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濱野裕生
濱野裕生

2021年02月05日

〇・2003年の頃

〇・2003年の頃。

★:母は幼い頃から心臓が弱く、

また長年の神経痛に加えて変形性膝関節痛があり、更に腰骨と左股関節にも経年骨折がありました。夫没後の独居生活5年目を終えようとした69歳時の母を最初の命の危機が襲います。

夫亡き後、食事を作る張合いもなく、話し相手も少ない独居生活の中で持病の心臓が一段と衰弱したのでしょうか、ICUで24時間監視を受ける状態にまでなりました。

「最後は畳の上で」、と言う医師の言葉で自宅に戻リましたが、自宅に戻った3日後にはベッドで横になって庭を見ようとすると「太陽の日差しを庭の柿ノ木の枝が邪魔をして気に障る」、という理由で自分で物置から脚立を持ち出して登っては枝を切る事件さえ起こす程の気の強さ・。

この時は奇跡的な回復をみせて事なきを得ました。幼くして母親を腎臓病で亡くしている母は体質的に循環系が弱いんです。

★:為せば成る。成らぬは己が為さぬなりけり、何事も・。

これは母の人生訓かもしれませんが、母が周囲の者を励ます際には必ず使う言葉でした。日常的には何事に対しても非常に気丈夫な面があって、70歳代前半には若い頃からの痔を悪化させますが、子供達にも知らせずに実姉の子である甥の向(むこう)浩巳氏に相談、病院を探して貰っては自分で手術を受けに行くほどの母でもあったのです。

更に、70代台後半には高血圧による眼底出血があってレザー手術を受けましたが、出血を止める代償として左目の視力を失っています。また、84歳の頃には白内障を患っては当時大牟田営業所に勤務していた長男夫婦の勧めで大牟田市内でその手術もしています。これが私の知る限りでの熊本に来た当時の母の既往症です。

☆:2003.3.29。

★:母と同居開始。

その母が私達夫婦と同居を始めたのは2003年3月29日。90歳になって間もない母は杖をついて歩く事もままならぬ状態でした。熊本の私の家に着いて玄関に上がる際などには嫁が床に敷いた毛布に母を座らせ、袋包みにして居間まで引き摺って運ぶ有り様・。

しかし、一度床に座ったら二度と立てません。居間のソファーに座らせるのが大変。具体的に言えば、母の左脇に左手を入れて右手で衣服の腰の部分を掴み上げるようして介助すれば立て、母の左手を柱などに触れさせている間に右手に杖を持たせるのです。

座る時はその逆。自立歩行は左手で掴み支える事ができるような柱や壁のような頑丈な固定物がない限り座れません。

また、仮に杖をついて歩き始める事ができたとしても両膝、特に左膝の痛みがひどい時には崩れ落ちるように倒れます。

結局、常に誰かが母の左の腰に左手を回し、右手では母の右脇に手を差し入れて添い歩きをする必要があるという、そんな状態でした。全介助の状態なんです。

「これじゃ、兄や姉の家では大変な日常だったろう」、そう感じました。

 
☆:2003年3月30。

★:同居2日目にして母が転倒。

母の身体能力を殆ど把握していないままで母を迎え、味わった悲哀でした。
居間を四つん這いでしか歩けない母が歩こうとするなんて・・。この日の私は仕事を休んでは母の介護をしていました。介護というより監視でしょうか。「いつ、何をしようとするかが予測できなかったからです。兄嫁、実姉との引継ぎの悪さが招いた事故でした。

母はどのくらいの事ができ、どんな事ができないのか。どんな事をしようとした時に注意をしないと危険なのかが全く分からない状態での同居開始だった事から起きた事故なんです。引継ぎの際に教えようとも知ろうともしなかったことに原因がありました。

母は床なり、畳なりに腰を下ろさせれば二度と立ち上がれません。寝る時だって床に直接布団をひけば安心です。しかし、それだとポータブルトイレさえ独りでは使えず、力んだ際に失禁をします。

それだと不便だろうと私は移動し易い高さのあるベッドを和室に準備し、ポータブルトイレを母に使わせようとして準備しましたが、これが転倒を助長させたのです。

★:それまでのハードな仕事を突然休んで母を迎えに佐世保へ向かい、

そして帰熊するなり不慣れな同居を開始し、私には疲れが残っていたのかも知れません。この日の私は出勤の目途も立たないままに会社を休み、和室のベッドで眠る母の様子を伺いながら春の選抜高校野球大会のTV中継を見ていたんです。やがて、居眠りを始めていたらしい私の耳にもの凄い音と悲鳴が聞こえてきたのでした。

母が私の背後に倒れていました。居眠りを始めた私の姿を居間続きの和室から目撃した母は私に毛布を掛けてやろうと思ったみたいでした。こうして、熊本での最初の転倒事故が起きてしまうのです。

ベッドから降りた母は片手で部屋の柱を掴みながら立ち、右手で自分の毛布を引き剥がしては居間の床に転がって居眠りを始めた私の方へフラフラと踏み出そうとし、最初の一歩でそのまま転倒したのでした。立っても立ち続けている事ができない母が毛布を持って2本の足で歩こうとしたのですから倒れて当たり前です。

もう、もの凄い音でした。五体が健常な者の倒れる音ではありません。まるで、立て掛けた材木が一気に倒れたような音でした。この転倒事故は母親としての本能が引き起した事故だったと思うのです。

母はこの転倒で骨折こそなかったものの右足太股の数本の静脈を切断、激しい内出血で腫れ上がり、左足が不自由な母は大切な右足の自由を奪われて完全に寝たきりの状態になってしまうのです。幸いにも母は毛布に包まれた状態で倒れた為に擦過傷はありませんでしたが、私達夫婦にとっては最初の試練が訪れたのです。


★:ついに寝たきりになった母。

寝たきりですからこれ以上の危険はありません。しかし、責任を感じた私は勤務数を極端に減らし、母のそばに付き添う事を覚悟します。湿布や氷で腫れを抑え、腫れが収まれば温湿布をしながらマッサージと・。同じ作業を繰り返す日々が始まるのでした。 


☆:2003.4.1。

★:翌朝、現実が分からない母が嫁を激しく非難。

母は昨日の転倒事故の事をすっかり忘れ、夜中にポータブルトイレを使おうとしてベッドから滑り落ち、立てるはずがない母はそのまま畳を汚しては朝まで転がっているのです。何故、私達に助けを求めないのか・。老いに対する怒りや悲しさを感じ始める私でした。私は私の存在を疑いました。「何の為に俺がいるんだ」、と。

「夜中に助けを求めて周囲に迷惑を掛けてはいけない・・」。老いて尚、気遣いを忘れない母。しかし、この頃の私には母の長い人生を思い遣る心も尊敬の気持ちも今ほどにはなかったのだと思います。老いは誰にでもあること。老いを理解するには目の前の老いを認めることから始まります。認めるには尊敬の念が無ければいけません。哀れみの前提には必ず畏怖の念が必須です。

★:ただ、現実を言えば、

嫁が汚物のついた衣服を脱がせたり身体を洗おうとしたりすると母は激しく嫁を責めました。「何の為に着替えるの?、何の為に私の身体を洗うの?、私はそんなに汚いのか!、と。

母はもう昨夜の出来事をすっかり忘れているのです。転倒で静脈が切れ、紫色に腫れ上がった自分の足を見て驚くのですが、痛みがある分だけ気分が苛就くのでしょうか、気丈夫な母だけに嫁に吐き掛ける言葉には相当に辛辣な表現もありました。

「私が倒れたって?・。何をしていて倒れたんだ?」。
「そんな事知るもんか。多分、うたた寝をする俺に毛布を掛けようと思ったのさ」、と私。

「そうか。処でお前は寒かったのか?。どうして板張り(床)で寝転んだりするんだ?」、と母。
「寒くなんかはなかったさ。母ちゃんは自分が何かを掴んで立ちあがっても歩けないのが分からんのか?、気の使い過ぎなんだよ」、と私が言えば、「あァ、そうかそうか!。お前には私の気持ちが分からんのだな?」、と母。

この瞬間認識と瞬間記憶消失という二つの糸で織られた母の現実。この時、私は介護の大変さを痛感しました。一つ一つが始めて経験する事でした。

私は「あの母親が・、俺の母親が・こんな姿になったのか」、と思いました。第一、この頃の私は認知症という言葉自体を使った事がない人間だったのです。


★:一つ一つの動作介助に対し、その説明を求める母。

もう、仕事どころではありません。母は嫁から受ける世話を好まないものだから、一つ一つのお世話をする際に時間ばかりが掛かるのです。つまり、介助をする説明が必要でした。

「はい、お義母さん。お顔を拭きますよ」、と温タオルを持った嫁が母の部屋に入れば、「私は自分で洗面所に行くのに・」、と迷惑そうな表情をします。

「お義母さんは上手く歩けないでしょう?」、と嫁が言えば、「そんな事はないよ、私をバカにするのか?、第一、私の部屋に声も掛けずに勝手に入って来ないでおくれ」、と激しく嫁を威嚇します。

こんな調子で母の朝の起きがけの顔を拭くだけで15分は要します。第一、一つの介助をするのに、何故そうする必要があるのかという事を逐一説明する事から始まるのです。母にはすべての事に説明が必要でした。さっきと同じ介助をするにも最初からもう一度同じ説明が必要でした。


★:とんでもない事になった。

一日の世話に疲れ果て、一気に崩れ始めた私達夫婦の生活。私のこれからの人生を思うと、「とんでもない事になった」、と思った事が何度あった事か・。その覚悟はあっても、現実にはじわじわと堪えてくるのです。

歩けない母親を蔑んだ事もあります。「どうしたお袋!」、「世話をして貰っている癖に何て言い草だ」、と母を責める心が芽生え始めます。

「認知が言わせる言葉じゃないか。それが老いさ、俺もやがては母の気持ちも分かるようになるさ」、と母を護る心が私を制御します。

私の心の中ではいつも二つの人格が闘うようになり、思案続きの日々に過呼吸症気味になっては息苦しくなる夜が何度もありました。

母もそんな私の表情を読み取るのでしょうか、「私は佐世保に帰るよ、大和町に帰りたい。それが駄目なら・いっそ殺しておくれ」、と叫びます。それは悲痛なくらいの表情で叫ぶのです。

母も悔しかったのだと思います。思うようにならない自分の身体と監視される辛さ。「こんなはずじゃない・」、という思い。「お願い、助けておくれ」、と言ってしまう自分。
「いつの間に、私はこんな身体に・・」、と振返ろうとしても思い出せない中抜けの記憶。

母は過去の自分の暮らしを断片的にしか振返れません。母が思い出す事の多くは40~70年前の事ばかりでした。しかし、母の思いは思いとして、現実には母には独居など到底無理。

「ああ、姉や兄も母のこうした姿を見て途方に暮れていたんだ」、と実感させられたのでした。


☆:俺が変わるしかない。

「このままでは母も私達夫婦の暮らしも駄目になる」、と思いました。思い悩んだ私は「母には姉や兄と同居した時と同じ日常を与えていては駄目だ」、という結論を出したのです。

今の母には長女夫婦や長男夫婦と過ごした時間とは違う、私ならではの別な時間を与える必要があると考えました。それが母を変えるかも知れないと思ったのです。

「そうだ、指圧やマッサージを試みてみよう」、と思いました。周囲が嫌がる仕事や根を上げそうな仕事をコツコツと根気よく続ける事は割と私の性分にあっているのです。マッサージくらいは誰にでもできます。でも、この頃の私は自分がピアノやギターを弾く事。音楽が母との緩衝役を果たすなど、まだ思いつかない頃でした。

私は嫁に言いました。「この現実から逃げちゃいかん。これは俺が神から科せられた修行なんだ。母に変化を望むなら自分が変わるしかない」、と。私は薄暗い部屋の中で天井を見上げて呟いていたのです。母の辛さが分かれば分かるほど、母の心中が理解出来る度、「あぁ、そうだったのか」、と涙汲むことが多くなりましたね。

★:鍼灸院に通う。

私は必死でした。歩行ができない母に対する朝夕のマッサージにお灸、そして、素人は行なってはいけない鍼さえも専門家の元へ習いに通いました。母が訴える痛みを私自身が痛いかのような素振りで幾つかの鍼灸院に通ったのです。禁止行為だと分かった上で教えてくれる鍼灸師さんも居たのです。

しかし、実際に母への鍼を施術しようとする段になると習った通りの部位へ打つというのは怖いものがありました。結局、この頃の母への鍼は無難で安全な部位にしか打たないという、そんな程度のものになっていたようです。


★:私自身が抱えていた腰椎分離骨折滑り症。

実は、母の来熊前の2001年の事。私は自分の会社が持つ野球チームの練習中に転倒して背中の一部の骨が縦に割れるという、正確には腰椎分離骨折滑り症という状態になり、背骨を支えている左右の腰椎が割れ、ボルトを入れて支える手術を勧められていたのです。

しかし、約2年を費やしてボルト固定と取り外しの2回の手術をしても完全な元の身体に戻る保証はないと言われ、私は野球を続ける中で腹筋を鍛えて背骨を安定させる方法を選んでいたのです。

だから、今日現在でも背骨が臍の方向にズレたままで、天候や季節によっては左右の足に痺れがあり、その度に私は自分で自分自身に鍼を施術しています。だから、私は鍼治療で痛みや痺れがある程度は消える事を自分の身体で知ってはいたのです。でも、折れた骨、ズレた骨が元に戻るわけではありません。


★:所有していた草野球チームの解散を模索。

母の来熊直後の転倒、そしてその後に始めた必死のリハビリ。こうしたリハビリは母にも私にとっても大変な忍耐と努力を伴いました。

連日、母に施した全身へのマッサージに鍼やお灸。そして、寝たきり生活で関節が固くなってもいけません。私は横になった母の両足を私の胸や腹に当て、「足突っ張りさ、自転車を漕ぐようにして俺の胸や腹を蹴ってみてくれ」、と言っては母に蹴らせました。

この運動が私の腹筋も鍛えてくれるのです。また、母の手の指の間に私の指を入れては「力の入れっこ」をしたり・・。そして、私はそれまで十数年と続けた大好きな草野球チームも解散する事を模索し始めます。


★:一方、40~58歳のシニアチームからの誘い~国体への出場意欲。

己のチームには既に限界を感じてはいたんですが、その一方では宮城国体~高知国体出場を狙うシニアチームからの誘いを1999年頃から受けていて、肩の強い一塁手と代打候補に挙げられ、数年に渡る強い勧誘を受けていたという事情が重なっていました。

己が所有するチームは実際には気の抜けたピクニック気分で内紛続きの我がまま集団であって、殆どの会員が野球にかける意欲がバラバラ。中学、高校とレギュラー経験がなく、既に限界が見えたチームであり、私は「もう、これからは自分の最後の夢を追おう」、と感じ始めていました。この件、まだ、母との同居生活が始まることなど思ってもいなかった頃です。



☆:私の仕事、嫁の事情。

私は職場に行く日を減らしては週の大半を母と過ごす事になりましたが、この後にも凄い決断と代償が必要な事になっていくのです。それは母の老いの進行、母の認知の進行でした。

私は音響や照明機器の操作をする小さな会社を経営していて、ある公共ホールの仕事をさせて頂いています。だから、ある程度は自分で勤務時間の調整ができる生活環境だった事が母の介護には幸いしました。

勿論、人出不足を補う為、新たなパート従業員を雇う為の出費が重なるものですから我が家の家計には大変な影響がありました。

一方、嫁は既に1級ヘルパーとして利用者宅に出向く訪問介護という就業の方法を選択していましたが、母の来熊後の転倒でそれまでの私達夫婦の日常がすっかり変ってしまうのです。つまり、嫁が働ける時間さえもが制限されてしまったのです。

私と嫁のどちらかが必ず在宅し、母に付き添っていなければいけません。嫁はヘルパーをそれなりに続けますが、私は基本的に仕事には出ない、と。出たとしても週に2回程度。私が出社する日には嫁は仕事に出ない、と取り決めました

私が出社したとしても9:00~14:00勤務か15:00~19:00勤務程度。兎も角、私か嫁の何れかが必ず母を看る必要があったのです。

こんな状態ですから、私も嫁の収入も激減したのは当然です。また、嫁には介護福祉士の受験資格を満たす為の勤務時間の累積ができないというジレンマが相当にあったのではないかと思います。

★:既述したように、

嫁は嫁で既にこの時期の6年前以上も前から入院中の実母の月曜から金曜日の夕方の食事や洗濯という周辺介助の大変な日課がありました。
 


☆:ストレスから嫁が絡む・・。

嫁には私の母の介護だけではなく、在宅老人の訪問介護の仕事、夕方からは実母の入院先での周辺介助があり、相当に疲れが蓄積していて苛つく日もあったのでしょうか、「私ならそこまではしない。貴方は極度のマザコンじゃない?」、と私に絡む日が多くなります。

この言葉、当時の私には相当に堪える言葉でした。私は何事も常に真剣にやるガチンコ人間だと思っていましたから、嫁が評する、「マザコン」、という表現には堪えました。

確かに、どうかすると私は週に1日も出社しない日さえありました。仕事には殆ど行かず、たまに出掛けた仕事でも昼過ぎに切り上げて帰宅し、真夜中まで母の世話に明け暮れるのですからね。
そんな私を見ていてそうした皮肉を言いたくなるのも分かりました。多分、介護を専門とする嫁の目にもそう見えたのでしょう。

ただ、私としても最大限の事はやっていたつもりです。嫁にしても入院中の実母の世話に出掛ける月曜~金曜(土・日は弟夫婦が担当)は我が家の夕飯作りどころではなく、全て私が作り、嫁の帰宅を待って一緒に食べる、という体制でした。

私が作った夕食を口にほうばる一方、「貴方はマザコンよ」、という嫁の言葉が私に堪えないはずがありません。でも、嫁のこの言葉は的を得ていない訳ではありませんでした。

★:この頃の私には、

「いつまでも俺の母親でいてくれ」、という意識だけで母のお世話をしていた面が多分にあったし、嫁に対しても、「俺の母親だからお前も一緒に面倒見るのは当然の事だろう」、という強制意識も確かにあったのです。

結局、この頃の私は介護の素人。「どうにかしたい。現状以下にはなって欲しくない。俺が留守の時間は母を寝かせるなり、あやすなり、母が動き回らぬように監視していてくれ」、と嫁に強制しているだけに過ぎなかったのだと思います。

★:でも、何と言われようが命は一つしかない。

何が正しくて何がいけないかは誰にも分からない事。母が少しでも快方に向かえば私達夫婦の介助も生活も楽になるんです。介助の手を抜けば母のレベルが下がるし、その分だけその後の介助は更に大変なものになり、我々の暮らしも辛くなる・・、それが介護家庭の真実の姿です。


★:思いの篭らない鍼やマッサージは効果がない・・。

私が行なう母へのリハビリですが、結局、母の身体は一向に応えてくれません。もう、連日のマッサージで私の両手の指は曲がり始め、肘や肩、首筋にも痛みが走るまでになっていました。

「もう、母が歩く姿を見るのは無理・」、そう思った時期もありました。
「俺は自分の身体をこんなに痛めてまで頑張っているのに母の身体は一向に応えてくれない・」、と嘆きました。

でも、動かさない身体は益々固くなります。老人を自室に閉じ込め気味な暮しをさせる事は安全ではあるのですが、その一方では身体の衰弱を招きます。その硬くなった身体に幾らマッサージを施しても殆ど意味がありません。そんな理屈さえ私には分かっていない頃でした。

母が転倒しない為には動いて貰わない事。それが一番だと・。私達は安全な同居を余りにも優先させていたが故、母をある種の拘束状態に置き、その事で私達夫婦の暮らしさえも自縛状態にしてしまっていた事に気づき始めたのです。

「母親に引き回される日々・、こんな中途半端な同居じゃ駄目だ。人生を棄てるくらいの覚悟をしないと世話などできない・」、と考え始めたのです。


★:若き頃の私の山籠もり生活。

そんなある日、2階の私の部屋の隅に嫁の目を忍ぶように置いたままの古びた白いビニールバッグが私の目に入ったのです。高校、大学時代と持ち続けた[私の走り書き帳]が入ったバッグでした。本当に偶然の事でしたが、フッと思い出す事があったのです。その走り書き帳の膨大な数の詩の中の一つに次のような詩があったのです。

辛いと思う時、悲しさを憶える時、憎しみを感じる時、そして、空腹を覚える時・。私はそんな時にはいつも母の優しさを思いだす。思うだけで母の白い割烹着を通して母の匂いを感じるのだ。

母が笑っている。その母の背にはどこまでも続く青い空が見える。海が見える。風が吹いてきた。やがて夕焼けが始まる。そして父が帰る。父はニコニコと笑っている。

私はいつの間にか辛さを忘れている。いつの間にか私の悲しみが微笑みに変わっている。いつの間にか憎しみが愛おしさに変わっている。そして、いつの間にか私の空腹も満たされている。

そう、私は今、故郷を離れて旅をしているのだ。もう、私はこのまま朽ちても構わない。それは幸せが何かを知ったから。そして、それを貰うだけで与える事ができない自分を知ったから。神よ、せめて私をあの青い空に運んでくれ。何故なら、あの空の上から母を見守り続けたいから・。

これは私が僅かな食料にヘルメット1個、ジュラルミン製のナイフ1本で山に出掛け、半ば死に憧れるかのように山篭もりを繰返していた19~21歳の頃に書いた詩の一節でした。


☆:父は明治35年生まれ。

私は父が48歳の時の子供。私が20歳の時には父は既に68歳。私には年老いた両親を思う故にスポーツに音楽に文学に自ら潰してしまった夢と時間がありました。大学2年の時、音楽では中央からの誘いもあって退学を考えました。

「学園闘争が終わった今、君の斬新なスタイルの詩はこれからの日本の若者には不可欠なものになる
だろう。東京に来なさい」、という誘いを受けて多いに悩んでいたのです。

当時はフォークソングブームの最中。流行する曲の多くは、「愛だ、恋だ。時代が悪い」、と青春を謳歌し、自分を正当化しては時代を非難した作品ばかりがヒットしていた頃です。そんな中で私の書く詩と作る曲は珍しく、中央の音楽業界からは異色の学生フォークシンガーに見えたのかも知れません。

しかし、普段から音楽家の事を「河原芸人、河原乞食」、と表現して堅実な思考をする父親の「まずは大学卒業だ。何が音楽だ、何が詩だ。そんなつまらんものはやめとけ」、という一言で断念していたのです。


★:そして、もう一編の詩。

優しさなら自分の命を差し出すほどの優しさを示せ、怒りなら相手の命を奪うほどに示せ。神はその何れにも力を貸してくれる。 

喉が乾いたなら己の血を飲め、腹が減ったか己の身を喰め・。いつもお前はそうして生き抜いてきた・。今は生きるのだ」、という私の激しい性格を物語る表現の詩にも惹きつけられました。これも20歳頃の山籠もりの最中に書いた詩でした。

私は自分が書いた30数年前のこの2編の対照的な詩を読みながら感じるモノがありました。それは[辛さや優しさの裏にある覚悟]というものだったのです。


★:信念とは譲らぬ思い。伴うのは継続。

優しさや厳しさって・、時には継続する事を求められます。継続しない瞬間的な優しさや厳しさ、涙や言葉は人間としての軽さ以外の何でもない、とさえ私は思っています。格好だけは誰にだって示せます。

信念や真心を示す指標は同じ思いや行為の継続。介護同居って継続が求められます。覚悟がないとできないとものです。ましてや、それを職業にするには更に強い信念が求められます。

つまり、我が兄や姉は世間体や衝動的な哀れみで母との同居を試みていた事。そして、日が経てばやがてはその決意が薄れるものだと気づいたこと。そして、母との同居を放棄し、介護を放棄したこと。

要は、母との共存を棄て、己の人生を選択したこと。世間もそれを許すはずだ、と。だから施設へ放り込めと決断していたわけです。でも、私にはそれが許せなかった。

★:居を同じくするって事は、生を同じくする事。

生を同じくするって事は命を分け合う事だと私は覚悟し、母と共に生きていこうと思ったのです。
我が命は先祖からの、或いは神からの預かりもの。預かりものである以上、必要であれば私は母だけにではなく、嫁にだって分けてやるべきだと思っています。


☆:祈り、それは念。

父や母や嫁に対する感謝の気持ちって一緒にいる時にはなかなか持つ事ができません。遠くに離れてみて初めて感じる事が多いものです。それは離れて暮らすお互いが[祈りという念]、を送り合っているからこそなんです。

「♪ふる里は遠くにありて思うもの・」、って言います。離れてみて知る故郷に住む父や母、友人のありがたさ、とでもいう意味でしょうか。しかし、来熊後の母と私との間には馴れ合いや我が儘さが出始めていたようです。私と母のお互いが「互いを思い遣る祈りの念」、というものが薄くなってきている事に気付き始めたのです。


★:同居を開始して以来、

「あそこが痛い、ここもまだ痛い」、と言う母。私は私で「うーん、あれ程に「マッサージをしたのに。もう・明日でいいだろう」、の繰返しであって、そこには母の強くなる一方の依存心とその日限りの私の達成感だけしかない事に気づいたのでした。

それに、母の介護の為に私の勤務時間を減らした結果、収入も減り、生活レベルが落ちていく事での将来への不安。そんなモノへの私の拘りや焦りが多いにあったのだろうと思います。妻の苛立ちの多くも生活への不安、不満から生じていたのではないかと思うのです。

前述した20歳の時に書かれた自分の詩を読んだ私は大切な事を思い出したのです。私の目の前にいる母は私の記憶の中に居る母じゃない・。私は母の現実を直視できずにいる自分に気づいたのでした。恥ずかしく思いました。「俺の母ちゃんは完全なはず」、というマザコンですね。

「老いた母親と分かった上での同居なんだ」、とどうしても思う事ができない結果、単に自分の決意を満たす為だけの心のないマッサージや鍼をしていたのではないか、と自身を疑い始めたのです。

恐らく、この頃にデイ施設の利用を思いついていたとしても母を受容れる施設は見つからず、整形外科への入院になっていたと思います。母の身体の運動機能はその程度に落ちていたのでした。

でも、老いていく一方の老人に「整形外科で何が出来るんだ」、となります。リハビリ施設への入所だって最低限の協調性を伴った生活能力が必要であり、我が侭放題の現在の母にそうしたことは望めません。 これが2004年4月~5月前半の母と私達夫婦の暮らし模様でした。


☆:2003年5~6月の頃。

★:母の身体に好転の兆しが・・。

それからの私は躊躇っていた鍼を中心にしたリハビリに集中するようになりました。鍼は医療行為ですから素人の施術は禁止されています。しかし、「もう、打つしかない」、私は母への本格的な鍼を決断したのです。

鍼を本格的に母親の身体に打つのは怖いものがありました。しかし、「私は直裕を信じる。母の身体は何もしないならいつまで待っても何も変わらない・。直裕が誠意を込めて打てば変わるかもしれない」、という姉の言葉で決心したのです。

「鍼が母の神経を損傷させ、母の身体に麻痺が出ようが、今現在でも母の身体は麻痺しているようなものじゃないか」、と私は重大な決心をするのです。

★:朝夕に限らず、

深夜にも打つ場所を変えて母の身体に鍼を打ちました。頭部、後頭部、首筋から背中、腰にかけ、背骨に沿って、両足の先端まで・。

特に母の背骨には古い骨折箇所があり、身体が右側に大きく傾いていて骨折箇所の周囲は筋肉が石のように固くなったままです。だから、曲がった背骨や腰骨などは鍼で神経を傷つけそうな時もありました。

大事な神経を傷つけて麻痺させてしまうか、それとも運動機能を少しでも戻せるかという、瀬戸際の選択でしたが私は躊躇わずに鍼を打ち続けました。


★:鍼を打たれると一時的に疲労します。

身体を傷つけるわけですからね。しかし、その傷を修復しようとする大脳からの指示で様々なホルモンが分泌されるのです。つまり、身体の組織が活性化して身体全体の免疫性が高まっていくのです。

私の鍼の打ち方はツボを優先させはしますが、古来から引き継がれる鍼の打ち方ではなくスポーツ鍼というものでしょうか、筋肉を意図的に傷つけては修復能力を活性化させるというものです。柔道や空手などをする方達が特定の部位の筋肉を育てる為に鍼を打つ事を私は知っていました。

2001年の野球練習中の事故で腰椎分離骨折以外にも右肩の靱帯の一つは殆ど切れかけ、両膝にも古傷を持つ私がテコンドーや野球をやり続ける事ができていたのはこのスポーツ鍼のお陰でもあったのです。


☆:母の身体に激的な変化が。

こうして、4月半ばから打ち始めた鍼で母親の身体に変化が現われたのは本格的に打ち始めて3週間目くらいの5月半ばの頃です。それは劇的な変化でした。

硬直していた筋肉が徐々に柔らかくなって全身に血色が蘇り、母の痛みを訴える回数さえ減っていくのです。座らせる時、立たせる時・、気づけば母はこれまでにはできていなかった身体の動きができるようになってきているではありませんか。

母は私の熱い思いに応えるかのように2003年6月も半ばに入った頃から急激な回復を見せ始めたのです。本格的な鍼やお灸にマッサージを始めてから約1ヶ半が経った頃です。
 

★:散歩で母の歩き癖を知った。

そこでケアマネさんに相談、介護保険で車椅子を借り、母を自宅近くの立田山自然公園や八景水谷公園などに連れて行く事を試みる事にしました。

車椅子での散歩に母を連れ出しては自然の草花に関心を持たせました。関心を持ったら母自身の手で摘むように促し、摘む為には屈む必要があり、屈む為には一度は車椅子から自分で立上がらないといけない・、という。その行為の中で、気づけばいつの間にか屈伸運動をしている。私はそんな事を母の身体に伝えたかったのです。これは凄い効果を上げました。

散歩に誘った日の翌日の母は身体のあちこちに痛みを訴えました。それは筋肉の張りだったり、関節の痛みだったりです。しかし、私はこの母の訴える痛みの場所や種類を知る事で「母の生活癖」を確認したのです。


★:この生活癖。

昔だと下駄の歯の減り具合で歩き癖が分かったものです。人間には立ち方や歩き方から座り方までの癖があります。食事の時に右側の歯で噛むか左側の歯だけで知らず知らずに噛んでいる・、誰にでもあるそんな癖を知りたかったのです。

私はこの母の生活癖を知ればリハビリの方法も変わってくるだろうと考えたのです。やがて、母はこの立田山自然公園の芝生地を右手で杖を使い、左手で私の腰のベルトを掴みさえすれば40m程度は立って歩くようになるのです。

歩く事で筋肉が強化された膝の痛みも軽減しています。驚きが喜びになり、喜びが明日への頑張りになる事を母も私も知りました。

こうして、母は生甲斐を取戻し、私も人を支える事への小さな喜びに少しずつ目覚めるようになっていくのです。仏教用語でいう異体同心って奴です。

この2003年6月の感動。それは私が母との同居で得た最初の感動でした。その感動とは介護する側が積極的にテーマを作り、実践することによって失われた機能でも回復が望める。決して諦めてはいけない、というもの。私の周りで、私の体内で過去には経験したことのない新たな風が吹き始めたのです。これは私にとっての大きな喜びでした。


☆:一方、認知が気になり始める

そして、やがて夏。右手に杖、左手で私の腰のベルトを握ればギッコンギッコンと・母は身体を傾けながらも杖をついて歩きました。「ヨイショッ、ヨイショ」、と母は歩くという行為を楽しむようになっていました。

梅雨の時期ではありましたが、もう、夏はすぐそこ。立田山自然公園の遊歩道を、「ヨイショ、ヨイショ」、と本当に母は頑張りました。しかし、母にとって、この運動が日常になってしまうと、今度は刺激のない日常に不満が出るようになるのです。多分、「もう、私は独りで暮らせる」、と思い始めていたのだと思います。

母はこれまでの経過、頑張りの努力の日々を殆ど記憶していないのでした。そして、常に寄り添っていた私の存在も・です。体力と能力の回復の一方で進む記憶障害、というこの矛盾。

昨日の事を記憶しないが故の日常への不満が母には出るのです。つまり、自分は元々から歩けていた・と。「お前が私をここまで歩けるようにした、というのは信じない」、と。
「散歩?。一体、今日は何の為に散歩に行くんだ?」、「私は歩けるのに」、と。

★:また、TVの介護番組などで

車椅子に座ったご老人のシーンを見掛けた時など、「可哀想にね・。不自由だろうね。私はあんな生活にはなりたくないね」、と言ったりするのです。

このように、母にとっては今日の変化も明日になれば退屈さに変わる有り様。痛みが減り始め、運動量が増え、行動範囲が広がった母は次々と新たな変化を要求するようになるのでした。

3月末の転倒の事も忘れ、既に約2ヶ月以上に渡る鍼やマッサージさえ忘れている母は、「ほら、私はこんなに元気なのに・」、と今の自分の姿しか理解できません。これは認知の典型的な症状でした。


☆:2003年7月半ばの頃。

★:再び「佐世保に帰りたい」、と。

身体の痛みが減ると再び母は「佐世保に帰りたい」、と言うようになります。「私は佐世保に帰る。帰しておくれ!」、と母が言出します。2003年の夏の頃、熊本での同居を始めて3ヶ月半を迎える頃です。認知と体力の回復が言わせる言葉でした。

3月末に熊本に来た際には我が家の玄関から居間までは広げた毛布に身体を横たえ、引き摺られて進んだ母。でも、「元気になった分だけ別な新たな危険が生じる」、そう思いました。

既述したように、元来から母は心臓弱く血圧も高く、そうした母を心配した同じ佐世保市内に住む長男夫婦が母を呼び寄せては同居を試みるのです。でも、母は少しでも体調が回復すると勝手に自宅に戻っていました。

また、長崎に住む長女の紘子の家にも母は世話になるのですが3ヶ月も経つと、「佐世保に帰るよ」、と言い始める始末だったのです。

こうして、体調が悪くなる度に一旦は長男や長女の家で世話になるのですが暫くすると独居を望んでは実家に戻るという、そんな生活を続けていたようです。これ自体が母の気丈夫さと認知の結果だったはずです。

このように、佐世保で独居していた時期の母は独居生活に戻る度、二度、三度と庭や室内で転倒しては足の指を骨折したり、肋骨を一度に4本も折った事もありました。

このような経緯があって、今は熊本で次男の私と一緒に暮らしているんだと説得しますが母はその経緯の多くを理解しようとはしません。

「私が利彦の家に居た事があるって? へーっ、何の為?。長崎の紘子の所にも居たって・、そんな事はないと思うけど」、と言います。

嫁は、「熊本でお義母さんが日増しに元気になっていくのは直さんの鍼や按摩のお陰ですよ。分かって下さい」、と言いますが「鍼に按摩・?、そんなものを直裕がしてくれたって?。有難いとは思うけど憶えてはいないよ」、と。今でも不定期に鍼を打ち、たとえ昨日に鍼をうっていても母は憶えてはいません。



☆:2003年8月の頃。

こうした日々の中、来熊後5ヶ月目を迎える2003年の8月の頃の母は風呂に入るにも段差部分の歩行介助さえすれば一人でも入浴ができるまでに回復していました。もう、それは見事なものでした。

少しでも目を離した時などには杖も使わずに居間から台所への段差の2段を上がり、流しの前に立って何かをしようとしている事さえあったのです。凄い生命力と言うか、生活意欲の高い人。本能的な人だなァ、とつくづく感じたものです。

この時、台所仕事を与えようとも思ったのですが、それはそれで最後には危険な包丁を使わせるまでに発展してしまう事が予測できたので台所仕事は茶碗洗い程度にしました。

左目が見えない母は遠近感が乏しい為に包丁は危険なんです。現状の母の回復力を喜んでばかりはいられません。自由が利くということは限りなく転倒事故へと向っている事でもあるんです。

★:しかし、「私にはお茶碗洗いくらいしかできないとでも思うのか?」、と母が絡んできます。

気丈夫というか、母は働き者なんです。でも、実際の処は茶碗洗いにしても母が洗った茶碗や皿には油や米粒が付着したままでした。

両眼での視力が薄いだけが理由ではなく、指の皮膚感覚などが鈍くなっているから茶碗に残る微妙な油分や米粒のべたつきが分からないのだと察しました。

嫁が、「お母さんのそんな洗い方じゃ・」、と言おうとしますが、「よせ、言うな。洗おうとするお袋の気持ちだけでいいじゃないか。お前は普段通りに後で洗い直せばいいのさ」、と私が嫁の言葉を制する場面がよくありました。

2009年の10月時点、今でこそ施設のケアマネとして頑張っている嫁ですが、この頃の嫁は訪問介護専門の1級ヘルパーさん。まだまだ、人の老いがよくは分かっていない頃でした。勿論、私もです。



☆:2003年9月の頃。

★:母が週1回のデイ通い。

杖さえ使えば歩けるまでに回復した母。でも、声を掛けて振り向かせれば転倒する気配が間違いなくあります。

日常を退屈そうに過ごしていた母を2003年9月26日から週に1回だけは、と同じ団地内にあるデイ施設の【ゆるりの家】に通わせるようにしました。直線距離だと我家からは200mくらいです。

元来、母は周囲に気を遣う事も多いデイ通いには不向きではないか、と思ったのですが驚くほど簡単にデイ通いを承知しました。

毎日が退屈で寂しかったのでしょうか。老いてくると食事の好みや性格も変化するようです。母の場合には大好きだったはずの納豆や豆腐を嫌がったり、焼き魚にしても身の部分を避けて苦い内臓を好んで食べるようになったりしていました。


★:母のデイデビュー~お得意のハモニカで人気者に。

そんな母はデイではお得意のハモニカを披露したりして人気者になります。突然の母のデイデビューでした。デイから帰った母は、「さて、来週は何を吹こうかネ」、と自室で練習をする姿が目立つようになります。ピューピュー、ピャー、と。

「直裕っ、このハモニカは今一つネ。もっといい値段のするハモニカを買っておくれよ」、と。生き甲斐一杯、生きる気力を溢れさせた母の表情がそこにはありました・ね。


★:私にも僅かだけ時間が・。夢中で駆け抜けた半年分の深呼吸を・・。

こうして、母がデイ通いを始めてくれた事で私にも少しだけ気持ちの余裕ができ始めました。4月からこの9月まで私が職場にまともに通った日は本当に僅か。私達の暮らしはドン底でしたが、この6ヶ月、私は母との貴重な時間を過ごす事ができました。

そして、努力もしました。私はそれまでの人生の中でこれほどまでに努力をした事はありません。それも、自分の夢や仕事の為にではなく、母の為への自分の努力です。

振り返れば、私はこの時期に母から育てられた恩の半分を既に返し、朽ち始めていた母の人生を変え、生きる喜びを与えたとさえ思っています。この頃の私・・、自身をマザコンなどとは思うことはなく、むしろ、兄や父親のような思いで母を見ていましたね。嫁は「貴方はお義母さんの母親みたい」、と。



☆:ようやく、我が家に命が宿り始める~私がギターを手に・。

母をデイに見送った後、嫁は訪問介護の仕事へ出発。私はポツンと居間に・。ドクン、ドクンと脈打つ自分の心臓の響きを久し振りに体感。私は久し振りに自分自身の存在を意識したのです。

そして、立ち上がって居間の窓を開けて見る空には雲の流れが見えました。そばには風に揺れる木々の葉・・。この日、いろんな事が私の脳裏を駆け巡り始めたのを覚えています。

3月末から始めた母との暮らしの中で、無我夢中にひたすらに駆け抜け過ぎ去った時間の中で何一つ自分の事を考える余裕がなかった事。

「これでいいんだ!」、という思いと、「俺の人生って何だ」、と激しく問う私自身・。ハアーッ、ハアーッ、ハアーッ・・、と半ば気が狂い始めたような自問自答を反復していました。

私は夢遊病者のように埃にまみれたままのギターを手にし、約30年振りに新しい弦を通したのでした。一度は棄てたはずの音楽でしたが、私の心の停まり木は音楽しかなかったようです。


★:私のギターに母が喜ぶ。

「お前はギターが弾けたんだよね。そうだ、そうだった」、「お前はいろんな楽器が弾けたんだったね」、「久し振りだよ。お前がギターを持つのを見るなんて」、と母は喜びました。こうして、突然でしたが、我が家での母との暮らしに音楽が加わったのです。

母の吹くハモニカに合わせて弾くギター伴奏に、まるで我が家に命が宿り始めたようでした。母の吹くハモニカが再び私の中の何かを目覚めさせたのです。母と嫁は私のギター伴奏で、「♪酒は涙かため息か・」、「♪兎追いし彼の山・・」、「♪麗しき桜貝ひとつ・・」、といろんな曲を唄いました。

実は私、嫁の歌声が大好きでなんです。少しだけ音程がズレる事がありますが、それでも学生時代の嫁は熊大教育学部の声楽科に在学し、ドイツオペラを学んでいたんです。

今でもそうですが、嫁は知り合った頃から綺麗な声の持ち主で私には天使の声のように聞こえたものでした。私は彼女の声を聞くと心が安まりました。だから、彼女が愚痴をこぼしたり、周囲を批判したりするのが私は嫌いなのです。似合わないのです。

やがて、母は手にハモニカを、私はギターを膝に・・。母は自分の生い立ちを語り始めるのです。「こんな頃にこんな歌が流行ったものさ」、と。母の話に嫁は必死に母の言葉をメモし始めるのでした。こんな時の母からは認知という言葉すら消え去っているかのようでした・ネ。


☆:2003年10月の頃。

こうして、2003年も10月を迎え、母との暮らしが7ヶ月目に入った頃。次第に母の口から、「佐世保」、という表現が減り、「佐々、深江、歌が浦」、という地名が増えるようになっていきます。母が幼い頃に過ごした場所です。

会話が増えていく一方、その会話によって母には徐々に認知の速度が増してきているかが分かるようになるのです。単なる懐古ではありません。母の言葉には時代錯誤が加わり、母が語る当時の記憶の多くは正しいのですが、時代がズレていたんです。母が幼い頃に住んだ北松浦郡歌が浦の海が伊万里市大久保から見えた海だったり、平戸の海だったり・。


★:【♪:母がピエロになっていく】、

この作品が生まれたのは本当に偶然でした。嫁が母に入浴を勧めるのですが、「あんたの世話にはならん。今日に限って妙に優しいね。いつも私は独りで風呂に入っているじゃないか・」、と母が嫁に絡むのです。

「そうじゃないでしょ。いつも私や直さんが浴槽に入れるまではお世話しているじゃないですか」、と嫁が説きますが母は理解しません。

そこで、「そんなふうだとイサム兄さんから叱られますよ」、と言った途端、「ハイハイ、ではではお世話になるという事でお風呂に入りましょうかね~」、と・。やがて、お風呂では母と嫁がキャアキャアと姉妹のようにはしゃぐのですが・。【♪・母がピエロになっていく】という曲は、この母と嫁が風呂場でキャアキャアとはしゃいでいた僅か数分の間にできたのです。

「♪今、私はどこに居る、どうしてここに居るの?。私の母は誰?。そして父は誰?、私は誰?・」、

この詩のすべてが母の様子を語り、母の記憶や母との実際の会話を引用しています。「ねェ、ここはどこネ。何でここに居るとネ?。私のカアちゃま、トウちゃまはどこ?。一体、私はどこの誰ネ?。私の名前は?、アンタが私の子ってネ?」・・・。

後日、録音が済んだテープを聴きながら私は何度も嗚咽を繰返しました。少しだけですが、また変わり始めた自分の心を知ったのです。老いてゆく母が私を次々に変えていくのです。

「ああ、俺は今でも母に育てられている」、心からそう思いました。



☆:2003年11~12月の頃。

★:既に嫁は私よりも母の歴史を知っている。

この頃、入浴を済ませた母はベッドや居間で横になり、私のマッサージを受ける度に自分の生い立ちから現在迄を思いつくままに語り始めるのでした。

母の昔話からは私の知らない母が次々と登場し始めます。夜は寝るのを忘れるほどに昔話に花が咲き、嫁も必死でメモをとりました。もう、今の嫁は私よりも母の歴史を知っているはずです。

この時期、生き生きとした母からの昔話は徐々に私の人生観に影響を与え始めるようになります。
老いた者からしか学べないモノって意外に多いんです。日本人が日本人を自覚するには老人を知る事かも知れないと思うようになるのです。


★:母が長女の紘子の事をミツ子姉さん、と言い始める。

母の身体機能は見違えるほどに回復したのですが、認知の方は確実に進行していました。母は長崎に住む長女の紘子からの電話を毎晩のように待ちました。

それは母が母に戻る瞬間でもある筈なのですが、その一方で母は長女の紘子の事を自分の姉のミツ子さんだと思い込む日も多く、故・ミツ子姉さんからの電話を待つ妹に戻っている母の姿でもあったのです。そして、この長女との電話ですが、会話が突然にブツンと途切れる事が多くなります。

母が長女の紘子の妹になったり母に戻ったりするから会話がなかなか続きません。母は自分がいつの時代に生きているのかが分からなくなり始めていたのです。

「えッ、あんたは紘子?。ミツ子姉さんじゃないと?・。あァ、紘子ね、・そうだったね」。
「情けないよ。一体、私には子供が何人居ると?」、と母。

そんな事が話の核になる日が多く、長女の紘子は自分がミツ子さんではなく、母の長女である事を説明するだけで会話が終わる事が多く、姉から持ち出す話題も日増しに少なくなっていくのでした。

2003年3月末から始めた母との同居。この時期の母は要介護度2。この2003年の母にとっては佐世保から熊本への転居。そして、来熊直後の転倒~回復してのデイへの通所経験。そこでのハモニカの披露での喜び・等々、大変な日々だった事と思います。

おもいっきりありがとう2003年。



Posted by 濱野裕生 at 01:01│Comments(0)〇:同居記録
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