Information
おてもやんTOP

ログイン

アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 7人
プロフィール
濱野裕生
濱野裕生

2021年01月13日

〇・母の生涯:03

〇・母の生涯:03

 我が母、河内ツヤは7人兄弟の末っ子とはいえ、長男の進(ススム)とは14歳、次男の勇(イサム)とは11歳、三女のフサ姉とは7歳、次女のミツ姉とも4歳違いだった為、我が母ツヤは兄達からも姉達からもとても可愛がられて育ったそうです。

 本来、濱野冶八には後継者として鹿町炭鉱を引き継ぐはずの清(キヨシ)という男の子が居たのですが幼くして没し、そのショックからか鹿町炭鉱が最盛期を迎えていたにも関わらず冶八は引退、その経営を娘濱野ライの嫁ぎ先の河内家の長男・進に任せ、島原一帯で豪遊していたと聞き、また晩年は島原時代に知り合った芸者と関東の地で暮らしていたともいうお話しも聞きましたが、その最期を知る者はいないだろうと言われていたそうです。

 この濱野冶八が経営した炭鉱の多くは後々には別な経営者に売却されたり、戦争の激化によって国に差し出すことになるのですが鹿町炭鉱系列の幾つかの炭鉱は河内進、勇氏兄弟によって昭和35年くらいまでは経営されているようです。また、河内進氏は既に師範学校を卒業して数学の教師を務めていた次男の勇氏を経理の責任者として抜擢。文字通り兄弟で祖父・濱野冶八の意志を引継いで経営に勤しんでいたようです。

 遡って、河内進氏が24歳、勇氏が21歳の頃、我が母・河内ツヤが10歳の頃にはその母・河内ライが持病の腎臓が悪化して没します。最愛の息子の清に続いて娘のライまで失くした悲しみから濱野冶八は鹿町炭鉱を河内家に譲り、自身は酒に溺れていったのではないかと私は受け止めています。誰にも責める事はできません。一人の人間の人生ですからね。

 その一方、洗炭という掘り出した石炭にこびりつく泥を落とす作業では周辺を流れる川を尽く汚し、地下を掘り巡らしたトンネルの為に地区のあちこちに陥没事故を起こしたことを詫びる為、学校にはグランドピアノを寄贈したり、昭和16年には佐々にある東光寺の本堂を建替えたり、各地の神社には実に多額の寄金をしていた記録が鹿町町の記念館の蔵書に残されていました。だから、「小さい頃には濱野シャマと呼ばれ、大きくなったら河内シャマと呼ばれたもんだよ」と我が母はよく言ったものです。まァ、濱野冶八という人は豪快でお人好しで思いやりのある人物だったことには間違いがないようですが、生きた時代が混沌として、行方定まらないある意味でヒーローが生まれやすい時期だったんだと思います。
 因みに、佐々の東光寺にはこの濱野冶八の像というものが建立されていて、その傍に寄り添うように当時のご住職の像があり、お寺の正面の階段口右横の家には濱野の門札があり、つい数年前までは濱野千代さんが娘さんと一緒に住まわれていて、私は母を連れて2度ほどお訪ねしたことがあり、「清が住んでいたのはこの部屋だよ」と母に案内されたことを今でも私は記憶しています。

 我が母の事、その兄弟の事、育った頃の世の中の風景etc・・今後も折に触れ、画像を交えて書いてみたいと思っています。

Posted by 濱野裕生 at 16:16│Comments(0)〇:母の生涯
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。