が万事、この誠意が分かれば安心してそのスーパーを利用することができます。

私が通うスーパーは食品加工の担当者が一定時間間隔で生モノをチェックされ、売場に残った肉類はコロッケに入れられたり、唐揚げに転用したり、魚にしても売れ残った刺身用の魚は衣をつけてフライにしたり、刺身用のシールを剥がして焼き魚・煮付け用のシールに貼り替えたりされています。こんなお店だと安心。だから連日が大賑わいです。


★:私の山篭りの話を少しだけ・・。

街中(マチナカ)で犬やカラスなどが突然に凶暴になったりします。怒りや恐怖、空腹などのストレス以外にもいろんな要素があるのでしょうが、若い頃の私が山に篭もった際に気づいた事があるんです。

生き物にとっての塩分なんですが、塩分が不足してくるとイライラしてきます。山の中では周囲を見渡しても塩などありません。「馬鹿だな、下宿から持って行けば良かったのに」、などと考える奴には長期の山籠もりなどは無理な話。

自然に甘いものは結構あるんですが、塩分の摂取には苦労しました。岩塩を見つけたとしても塩分だけを取り出すのは簡単には出来ません。また、その一帯が遠い昔に海であった歴史がない限り山には岩塩はありません。

岩塩を見つけた場合には火を起こしてヘルメットで湯を沸かし、その中に放り込んでおけば塩湯が作れ、煮詰めた塩湯にシャツをつけて天日干しにしとくだけでカリカリの塩がとれます。だから、私の山篭りでは岩塩がある環境の場所に行っていました。そして、植物でも虫でも塩茹でしたモノは美味しいんです。

この岩塩以外にも様々な岩を砕いてヘルメットに入れ、湧いた湯の中にはその熊笹やアケビの葉やヨモギの葉、ドクダミの葉などを一緒に入れ、シャツで濾してお茶代わりに飲んでいました。岩には地球上のあらゆるミネラル成分が含まれていて野菜に含まれるミネラルの量どころではありません。



☆:2008.11.22。

★:我が家の黒猫チッチ女史が私の事が分からないと文句を・・。

所用があって14:30までにデイ施設に母を迎えに行けない日が年に数回はあります。前もって嫁に、「万が一の時は連絡するがいいか?・」、と事前に確認はとってはいます。突然だと嫁も困りますからね。

母を迎えに行って17:00頃に何とか自宅に帰り着いた私は普段着に着替える余裕もなく台所へ向かい、冷蔵庫の中を確認してその日のメニューを咄嗟に決めます。とは言っても、自宅へ向かう車の中で昨日に確認していた冷蔵庫の中身を思い出していて、既に頭の中では大まかなメニューが決まってはいます。

「ちょっとさ、こんなんでいいの?。奥さんに作らせればいいじゃないの」、と我が家の飼い猫のチッチさんが私に絡みます。

「お前が干渉する事じゃないだろうが」、と私。

「あたしはネ、あんたが不憫でならないから言うのよ。料理は女の仕事でしょうに」、とチッチが言っているようです。

「俺はそうとは思わんのさ。時間があってさ、上手な方がやればいいのさ」、と私。
「でもネ、あんたは疲れているだろうと思ってさ・、私の気持ちも分かるでしょっ?」、とチッチ。
「うるさい。嫁は嫁でお袋がベッドから歩き出さないように監視してくれているだろうが!」、と私。

「でもさ、あんたは知ってるの?。あの人はお母さんの横でいびきかいて寝てるのよ!」、とチッチ。
「いいさ、お袋の監視役にはなっているさ」、と私。

「私だってネ。言いたくはないけどツヤさんと同じくらいの年齢かも知れないのよ」、とチッチ。
私は「・・・・」。

「それに、階段の下にある私のトイレの砂だって最近は交換していない日があるのよ。こんな寒い時期にトイレの度にお外に行くのって辛いものよ。その事をあなた達は分かってるの?」、とチッチ。

「知っていますよ。時には俺が交換せんといかんのかな・と思ったりはするけど・」、と私。

「別に・・あなたにそこまでして欲しいとは思わないけど、私の事をお義母さんもお嫁さんもどう思っているのかなと思ったり、あなたの事が可哀想に思う時があるからさ」、とチッチ。

「だから、言ってるだろうが・・。何事も元気な奴がやればいいと思うから俺がやってしまっているだけさ」、と私。「ふーん、人間ってつくづく不思議な生き物ネ」、とチッチ。

「チッチさ、お前が俺や嫁をいつの間にか追い越して高齢になっている事くらい十分に分かっているからさ。頼むからもっとのんびりとした気持を持ってくれよ」、と私。

「うん、よく分かったよ。私もお義母さんに負けないように頑張って生きてみるから宜しくお願いネ」、とチッチさん。

今日は珍しく我が家の黒猫チッチと話が弾んだ事でした。時には猫と会話するって大切だと思います。


★:ずっと探していました。

昔懐かしい微かにエビの香りがする朱色というか、赤に近いオレンジ色をしたあの鯛あられ。私は幼い頃から金魚あられと勝手に言っていましたが正確には鯛あられだったみたいです。ホンと随分と探しました。食品の着色に関する規則が厳しくなった今では昔のあの色を出すのは難しいのでしょうか。
この数十年の間に外見的にはそっくりな鯛あられは見掛けはしましたが実際に食べてみると微妙に違うんです。

処が、あったんですね。株式会社サンエスという所の鯛あられは美味いです。袋には”生活志向”と書いてあります。これは美味い!。

それに、コピー食品で構わないから売っているお店をご存知の方はいませんか?。私が今探しているお菓子は、15cmくらいの長さの赤い唐辛子のような形と色をした飴なんです。やはり15cmくらいの竹製の棒が握り手として付いていました。簡単に言うと30cmくらいの竹の棒に赤いトンガラシのような練り飴がついている奴です。勿論、練り飴とは言っても硬いもので、しゃぶり飴です。
確か、クジ飴ではなかったかと思います。それに、A4版くらいの紙にドギツイ赤や緑や黄色などの着色したハッカ紙です。

もし、送って頂けるようであれば着払いでお願いしておきます。・とは言っても当時を知らない人にどれだけお願いしても無理かな・・。



☆:2008.11.25.

★:密かに心痛める少年達へ。

私は19~20歳の頃に悩み苦しみの最初のピークを迎えた時期があります。正確に言えば、あの9歳の時の柔道事故での大手術を引き摺ったままの人生を私はずっと悔やみ続けていました。

無理もありません。大人になった現在の私が考えても可哀想なほどでした。「よく頑張って生きてきたな」、と自分自身を誉めてやりたいほどです。

最初の手術で小腸のほぼ半分を、大腸の約25%を切除したんです。その残った腸でさえも多くは現在でも癒着したまま。その為に私の小腸と大腸の間には長い期間幾つかのバイパス術が施されていました。一つの道が閉じても別な道を食物が通るようにです。

しかし、27歳の時に命を賭けるつもりでそのバイパスを外す手術を受けました。バイパスがある事で逆に出口(肛門)の方へ食物が進まずにグルグルとお腹の中を巡るからでした。ただ、バイパスを外したら外したでやはり不具合はありました。

バイパスがなくなった為に小腸の一部では食物の通過障害が生じ、ガスが異常発生し逆流を始めてガス溜まりが小腸の一部にできてしまい、大きく膨らんで横隔膜を押し上げて常に肺と心臓を圧迫した状態が続くようになったのです。

お腹の中に風船が入った状態だから様々な影響が出ました。私の脾臓は押し潰されて破裂し、肝臓の一部も横行結腸との癒着状態になります。それに胃の一部にも横行結腸、十二指腸との癒着があるようです。


★:白血球数値は常に14000以上。

これらの癒着による炎症の為に白血球は常に14000から17000近くの数字が出ます。信じられますか?。多分、経験の浅いお医者様には理解できない、想像を絶する身体を持っているのが現在の私です。万が一の際の参考になるようにと普段の状態の時のCTやMRICP写真も戴いております。こうした理由で私の身体からは蠕動運動という消化器官にはなくてはならない大切な機能が幼い頃から現在に至るまで普通ではないのです。

お医者さんから説明を受けた事ですが、手遅れの手術や事故などで長期間放置され腐り始めた内臓や消化管が使えるか使えないかは手術中に生理食塩水に漬けてみて赤みの反応があれば再び使える可能性が高いと判断できるそうです。私の腸や内臓はそうやって手術中にテストしながら使えそうな腸管だけを繋ぎ合わせてあるんです。今日は何だか怖い話をしていますね。

そんな訳で私の場合、蠕動運動に一貫性がないんです。部分的にあったり、なかったり・。だから、周囲の人よりも遅れてお腹が減ります。減ったら食べることは食べるんです。食べるんですがゴボウや竹の子、硬い肉などは絶対に食えませんでした。柔らかくてもブドウやニンジンなどはそのままで出るんです。大好きなスルメなんてとんでもない。

それを克服するには私はあらゆる運動をしてきました。それをやらないと食べたものがお腹の中で腐敗を始めるんです。だから、必要に駆られて運動をやっているうちに人並み以上の能力がついたのだと思います。両親を始め、兄弟もそんな私の悩みには気づかず、運動をしていた姿さえ知らないと思っています。


★:そんな時期が随分と続きました。

そんな身体であって高校1年の入学前には柔道初段を取りました。私が現役の頃には体重制などはない頃です。今と違って、この当時は初段なんて高校2年で取れて、「よくやった!」、と言われる頃です。

それに、以前は韓国空手の一種とも言われた現テコンドーも有段です。ただ、大学1年時に大きな大会で膝のお皿を割るという大怪我をしてして以来、辞めてしまいました。割れた膝の皿を普通に生活しながらテーピングだけで治しましたが、現在でも複雑な傷跡が大きく残っています。

心の悩みなら解決しようがあります。でも、身体の悩みは付き纏うもの・・。心病める若者よ、と言いたい。君が本当に闘うべきモノは君の心の中にあるのではないか?、と。決して、自分を不幸だとは思ってはいけません。心が痛い・なんて甘っちょろい。

腹が痛い、腹が減ってもモノを食えない。食いたいにも金がない。膝が痛い、歩きたいけど歩けない・、辛さが分かるかい?。君の歳の頃の私・、空手の演舞会の余興でSSKのバットを3本連続で手刀で折って¥3000というアルバイトをしていましたよ。


★:近過ぎる存在だからこそ通じない心もある。

家族であっても、心の中の何かが足りないと親であって親ではなく、兄弟であってもそうとは思えない。子であっても子とは思わない、という関係に容易になり得る事を私は幼くして感じたものです。

私の両親は、「この子は退院したからもう完治したんだ」、と思ったのだと思います。世の多くの親がそんなものかも知れません。術後の腹痛で私が飯台のそばで横になっても、私の父は、「お前は普段から大食いするからだ」、と罵りました。幼な心に辛さを感じました。今、思えば哀れな父親だったと思います。

現在でも私の身体をCTスキャンやMRIでの検査写真を見られたお医者様の多くは、「奇跡だ」、「およそ、人間の内臓配置ではない」と騒がれます。

この私の身体にメス入れたお医者様はこの世に2人いらっしゃって、既に70歳、80歳を越えられますが、決して奇跡とは申されません。「強運プラス何かを持った子だ」、と機会ある毎に言われていたのを微かに覚えています。

奇跡ではないんです。お医者様との出会いのよさがあり、私の強運があったのかも。或いは神が私の事が大好きで、「この子ともう暫く付き合いたい」、と思われたのかも知れません。もし、仮に奇跡だと認めるとしたら、私は神と肩を並べる資格があるかも知れません。そして、私の今の並外れた体力、気力は嫁の励ましと私の努力で作り上げたのだと思っています。

そして、大切な事は私は母と同居をするようになって初めて父親の事を理解できるようになったのです。私自身が母と同居する事で成長しているような気がしています。父だって完全な父親であったはずもなく、普通の男だっただけかも知れません。

病気に縁が薄い健康な人は病気の事を語るのが苦手。それどころか異常な恐怖感さえ持っている人が多くいます。例えば血を見るだけで真っ青になるとか・・。こんな人は病気に対する知識も薄い故に理解する姿勢も普段から余り持ってもいません。我が父がそうであり、父は目を伏せていたかったのだと思うのです。やはり、哀れで無知な父でした。


★:身体は両親からの貰いモノ。命は生きてこそのモノ。魂は天からの貰いモノ。

晩年の父は、「直裕、直裕っ」、と日記の紙面狭しと書き綴っては夜中に私の名を叫んでいたと聞きます。私自身もそうした父の姿を3度ほど目撃した事がありますが哀れでした。「何を今頃」、って思いました。

人は自らの死期が近づいた頃から己の人生やモノの考え方を振り返る時期が必ずあるからです。この介護記録を書き始めた頃にも書きましたが、私は一度は手術台の上で臨終宣告を受け、その蘇生後の手術再開で生き返った人間です。その意味で、「私は2つ目の命で生きている」という意味の記事を書きました。

自分が担当する手術で臨終の判断を誤る医師がどのくらいの確立であるのかは知りませんが、あの時に私が受けた臨終宣告は間違ってはいなかったのです。この意味を理解できますか?。この話の続きは、今後のブログで少しずつお話をしてみようと思います。


★:私の作品に何故、神や神社が多く出てくるのか・。

機会あれば、その辺の事も語ってみたいと思います。神が与えた命は単なる芽に過ぎず、その後の命を成長させるのは母親であり、二本の足で歩み始めた後は全てが自分自身の選択で歩む方向を作り出しては生きていくものである事が理解して戴けると思います。



☆:2008.11.26。

★:母は気丈夫だから泣かない・、と。

我が姉兄は思っている事と思います。本心ではそのように思いたいだけなんでしょうが人間だからこそ泣くんだと思うんです。

「ミツ姉さん(母の姉)が亡くなったって?」、と母は泣く日があり、「勇さんは元気なんだろう?」、と聞くことも。でも、実際には何れも母が熊本に来る以前に亡くなっているんです。


★:母がいつも手に持っていたいもの、

それはタオル。何故なんでしょう? 長い間、私にはその訳が分かりませんでした。でも、今なら分かります。汚い表現ですが、よく母は「・目汁、鼻汁」と言う事がありました。実際にはそんなものは出てはいないのですが、白内障の手術を受ける以前の母は「涙が流れ出て仕方がなくてネ。タオルが欠かせんヨ」とよく言ったものです。
白内障なんて大酒のみで血圧高けりゃ年齢とは無関係になるもので、私の後輩には37歳、41歳で高血圧を起因とする白内障の手術を受けた者が居て、訊ねれば「確かに、いつも涙が溢れているような感じがしていた」、「だから、いつもハンカチを手に持っていないと気持が悪い状態だった」、と言うんです。


★:拘りが消え始める母。

佐世保に残したままの僅かな家も土地も、お金も今の母には全く無縁。以前にはあれ程に拘った人なのに・。今の母が心地よいもの、それは母の言葉に調子を合わせ様な私の相づち。知りたくもないのは現実。

母の松若父ちゃまもライ母ちゃまも、進兄ちゃま勇兄ちゃまもフサ姉しゃまもミツ姉しゃまも母の中では今でも生きています。そして、母にとって一番の宝は大好きだった勇兄ちゃまとよく似た私の存在。だから、母は私の事を我が息子とはなかなか理解できません。私は母の記憶通りの勇兄しゃまを演じるのが務めのようです。


★:だから

私は昼間は母の前でイサム叔父を演じ、夜は布団の中で一人で叫んでいます。「母ちゃん、分かってくれよ!。俺はあんたの息子の直裕なのに」、って・。

♪:母が泣いた日 

母は涙を いつも流さない  強い人だと そう思ってた
真夜中の事 俺は聞いたよ  母が泣いてた そう・聞こえたよ
いつまでわたし 生きるかしらと 俺は壁を 足で蹴ったよ! 

長い月日に 疲れたのかい? 生き抜く事を 棄てちゃダメだよ
今があんたの 最後の試練さ 
母は涙を いつも流さない 強い人だと そう思っててた


★:(♪:母が泣いた日)の制作背景
 
この詩を書く時は辛く悲しく、それでいて妙に懐かしい思いが頭の中を交錯していました。2ヶ月近く前から数週間に渡って母の様子が普通ではありませんでした。妙にテンションが上がっているかと思うと、急に怒りっぽくなっては嫁に絡む日が続きました。

「直裕っ、あんたの横に居るオナゴは誰ね?」、と尋ねたり、「貴女は息子の嫁ではありません!」、と嫁に絡んだり・。

「ねえ川浪さん」、と母の寄宿舎時代の友人の名前で嫁を呼んだり。ある時には、「サダコさん」、と呼んだり・。もう、嫁は嫁でマトモに受けて過呼吸に・。

朝など、「直裕!、2階で寝ている川浪さんを起こしてきなさい」、と言ったり、「すみません、いつも朝ご飯を作って戴いて、直裕に嫁が居ればよかったのですが・」、と嫁に言ったり・大変でした。

母は「直裕、今夜もお客さん(嫁)が来るから布団の用意をしといてあげなさい」、と言い、嫁のことを私が付き合っている女性と思っていて、この家は母と私の親子ふたりだけの世界だと理解している瞬間が多くありました。

いつもの母だと秋から冬に向かうこの時期には膝が痛い、肘が痛いと言うんですが、今年は秋から冬に入る頃はいつもの母とは違う様子が展開しました。


★:脳の軟化が進んで来ると、

痛みも感じなくなる事があるそうですが、母もそうしたパターンを歩き始めたのでしょうか?。内臓にも変化があって、夜中のトイレタイムにも排尿で起きるのではなく、排便で起きるケースが増えています。

それに、日常のいろんな事に異常に加わろうとする意識が強くなりましたから危険極まりないスリリングな瞬間が増えました。

私はついさっきまで例年の干し柿作りの為に皮を剥いていたのですが、「どれ、私が皮を剥くから・」、と言い、実際には左手に柿、右手にナイフを持つ事さえできなく、2個単位をペアで紐で結ぼうとすると、「私が結ぶよ」、と母が言います。でも、実際には紐で2個の柿を結ぶ事も今日の母には無理でした。



☆:2008.11.27。

★:脚がツル季節。あれは体質ですか?。

「皆様、そろそろ脚がツル時期になりましたよね。皆さんの今朝はどうでした?」、と言うと会場がドッと湧きます。この時期のコンサートでは私がよく使う言葉です。

今になってではなく、私には昔から結構なツリ(攣り)癖がありました。それも決まったように左足だけなんです。右はつった試しがありません。左半身の血流が悪いんでしょうか?。

高校時代には山岳部で山歩きをしている時などにはよく左足が攣りました。「またお前か、・先に行っとくゾ」、と永見主将が言います。

冬場などの山行きの最中にこれが起きたら注意が必要。仲間には先を急いで貰ってもいいのですが、冬はアッという間に日が暮れます。マップ見るとS字登りの道だから、茂みの中に入り込んで真上に直線で歩けば遅れが取り戻せて先を行く皆と合流できるなどと考えてはいけません。

急に霧が出たり降雨があったりすると方向感覚が狂い、それが元で遭難する、なんて事がざらにあるからです。新聞やTVで目や耳にしますが、標高1500mもないのに遭難する事だって珍しくはありません。

話を戻し、この足の攣りですが、人によっては癖になっているケースがありますね。私の場合、左足のふくらはぎの内側が長い間の癖になっています。石のようにコチンと固まって凄い痛みがありました。昨日も今朝もそうでした。

この傾向にプラスしてこの10年くらい前からは更に上の、お尻の下や太股の内側の股関節付近。股の部分のリンパ節のある付近が固まって痛い日があります。それに飛んでもない事に背筋が攣るんです。やはり左側の背中がコチンと固まって動こうとすると激痛が走るんです。

これって、心臓の付近で起きるのが心筋梗塞のようなものではないかと気になっています。足の攣りって心臓と無関係ではありませんよね?。誰が教えてくださいよ。。ただ、インドメタシンといった鎮痛成分のマッサージ薬を素早く塗り込んで対処すればスーっと消えていきます。



☆:2008.11.29。

★:母の不幸。自分から会話を拒否する姿勢が・・。

11月27日の深夜。こんな事がありました。夜間のトイレに起きた母はおしっこを済ませた後、「うんちがしたい」、と言い出し、部屋のクローゼットを改装して作った水洗トイレに行こうとします。

文字での表現が困難なので結論を先に言えば、私は次の言葉を母の耳近くで伝えたかったのです。「このままポータブルトイレでしなさいよ」、と。

処が、母は私の言葉を遮るように「うん?」、「うん?」、と言いながら立とうとします。

「(眠気が強いよいだから、)この(うん?)、この(うん?)、このまま(うん?)このままポ(うん?)、このままこのポータブ(うん?)・。こんな感じで私に最後まで喋らせずに、最後まで私の言葉を聞いてくれません。私は「このままポータブルトイレでしなさいよ」、と伝えたいのです。


★:私は珍しく堪忍袋の緒が切れてしまい、

「この野郎!、何で俺の話しを最後まで聞かんのだ!」、と大きな声で一気にどなりました。
母は驚いたらしく、怯えた表情をしています。
「そうやって、最後まで相手の言葉を聞く気持ちがないから聞こえんのだろうが!」、と続ける私の言葉を遮るように再び、「うん?」、「うん?」、と母は言葉を発します。

だから、「そうや(うん?)、そうやって最後まで゙相(うん?)・」。こんな感じですから、私は手に持っていた新しい中敷を床に叩きつけてしまったのですが、今度は驚きも怯えもしません。

もう、なかなか母には思いが伝わらなくなってきているようです。


★:私の大声で嫁が目を覚まし、

この時の母のトイレ介助は2階から飛び起きて降りてきた嫁がうまく終わらせてくれましたが、今度は母が私に絡むのです。

「あの人は恐ろしい声で私を脅す」、という意味の言葉を嫁にヒソヒソと言い始めます。

「お義母さん、そうじゃないですよ。直さんは自分が風邪をひいて具合が悪くてもお義母さんの為にまともに寝もせずに頑張っているじゃないですか?」、と諭そうとするのですが、例の(うん?)、(うん?)が始まります。

結局、「お義(うん?)母さ(うん?)ん、そうじ(うん?)ゃないで(うん?)すよ。直(うん?)さんは自分が風邪を引い(うん?)て具合(うん?)が悪くてもお義(うん?)母さ(うん?)んの為にまと(うん?)もに寝も(うん?)せずに頑(うん?)張(うん?)っているじ(うん?)ゃないですか?」、と嫁の言葉は次々と母の発する(うん?)に遮られては伝わることがありません。。

今夜の母には私であれ、嫁の言葉だろうが、周囲の話をまったく聞く気がないようです。

★:以前ですが、

「コミュニケーションが取れなくなった時が在宅介護の終わり時」、とどなたかに言われたことががあります。今はその言葉の意味がよく分かります。

確かに今の母は自分が住む世界がとても狭くなっていて、ベッド周辺から1.5mの範囲程度はどうにかできる・みたいな。だからそのエリアだけは誰にも自分をコントロールさせない。意見を聞く気など毛頭ないみたいな態度なんです。

結局、過去に転倒したことも骨折したことも入院していたことも・、全てが母の記憶から消えている訳ですから、ドスンと倒れてゴロンと横になり、その際の痛み感じるまでは歩く事が危険だということがまったく分からない状態なんでしょうね。

このままだと、母に尽くせば尽くすほどに母は私に対する憎しみを増すような気さえします。あれは母の性格なんでしょうか?。性格というより性分という表現がいいかも知れませんね。

でも、母が為すことではなく、これは認知が為させる母の姿であって、私が憎むべきは認知という相手。だから、私はメゲマセン。「母には生命を返しているんだ」という思いです。



☆:2008.12.02。

★:師走って先生でさえ走り回る程に忙しい訳?。じゃ、普段は暇ってか?。

・かも知れませんね。数年前まで私が所有していた草野球チームには別々な時期に2名の教師がいました。一人は中学の教師でもう一人は高校教師。二人とも物理を専門にしていましたが、この二人は全く違った日常を送っていました。

木村という中学教師の方は生徒達のお友達レベルの教師像を理想に描いているようでしたが、本村という高校教師のほうは生徒達の人生までを考えていましたね。

本村という高校教師の場合、野球をやる以前には大学までは柔道をやっていて、国体候補にまでなっていた人。そんな人でしたが勤務希望地である熊本の募集枠がなく、大卒後は4年ほど臨時教員としてあちこちの高校を渡り歩いていただけに、いろんな考え方ができる人物でした。

監督の私の前を横切る際などはサッと右手で帽子を取り、必ず会釈してから通り過ぎるのです。今はどこの高校勤務なのでしょうか。とても気持ちのいい青年でした。

しかし、彼が愚痴を零していました。教員に採用された途端、柔道部のクラブ担当をさせられたのはいいのですが、「よりによって野球部の世話までやらせられる事になりました」、と。

多分、面接の場で柔道が好きなだけでなくて、草野球チームにまで入っている、とでも言ったのでしょうか。教師の間にも虐めに近い人間関係を強要される事があって、「面倒くさい事は全てが新人教師に回ってくる」、とぼやいていましたね。

酒が入ったりすると、女の話や卑猥な話が堰を切ったように教師達の口からついて出て、念願の教師になれたものの、その教師が辛くなったりする事が結構あるような事を話していました。


★:今の子供達は哀れです。

学校から帰っても塾が待っています。学校では、「お前はキチンと塾に行っているか?。大学落ちたくなかったら塾には真面目に通えよ」、と。これって何か変ですよね。既に、高校だって大学だって倍率割れしている状態。受験させずに全員入学させた方が採算がとれるでしょっ、言いたいほど。

処が、実際に子供達に聞いても似たような返事が返ってくるんです。高校って大学受験する為に卒業という事実を作る存在に過ぎない。大学受験に受かるには塾に通うか、通わないかの違いで合否が決まる事がある、と言います。

・だったら、高校は制度として不要であって、塾だけにすればいいし、それが変だと思えば、高校を本来の高校教育の姿に戻せばいいこと。クラブ活動なんて周辺のスポーツ塾や専門学校の文化、技術系を選択させた方が余程伸びます。

学力低下、モノ作りの職人激減、畑を耕さない農家の激増、山からも職人が消え、漁民が魚を捕らず遠く海の上で商社が外国漁船から現金で魚を買って帰る始末・・。教育の現場から教師たる教師の姿も随分と減ってきている気がしています。どうなるニッポンです。


★:情けない警察官に絡まれた話。

2年半前、熊本免許センターで更新手続きをして10Km程を歩いて帰る途中、一休みしようと市と益城町との境にある某交番の前で立ち止まって嫁に「迎えに来れるか?」と電話していた時の事です。

「おい、お前は何をしとるんだ」、と背後で声がし、振り向くと私の事を「お前」呼ばわりするにはカチンと来るような一見して23~4歳くらいの若い警察官が近づいて来ていました。

「はい、免許センターで更新手続きが終わり、日和もいいので自宅まで歩いて帰ろうと思っていますが・ちょっと疲れたんで嫁に電話して・」、と言い終わらないうちにその警察官が「お前の自宅はどこなんだ」と言葉を続けます。こんな奴が居るんです。私を「お前」と呼ぶアホが居たんです。

少しムッと来た私が「清水町ですが、それが何か」といい終わらないうちに、「免許センターから清水まで10km以上を歩くってか?。お前は馬鹿か、今時」とそのアホが言うんです。


★:流石に我慢できず、言い返しました。

「馬鹿はお前だろう。人と話す時には丁寧な言葉を使えと豚みたいに太った母チャンに習っちゃおらんのか」と言ってやったら、こいつが怒りました。湯気出していましたよ。

「お前は警察官に向かって」とそいつが言いかけた途端、否、そいつが言い終わらないうちに言ってやりました。「お前が警察官ってか?。一見してバスの運転手としか思えんぞ」と。

「ちょっと交番まで来い」と言いかけたそいつの声が聞こえる一方で私は「アホじゃないかお前は」、と言いながら再び歩き出そうと背を向けたんですが、次の瞬間にそいつが飛んでもない行動に出たんです。

歩き出した私の背後から飛び掛るように右腕を私の首に巻きつけて絞め落とそうとしてきたんです。私には何の覚えもないんですよ。黙ってされるままにしていてはおかしいですよね。


★:この時点で職務質問に対する何の根拠も示されてはいません。

例えば、「この近所のスーパーで事件があって、まだ犯人が捕まっていないんです。背丈や着衣が貴方に非常に似ていますので少し協力をお願いできますか?」、とでも言われれば話は別ですが、いきなり、「おい、お前」、と言われては4番・ハラタツノリです。

それに、既述したように、私は高校の受験前には柔道初段をとっているんです。佐世保時代に始めた韓国空手でも熊本に来る前に既に有段者になっています。例え随分と昔の事とは言っても、基本は覚えていますからね。

この警察官は狂っていました。私は巻きつけてきたそいつの手首を逆手にきめて体落しで斜めに放り投げてやりました。それだけでは気が収まらないから馬乗りになって鼻でも抓ってやろうとした処、弾みでそいつが身につけていた非常用の何かのボタンを押したみたいでした。

バタバタと交番の中から3人の警察官が駆け寄ってきたものだから4対1で格闘が始まったんです。
ある意味・・、久し振りに凄く楽しかったですね。他人と本気で掴みあうなんて、滅多に経験できません。それに柔道とか空手とかやっていても普段の生活では使う事なんてなく、礼儀正しさだけしか残ってはいませんからね。でも、その礼儀正しさゆえにアホな態度の警察官にキレたんです。

人間って本気で怒った方が強いですね。彼らが取り押さえようとするから私は蹴り上げます。彼らは腰が引けてしまって、何だこいつは・と驚いた表情をしています。しかし、最後はなだめられて・、変な形で収束です。

後から駆けつけて来た3人の警察官達は何が私を怒らせてしまったかが分かっていたんです。・で、結果的に何の理由もなくて拘束されたんですが、あれは職権乱用での一種の拉致。警察官にも朝鮮からの帰化人はいますからね。

10分くらいの職務質問という奴を受けましたよ。プンプン。
「免許センターから歩いて帰る途中、オカマみたいな警察官が自分の身分も明かさず、私の事をオイお前と言うから、何だお前と言い返した」、と調書に書いたのかどうか・。兎も角はそう言いましたが、彼らが何と書いたかどうか・・。

この書類は本来は自分で書いて押印しないといけないそうですが余りにも馬鹿げた事ですから、と断固拒否しました。仕掛けてきたのは彼らの方ですからね。丁寧に、「もう結構ですからお帰り下さい」、という事になりました。


★:帰り際に「こら、お前の名前は何だ!」、と詰め寄ったら、

「はい、自分は北署に籍を置く市原(イチハラ)と言います。この交番へは研修で来ています」と答えるんです。成り立てですね。

「お前はなァ、上司にからかわれたのさ。単独で俺を交番まで引っ張ってこれるかどうかを試されたんだよ」、と言うとこいつは下を向きます。3人の上司は無言でしたがニヤニヤと笑って。。

「もう、勘弁してやって下さい」、と言います。しかし、この市原の右腕がブラブラになっていたから・、多分、右腕の肩が脱臼したか肘が折れていたはずです。
「おい市原。俺が思うにね。お前には警察官は無理だと思うよ」と言ってやりました。


★:あの秋葉原で不特定殺人事件を起こした心病んだ奴がいましたね。

目立ちたくてどうしょうもない存在の奴。周囲のすべてから無視されているという思い込み人間。こんな奴が凄く増えているんですって。

この警察官も自分に自信が持てない奴。そして、この上司3人も自分が警察官である事さえ自覚せず、国家権力というものを間違って理解している連中なんだと思います。この自我だけが強い思い込み、という心理は現在の日本に暮らす多くの者が知らずに増長させている異常心理。少子化の影響でしょうか?。

「免許センターから10kmの我が家へ歩いて帰って、そのどこがいけないんだ?」と言いたいですね。「その姿に不信を覚えるお前が狂っとるゾ」と、プンプンでした。でも、帰宅した私に対して嫁は「貴方は何をするにしても普通じゃありませんから、疑われますよ」、と。。

あれから2年半が過ぎました。市原というあの若い警察官のその後はどうなったのでしょう。とても気になっています。熊本CTY-FMに出演させて頂き、私の作る老いた親を介護をテーマにした音楽が最初に電波に乗る前日の出来事でした。



☆2008.12.03。

★:中学時代の楽しさ&辛さ。

伊万里から佐世保に引っ越してきたのが私が中1になる時。既述したように、私は小学4年終了と同時にあの大手術をして5年生のクラスには2学期からしか通っていません。

本来であれば通学日数の不足で6年生には進級ができないのではないかと思うのですが、そこは父の威厳と言うか、父は私達兄弟が通った小学校を始め、冬期になると暖房用の石炭を無償で提供するような慈善行為を行なっていた為、私の通学日数不足が問題にされなかったのではないかと思っています。


★:「貴方は理数系よ」と、姉がよく言いますが、

私は難しい話を聞いた結果を理論的にまとめて公式にしたり、プログラム化したり、性格的・能力的には理数系の人間なんですが肝心の算数が苦手なんです。

伊万里市とは言っても東山代町大久保という山中の炭鉱村で育った者の目にした佐世保は大都会。凄い入学風景でした。一体、幾つの小学校から集めたらこんな数の生徒数になるんだろうと驚きました。
1学年に30近くのクラスがあるんです。

私は確か1年17組、2年時は2年24組というのは覚えています。それも1クラスの生徒数が80名近くです。教室にはイスは幾つもあるのですが机が足りません。一つの机に二人が座って授業を受ける時など、教科書は一つしか出せません。

「お前の教科書を出せ」、と言うと、「じゃ、お前が二人分のノートをとるか?」、という決め事から席についていました。でも、授業中には隣の奴とオセロをやったりして遊んでいましたが・・。

休み時間が終わってさっきの席に着こうとすると、誰かが休み時間の間に私のイスをボロボロユラユライスに取り替えているんです。

「こら、誰だこの野郎。誰が俺のイスを持っていった?」、と言うと、「あっ、俺。ゴメン」、と返す奴。「もう一回言ってみろ」、みたいな返事も戻ってきますからいつも掴み合いになっていました。

でも、1つのクラスには同じ小学校の同窓が7~8人程度はいますから、伊万里から一人で来ている私には多勢に無勢でどうしても不利。

休み時間になると必ず誰かが喧嘩を仕掛けてきていました。グラウンドに呼び出され周囲を囲まれて試されるのです。私が喧嘩に勝ちそうになると回りの輪の中の誰かが私の目を目掛けて砂を投げてきたりしていました。

こんな感じで私の中学入学当初は両隣のクラスの連中に囲まれてボコボコにされていました。しかし、誰かが可哀想だと思い始めたんだと思います。

「おい、高橋っ。喧嘩ばかりじゃ哀れだから休み時間毎の相撲をする事にしたよ」と少しずつですが私に対する仲間意識が芽生えてくるんです。こうなったら私のモノです。


★:相撲では、

クラスでは常に1,2番目に強かったですね。でも、苦手だったのが白岳小から来ていた重松という日本名を持つ韓国人。それに白石、田中という黒髪小を出た奴ら。特に重松という奴は柔道をしていて身体も中学1年生で180cm近くありました。そして、一番嫌だったのが浦田というとても小さい生徒でした。

こうして、私は彼らの中で少しずつですが頭角を現し、クラスではいつもリーダーシップをとるまでになり、何かある度に周囲が相談してくるようになってくるのです。

中学とは言え、当時の佐世保にはいろんな問題がありました。私の通う中学にはクォーターという混血児童が何人もいました。日本生まれですから日本語は喋っても目を合わせるとグレイだったり、グリーンだったり・・。肝心な話になると英語になったり・。それに、もっと問題があったのは朝鮮人問題でした。

今でこそ韓国、北朝鮮と言いますが、当時は南朝鮮、北朝鮮と区別されていて、彼ら自身でもナンセン(南鮮)、ホクセン(北鮮)と区別して呼んでいました。互いに別々の部落を作って集団で暮らしていてナンセンとホクセンは互いの親も生徒達も交流がなく、常に互いに不信感を持って生活していました。

南朝鮮人の重松という生徒とは2回の大喧嘩の末に大の仲良しになりました。彼は私の家にもよく遊びに来ましたし、私も彼らが集団で暮らす部落を毎日のように訪ねては食事さえ食べさせて貰うほどによくして貰いましたね。そして、やがてはこの重松のお父上から勧告空手を習うことになるのです。



☆:2008.12.04。

★:韓国人重松とそのご家族への感謝。

伊万里からやって来た私はこの韓国人の重松と付き合う事で随分と救われました。まるで兄弟みたいに仲良くなりました。私がずっと憧れていた兄弟像でした。私は彼に誘われるままに再び柔道を始めました。頭と頭を突き合せない正立姿勢から始まる基本に忠実な柔道でした。

話がそれますが、現在の国際化された柔道というものはまるでレスリング。掴む着衣があるかないかの違いがある程度で技の多くが共通しています。だから、外国の選手の多くは普段はレスリングの技を研究していますよね。その結果として、牛が角を突き合わせたように頭を突け合って腰を引いた形になってしまいます。

あれだと柔道着なんて要らないし邪魔です。いきおい、タックルを基本として押し込み系、担ぎ上げ系のワザばかりが目立ち、柔道本来の柔道着を掴んだ投げ技の数が減ってしまいました。

でも、私が中学生の頃の柔道には綺麗さがありました。ワザも多彩にありました。柔道は庶民の普段の生活を守る防衛術としての役目も持って普及発展した歴史を考えれば、着衣を利用した指導方法に戻らなければ、「明日の柔道はない」、と思っていましたが、その通りになってしまいました。今の柔道とレスリングはどこがどう違うのって言いたいです。まるでタックルを先にとった方が勝ち。


★:因みに、相撲って大昔は大関までしかなかったんです。

横綱になるには心技体の充実が認められ、武士の階級を与えらる必要がありました。だから、農家の若者だってお相撲さんになって横綱を目指す事ができたのです。現在、横綱の朝青龍がボロクソに責められているのは、その頃の厳しいしきたりの名残りがあるんだろうと思います。

不祥事を起こしたり、不甲斐ない成績しか上げられない横綱は「武士の恥、腹を切れ」、と帯刀を許された歴史があるからです。母も私は小さな身体で頑張る朝青龍が大好きなんですが・。


★:もう、この韓国人重松にはボロボロに鍛えられました。

喧嘩だといい勝負をしたんですが柔道だと全く歯が立たない。あの原因は意識なんです。「こいつは柔道が強い。だから俺は習っているんだ」、と思うだけでも負けるモノなんです。彼にも弱点が一杯ありました。喧嘩だとその弱点をつけるからいい勝負が出きたんです。

例えば、下半身より上半身の力が強かった重松は私にワザを掛けて投げようとする瞬間に必要以上の腕力を使って巻き込んでくるんです。私が逆らわずに力を抜くと彼の軸足がよろける癖がある事を練習を通じて分かったのです。

互いにいろんな感じた事を教えあいながら練習に励むうちに私だけではなく重松も驚くほどに強くなっていき、勝ったり負けたりの状態になるのに6ヶ月も要しませんでした。そして、この激しい練習の成果があったのか私の身長が向こう1年で14cm以上も伸びるのです。


★:高橋、お前に柔道は無理だ、と。。

そんなある日、「高橋っ、柔道もいいが韓国空手をせんか?、テコンドーを知っているか?」、と重松が言います。
「はっきり言うよ、内臓が弱いお前には柔道では限界がくるぞ」、と言うんです。彼は私が彼の事を見抜く以上に、実は私の事を見抜いていたんです。時折、私が彼に勝てたのも多分、Sは手を抜いて柔道を教えていたんだと悟ります。

「柔道は技だとは言うが、実際は体重がモノを言う事が多い。背が伸び過ぎて痩せているお前には必ず限界がくる」、と言うんです。

この頃の柔道には今のような体重制などはなかった時代でした。私は中学2年の中頃には177cmに近づくのですが体重は54~58kgくらいしかないのです。柔道を続けたいなら177cmでは75kg以上はないと難しい、と重松が言います。

Sはこの直後、中学2年で初段に合格し、私は重松の言葉に従って韓国空手の流れを汲むテコンドーというのを習い始めますが、このテコンドーこそが私の中の眠っていた能力を一気に目覚めさせてくれることになるのです。

テコンドーは常に前後左右に体重移動をさせながらも同時に相手の体重移動を見計り、相手が踏み込んでくるタイミングを知ることが要求されます。幼い頃からの野球で動体視力がいい上に、間合いを取るのが苦手ではなかった私は相手の考えていることが手に取るように見えている事に気づいたのです。この頃、日本にはまだテコンドーという言葉自体が紹介されていない頃でした。

このSは中学を出ると福岡の朝鮮人高校へ進学し、その後は私達は会うこともなくなったのですが、私は彼と、彼らにとても多くの事を学びました。そして、韓国人重松と別れた私はやむなく大嫌いな日本人柔道場に通います。折角、面白くなりだしたテコンドーも断念し、柔道場から40mほどの隣にあった松寿館という空手道場へも通うようになります。


★:やがて、基地の町・佐世保。高校進学直前には某高校から柔道で誘われますが、

断ります。この為、この高校では私が卒業するまで柔道部担当だった体育教師といさかいが絶えませんでした。何故って、この教師が私の通う戸の尾町道場の師範だったからです。入学直後の朝礼での私への往復ビンタ47発事件が起き、私に対する鼻血の洗礼が待っていました。

★:一方、ベトナム戦争も激化の一途を辿ります。

私の住んだ佐世保の町は学生達の思想闘争、学生運動というものの象徴的な存在になっていきます。
月曜日の朝礼では、「週末には5隻の艦船(ふね)が入るから基地周辺、繁華街へは近づかないこと」、という注意が繰返され、事実、いろんな事件が続発し始めるのです。そして、私と音楽との出会いがこの頃に始まるのでした。この頃の暮らしは後述する事もあると思います。



☆:2008、12,4

★:♪:[佐世保メモリー]を書く。

この12月4日に《♪:佐世保めもりぃ》、という作品を書きました。この作品の原曲は私が学生の頃に作った[♪:ブラックローズはあるだろうか]という曲でした。介護生活とは関係がないのですが、命を扱った作品という事でYOU-TUBUにアップしています。

★:制作背景

私の遠い記憶。私が高校生当時、佐世保の松浦町というバス停で実際に起きた事件を扱っています。
ベトナム戦争当時、佐世保の米軍基地にはデスクワークをする将校クラスが大勢いて、独身者は基地内宿舎に、家族持ちは米軍が借り上げた民間の住宅に住んでいました。でも、中には家族を本国に残して単身で日本に住み、パンパンという日本人の女性と同居するケースも決して珍しくはありませんでした。

「オンリー」とも呼ばれるパンパン。その兵士が戦死をするか本国に帰るかの事態にならない限りは他の兵隊には絶対に肌を許さないというパンパンの事ですが、このケースでは悲しい出来事が多かったのです。子供が生まれたりすると大変な事態になっていました。勿論、本国に連れて帰って結婚するケースもあったのですが、多くは悲しい別れが待っていたのです。


★:「パパーッ」、と一人の女性が、

歩道の向こうを足早に歩く将校の後を追って来ました。大勢の高校生達がたむろするバス停の通りの向こうで起きた光景です。

振り返った将校は早口の英語でパンパンに答えては足を早め、苛ついた表情で自分でもどうしようもないようにブツブツと何かを口走っているようでした。

「パパーッ、パパーッ」、と叫びながら駈け寄って来る女性は明らかにパンパン。殆ど裸のままにシーツのようなものを身に纏っているだけ・・。佐世保の町ではよく見掛けた光景・。例に漏れず、別れ話の直後のようだと誰もが感じた事と思います。

「チッ、・またかよ」、と私も舌打ちをした、その時でした。将校は白い制服の下に手を伸ばして身に着けている短銃ホルダーのホックを外そうとし始めたのでした。目撃していた高校生達は、「キャッ」、という叫び声をあげ、群れを崩して恐怖に身構えています。


★:「あっ、いかん。駄目だ、何て事をするんだ」、

と感じた私は不思議に何故だかその将校の方へ向かって思わず走り出していたんです。そして、走りながらその将校に向かって持っていた学生カバンを投げつけたのです。そうでもしないと今にも走り寄るパンパンに向かって銃の引き金を引くように思えたんです。将校が私を見ました。血走った目で私を見ていました。そして、今度は私に銃を向けたんです。

「やめろ、この野郎!」、と私は叫びました。その直後でした、私を制した彼は既に4mほどの距離に迫っていたパンパンに銃を向けて発射してしまったのです。私の目の前でです・・。
辛かったです。まだ、私は高校2年生ですよ。


★:パンパンは目と口を大きく開けて驚いたような表情で立ち止まりました。

そして、グラッと身体を揺らして宙を掴むような素振りで私の方へ手を伸ばしてきたのです。私は咄嗟に駈け寄ってパンパンの身体を支え、舗道の上に彼女を横にしました。

「ジャップの癖に・、ジャップの癖に・・」、と将校は叫ぶのですが顔面は蒼白。それだけを言うとなかなか言葉が続きません。将校は倒れても手を差し出しているパンパンを見ながら呆然としていました。もう、目が完全に狂人のように・、まばたきも忘れたように固まっていました。ショックでした。そして、私と目を合わせた将校はブツブツと早口で何かを言いながら、今度は再び私の方へ銃を向けようとしたんです。もう、私は怒りでワナワナと身体中が震えました。

「この野郎ッ!」、と叫び声を上げながら私はその将校の方へ走っては銃を持っている右腕を思い切り蹴りつけるとパーンという発射音を放ちながら銃は舗道を転げたようでした。足元に火花が走ったようでしたが、発射された弾丸が舗道を擦ったのでしょう。


★:そして、・舗道に横たわるパンパンが手を宙に伸ばしていましたね。私は駈け寄ったのですが何をどうしたらいいのか・、「起こして頂戴」、とパンパンが・・。私は彼女の後頭部から流れ始めた血も気にせずに舗道から抱き起こして自分の方へ引き寄せました。

「ボク、ありがとう・、ありがとうネ」、と彼女は私に言いました。「日本人なのよ。所詮、私達は日本人なのよ・」、と。

「でも、最期は日本人に抱かれて死ねて・、幸せ」、と言いながらフッと息を引き取りました。その瞬間に彼女の身体が凄く、凄く重くなったのを今でも私は憶えています。


★:彼女は美しい人でした。

開いたままの両目には澄んだ佐世保の空が映っていました。彼女はまるで天使のようでした。
「何で死ぬんだ。何で死ななきゃいかんのだ。誰が殺したんだ。何で殺さなきゃいかんのだ・・」、といろんな思いが交錯していました。

将校も見ていました。泣いていましたね。彼女の後頭部から流れ出した血が舗道に一本の筋を作って流れているのです。この時、人は泣きながらでも人を殺す事がある事を知ったのです。流れる血が匂っていましたよ。

「あァ、・俺がアンタの分まで生きてやるよ」、と私が心の中で叫んだ瞬間、オゾンのような清清しい香りが私の全身に満ちていくのです。血の匂いってオゾンのような清々しい香りがするんです。

言葉では、音楽では絶対に再現できる事ではないだろうと思っていたこの作品でした。原曲の♪:[ブラックローズはあるだろうか]という曲名の頃、大学時代に2回だけ唄った事がありましたが、唄い終わるまでに25分という長い曲だった為、最後まで聴いてくれる者がなかなか居ない・という作品でした。



☆:2008.12.05。

★:天を仰ぐ:意見を聞く、意を得る事。神の指示を仰ぐ事。

何かを思い起こす時、怒りの絶頂に達した瞬間、失望感に満ち溢れる時、喜びを全身に感じる時・・、人間って拳を作って無意識に空を見上げるものではないでしょうか。天を仰ぐという奴です。

人間って絶対ではありません。自分には自信を持ち続けることができないものです。例え、ビルの中や部屋の中であったとしても天を仰ぐ瞬間ってあるはずです。「あァ」、とため息をついたり。「やったゼッ」、とガッツポーズをする時・・。人は天を見上げるんです。

多くの場合、あの行為を無意識にやっているもんですが、あれを意図的にやれるようになると人間って結構な冷静さを得る事ができるもんだと私は思います。

私の場合、天を仰ぐではなく、天に仰ぐと解釈しています。仰ぐとは許しを乞う、同意を得る、意見を聞く、つまり天の声を聞く行為だと理解するようにしているんです。

「さっきの私の言葉、態度は天の目から見たらどのように映りましたか?。あれで良かったんですか?」、と少しだけ謙虚になれる気がするんです。

実際、目の前の相手に対しても1拍の間合いをとった感じになり、相手からも、「こいつは結構、落ち着いた話をする奴だな」、という信頼を貰えるケースが多い気がしています。


★:私のコンサートでよく指摘される私のアクションに、

「天を仰ぐ、天を指差す」、事があります。これは身に付いている、というよりも癖なんだと思います。だから、指摘されるまで気づかなかった事です。ただ、意識的に使うアクションは確かにあります。♪風よ光よ、♪秋夕暮れ、♪籠の鳥、などを唄う際には作品の詩をより理解して貰おうとする余りに指を天に向けたりしてしまうのです。

でも、もしかすると、皆様からの涙混じりの視線を浴びるのが辛くて目を逸らしたくて意図的にやっているのかも知れません。

客席に向かって指を差すのは、「貴方のご家庭でもそうではないですか?」、という意味を込めているのだと思いますが、舞台の私は普段の私とは違うテンションになっているから、よくは分かりません。



☆:2008.12.06。

★:同窓意識、同郷意識。

この処、ずっと寒さが続いています。在宅介護の皆様のご家庭でも夜間のトイレタイムは大変でしょうネ。処で、在宅で介護をしている息子や娘という人達の平均年齢って幾つくらいなんでしょうか?。

まあ、老々介護といって84歳の妻が96歳の夫の世話をしているケース。これに大なり小なり似たような介護家庭がこの熊本では全く珍しく事ではありません。単なる老老介護ではなく、やがては認認介護という、互いに認知があるながら助け合って相互に介護をし合っているご夫婦もありますが、あれはグッと胸に来ます。哀れだし危険だし、どうにかしてあげたい・と痛切に思わされますね。


★:この熊本は全国でも上から4番目の高齢県で

既に4人に一人が65歳以上なんです。ただ、65歳から高齢者だという根拠が私には分からないのですが・。65歳でも色っぽい女性は沢山居ますからネ。

この熊本が高齢県の理由は地元に大きな企業がなく、若者が県外に去って行ってしまう事が最大の理由なんですが、故郷で親の世話をするのが苦手な年代の者達が現在の介護家族を構成している、と言うのも理由の一つなはずです。

団塊の世代というんですか?。この世代の人々は憧れだけで都会の大学を目指した人。それに中学を出た後に集団就職で都会に出た人、といるんですが、この年代の方々が故郷を離れて都会で家庭を持っている訳だから、我が家の事で精一杯。故郷の老いた両親のことまで手が回らない・。そんな事情、そんな実態があるようですね。

それに、中卒までの15年、高卒までの18年間の両親、兄弟との暮らし程度では、「実家に戻って親の世話を・」、という気持ちを持ち辛いのだろうと思います。


★:私は団塊の世代より若いベビーブーマーの世代です。

1クラスに80人も居るクラスで教え学んだ教師と生徒の関係は非常に希薄です。私は団塊の世代の方々よりも若いのですが、やはり同窓会、クラス会の集まりが非常に悪いと聞きます。一昨年からは世話人さえ不在。つまり、昭和23年頃から28年生まれくらいの者達の同窓意識や同郷意識というのはとても低いんだと思います。


★:もう一つ悲しい事実があります。

受験の為の試験など必要もないくらいに大学の数が増え、奨学金のスポンサーも多い現在とは違い、昔は大学に行くって大変な時代でした。

この頃に苦学した団塊の世代の方々は、「せめて我が子にだけは・・」、と教育熱心な父母になった方もいます。しかし、外国に留学させたり、国内の二つの大学を卒業させたりして必死に学問を積ませた結果、子供達は研究肌の学門追求書に目玉や口が付いた様な無表情で分析好きな大人へなってしまい、どこか無感情で冷徹さを持つ大人へと変身してしまう例も少なくはないと聞きます。

一体、人間にとっての真の故郷はどこにあるのでしょう?。それこそ、天を仰いでしまいます。



☆:2008.12.08。

★:相変わらず、今年も夜間のトイレタイムの世話に頑張っています。

頑張っています、とは言っても2006年の秋の頃からずっとやっている事です。辛いのも慣れてくると日常の事のように感じます。人間って強いもんですね。

2006年夏に母が6ヶ月に渡る入院治療、更に骨折リハビリの為に入所していた施設を退所。しかし、母は立つのは立つのですが左右の足に体重を掛けて歩こうとすると転倒します。リハビリ入所の期間に歩こうとする意識だけが目覚めた分、母には危険が増えていました。

月に何度倒れた事でしょう。フッと感じるものがあって母の部屋を覗くと尿意を催した母がベッドの縁から滑り落ちて尻餅をついて立てないでいます。Pトイレの前に座り込み便座にしがみついている日が目立つような状態が続きます。勿論、室内着も寝間着を汚しています。


★:やがて、腹筋の力が衰えてきたのか

2006年も秋が近づく頃の母はベッドの上で上体を起こす事が困難になる日が増えてきました。
私の家で使うセンサーは床に敷いておくタイプで、母が要介護度2の頃からリースで借りているものです。このタイプのセンサーはベッドから上体を起こした母が足を床に着地させない限りブザーが鳴りません。

だから、2006年10月の末くらいからは私が母のドアの前に寝て、深夜に母の動く気配を感じてトイレタイムの時間を知るような体制を作りました。しかし、これが私の体力を日毎に奪ってしまうのでした。

トイレではなくとも母が寝返りする気配だけでその度に私はポンと目覚めてしまいます。私は寝ていても猫が近づく気配に気づく人間なんです。汚い話ですが、ついでに言えば飛んでいるハエを掴んだりするのもお手のモノなんです。

そして、その2006年もやがて、冬。この2006年暮れから2007年の3月に掛けての冬は寒さが厳しく、私はこのままでは自分がどうにかなる・、と思っていた矢先、2007年を迎えた1月末に心筋梗塞に倒れてしまいました。自分の弱気で逃げの思いがそうした状況を作ってしまったのです。


★:でも、私は必死の頑張りで、

というよりも私が居なくなったら母はどうなるんだ、という思いで強心剤を飲み、自分の胸を拳でゴツンゴツンと殴りながら頑張りました。

私には数ヶ月に渡る左手の痺れと日常的な言語障害が出ていました。必死のリハビリで6月にはギターなどはそれまでよりも指が動くようになり、多少の言葉の発声が怪しいかな、というくらいに回復したところで今度は7月6日の激しい雨の中で追突事故に遭ってしまいます。動いている車になら兎も角、信号待ちの停車状態での追突ですから私には相当なダメージがありました。

結局、母の送迎の都合もあって10月末で交通事故の治療を停止しましたが、この時点ではビルの壁や部屋の柱が常に揺れて見える状態でしたが、主治医からの、「やむを得ない。但し、具合が悪くなったら治療はいつでも再開できる。事故との関連性を医師が証明するだけの話だ」、という言葉で無理を言って通院を停止した状態でした。

★:この時期で既に2007年は暮も近い10月末。

この1年って私にとって何だったんだと思うほどに早い足取りで過ぎ去ろうとしていました。作った曲も僅かに7曲。この体調でよくもコンサートがこなせたものだと思います。


★:話を戻して、2008年のこの冬、

私は相変わらず母の夜間のトイレのお世話は続けています。私の本来の寝室は2Fの7.5畳の部屋。因みに嫁は隣の12畳の部屋。。。

2006年秋からの私はこの2Fの部屋を出て1Fの母の部屋のドアの外の居間で寝ていた訳ですが、
冬場の寒さで体調を壊し、挙句に心筋梗塞をやってしまいましたから、この2008年現在は1Fの母の部屋の隣の和室で寝るようにしています。もう、客間も何もあったもんじゃありません。

冒頭に書いたように、冬季限定の夜間トイレの世話ではありません。2006年の秋からずっと続けていること。日常のサイクルに組み込んでしまっていますから、母が夜間のトイレに起きない夜などは逆に気なって寝れないくらいです。

いろんな意味で強くなりました。2日で実質5時間くらいの睡眠ですからね。それも焼酎くらってです。目を休ませないから常に乾燥していて痛い。でも、特に不都合は感じません。ただ、このままだと間違いなくいつかはポックリと逝ってしまう気はしています。


★:だから、

2008年は主治医に相談して母の夜間トイレの回数を減らすように一回で大量の排尿があるような利尿剤に代えて頂く一方、母が居間で使う座椅子も低いものに代えました。兎に角、母が立たないように・。立てないように・・。立ちさえしなければ転倒事故はないんです。もう、今の母にはそうするしか方法がありません。

Posted by 濱野裕生 at 21:17│Comments(0)〇:同居記録
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