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濱野裕生
濱野裕生

2021年01月14日

〇・母の生涯:07

〇・母の生涯:07

 この高口ハガネ店のご夫婦には子宝に縁がなく、随分と後継者作りに苦労をされていたようです。 我が母・ツヤさんがこの高口ハガネ店にいつまで身を置いていたかは私は聞かされていませんが、この福岡時代に当時は大分県庁に勤めていた我が父・高橋利三郎とお見合いをしています。多分、母が27~28歳頃ではないかと思います。当時としたら晩婚もいいとこですよね。。

 丁度、その頃の後の我が父は厚生省の役人の立場で大分県庁に赴任しており、九州の各地に社会保険事務所の設置を指示された立場だったようです。そして、佐世保の地に社会保険事務所(現・文化財指定)を設置した後に宮崎県庁への赴任辞令を貰っています。

 ここで我が母・ツヤは利三郎氏とお見合い結婚をし、河内ツヤから高橋ツヤへと姓を変えています。 もう、太平洋戦争も終盤を迎え、我が本土への空襲が繰り返され始めたころですが、ツヤさんは生まれていた長女の紘子を胸に抱き抱えては空襲を逃れた先の防空壕で親子で震えていたことでしょうね。
 我が父、利三郎の記憶で言えば、「丁度、私は宮崎県庁の屋上に居てね。我が家(借家)がある方向を見れば次々と着弾して火の手が上がっていたよ・」、と。 新婚の住まいは丸焼けだったそうです。

 この後、高橋利三郎は宮崎県庁に在籍したままで敗戦の処理役として大陸からの帰還兵士の手続きの為の事務所を開設するために妻のツヤさん、長女の紘子を伴って佐賀県の唐津へ赴任していますが、帰還兵士の多くは門司港に開設された事務所で帰国手続きを行なっていた為、唐津に設置した事務所には実際には帰還兵士は「家族からの問い合わせはあっても、手続きには来た帰還兵は誰も来なかったようだ」と母・ツヤは当時を振り返っていました。

 ここで、既述したミネ子さんが再登場します。
母の博多時代にタイピスト学校の先生だった人。後に母の見つけた下宿に転がり込んで来た人です。 実は、唐津時代に高橋利三郎&ツヤ&長女の紘子の三人の親子が暮らした仮の宿がこのミネ子さんの家の二階だったいう偶然な出来事があります。

 当時のミネ子さんは新婚でありながら「もう、下の階での夫婦喧嘩が酷くてサ」、と母・ツヤは当時を振り返っては私に懐かし話しをしたものです。 このミネ子さんの実家の姓は砂田といい、実家は河内家の遠縁で鹿町々江迎では時計屋さんを営んでおられたようです(間違っていたら後々に修正します)。 尚、このミネ子さんご夫婦の喧嘩は更に発展しては離婚へ・、その後は再婚されて幸せを掴まれたようです。

Posted by 濱野裕生 at 20:26│Comments(0)〇:母の生涯
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