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濱野裕生
濱野裕生

2021年02月19日

〇・2010年5月の頃

〇・2010年5月の頃

☆:2010年5月1日

★:やたらと多い右車線への大きな膨らんでの左折車。

さて、4月27日のコスモスでの買い物からの帰路、私の車の前を行く車が左折の指示器を点灯させ、その直後からセンターラインを越えて右車線に車体半分以上も膨らんだ後に結構な速度で左折するんです。要するに右膨らみという最悪の運転技術です。左折するのにどうして右に膨らむ必要があるんだよ。こうした運転になる理由は幾つかあります。

まず、ギアダウンで減速せずに左折ができるAT車ゆえの右膨らみ走行です。MT車だとギアダウンをしないとノッキングが起きますからスロー走行で左折するしかありませんが、AT車にはノッキングがないからこうした速度を上げての左折をよく見かけます。これがMT車だと信号前のギアダウンで減速するから右寄りに膨らむ必要がない。次の理由は、性格がダラーっとしていてハンドリングにキリっとしたメリハリをつけることができないから・。
更に、右折時にはハンドルを早めに右へ切るものだからセンターの目印の右側を堂々と走行しては反対車線の直進車の妨げをするザマ。ダラーっと運転している者の車はこんな走行をします。

最近はこんな運転をする輩が多いと思いませんか?。基本は、[左折小回り、右折大回り]、だという事を思い出して下さい。全く逆じゃないか。巻き込みの危険がある大型トラック、トレーラーなら兎も角、軽自動車の運転であのような右に膨らんで左折なんて運転はあり得ません。

自動車教習所に勤める後輩によると、「最近はハンドルの握り方がなっていない奴がとても多い。クランク状の90度の横道にスパッとハンドル切って進入できず、必ず右に切ってから左折しようとする」、と言います。

例えば、反対側から右折車があったらどうしますか?。そんなに膨らんで走られたら対抗車線を走る右折車と衝突します。

★:それにシルバー運転手&クルクル変わる制度の乱立と消滅

あのモミジマークですが差別に通じるという理由で義務化が外されました。でも、運転に自信がない高齢者の方は自ら率先して貼り付けるケースがあると言います。賛成ですね。でも、実際の処はこのモミジマークの車の後を走るのは怖いものです。アポロ(ウインカー)を点滅させといてその反対に曲がったり、一車線の直線道路を遊園地のゴーカート並みのノロノロ運転をしたり・・。

前を走るそうした車に乗る高齢者の事を理解してあげようとは思うのですが・。それに、この1年間で清水の北バイパスでは逆走する車を7回も見ましたよ。

子供手当がいろいろと話題になっていますが、意外にもその対象になっている家庭からのウケもいまいち・・。「多分、次回の選挙で負ければ元の木阿弥で廃止になるだろうから・」、みたいな読みがあるんでしょうか?。
それに、ETC装着車の特典もなくなりますが、あれなどは先の読みがない証拠なんですね。ETCやカーナビなんて機能は必要であればそうした時期になれば自動車メーカーの方で必ずや標準装備になるんです。私が、「情報に振り回されてはいけない」、という理由はそこなんです。

★:ここでも政策ミス

この最近のニュースで一般道路の中で一定の条件を満たした区間の速度制限を見直そう、というのがありましたね。例えば制限速度が50km/hだった区間を70km/hにという提言ですが、高齢化の進む社会になった今頃になって何故?・・、と思う方も多いはずですね。政策というのもは、実行する事による功罪だけではなく、時勢の流れを汲む必要があるんじゃないかと思います。

例えば、高速道路から一般道に出た際などはスピード感覚が戻らずに思わずアクセルを踏み込んでいて気がつけば100km/hなんて事は人間として持っている当たり前の感覚機能なんですね。それと、例の△板に表示された一旦停止ですが、交通違反の中で1番多い違反ですって。この違反などは70km/h区間が増えると殆ど視認して停車する事が不可能になるような気がしますよ。

民主党の鳩山さんは誠実な方なんでしょうが国土交通省の彼は直情型で深読みができる能力に欠ける人のような気がします。70km・/h区間から50km/h区間に戻った際には注意したいと思います。

☆2010年5月2日

★:沖縄の普天間基地問題・・。鳩山さん、困ったネ。

マニフェストに掲げたばかりに迷走する鳩山内閣・。沖縄の米軍基地移転なんて自民党でもできません。水俣病認定問題、原爆被爆者の対象エリアを拡大させる問題・・、実に多くの問題を一気に解決しようとした民主党・。

この沖縄問題にしても、[自民党が目を瞑り、目を塞ぎ、口を噤んでいた問題を語れば政権が奪取できる]、と読んでいた民主党・・。見ざる。言わざる、聴かざる・の格言破りは民主党にもできなかったようです。

こうした問題はどこにも持って行きようがないんです。時の流れの中で国内外での世代交代が進み、周辺国家での成長や衰退があって初めてそうした国家間の盛衰の中でセメギ合いや譲り合いがあり・、やがて意識や認識にも変化が生じて定着していくのだろうと思うんです。勿論、新たな政争、紛争もあり得ますが、価値感なんて資力や国力によって大きく変動するものだと思います。つまり、教育ですね。

★:鳩山さん、宇宙観的視点を持たなければ一国を変えるイメージは湧かないよ。

中国の台頭によって一番の危機感を感じているのはプライド高い米国のはず・。その米国の心情を逆撫でするかのような民主党による沖縄基地移転の提案・・。ただでさえ世界中が中国に傾きだした経済依存・・、米国はそれだけでも面白いはずがないのに米軍基地まで沖縄から撤収せよ、グアムに行け。と言われて面白いはずがありません。

政策の多くに寛容さを前面に出したが故、沖縄の住民の方は、「今だ、今がゴネ時だ」、とばかりに立ち上がっているんです。

鳩山さんに言いたい・・、日本人の視点でモノゴトを見てもいけない。米国の視点で見てもいけない。勿論、中国の視点でも・。遠い宇宙の一点に総理大臣の椅子を置いて眼下に回る美しい地球を見て欲しい・。


アンタはさ、地面を這い回る小さなアリを見過ぎてね。頭の上を飛ぶスズメバチに気づいていないかのように見えてしょうがない。折角、座った総理大臣の椅子です。「禁煙だよ、タバコ値上げだよ」、なんていい出さずにさ。ドカッと総理の椅子に深々と座ってさ。吸わないタバコでも吸ってみたらいろんなモノが煙の向こうに何かが見えてくるかも・ですよ。



☆:2010年5月10日

★:「アンタも私と同じ学校だったらいいとに・ネ」、と母が・・。

「一日の多くで母は私の事を息子としてではなく、兄と思っているようです」、とブログにも書き、コンサートの際でも機会ある毎に言ってきましたが、この最近の母の中の私は12歳も歳が離れていた母の実兄のイサム兄さんになっているようです。一日の中で私が母の息子の時は余りありません。

「ねェ、アンタの学校は何時始まりネ。私を学校に届けてからアンタは自分の学校に向かっとるとでしょう?」、と・。
母の失語症なんですが、この言葉のように名詞が[アンタと学校]程度しか出てこない場合には正確に喋る事ができます。[学校]という言葉を母は盛んに使いますが、母の世代にとっては学校というモノが長い人生の中でも忘れる事のない強い印象を与えるものだったんでしょうね。

「あん?、学校・?。あァ、そうね。俺の行く学校の方が遅く始まるとさネ」、と私・。

最初の頃は、「俺は仕事だ。学校、学校と何を言っとるんじゃ」、と呆れた返事をしていたんですが、酷い事を言っていたんだなぁ、と反省しますね。母の表情というモノは普通にまともなんです。これが認知の姿なんですね。それに、私は認知というものの不思議な面も発見しています。

母とは12歳も違う実兄の故・河内イサム氏。私の作品の中にある[♪:母の童歌/♪:兄ちゃま]などに登場する方ですが、多分、認知の始まった頃の母は私の事をてっきりイサム兄さんと思い違いをしていて凄い敬語を使っていたんだなァと思うんです。

「兄ちゃま、散歩に連れていっておくれまっせよ/今日はお疲れになったでしょう?」、といった感じです。でも、最近の母は自分とイサム兄さんの年齢差が実際には12歳もあったという事を忘れ、極々近い親しいお兄さんだと理解しているようなんです。兄ちゃま、兄しゃま・、ではなくアンタという呼び方をするんです。「イサム?、イサム兄さんは生きてりゃ109歳さ」、とはなかなか言えなくなっている最近です。デイ施設通いを、「兄と妹がそれぞれの学校に通っている」、と思う日が多いようです。思い描くだけでも微笑ましいですね。

★:嫁の事を「お母さん」、と呼ぶ瞬間も・・。

この5月の連休を家で過ごす嫁を見ていた母はいろんな母を見せてくれました。母の中にはいろんな嫁が存在しているようです。

「あの女の人/あの女/アンタ(私)のお友達/あの人は誰だろう?」、とそんな処です。でも、洗濯に掃除、庭の草むしりにと動き回る嫁の姿を見ていて、「あのお母さんは忙しいネ。いつもは寝ていてばかりで具合が悪そうだけど」、と母なりに嫁を理解しようとはしているようです。

★:もう、誰が誰の息子、娘だろうが嫁だろうが母には関係がない。

誰もが認知が進んでくると、「この人は自分にとってどのような人間なのか・」、といつも考えているようなんですね。もう、私が「俺は直裕さ/紘子はアンタの長女さ/利彦っていう長男を憶えているか?」、と尋ねても無駄な質問。母にとっては誰といる時が、どこにいる時が心地よいか、だけが問題のようです。

「アンタはいつも私のそばに居てくれる人/紘子はお話相手/利彦っていう子供はよく憶えていない」、という母です。実は、利彦とは母の長男なんですが、母がよく口にするのは長男の利彦の嫁の操さんの方です・・。

母は「よくは憶えてはいないが、私を大切に扱ってくれた人が居る」、という表現で長男の嫁の操さんの事を記憶しています。この操さんという長男の嫁は母にとっては大切な人の一人なんだろうなァと思います。
認知の進んだ老人の記憶に残り続けるという事は素晴らしい事だと思うんです・よ!。操さん、ありがとう。


☆:2010年5月11日

★:週2回、別なデイ施設へ通う事に

現在通っているデイ施設・鶴翔園・、いろいろと不愉快な事が続きましたが、まァ、歩行リハビリに通っているんだ・と割り切り、5月1日からの週2回は[ゆるりの家]という別な施設へ通所する事になりました。我が家と同じ団地内にあって、我が家からは歩いて10分、車では2分程です。

このデイ施設には2004年に通っっていた時期があって、介護スタッフの方々の変動も少なく、母の事を憶えていてくれ、「ツヤさん、あぁ、懐かしいねツヤさん」、と話し掛けをしてくれます。

★:鶴翔園に言いたい・

母をデイに、「連れてくるのが早過ぎる、迎えに来るのも遅すぎる」、とも言われた私。事実とは多いに違う事を指摘され、悩んだ末に選択したのが、「原点に戻ろう・」、でした。つまり、朝だけは私が母を施設へ連れて行くが、自宅への送りは介護制度で決められている通りに鶴翔園側に、「送り届けてくれよ」、という事です。

★:処が、ここで面白い結果が・・。

あれ程に、「早過ぎる、遅すぎる」、と言っていた鶴翔苑なんですが、この施設の車による母の帰宅は平均して15:30~40。小雨のちらつく日などは16:00近くになり、この帰宅時間というのは私自身が鶴翔園へ母を迎えに行って帰宅していたよりもずっと遅いんです。
「一体、どこをどう・、何をどのように改善したかったんですか?・・」、と言いたいくらい。鶴翔園の理屈で言えば3-4扱いであれば14:30には母は我家へ戻らなければいけないはず。私は職場を14:00に離れ、14:30の母の帰りを自宅で待つと・。

「4-6では無理だから3-4にする」、と言い出した割りには自宅への送りは6-8の方々と同じ待遇なんです。この矛盾というのは、「サービスなのか送迎車と運転手の都合なのか?」、と聞きたいくらい。

送迎を担当する介護士の皆さんは、「スミマセーン、今日も遅くなって・」、と。私の方こそ、「申し訳ありません」、と個々の介護士さんには言いたいのが本音です。でも、今回の事は施設に居るOという相談員、その上司のKのデマ発言から生じた事です。

母を送ってきてくれた介護士さんは、「高橋さん、どうして急に帰宅の迎えに来なくなったんですか?」、と聴いてきます。それはそうでしょうね。母を送り届けるようになってからは曜日によっては送迎車両の1台、運転者1名が必要でなったはずですからネ。

★:不思議な事に

月曜~土曜と通っていた鶴翔園というデイ施設・・。ああだこうだ、のスッタモンダがあった後、この5月1日からは火曜、金曜だけは[ゆるりの家]、というデイ施設へ通う事になったんですが、ここで不思議な事に気づいたんです。[ゆるりの家]では4-6扱いなんです・・ね。

鶴翔園では「1日でも4-6扱いにすると介護保険限度を越えてしまう・」、という鶴翔園のO相談員の言い方が事の起こりの発端だったはずが、実は十分に余裕があったんです。

それに、Oという鶴翔園の相談員の発した、「ツヤさんはエリア外から来られている/介護ポイントに余裕がない・」、といった一連の言葉は何が根拠だったのかは分かりません。

ある介護士さんによると、「Oは配置転換になりました」、との説明がありました。今頃、Oは何を思っている事やら。多分、現在でも自分は正しい・と思っているんでしょう。どの職業でもそうですが頑固で学ばず能力のないものは自分自身は立ち止まったままで周囲に追い越されてしまうんです。

こうして火曜、金曜の2回だけは[ゆるりの家]という施設に通う事になった母・。今の処は、「アレッ、ここはどこ?」、と目を白黒させている状況です。ある意味での席替えですからネ・・。でも、

小規模多機能施設ではというキャリアがあって非常に落ち着きのある介護士さんばかりですから応対がよく、母に笑顔が増えて来ているのは嬉しい反応です。鶴翔園では母の笑顔は余りなかったですからネ。


☆:2010年5月11日

以前の旧ブログの397で書いた記事に対して頂いたコメントに返信していた内容につき、幾つかのメールを頂きました。「厳しい意見だが佐世保に住んだ者の持つ意見として面白い内容だからブログ上でも追加の生地を発表してはどうだろう」、というものです。更に泥沼化していくだけと思われる普天間基地の移転問題ですが、載せて見たいと思います。

★:最近と言っても構わないと思うんですが・・、

細川さんが率いた日本新党、それに村山さんが率いた社会党との連立政権時期があったとは言え、事実上は長い自民党の歴史のなかで戦後の日米&日中、日韓、日台etc、つまりは諸外国との対外関係が作られ語られ、引き継がれてきたんですね。

それが突然に民主党政権になって我が日本国民が多いに戸惑い・、果てはいつまで続くんだろう・この民主党政権は、と思っているくらいだから米国が真剣に鳩山さんの話を聞くはずがありません。米国は自民党政権に戻るのをまっているんですからネ。

実は、沖縄問題にしても、「サービス精神・改革心旺盛な鳩山政権が存命している間に沖縄から米軍基地を追い出そう・・」、と単純にムードが盛り上がっているに過ぎないような気がします。沖縄の方々は自民党が嫌いなだけ・・。沖縄の方々が自慢される文化遺産・・、それこそが日本文化と異国(アメリカとは言いませんが)文化との融合した結果ではないだろうか・とも思いますが、何故、オキナワに誇りを持てないのでしょう。

「沖縄の伝統文化はこのようなものじゃない」、と言われそうですが、それは70歳以上の方が言う言葉。戦後60年を要して築いた新しい文化も確実にあるはずであって、60歳未満の沖縄住民が現沖縄を否定してはいけません。私達は常に今を生きてきたんです。

★:でも、私達は良く考えなければいけません。

米国は天皇を崇め勤勉で教育に熱心な我が日本人の住むこの国を他のアジア諸国のようには植民地化しなかったんです。これは特筆すべき事実なんです。ただ、当時の一触即発のアジア情勢を考えて沖縄だけは開放せずに基地を置いたんですね。沖縄の悲劇はそこに始まっているんです。でも、私達日本人はこの沖縄基地のお陰で現在でさえ対中、対韓、対ロ、対北鮮から守られているんです。

★:それでさえ・・。

鹿児島近海には中国、韓国、特に北朝鮮の船は毎日のように出没する事は釣りマニアなら誰でも知っていることです。また、秋田沖にも北朝鮮の船が出没、それに北海道ではロシア国籍の船に飛行機が越境して航行しています。これは意外と知られていない事実ですね。

沖縄に米軍基地があってさえ我が日本という国は常に領海・領空を侵され、その国防への脳天気・無防備さから屈辱を味わい続けているんです。このような危機的・屈辱的な国際環境の一方で更に脳天気な若者達は秋葉原で不特定殺人事件を起こしたり、佐世保ではライフル不特定殺人事件が起き、更に我々はそれらの事件を芸能ニュースでも見るが如くにテレビの前では甘辛煎餅をポリポリかじりながらヘラヘラとぬくぬくと暮しているんです。
過去の我が国内の凶悪事件。例えば、宮崎勤の殺人+人肉を食す事件は報道こそされてはいませんが朝鮮人、サカキバラなんとやらも朝鮮人・・。実は、国内で起きる凶悪事件の多くが我が日本人同胞が起こした事件ではなく、この日本という曖昧な国の曖昧なお人良し政治が戦後処理を曖昧なままにしてきた結果、異邦人が起こした事件のはずです。

★:このニッポンという甘~い国・・、ミカドの存在。

背後からはミサイルが次々と飛んで来て、飛びすぎて太平洋にさえ落ちるという事態さえ経験したはずなのに、「会議だ、会議だ・、一体誰の責任だ?」、とでも言うだけの国民性のような気がします。我家のそばの陸上自衛隊はドンドンパチパチ・・と鉄砲でミサイルを打ち落とす気でいるかのような。今時、そんなドンパチでの戦争があるはずがない。核兵器だけが脅威ではなく、目には見えない派手さもない細菌兵器の時代が来ます。海に囲まれた我が国は細菌兵器で攻められたら次々と感染しては、諸外国が気付かぬうちに日本列島が破滅です。

あの悲惨な戦争でさえ・・、平和な世になったからこそ「戦争責任・・」、と語れるんです。あの時、連合国軍によって植民地化され、国家が分断され、沖縄&九州は英国領、四国&本州は米国領、北海道はソ連領・・とでもなっていても決して不思議ではなかったんです。そんな事を思えば、米国人の日本民族に対する先見の明、良心を疑うべきではないような気がします。天皇が示す毅然とした態度。当時の米国は「ミカドが日本に存在する限り、大丈夫」、と判断し、植民地化をしなかったはずです。

★:結局、米国人というのは純粋なインディアン以外は[彷徨い人]なんです。

米国人の多くが国を追われた流浪の民達が作った国ですね。だから、国外に友人を求めたがるんです。つまり、同盟国です。そう考えれば、あの戦争後、米国は我が日本を植民地化してひれ伏させることよりも友人として扱おう、と思った筈です。

★:犠牲・・、

沖縄の皆さん。どこにだって犠牲者は住んでいます。私は長崎生まれです。原爆で死んだ人の縮れた皮膚の匂いさえ知っています。戦後、何年を経ようがあの頃の臭いがします。ただ、私がどれだけ佐世保育ちだと言っても、沖縄と佐世保の基地としての位置づけを言われれば私はシュンと黙るしかありません。残念ながら私は朝鮮戦争の頃は知りません。しかし、当時、ベトナムで傷ついた艦船修理部があった佐世保で私が見た光景は凄まじいものでした。

自動小銃で打ち抜かれて額や膝に穴が開いても生き、金属を左右の足に入れても歩こうとする米兵。気が狂ったようにマリファナを吸い込んではブルブルと震えながらベトナムのジャングルでの恐怖を語る兵隊・。私達の日本の平和はそうした彼らの犠牲の上に成り立っているんです。私達は日米安保条約だけを語るべきではなく、
日米友好条約ももっと話題にすべきです。

彼等・米兵は既に朝鮮戦争もベトナム戦争すら知りません。戦争を知らない若者達が我が日本周辺の日々の安全を守ってくれているんです。勿論、我が日本の陸海空の自衛隊も・。彼等の全てが既に戦争経験者ではないんです。
何の理由があろうとも、どうのような主義思想を持っていようが、私達は彼等の存在を否定する前に我が父、我が母の命を慈しむのと同じように、彼等に対しては手を合わせ、頭を垂れて感謝の意を現すべきだと私は常日頃から思っています。
「子供のままで大人になってしまった・・」、と私は米軍基地で過ごした数年間を[♪:;佐世保めもりぃ]、「佐世保My-LOVE」、で唄っています。是非、聴いて欲しいと思います。

★:本当に沖縄で暮らす辛さを知っているなら、

「その辛さを国内(本土)にまで持ち込ませなくてもいいだろう・よ」、という考えもあるはずですね。「辛い思いをするのは俺達だけで十分だ」、という考えの事。戦後60年、本土政府は沖縄返還以外は何もしてくれなかった。俺達は必死に訴えたが無駄だった、という事だけは事実として国にも沖縄側にもあるんじゃないかと思います。

★:言葉を間違ってはいけない

終戦時、敗戦国の我が日本は米国には何の要求もできませんでした。そんな中、連合国軍は沖縄の地を押さえ、それ以外は領有地としない待遇をしてくれました。そして沖縄住民と本土国民による領土返還要求運動の結果、ようやく沖縄は返還されました。

返還してくれたのは連合国軍を代表する米国。しかし、沖縄を返還しても基地を撤退する事とは全くの別問題なはず。敗戦国の私達はその事を重く感じ続けるべきなんです。私達は甘えてはいけません。第一、私達は大きな勘違いをしています。それは、普段は自由に売り買いしている土地。正確に言えば我が国の国土の全ては国のもの、基本的には国の財産なんですって・。だから、自分で買ったはずの土地なのに課税されているんです。土地代なんです。

話が前後しますが、私達は戦争の重大さをしっかりと掴み、その愚かさに涙を堪え続ける必要があるんです。決して、自分の尺度だけで判断できる事ではありません。私達は重大な戦争での敗戦国なんです。その意味で言えば、「返す/返さない/基地を撤退する/移転してもいい・」、の判断はあくまでも米国側が決める事ではありませんか?。
大事な事ですが、私達にとって戦争は他人事であっても、米国や欧州人にとっては戦争やテロは今日、この一瞬であろうが世界の各地で現実に起きている事を肝に命じ、今日という日の幸せを満喫しなければいけません。

★:戦後60年では解決しない

・・、と時に思うことはありませんか?。60年では足りない処か最近のアジア情勢を見回してご覧なさい。国際緊張感は却って増大している事を感じませんか?。明日のニッポンにだって非常事態は必ずや起きます。

★:その一方で・・、

敢えて沖縄が好きで移り住む若者もいるんですね。沖縄の方々には我が祖国を卑下して欲しくありません。本当に勇気があれば、今をどうにか変えたいのであれば・・、あなた自身が本土へ来てもいいんです。そこで新たな暮らしを見出す為の保障を要求する事の方が手っ取り早い気がしますね。

★:同一の国民同士が互いを非難し合う事を避け、一緒に解決策を考えましょう。

国も沖縄の方々も取材カメラに恥ずかしい言葉や姿を記録されないようにしないと、この後50年が更に辛いと思います。集団で動く前に個々人が覚悟を決めて自分の意見を持つべきと思います。一緒にやれる事があるはずです。この基地問題では悪人はどこにも居ない・・、私はそう思います。



☆:2010年5月12日

★:普段の母を見ていて。確実に落ちていく能力

デイからの帰宅後、居間で洗濯物を畳む母・。その母の1..5m程の後ろの台所カウンターで私はパソコンを触っています。

「はい、母ちゃん。イチゴは食べて。洗濯物畳みはTVでも見ながらゆっくりでいいけんね」、と言いながら冷蔵庫にあったイチゴを3個ほど小皿に乗せて出すと、母は洗濯物畳みをやめてイチゴを食べる事に集中します。そして、再び洗濯物畳み・。

2008年暮れの右手首骨折の影響で今の母からはモノを掴む能力が更に減り、右手の親指に他の4本がくっつく事ができない状態なので重さも含めて直径で2cm(1円玉のサイズ)程度のイチゴを掴むのが精一杯でしょうか・。だから、母には意図的に大きめのイチゴを出すようにしています。

何故、イチゴ3個なんだ?。と思われると思います。でも、例えば6個出すと次のような会話が始まって私の方がパソコンどころではなくなるんです。

「これっ、多いよ。アンタの分はあると?」、「いや、俺は要らん」。
「これ・半分はアンタがお食べ・・これ、何ちゅうかね。エート、・・ありゃ、こりゃ何だったかね。
あ~ァ、長生きはするもんじゃないネ。私しゃ、これが何かが分からん」。

「最初に俺がイチゴって言うたろうが」、と言うと、「あァ、それそれ。その・・・ありゃ、アンタは今何ちゅうたかネ」、と・。もう、延々と続くんです。皆さんのご家庭ではどうなんでしょうか?。私の母はモノの名前がことごとく分からなくなっています。これが失語症です。

★:「アンタは今日は何処にも行かずに家におったとね?」

立った今しがた、母と一緒に[ゆるりの家]というデイ施設から戻ったばかりなのに、玄関で室内用車椅子に母を座らせて居間へ運び、座卓前の座椅子に移動させた私がテレビをつけて母の関心をひかせ、次に帰宅後の顔や手を拭いてやろうと思って洗面所でお湯タオルを作って居間に戻った途端・、この言葉です。これは殆ど毎日の事ですね。「アンタは今日は何処にも行かずに家におったとね?」、と。

私だろうが、嫁だろうが、地区ケアマネさんだろうが、一瞬でも母の目の前から姿を消して再び母の前に姿を現した際には・、こんな感じの母です。「うわわァ、びっくりしたよゥ」、「アンタはいつ・来たと?」、と。


☆:2010年5月13日

★:佐賀の馬場さんの存在&[♪:幼き頃、天満宮にて]という作品。

 この馬場さんは私の6枚=48作品が収録されたCD集を買って頂いた関係なんですが純粋に私の書く詩の傾向を評価してくれました。私自身が、「もう、書くのを止めよう」、と思っている一方で純粋に、「これはいい/貴方は素晴らしい存在です」、と言ってくれるんです。
この[♪:幼き頃、天満宮にて]という作品は嫁の「発想を変えなさい」、という言葉と馬場さんが使われる懐かしい佐賀弁によって目覚め始めた(片目だけですが) 私が呼吸不全気味に作った作品です。唄・・下手ですよね。声も全く前には出ていません。

でも、録音をしていて、「これは今に生きる者(私)への昭和の匂いを持った一種の童謡かもなァ、と思いました。今後の作品作りの事はこれまでのような早いペースでは作れないと思っています。今度の[♪:幼き頃・天満宮にて]という作品・、まだ、荒録音で今後も修正を加えていきますが、兎も角は聴いて欲しいと思います。


★:筋肉増強のステロイド剤の使用で高音域が出なくなる。

母が要介護5に認定された2009年末。より具体的には2008年4月の[♪:宇留毛神社の春]を作る頃から感じていたスランプ感・・。母が弱っていくに従って介護する私の腕力を強くする必要を感じた為、ステロイド剤を使ってまで体力増強を図らなければならなくなった私には59Kgから72Kgという大きな変化が訪れては軽トラックの荷台を浮かせるほどの腕力がついてきた喜びとは裏腹に声にも大きな変化が起きるようになっていました。普通でも低い方なのに更に低い声になり、高い声が確実に出なくなっていくのです
それは当然のことでした。私が使った筋肉増強剤というモノは男性ホルモン剤で大人の私を再び第二次性徴(成長)期に戻すかのような作用があって、声までをも変えてしまうモノだったんです。


★:母に尿意異常が・。

また、この頃から母が尿意を感じなくなっていて、夜間のトイレの世話が凄く大変なものになっていました。つまり、母の動きを感知したセンサーが鳴るか、隣室の私が母の動きを察知して部屋へ駆けつけた際には既に大量失禁の後・・。着衣もベッドの防水シートとその上に敷いたバスタオルもグッショリとオシッコ。勿論、排便の時だってあります。それらを全て交換し、お風呂場で手洗いして洗濯機に放り込み終わるまでに20分は要します。

母の寝息を確認した後、そのまま私も眠れればいいんですが、簡単にコトン・とは眠れません。こうした事が朝まで続くんです。こうした生活を数ヶ月間もやっていると再び私の身体が痩せ始めるんです。
やがて、眠れぬ私は酒を浴びるように飲むようになっていったんです。1ヶ月間に15~18リットルという酒の量でした。このお酒の為に低くなった声が更に荒れてくるのでした。この当時作ったのが[♪:兄ちゃま]という作品・。

2009年9月。武雄市民病院でコンサートを企画して頂いた際、2週間前から練習を重ねたのですが自分で作っている作品が唄えなくなくなっていました。声が低くなり過ぎてキーが合わないんです。そうした私の事情を知らず、純粋に私の作品に惹かれてコンサートを企画して頂いた方々には申し訳のなさで一杯・・。私はどうにか唄える作品だけで構成された作品群を唄ってはその場をしのぐ事ができましたが、・私の中では情けなさで一杯でした。
「もう・・、人前で唄うのはやめよう」、と思いましたが、その後もコンサートの打診は拡がる一方で東京のライブハウスのメッカである吉祥寺周辺の会場からは出演の打診が相次ぐようになるんです。
「母の介護優先ですから・・」、という言葉を出演お断りの方便として遣っている私ですが本心は別・。内心では自己破壊を起こすほどにいろんな事に悩んでいるんです。

「もう、作品作りはこれで終わりだ」、という思いで作った[♪:綿雪]という作品・・。でも、冬が終わり、春が訪れ、全てが生き生きと目覚め始めたある日、嫁が私に言ったんです。
「お母さんの介護だけに拘らず、もっと発想を変え、視点を移して書いてみたらどうなの?」、と。それに、姉を通して知り合った馬場という方の存在。

♪:幼き頃・天満宮にて/2010.5

風が吹いてきた   夕暮れの大久保んにき     
神社に向かいましょ いつもの天満宮
今日も居るかしら   天狗は居るかしら
風が吹いてきた   夕暮れの大久保んにき

もうすぐ暗くなる  母が私に言う          
天狗にさらわれる  もう一度母が言う
ボクは構わない   天狗と暮しても
もうすぐ雨が降る  母が私に言う 

もう、出掛けます・母に言う  ボクは約束破らない
やがて・やって来る 夕暮れの  闇と一緒に天狗さん
あァ、泣かないで・幼子よ  お前は本当は陽気な子 

楽になるかしら 親の手減るかしら
天狗も言ってたよ  お前は余計者  
だって僕は十歳   父ちゃまはや六十路
楽になるかしら 親の手減るかしら

お前の父ちゃまは  頑固で苦労者 
お酒も飲めなくて  心も晒せない
子供心など     分かる人じゃない
天狗が言っていた  山で暮そうと・・

ボクは眠ります・雨の中  狛犬の背中・跨って 
そして・待ちました・雨の中   絵馬から抜け出る天狗さん  
あァ・泣きました・雨の中  ボクは本当は強くない  

もう・泣くんじゃない・幼子よ  天狗が私を抱き上げる  
   そして・触りなさい・勾玉に  お前に命を与えよう   
   もう・帰りなさい・母の元 私も絵馬へ戻るから

風が吹いてきた   夕暮れの大久保んにき      
神社に向かいましょ いつもの天満宮
今日も居るかしら  天狗は居るかしら
風が吹いてきた   夕暮れの大久保んにき


★:久し振りに嫁の母の事を・。

私の母は要介護度5です。心臓に肥大があるんですが、消化器官係は比較的にしっかりしていて97歳で48~51㎏を推移する体重。この2010年になっての母は随分と食が細くなった感はありますが、元気でいられる秘訣というのはやはり食べる事ですね・・、つくづく感じます。

思えば、嫁のお母さんは13年近くの間ベッドの上で過ごしたんですが、辛かった事と思います。切っ掛けは自宅近くの神社で転倒して右股関節を痛めた事なんですが認知自体は既に始まっていて、この骨折前には60歳の手習いで始めた油絵が相当に上手くなっていていろんな共同展に出品しては賞を貰ったりするのが励みになってもいたようですが、いつの頃からか絵を描きに自宅を出たまま帰り道が分からずに警察から電話を貰ったりしていたようです。

嫁の母は2006年1月20日に94歳で逝ったんです。雪の降る夜でした。思えば、デイに通う事もなく、最初は骨折後のリハビリ入所。そして、その入所中に持病の腎臓が悪化した為に別な病院へ入院・・。結局、そのままで逝ってしまったんですが、ダルマさんみたいに太っていた方でしたが私が見舞った際には正視できないくらいに痩せ細っておられたのを記憶しています。

嚥下障害が出たのも病院という閉鎖された所での会話のなさからだと思うし、会話がないというのは言葉を発する能力さえ失わせるんですよね・。多分、嫁が一方的に喋ってはお母さんは「うん、うん、そうね」、程度ではなかったかと思います。

私にも憶えがありますが、モノを食べられずに過ごしていると喋るのにとても疲れるんです。疲れるから喋らないでいるとその事にすっかり慣れてしまって全てに意欲がなくなってくるんです。変な話ですが、周囲に「オシッコ」、と伝える気力もなくなるし、今度はオシッコ自体が面倒臭くなってくるんです。

嫁のお母さんの場合、胃に穴を開けてチューブで栄養を流し込もうという提案を拒否していた為、見る間に痩せていったのではないでしょうか・。最後は小さな身体になっていましたよ。

私の入院経験を言えば、ベッドの上では自分の拳をよく見ていました。それに、足の膝の関節の部分です。点滴を受けるとは言っても3ヶ月間も食事をせずにいると大きかった拳が指3本分くらいの幅になるんです。それに膝の関節なんて筋肉が消えてしまって骨と皿が皮に包まれているだけ・・。

でも、明日というものを掴める頃の私の体験と[老いゆく者の当り前の姿]を比較してもいけませんからね。ただ、その頃の私は生きたい、生きていたい・、と願っていました。だから、見てろ!この拳も元の大きさに、骨と皮だらけの足だって元に戻して相撲大会ではまた優勝してやる、という負けん気だけは持っていました。

嫁のお母さん、どんな思いで病室の天井をみておられたんだろう・な、と思うんです。でも、この嫁のお母さんですが、70歳直前には一人で欧州を旅行していて、到底、私にはできないことです。

現在はAM1:20。私の母・は自室で心地良いのか悪いのか今夜も軽い寝息をたてています。そろそろ、オシッコタイムかも・デス。食事って本当に大切ですね。


☆:2010年5月14日

★:氷川きよし

母が熊本へやって来て一緒に住む事になって8年目も2ヶ月が過ぎようとしています。やって来た当時は要介護2ですからまだまだ・。ただ、股関節骨折があって歩行に危険がある程度でしたから百人一首一つをとっても得意な嫁といい勝負をしていました。でも、認知が出ている時の激しさは現在と殆ど同じ・。出ている時間が現在よりも少ない程度だったでしょうか。

話が変わる訳ではありませんが、あの氷川きよしという人は芸能人にありがちな横柄さが殆ど感じられないくらいにいつも必死ですよね。今朝もNHKのASAICHIという番組に出ていましたが、母曰く、「この人の名は忘れたが、いつだったかアンタ(私の事)が病気して入院した時にネ。その帰りにお腹が減って食堂に入ったとさネ。そしたら、その食堂のTVでこの青年が歌っとってネ。『あァ、声が良くて感じのいい人だなァ』・って思ったよ」、と言うんです。

この母の話の中で実際に母が見舞った相手は私ではなく、母の実兄の河内勇さん。そして見舞った場所は病院ではなく深江にある介護施設なんですが、要介護度5で認知も進み97歳にもなった母が87~8歳の頃に氷川きよしを佐々という所の食堂のテレビで見た事を憶えているんです。母には認知があるとはいえ、時にはこのような凄い記憶力を示す時があります。


★:ずっと忘れていた

実は、この3年間くらいは、「母ちゃん、ホラ、あの氷川きよしが出とるよ」、「母ちゃんは氷川きよしがすきだったでしょっ」、とTV画面を見るように促しても殆ど母からの反応がありませんでした。

「母ちゃん、何かさ・思い出すことはないね」、と誘っても一向に思い出さなかったんですが、2010年5月14日の今朝、またもや、「あのさ、この人はネ・」、と母が見事に思い出しては私に言ったんです。

「この人の名は忘れたけど、いつだったかアンタ(私の事)が病気して入院した時にネ。その帰りにお腹が減って食堂に入ったとさネ。そしたら、その食堂のTVでこの青年が歌っとってネ。『あァ、声が良くて感じのいい人だなァ』・って思ったよ」、と

母ちゃん、入院していたのは母ちゃんの兄さんのイサムさんだろう?。・俺は直裕っ」!。
俺をいつも病人にせんでくれよ」、と私。

「ありゃ、そうね。アンタは私の兄さんじゃないと?・」、と。母はいつものように首を傾げていました。♪:ズン、ズンズン。ズンドコっ・・。


☆:2010年5月16日

★:「ここの人、呼ばずにいいと?」、と母が。

5月16日の夕食時、今日は勤めのない嫁も一緒の夕食でした。が・、一つのテーブルを3人で
囲んで、「さァ、食べようか」、という際になって、「先にいいと?/ここの人、呼ばずにいいと?」、と母が言い出すんです。

「ここの人って誰さ。この3人以外に誰がいるのね?」、と私が言えば、「ん?・・ん?、あっ、否、いい・」、と母が戸惑っています。いつもだと、これだけでは済まないんです。

「また、アンタは変な事を言う。いるじゃないネ。2階に住んでいる人がさ」、と・・。

★:母が言う、その2階の住民とは・・。

これがクルクルと変化するんです。以前は嫁の事を指すことが多かったんですが、最近は長崎に暮らす長女の紘子だったり、平戸に住んでいた故・ミツコ姉さんだったり、川浪さんだったり、フミ子ちゃんだったり・。時には、進兄さんが2階に住んでいて、1階に住む母自身は進兄さんの妹で私は弟のイサムさんだったりするんです。

★:余りにも私が身近になっていて・・、

母が学校(デイ)へ通っているように、私も別な学校へ通っていると思っている瞬間が非常に多くなった気がします。「アンタは何時にひける(下校する)と?」、と言うんです。

★:つまり・・、

この家では母と私は養われている子供であって、「主人様が別にいる」、と思っている日が明らかにあって、時に嫁のことを、「お母さん」、と表現するのはその為なんです。

★:その嫁を・、

「あのヒトは働き者よネー。よく頑張るヒトよネ」、という日があるかと思えば、「ねぇ、あの女が嫌な顔しているからさ・もう、帰ろうよ。いつまでもお邪魔はできんから・」、とまるでさっき熊本へ来たかのような表情で言うんです。そして、私も母と一緒にどこかへ帰らなくちゃいけないようなんです。多分、母は私が母方の河内家か濱野家の者だと思っているんではないでしょうか。

★:「直さん、これ売れるよ」、と・嫁。

そんなこんなの我が家なんですが、母の認知が出ている最中というのにこれまた天然の嫁が、ナオさん、これ売れるよ」、と私の作った和風中華の[酢豚風煮込み料理を評したんです。この嫁の場外れの天然発言で母の錯誤発言もチョンでした。

★:和風中華の酢豚風煮込み]

①:母の都合があって、ほぼ同じ硬さになるようにニンジン、玉ネギ、キュウリ、ピーマン、竹の子・・、等々を予め湯がいておきます。茹で汁は後で使います。
②:剥きエビをそれぞれ半分にスライスし、半量に片栗粉をまぶし、残りの半量はそのままでサッと油に通します。
③:①をサラダオイルをひいた中華鍋に入れて塩胡椒を、更に②で作っていたエビを加えて炒めたら皿にセンター寄せで盛り付けます。
④:溶き卵の中に庭に植えているセロリやパセリを散らし、多目のサラダオイルの中に放り込むと綺麗なフワフワ卵ができますよね。
⑤:フワフワ卵を短冊切りにして盛り付けた野菜、エビの上でも下でも散らします。
⑥:味噌を①の茹で汁で溶いたものに適量の酢とカラシを加え、更に水で溶いた片栗粉を加えて火を通してトロ味のアンを作ります。この熱々のアンを上からかけて出来上がり。

※実は:酢入りのアンを使わずに、中華鍋で野菜+エビを炒める段階でカラシマヨネーズで和えておくとこれまた美味いんです。(しぜんサン、読んでくれるかなァ・)。

今日も大変な日でした。何とかして毎日を楽しませるようにするって疲れます・・。



☆:2010年5月17日

★:何故だか嫁には攻撃的な言葉遣いの母・。

母の朝の目覚めは平均して4:40~5:20の間。これは、前日の就寝時刻にもよりますが、就床時は21:30くらいなんですが、時にテンションが高くて22:30を過ぎても、「寝ない!」、という日があって困る事があります。

「明日が辛いですよ」、と嫁が言うんですが、言えば言うほど、「私は病人じゃないよ」、とムキになってしまいます。その上に天然嫁がマトモに受けて立つから困るんです。「オイ、お前は俺と同じ言葉遣いはするな」、と嫁には言うんですが修正できません。

★:同じ言葉でも!

例え、母を説き諭す言葉だったとしても私が使う言葉には素直に従ってくれても、嫁が同じ言葉を使うと母は激怒する事が多いんです。これって女としての当たり前の深層心理なんですが、・この心理が嫁には分からないようです。

要介護というのは生活困難度、介助必要度・みたいなものであって、認知度ではありませんからね。要介護度が5の母とは言え、瞬間的には認知が出てないんじゃないか・と思う瞬間さえあります。それはそう。母の要介護度が5と高い理由は「左股関節に骨折があって、動作介助の必要性が高いから」が理由なんです。この要介護度を認知度の高低と勘違いする介護士さんが居ますが、介護度数と認知の程度は基本的には別物であって、介護度数は生活動作介助の度数と理解してください。

だから、よ~く観察してると次のような事があるんです。「フン、あの人は気の利いたような言い方をして!」、と洗濯物を干しに庭へ出る嫁の背中に向ってキツイ言葉を呟いたかと思うと、1分後に嫁が玄関から戻ってきた途端、「ゲ~コさ~ん、お天気はどうですか?」、と平気で言うんです。

「母ちゃん、その言い方は何だよ。ついさっきは非難したくせに」、と私が言えば、「なに?・・、私が何かゲ~コさんの事を悪く言ったって?」、と・・こんな感じなんですね。 ワガハハモ・ソウトウナ・クセモノ・ジャナ・。

母が私の家に来た頃にはよく言っていた言葉があるんです。「あ~あ、あ~あ。言った事は忘れ、聞いた事も忘れ・よ。歳は取りたくないネ~」、と。だから、嫁には母の一言一言に反応をして欲しくないんです。言い合いをしても何の意味もないんだし、母は瞬間瞬間の気持ちを言葉に出せても、次の瞬間には忘れているんです。これが、認知なんだろうと思います。家族では言い合いはやめて、いい愛を心掛けたいね・。


★:最近の母は本当に今が、自分が分からないみたい・・。

「さァ、明日は月曜ですよ。また、一週間の学校(デイ)が始まりますよ。こんなに夜遅くまで起きていたら明日が辛いですよ」、と嫁は母が早く寝る必要性を説くんですが、母は、「???」。

「えーと、今日が土曜日だから明日は日曜日のはずよ/それに、学校って何の事ネ」、ってな感じなんです。
今の事が分からないのに明日の事が母に分かるはずがないんです。それに、母は土曜日と日曜日しか曜日が分かりません。毎日が土曜日で常に明日が日曜日なんです・・。・羨ましい。


★:母と私は同世代。

母は一日の多くの時間で自分が私や嫁と同世代だと思っている事が多いんです。だから、アンタ達にできる事が私にもできないはずがない。私が母が汚した下着やズボンを交換するために屈み込んで世話をしている際など、「アンタは髪の毛が黒々としていていねェ・・・。歳はあまり変わらんはずなのにどうしてこうも違うの?」、と・・。

多分、この瞬間の母自身は私とほぼ同世代。何故なら、毎日一緒に学校に行っていて、母自身は女学校に、私は男学校にでも通っていると思っているはずです。だから、この家の世帯主は別に居ると思っているようです。


★:世帯主は別に居る・。

母は、自分と私が兄弟で嫁は私のSF(欲しい・)程度にしか理解していない瞬間が多いから、「ここのお父ちゃまはまだ帰って来ないの?」、という言葉を使うみたいなんです。つまり、我家には母、私、嫁以外に食べさせてくれている人(お父ちゃま=ご主人様)が居るはずだと思っているんでしょうね。

ここまでを理解してあげれば・、母は全く異常ではなく、逆に私や嫁が認知症なのかも知れません。


★:そんな日々でありながら、認知の出の少ない日にはジョークを比較的に理解する母。

起床後に限らず、今の母は服の脱着が全くできません。パンツを穿く事も脱ぐ事もできません。特に右手首の骨折後は右手はぐー握りのままで開く事もできませんから蛇口から流れ出る水を両手ですくって顔を洗う事もできません。でも、私は強い口調で言って洗う努力だけはして貰います。

「はい、お口をウガイして」、と私。
「はいはい、お口をウガイネ」、と母。

「はい、顔を洗って/洗ったら拭いて」、と私。
「はいはい、洗って・拭いて・ネ」、と母。

「はい、次は入歯を入れて」、と私。
「はい、入歯ですネ」、と母。

「はい、最後は心を入れ替えて」、と私。
「はい、アンタこそ入れ替えて、ホホ」、と母。

「それに今の暮らしから足を洗って」、とめげずに私。
「まずはアンタが心を入れ替えてからのことネ」、と母。

私は、「・・・・・・・・」。

この会話が成立するのに、どうして他の多くの会話が成立しないんだろうと思います。不思議なことです。

この母の愉快な性格は認知があるとは言え、今でもかなり残っていて、こうした面白い会話をしてきたのは我が家では母と私だけなんです。こんなジョークの言い合いは父や姉ん、兄とは絶対にあり得ません。私が幼い頃から築いてきた母との面白い会話の積み重ねがあるからなんだろうと思っています。

嫁にはこの事を理解して欲しいですね。「私と同じ思いをもって母に接してくれていたとしても、嫁が私と同じ言葉遣いをしていけない」、理由です。嫁が母の心を読めばジョークに繋がっていくんだと思います。

何事にも背景というモノがあって、同じ色の文字でも背景色次第では読めたり読めなかったり・・ってあるのと同じ事なんですが。敢えて言えば、「親子であってもエニシの違い」、で通じない言葉ってあるような気がします。


★:母の中に潜む心の構え。

誰の心にも存在するカマエ・・。長男や長女というだけで母親の中で勝手に作られてしまったカマエ・というものがありますね。長男の前では・、「長男と電話で話す時にはシャキッとしていなくちゃ・・」、という思いが母の中にあるとすれば、それが母のカマエなんですね。つまり、心の壁です。母は似たようなカマエを嫁に対しても持っているはずなんです。だから、なかなか会話が続かない。

★:電話では分からない

認知症がある方には独特の間(マ)があります。だから、話し掛けをする際にも必ずお年寄りの表情や動作を見て、「あっ、今の俺の言葉は理解していない/理解してくれた」、ということを確認しながら話を繋いでいく必要があります。だから、認知症の方と接し、お話をするのは電話では絶対に心は通じません。



☆2010年5月18日

★:激しくなった母の[イサム兄さん、ミツコ姉さん]探し・・。

「ネ、たまにはミツコさんに電話でもしようかネ・」、と母。それに、「イサムさんの帰りがえらく遅いネ」、とも。また、これまでは殆ど口にしなかった亡きご亭主(利三郎)の事も・。

因みに、私は父親(利三郎)の事を、「お父ちゃま」、と呼び、母(ツヤ)の事を、「母ちゃん」、と呼んで育ちましたが、これって変でしょう?。父と母の出(で)の違いがこういう呼び方になったんですね。

父は柳川の農家の出。母はインターネットで検索しても分かる通りに我が国の炭鉱業の草分けの一人である濱野治八の流れを継ぐ家系の出身。これが、「お父ちゃま&母ちゃん」、と互いに呼び合うようになった理由のようです。

多分、あの戦艦大和を始め、世界に冠たる軍艦を作る際にも鉄鉱石を溶かす為の石炭の一部に鹿町炭鉱や平田山炭鉱から掘り出された石炭が使われたはずだと思うと母の気位の高さが何となく分かるような気がします。勿論、現在の母がそんな事を言うはずはありません。

一旦、母がタイムマシンに乗って10~24歳の頃の母の時代に戻れば、「イサムさん/おじチャン/兄しゃま。ミツコさん/姉しゃま/お父ちゃま」、と一日のうちに何度言う事か・。15分置きに繰返す事も珍しくはありません。


★:母にはこんな変化も

夜間のトイレ介助を終え、母をベッドに横にする際には上げていた電動ベッドの床を元の位置に下げる作業があります。下げていれば母はなかなか立てず、万が一、お尻から滑り落ちても床面からの距離は20cm程度。対して普通のベッドだと床から40~50Cmの高さがあって危険です。だから、母の転倒防止の目的でにこの電動タイプのベッドに変えて2年。

先日、この夜間トイレの介助の際に私は母の認知進行の新たな確認をしました。トイレ介助を終えて母をさせ、ベッド高も元の低床位置に戻した私は隣の自分の部屋に戻る際に床に母の滑り止め付き靴下の片方が落ちていたので拾ったんですが、私がその靴下を拾って立ち上がった瞬間、「ワワーっ、ワァー」、と母が奇声を上げて驚いたんです。

「あんたは誰?、誰誰々~っ」、と。もう、・私も一緒に飛び上がりそうな母の驚きようでしたが、ついさっきまで私が母のトイレ介助をしていた事をすっかり忘れている母が発した驚きの声でした。


★:電話

こんな調子ですから電話がなったらその全てが母自身に掛かってきたものだと思うんでしょうね。「誰っ?。おじチャン?。ミツコさん?。・・どうして私に替わってくれんとネ?。私は出れたのに・」、と。今の母は住む世界が非常に狭くなっていて、日常の多くが「自分に関わる事のはず」、と思ってしまうんだと思います。

★:来客

宅配の方が来られても、「そんな所で話さずに上がって貰いなさいヨ。お茶でも出してサ」、と。で、荷物を受け取って母の前を通り過ぎると、「何、何が送ってきたのネ。ミツコさんからだろう?」、と・・。

★:こんな事もありました

「いや、違うよ。これは俺がインターネットでとったモノを送ってきてもらったのさ」、と言えば、「アンタはネ、人を使ってそんなことまでしている人間だったのかい!」、「あ~あ、私は情けないよ」、と急に怒り出すんです。

私の言った「インターネット」という言葉が「言いたかねえけど」、とその次の言葉の「とったモノを送ってきてもらったのさ」、が母には「言いたかねえけど取って(盗んできて)もらったのさ」、と。



☆2010年5月19日

先月でしたか、長崎の姉、そして佐世保に住む兄嫁の操さんが蕗(フキ)を送ってくれました。毎年の事ではあるんですが、兄嫁が送ってくれたのは我が無人の実家の庭に自生するもので例年だと直径が1円玉程度もあるような大きな蕗なんですが、今年は痩せ気味でしたね。

やはり、「大きくなるんだよ/煮て、炒めて、佃煮で食ってやるからな」、とそばに住んで念というモノを送り続けないと植物は大きくなってくれないようです。

★:今年の蕗はヤセップキ

昨年などは茎の部分を束ねると30cmもあろうかというほどの量の2束を何と2日で食ってしまいましたからね。我家は母も嫁も私も蕗が大好きなんです。

軽く湯がいて皮を剥き、8cm程度に切って圧力鍋で数分・。母の歯茎に負担が掛からない程度の柔らかさの蕗を水気をとらずにサラダ油をひいた強火の中華鍋に放り込み、別途に醤油、ミリン、砂糖、日本酒などで作っておいた甘辛いタレを少しずつ加えて掻き混ぜ、火を止めて放置しておくと見事に味が染み込んでくれます(グツグツと煮込んではフニャーと溶けたようになってしまいます)。

★:さて、今度は蕗の葉で佃煮作り

切り落としていた葉の部分に多少の茎の部分も混ぜ、ザクザクと4~5cm程度に切った葉を多少の苦味を取るために湯がいては湯を棄てます。これを中華鍋で極々弱火で空炒りしていくんです。加える水はありません。

弱火にしてフタをして30分も放っておくと葉っぱがグターッとなって結構な量の水分が出始めます。その水分に見合う程度の醤油を少しずつ加え、加え、加えと辛抱強く上下左右と掻き混ぜていくんですが、結構、根性が必要です。最後に味を見て、輪切りの唐辛子を加えて熱を冷まします。苦味があって食欲のない朝などには最高です。

我家ではノリの佃煮の空き瓶に詰めて保存していて、重宝しています。・・、と言っても食べるのは私だけですが今もこのブログ書きながらお茶を片手に蕗の佃煮を食っています・。

★:母が全く食べない

この蕗の葉の佃煮は母が佐世保の実家で86歳の時に私の目の前で作ってくれた事を憶えていて私も作るようになったんですが、これを作っても現在の母は全く食べません。「アンタ・・、こんな苦いものをよう・食べるネ」、というくらいに関心がありません。姉も言っていますが、歳を取るに従って味覚が変わるようですね。

★:実を言えば・・。

この蕗料理・・。私が山篭りをしていた頃には主食のように食べていたんです。美味くはないんですが秋でも冬でも自生しているんです。ヘルメットに水を入れ、火を起こして川カニや皮エビ、小さな川魚などと一緒に煮ると結構な食い物になってくれていました。石ころ入れてミネラルも・・。
それに、蕗の葉はヨモギや少量の桜葉と一緒に揉んでから熱湯に放り込むとこれがまた一級のお茶に変身するんです。



☆2010年5月20日

★:潮干狩り、干し上がり?

潮干狩り・・。皆さん、今年は家族全員で行った方もあるでしょうね。それとも金欠で干し上がり・?。それなら我が家なんて干し過ぎて焼いたスルメみたいに反り返っていますよ。

我が国の海辺にはなかなか貝類が住みつかなくなって久しいですね・・。店先に並ぶアサリの多くは中国や韓国産。せめて、味噌汁に入れるアサリくらいは国産で食したいものですよね。

★:とは言っても!

味噌汁に使う味噌の原料の米だって加工用で輸入したものらしいし、麦や大豆なら100%外国産でしょう?。それに、豆腐や納豆だって輸入大豆・・。「外国産のアサリじゃ嫌だよ」、なんて言ってられませんね。

「それじゃ、いかん」、とアサリの稚貝を水槽で育てては全国の海辺に放ち、「潮干狩りのシ-ズンに間に合わせよう」、という自治体の活動が20年以上前くらいから行なわれてすっかり定着した感がありますが、アレって皆さんはどう感じていますか?。

★:養殖貝に群がる養殖人間・・

決して自然に育った貝ではなく、人為的に養殖されたアサリの稚貝がバラ撒かれた海辺に、その事を知っていてシーズンになると家族全員で群がってヨッサヨッサと懸命に掘り出す日本の文化?・・。あの姿って、まるで庭に撒かれた餌に群がるニワトリに見えて仕方がありません。どう見ても不自然ですよね・。養殖アサリに群がる養殖日本人の姿ですね。

そう言う私だってアサリ掘りに行っていました。そして、海から上がると重さに応じて自分が掘リ出したアサリを買うんですよね。まるで、魚の釣堀りと一緒・・、あの姿はどう見ても普通ではないと思いますがどうでしょう?。

アサリという貝は灰色に汚れた砂浜でないと育ちませんよね。だから、環境には強い貝の筈ですが・・。それに比し、ハマグリは綺麗な真っ白な砂がないと育ちません。以前には天草地方の綺麗な海岸線ではコブシほどの大きなハマグリが掘れたものですが、近年では天草の海もハマグリには嫌われて自然育ちのものが少なくなったと聞きます。

★:そのアサリの思い出・・。畑でアサリが大きくなった。

私は小学生の頃は佐賀県伊万里市東山代町大久保という所に住んでいて、近くに川久保博光という同級生が住んでいてとても仲が良かったんですが、その子がとても面白い事をしていた時期がありました。

例えば、その子のお母さんが潮干狩りで掘ってきたアサリの中に食べようにも食べられない8mmくらいの稚貝が沢山混じっていたんですね。当然、庭先に捨てられて肥料にでもなる運命なんですが、その博光君が言うには、「ナオちゃん、これを盛った砂の中に埋めて毎晩塩水を与えてご覧よ。ホラ、こんなに大きく育つんだ」、と言って私に見せたんです・・。これは驚き、直径が4Cmほどの大きさのアサリだったんです。

私も何にでも興味を示す子供でしたから、「ボクもやってみよう」、と博光君から1cmほどの稚貝を数個貰って帰ったんです。・で、「別に砂じゃなくてもいいだろう/多分、土の方が栄養があるはずだ/それも、土は毎日変えてやった方がいいはず・・」、と勝手に理論付けし、自宅裏の畑にアサリの稚貝を埋めては塩水をせっせと与えました。

そして土を変えるというより、塩水を与えるたびに別な穴を掘ってアサリを埋め直すんです(だって、塩水を与えるだけじゃ面白くないし、毎日掘り出して成長振りを見たいモンです)。

博光君の言う通りでしたね。アサリは畑でドンドン大きく育ちましたよ。お袋もビックリしていました。・・でも、何故だか食べる気にはなりませんでした。な~んか、緑のコケが生えててカタツムリやナメクジと同じように見えたんです・・。



☆2010年5月23日

★:変な話ですが・・、

嫁の影響で我家では大便をした後には専用温タオルでお尻を拭くんです・よ。最初は何か変な感じがあったんですが、やっているうちに癖?になるんですね。

まず、我家のメイントイレである風呂場横のトイレではウオッシュレットが使えません。リモコン類が便座の所にあろうが壁に設置しようが母がボタンというボタンを便座に座りながら押すんです。今の母は一つの事に集中できずに目に入るモノは全て触ろうとします。

例えば、私が母の右脇の下に手を差し入れて母を私にもたれ掛けさしてバランスよく歩かせて(?)いるかと思うと窓際に掛けているセーターを急に左手で急に掴んでは、「この服はいい柄ネ。誰の?」、と聞いてきたり・です。

そして、便座に座っても一向に用を足さずに足元に置いてある消臭剤の缶を掴み上げては、「こりゃ何ネ」、と・。
「消臭剤さ」、と答えると、「何の教習所ってネ」、と聞き返し、「違うよ。匂い消しさ」、と答え直すと、「ニモイテシっちゃ何の事ネ」、と益々会話から遠去かり、「もう・・、いいタイね」、と答えると、「便所に鯛がおるとネ。それは初めて聞いたよ」、と延々と続き始めます。

いつだったか、私が買物をしている間に車の中で待っていた母が変速シフトをDRIVEに入れ・、車が前進して駐車場の壁を必死に押している最中だった事がありましたが、壁に向けて停車させていて助かったものの、後入れしていたらどうなった事か・・。クーラーなんて買物を終えた私が戻った際には冷房のはずが暖房になっていて、「直裕っ、今日は妙に暖かい・・、いや~暑うて堪らん」、と。母は目の前のボタン類は何でも押して触ってみて納得するんですが、怖いものです。

★:そのお尻拭き温タオルにムカデが・・チクっ。

昨夜(22日)、トイレから出た私がそのタオルを取って温タオルを作ろうと蛇口に近づけた途端、10cmほどの大きなムカデがタオルの中から、「アッチッチー」、と郷ひろみばりに身体をよじらせて私の左手首の方へ猛烈にダッシュをしてきたんです。

私は思わず左手を振ってムカデを払い落そうとしたんですが、ムカデが落ちる瞬間、僅かにチクンときたんです・・。多分、「落されてたまるかい」、と私の手首を掴みたかったんだと思うんです。決して刺す気はないと・・。

「何を暴れとると?」、と居間の母が・。
「あ・いや。ムカデがね」、と私が母に返事をしたばかりに・、またもや話がズレました。

「私はどこにも行かんよ/アンタはどこかに行くと?」、と母。
「何の事さ。何処かに行くとか行かんとか」、と私。刺された場所がヒリヒリとし始めたというのに・・。

「アンタが『迎えが来た』、と言ったじゃないか」、と母。
「そんな事は言っちゃおらんよ」、と言い返した処で「ハハーン」。私は直ぐにピンと来ました。私の「ムカデ」という言葉が母には「迎え」と聴こえていたんです。

ムカデに刺されたらオシッコを掛けろと言いますが、まァ、私は適度な毒は季節季節の植物のアクと同じ、時には体内に取入れた方がいい、という考えを持っていますからそのままでほったらかしています。ムカデの毒がもう少し私の身体を強くしてくれるかも知れません。滅多にないムカデとの出会いでした。

★:嫁の部屋を母専用に改装した際。
母の部屋にはウォシュレットの設置を依頼していたんですが、世話人のニチイさんが「ウォシュレットは用を足す本人でないとお湯が当る場所が分からない。お母さんが自分で調節できるなら兎も角、座る度にお湯の出る位置と肛門の位置が合わず、結局はどの家庭でも使用されていないのが実態だ」、ということで設置は諦めた経緯があります。

まぁ、珍しモノ好きの母のことですから夜中にゴソゴソと起き、這って行ってウォシュレットのボタンを次々と押しては部屋中が水浸しになる可能性もあり、ウォシュレット設置の嫁の希望は暫くは叶えてやることは出来ません。


☆2010年5月24日

★:ムカデを舐め過ぎた?

昨日、ムカデに刺された、と書きました。これまでには佐賀県の伊万里市に小学校6年生まで住んだ頃に4回ほど、それに佐世保市に移って中学~高校~プー太郎と7年間住んだ頃に3回ほどムカデには刺された事があり、対処が良かったのか翌日には腫れがあったりしても三日目にはケロッと治っていたんです。相当にデカイムカデにガッチリと噛まれた事もあるんです。ムカデの噛んだ痕は凄いですからね。

それに比べると今回は蚊に刺された程度の痛みしかなく、「あら、ムカデさん。機嫌が悪いね」、と感じた程度でした。が・・しかし、二日目のお昼休みに職場で[♪:幼き頃.天満宮にて]を録音し直している最中に悪寒を感じ始めたんです。歩いてもフゥフゥと息切れしたり・・。

帰宅途中、立ち寄ったエース・新南部店では冷房が利いているはずの店内が妙に暑く、「何か。暑くないですか」、と店員さんに聞けば、「何言ってんの!。今日は大安売りをやっているからエアコンはいつもよりは低めに設定してて寒いくらいよ」、と・。何だか私だけが汗をかいているような感じがありました。

どうにか夕飯の準備を終えた頃にはゾクゾクとした寒気が酷くなり、グラッとした目まいに吐き気にもの凄い頭痛が・・。因みに私は発熱すると吐き気が酷いんです。

★:それとも天狗の怒り?

[♪:幼き頃.天満宮にて]を書いている最中、「こんな詩を書いて天狗さんは喜ぶかなァ、『随分と無沙汰しているじゃないか』、と怒るかなァ」、と思ったものでした。

この作品に出てくる天満宮とは佐賀県伊万里市東山代町の下大久保から上大久保へ向かう道路沿いの右側にある神社の事。道路だけを歩けば私が住んでいた家からは2.5Km程なんですが、少し不気味な山道を通って行けば我が家からは300mくらいの距離にありました。

夏を過ぎる頃には大人だけの相撲大会があって、いろんな屋台が出るんですが、私は相撲を見ずに隣の男の子が食べている[甘辛煮いタレがついたイカ]だけを羨ましい表情で見ていたらしいんです。

詩の中に、「狛犬の背中またがって・・」、とありますが、父や母に、「ボクにもグローブを」、と言い出すことができない私は天満宮に登っては左右の狛犬の片方の背中にまたがって、「ボクは野球がしたいのに・・」、と愚痴を溢したものでした。

それに、今でもよくあるんですが神社の天井に張ってある絵馬を見ているうちに絵馬の絵が動き出しては私がその時代に吸い込まれるように感じる時があるんです。

★:そんな私の異常に母は気づかず・・。

「直裕、この煮つけは塩味が足らんよ/こんなものは私は食べんよ」、と我がまま母が・・。頭痛に加えて耳まで痛くなるんです。
「そんな事ばかり言うから足が浮腫んだり、足裏が痛い痛いってなるのさ」、と私が言い返せば、母は仕方ない表情で食べるんです・。

「あァ、具合が悪い。嫁が早く帰ってくれんかなァ」、と思うんですが、こんな日に限って嫁は買い物をして帰るんです。

★:母の気に入らなかった煮込み。

①:手羽元、竹の子、ニンジン、サトイモ、玉ネギ、ゴボウを圧力鍋に入れます(ゴボウが柔らかくなる時間に合わせて竹の子5mm、ニンジンは1cm厚、サトイモは2.5cmの厚さ・みたいに同じ時間でほぼ同じ柔らかさになるように切って入れるのがコツ。

②:柔らかくなったら一旦ザルにあげ、残り汁だけに醤油、味醂、砂糖、酒などで薄味を付けて適度な量になるまで煮詰めてタレと呼べる程に味を濃くします。
③:①中華鍋に①の具材を投げ込み、②で作ったタレを徐々に、少量ずつ加えていって味を染込ませます。乾煎りした糸コンニャクを入れても美味そうです。

この料理・・、「わァ、美味しい。どうやってこんなに柔らかくてここまで味が染みるの?。アンタは私より上手よ」、と母が言ってくれた時期もあったんですが・・。

天然嫁は、「わァわァ、美味しいッ。わァ美味しいっ。もう一度オマケにわァ美味しい」、って言うんですが・・・。
今日の母は「美味くはないよ」、と。


★:男子とて介護食の作り方研究でもしたらどう?。

高齢の親と在宅で同居する人たちが確実に増えていくはずの今後のニッポン。皆さん、退職後にボーッとばかりせずに柔らかい介護食の作り方研究をしておくのも必要な事です。

「いつまでも~、頼っちゃいけない嫁と子・孫。突然、アンタが嫁の世話かも~」、ってネ。



☆2010年5月25日

★:ようやく分かった気が・・。「我が家は3人家族ではない」、と母が言う理由の一つ。

「直裕っ、ご飯だからとあの人を呼んでおいでヨ/ゲーコ(嫁=芸子)さんはさっき一度見掛けたけど。。、またどこかに出掛けたの?/ホラ、誰だったかお客さんが来ていたよね/あの人達はガヤガヤとお喋りネ/いい加減に寝なさいと言ってきてよ・・」、と母がよく私に告げる言葉・。

それに、「これから帰るから急いで支度しなさいヨ/急に帰ったらミツコ姉しゃまがビックリするよね・・」、と私に言う言葉・。

実は、これらの言葉には認知が出ている際の言葉と単に記憶力の低下の為に現実が分からなく戸惑っている最中の言葉がある事に気づいたんです。

ただ、何れにしても私の事を息子のナオヒロと理解しているか、母の兄のイサムさんと思い込んでいるかの違いくらいであって、母には日常的に錯誤の世界に生きるようになっているようです。

昨日、夕食後の母はTVを・、私は母の後ろでパソコンを・。やがて嫁がいつも通りに遅い帰宅をして嫁の食事が終わるとフルーツなどを出して皆で食べる・というのが大方の我が家の生活パターンです。

そうしているうちに母がウトウトとし始めたらこんな日の母のお風呂はなし。私が母を車椅子に乗せて部屋まで運んではトイレ、着替えを済ませて母は横になるんです。

また、この頃の母は前述したように週に2回は《ゆるりの家》にお世話になっていて、鶴所苑ではあれほどに嫌がった入浴サービスを受けるようになってもいて、原則我が家での毎日の入浴介助という私の負担も少しは楽になっていました。

★:母にはTVの中と我が家の居間の区別ができていない時があるらしい・・。

先日、この横になる瞬間の母が、「あの人達はうるさかったネ。ほら、まだペラペラと早口で訳の分からない事を喋って・・、いい加減にうちに泊めて2階に寝させるか早く帰らせるかしなさいヨ」、と言ったんです。

一瞬、「エッ?」、と私は驚き、考えました・・。前述したように、母は目の前に居る私を息子と自覚しているか兄のイサムさんと思っているかは分かりません。私が母の事を、「母ちゃん」、と呼んだからって母自身は私の母親だとは一日の多くの時間で感じてはいません。

この日の母は居間には私達3人以外に男女2人の計5人が居ると思っているんです。つまり、TV画面のニュースのキャスターとコメンテーターの2人+我が家の3人の合計5人だという事ですね。

この母の言葉に思い当たる母の挙動がありました。母は車椅子に乗せられ自分の部屋へ行く際に「お休みなさーい」、とTV画面に向かって手を振っていたんです。

そして、自分の部屋へ入って横になる寸前、ついに我慢の尾が切れ、「あの人達はうるさかったネ。ほら、まだペラペラと早口で訳の分からない事を喋って・。いい加減にうちに泊めて2階に寝させるか早く帰らせるかしなさいヨ」、と私に言ったのではないかと・・。つまり、TVの中のスタジオと我が家の居間の区別ができていないんです。

★:そう考えれば思い当たる事が次々と・・。

母担当の工藤ケアマネはよく我が家へ来て母を観察しては私にアドバイスしてくれています。やはり、数多くのご老人を担当し励ましたり、或いは看送ったりしている経験というものを私は感じています。その分だけクールですが・。

例えば、その地区ケアマネが訪ねて来る寸前までTV画面では女性キャスターがニュース(私はほぼニュースしか観ません)を報道していたとします。そこへ、「コンニチワー、ツヤさん」、とケアマネが来られたからとTVを消してケアマネを居間へ案内した途端、「いらっしゃい。つい今まで女の人が来ていてネ・・。この人(私の事)には女の友達がいっぱい居るようネ・ホホ」、と母はTVのニュースキャスターの女性が我が家に来ていたかのように言うんです。

「何言ってんの母ちゃん。この人はいつものケアマネさんだろう?」、と私が言えば、「じゃ、さっきまでここに居てお喋りしていた女の人は誰だい」、と・。・トホ。でも、この解釈は母を知る上ではとても大切な事だと思うんです

★:そして・・。

そのケアマネさんが帰ると暫くして、「あの人はどこに出掛けたの?/どこに行くとも何も言わずにサ」、と・・。母が言う、「あの人」、とはケアマネさんの事ですね。

ケアマネさんと母、私の3人が話している最中の母は、「この女の人は?・・私の何かしら/この人(私の事)の奥さんかしら?/奥さんなら何故家から出て行くんだろう/じゃァ、さっきのお洒落でお喋りな女の人(TVのキャスター)は我が家へ何しに来ていたんだろう/そして、この2人の女の人は喋るだけ喋って家から出て行った」、と・・。

そこへ、我が家の本物の嫁さんが「ただいま」、と帰宅すると母の頭の中は完全に、「??????????」、とパニック状態になるんではないかと思うんです。

「ははァ、さっきの女は一度帰宅してから買い物に出ていたんだな」、と母のケアマネと我が家の嫁が同一人物になっている時があるんです・・多分。

そして、もう一人の女性(ニュースキャスター)は「2階で寝て休んでいる」、「だから、急に静かになった」、と解釈する事で母は納得しているのではないかと思います。

そんな感じで母が思い悩んでいる最中、「お義母、洗いますから・はい、出して下さい。・・入れ歯を」、てな感じで英語っぽい文法の日本語を嫁が喋るものだから母は、「はァ?」、となるし、「あはァ、この人が嫁さんだった」、とは完全に思い出していないから、「この人には入歯は渡せない」、と思ってしまうんじゃないかと思うんです。
「私は入れ歯なんかは・しちゃおらんヨ」、と。

そして、その辺の心理など全く解しない天然嫁と母の、「私は&私は」、の我我の戦さが始まるのではないかと思うんです。皆さんのお宅でもこの嫁と姑の《我我の戦い》ってあるでしょう?。

★:そう言えば・、2005年暮れの骨折で入院中の母・。要介護度3でしたが同じような錯誤が・。

「西日本病院を我が家だ」、と思い込んでいる時の母は病院の廊下を通る患者さんや看護婦さん達を見ては、「今日はうちにはお客さんが多いよネ。一体、アンタは何の仕事をしていると?」、と言ったり、「私に用なら『ここよ』って伝えてきてヨ」、と言う日があったんです。

それに、私が母を見舞った際には、「今日は降りてくるのが随分と遅かったネ。私は2階に迎えに行こうかと思っていたよ」、とも・・。


☆2010年5月26日

★:静けさを良しとしない・母

ヘッドフォンを耳に自作の曲を聴き直してはメモをとってバランスシートという奴を作っていました。50数作になった作品群を1作目の[♪:母がピエロになっていく]から現在までの作品の音声バランス・・、つまりはドラムやベースギターの音量が低くはないだろうか、唄にエコーの掛け過ぎじゃないだろうか、ギターのピッチが狂ってはいないだろうかという事をチェックしては気になる部分を修正するんです。

無料配布の頃には兎も角、現在は短縮版は無料ですがコンサートの都度に完全版のCDを買って頂くようになり、新作を作る度に唄やバック演奏のチェックをしては唄い直しや演奏のやり直しをするんです。

実際に作業をするのは自宅ではなくて職場での空き時間を利用しますが録音に使うレコーダーは全く同じものを自宅にも持っていて途絶えたままの自宅の改装が一段落すれば自宅録音に移行するつもりです。

パソコンに向って音声波形などのチェックをした後、仕事上で顧客に渡さなければいけない会議の録音済みのCDにプリンターで印字をしている最中、背後で何やら母の声がしました。

「母ちゃん、今何か言ったね?」、と私が聞けば、「アンタこそ、何黙っているとネ?」、と母。

「静かに作業をしとるだけさ」、と私。
「こっちにきてTVでもゆっくり観ればいいのに」、と不満そうな母。多分、母は私が怒っているように思ったのかもしれません。

「テルサホールの利用客から頼まれた録音物に奇麗に文字を書いて仕上げている処さ」、と私が答えると、母はムッとしたような表情になります。多分、私が言った言葉の意味などは理解してはいないはずですが、母は私が傍に居ない事が面白くないんだと思います。

便利になるということは難しかった事が自分でも手軽にできる・という事なんですが、手書きのタイトル文字で納品できたものがプリンターで奇麗に仕上げなきゃいかんという・・。

物質文明の進化は家庭の中にまで仕事を持ち帰らせる副作用を作り、家庭からは団欒というものを奪い去る一方のような気がしますね。

明日、5月30日はデイがない日曜日・・、また大変な一日となる予感がします。

★:[♪:枝垂れ桜の木の下で]を詩を変え、テンポを遅くして再々修正。

立田山自然公園の桜見物に行った母と私の会話を元にしてもう一人の私が詩を書く・という、いつもの私のパターンの作品作りですが、どの部分が母の言葉で私が語る部分が分からない・というご指摘がありました。[♪:母の童歌]もそうですが、介護家族や介護関係の職業に就いた方なら分かるんでしょうが、認知や老いに関心が薄い方には分からない事が多いはずの私の書く詩・・。仕方がありません。

Posted by 濱野裕生 at 15:28│Comments(0)〇:同居記録
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