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Posted by おてもやん at

2021年01月02日

〇・はじめに:①

〇・はじめに:①

☆・デビュー後、一年でのコンサート活動中止について。

♫:蝉しぐれ



 この件ではテイチクエンタテインメントを含む各方面へは大変なご迷惑を掛けてしまい、申し訳なく思っています。その他、 デビュー前から活動していた西日本各地の福祉団体さま関連で決まっていたコンサートも完全には消化できなかったことに対し、現在でも申し訳なく思っています。また、テイチクエンタテインメント以前、介護録を本で出版し、その巻末にCDをつけて売るという企画を持ち込んで戴いた某出版社系の放送局に対しても非常に申し訳なく思っています。結局、当時の私は母親の介護という籠の中で暮らし、その籠の外の世界が見えてなかったし、吸っている空気さえもメディアの皆さんとは違う空気を吸っていたんだろうと思っています。

 但し、デビューの約3週後には日本有線放送総合チャート1位になりながら、その後のコンサート活動をコンスタントに継続できなかった理由は明らかでした。母の傍に付き添ってこその濱野裕生であって、母に対する己の誓いを破ってまで世に出る必要は全く感じていなかったこと。  そして、そのことはスカウトを受けた時点でテイチクエンタテインメントに対しても明確に申し上げていたこと。「派手な活動はできない」、と。 テイチクからのお言葉も「活動はできる範囲で構わない。しかし、貴方の作る音楽だけは西日本地域だけではなく、北海道から沖縄に至るまで響き渡らせたいとは思いませんか?」、ということでした。
 
 「大ヒットしていながらCDは売れない。否、そもそも濱野裕生は何故コンサート活動をしない?、CDは売らない?」、とずっと思われ続けたはずです。 少なくとも、母が没した2014年以降は活動ができる状態ではありました。しかし、地元メディア界では著名なある方は「♪:蝉しぐれ~老いゆくいのち、 に関しては必ずしも介護ソングのイメージは強くなく親孝行ソングだ。しかし、濱野裕生のコンサート会場を覘く限りで言えば、♪:施設にて、♪:いのち、♪、母よ・、♪:ホッホ、に代表されるように非常に聴く者を重く辛い気持にさせる作品ばかりだ」、と言われます。

「大ヒットしていながらCDは売れない。否、そもそも濱野裕生は何故コンサート活動をしない?、CDは売らない?」、という言葉は当時のテイチク関係者から告げられた言葉ですが、このCDが売れない理由は明らかでした。私のコンサートの多くは社会福祉協議会、ボランティア協会、看護協会等々が関わるものでした。つまり、それらの主催者のバックには県や市が関わっていて、掛かる費用の多くも県や市が実質的に負担するものでした。そして、コンサート会場も利用料金の安価な公営の会場。こうした主催者や会場でCD、ポスターなどの物品販売を行えば有料催事とみなされて会場利用料金は200%以上も跳ね上がってしまうケースが殆どです。私のコンサートでCD販売ができなかった理由です。

実は、私のデビュー直後には熊本県文化課を始めとするイベントに関わる数ヶ所の担当課から連絡があり、「テイチク側からの挨拶があればいろんなシーンで協力したい」という提案があり、そのことを当時のテイチク営業のI氏にお伝えしていましたが、「その挨拶が一向にない」ということで県からのお叱りを受けてしまったのです。こうした経緯があって県庁ロビーでのコンサート企画もいつの間にか中止に・。さらに、テイチクの営業のI氏からは「何故、こんな辛い介護模様の作品ばかり作るの?」と絡まれる始末。別記事で書いたように知り合ったばかりのマネージャーからは預けた通帳からはごっそりと中身を抜かれ、販売用のCD50万円分の持ち去り等々。すべてが信じられなくなった私。その後のコンサート数は徐々に尻すぼみになっていっても仕方のないことでした。

 結局、濱野裕生の作る音楽は商業音楽の世界には不向きだったのだと自虐的に納得しています。 元来、福祉団体の主宰する各種資格取得者に対する講習会や研修会の場に呼ばれて活動していた訳ですからノホホンと暮らす一般世間に聴いて貰えるような種類の音楽ではなかったのだと思うしかありません。

 ただ、これだけは言えます。私が老人介護問題をテーマにした音楽作品を作り始めたのは2004年頃。そして、コンサート活動を始めたのが2006年頃から。当時のわが国での老人介護問題は、まだ貴方の家からは2Km先のお宅の家庭問題に過ぎず、介護保険制度が成立して僅か4~5年目の頃でした。

 しかし、今や老人介護問題は貴方のお宅を含めて左右両隣り、前後両隣の深刻な問題とさえなっていて、その内容は子が親の世話をみることができずに老いた妻が夫を、老いた夫が妻をという老いた夫婦同士による切ない老々介護問題、親の介護に疲れた長男に老いが襲い掛かり、次男が老いた親と長男の介護に苦しむ、という状況も珍しくはなく、挙句の果ては老々自殺という事態さえ珍しくはありません。 濱野裕生の出番はまだ・、あると私は思っています。その為には音楽を視覚からビジュアルで感じる風潮をやめ、貴方の耳で、歌われる詩の中身で、・・感じるものに戻すことです。私は100回の老人介護問題を扱う講演会よりも介護問題をテーマとした1曲の作品のほうが勝るはずだと信じて一つの楽曲を作っているつもりです。
  

Posted by 濱野裕生 at 00:01Comments(0)〇:はじめに・

2021年01月02日

〇・はじめに:②

〇・はじめに:②

 私の作る音楽は母との暮らしがあってこそ。そこへの理解とサポートがなければ全国的なコンサート活動は無理だという事はデビュー前から分かっていた事。私のデビュー前の活動というものは私が母の傍を離れる代わりに私の近所に住む兄嫁が、長崎からは実姉が、時には介護師2名が出張で自宅へ来てくれて母の傍につく、という状態で私のコンサートが成立していました。 

 早朝の8時過ぎに新幹線で熊本から博多へ25分、コンサートが終わるのが14:00としても15:30には私は熊本へ戻っては母の傍に添う事ができました。逆に天草の牛深の介護家族の会からコンサート依頼があっても列車も通わない為に車で行くとして、コンサートを終えて熊本市内に帰ってくるには大変なことです。こんな無理なコンサートでは私と嫁の二人でCD売って帰ってくるなど絶対に出来ません。 つまり、母親の介護と私の音楽活動は最初から矛盾があったんです。それとも、老いた母を見捨てて歌手活動に専念するはずだと思われていたのでしょうか?。 第一、私には本業とする会社とそこで働く仲間がいるんです。

 当時、ある福祉関係の方がこんなとんでもないことを言われたことがありました。「もう、貴方をメジャーの世界へ送り込んだのだから、私の役目を終わった」と・満足げに・。 私は「えっ?」、と驚くだけで全く意味が理解できませんでした。 「私は、・今夜も明日も・ずっと母の傍に居続けます。私は母を見捨ててまでメジャー活動は出来ません」、と応えれば、その方は「えっ?・」と不思議な表情をされました。

 勿論、デビューが決まる一ヶ月前にはマネージャー兼音響機器の操作係としてUという男性が名乗りを上げてくれました。ギャラ+会場売りCD+介護録の売り上げの中から燃料費、フェリー代金等の経費を差し引いた残りを等分するという取り決めです。 最初はいい感じでした。 Uを全面的に信頼した私は毎日のように我が家へやってくるUに対して指示をし、母中心ではありますが柔らかい食事を多めに作ってはUを含めて母と嫁、私とUの4人で夕食を囲む事が多くなり、「ほら、Uさん!これも食べなさい」と母とUとの関係も非常に良好だったんです。しかし、このマネージャーが飛んでもない人物だったのです。 この後は〈裕生の独り言〉に譲ります。
  

Posted by 濱野裕生 at 02:02Comments(0)〇:はじめに・

2021年01月02日

〇・独り言:01

〇・独り言:01

☆・悔悟なき介護の為に。

 我が母は2014年3月17日早朝、永眠しました。 脳梗塞を起こして入院する老人にはよくある嚥下障害による肺炎。つまり、老人性肺炎ということでこの名称は一般的によく耳に目にするご老人の最期につけられる死亡原因です。しかし、母の場合には胃ろう術が施されて常にギャッジアップと左傾きの姿勢がとられていた為、栄養流動食のアイソカルの誤嚥はあり得ず、あるとすれば唾液や口腔ケアジェルが肺に溜まることくらいでしょうか。吸痰、ジェルによる口腔ケアも病院側からは余り積極的には行なわれず、理由は母には普段から痰が生じず、口腔ケアも基本的には私が朝夕に行なっていたくらいで、
「ツヤさんには吸痰は不要」と看護師さん達も理解し、時に派遣や週末だけ勤務・という母の状態をあまり理解しない看護師さんが「はい、吸痰しますよ」と。意味の分からないことを突然にされるものだから母はとても辛い様子でオエオエと従っていたくらいです。

☆・2週間ほど前、病室のエアコンの修理がなされていた。

 後日、懇意にしていた別病院の医師からは実際には真菌性肺炎だった可能性があった事が指摘されました。母の主治医のAさんは「おかしい、抗生剤が全く効かない」。必至に対応してくれましたが母の容態は落ちていく一方でした。 実はこの2週間ほど前に母の居る病室のエアコンの効きが悪いという事でフィルターの交換が為されたのです。本来であれば、入院患者を別室に移した後で行なうべき作業のはずでしたが、それが為されなかった。直ぐに終わるものだと業者さんも看護士達も思ったんだと思います。しかし、フィルター交換だけでは済まない状況で、エアコンのフィルターを外した状態で試運転のような事が何回も繰り返されたのです。「これはいかん」とは思ったのですが・。

 翌日、母の隣のベッドのY悦子さんの咳が始まり、発熱を伴う血尿が見られ、診察の結果、導尿管交換の際の不手際による出血だろうということでした。付き添っていたご主人は「下手な作業をしやがって」と舌を鳴らしておられたんですが、奥様の咳は酷くなる一方。「血尿で熱が出ても咳は出ないででしょう」という私の意見に頷かれ、再診察を申請された結果はエアコンのカビ(真菌)が引き起こした激しい咳と肺の炎症による発熱と再診断がなされて治療が始まり、その後は回復しているようでした。しかし、今度は二日遅れで母の咳が始まったのです。
  

Posted by 濱野裕生 at 07:07Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月02日

〇・独り言:02

〇・独り言:02

☆・悔悟なき介護。

 私は母が痰を伴う咳をする姿を見たことがありません。咳には心臓疾患性のものもあるんですが、心臓が弱い母の咳き込む姿さえ私は目撃した事がないんです。その母がエアコンの修理後にコホン・コホンと顔をしかめて咳をし始めたんです。そして、翌朝には発熱が始まり、咳がどうしても止まりません。酸素摂取量を測れば91,87,84・・と次々と下がり、枕元に備え付けられた酸素供給器からは母に酸素が・。レントゲン写真をみる限り肺炎状態というのは経験(後述)上から理解できました。しかし、「何故なんだろう、抗生剤が全く効かない」と主治医のAさん。

 僅かな知識しかない私でしたが、「この写真は誤嚥性肺炎を示しているんじゃなく、肺全体に増殖しているカビ(真菌)じゃないか」と感じたんです。しかし、主治医のAさんは「ホラ、肺全体が炎症状態です」と繰り返すだけ・。隣のベッドのY悦子さんの主治医はF医師。このF医師とA医師の対処の違い、それはエアコンの修理が為されたことを知っているF医師と知らされていなかったA医師の違い、医師としての引き出しの数の違いでした。

 エアコンの故障とフィルター交換の際の感染症に対する無知な業者、その作業を見て見ぬ振りした看護師・。 A医師の不手際を指摘すれば病院全体の管理監督状態まで指摘しなければいけなくなる私は喉元まで出かけた言葉を飲み込むしかなかったんです。後々になって某看護師さんが私に言った言葉が「あの時は抗菌剤の投与が必要でした」というものでした。「こいつ、医師より詳しい」と思ったもんです。 結局、私は母を救えなかった。「母ちゃん、済まないことをした」、「A医師には俺の意見をはっきりと伝えるべきだった」、と私は母に詫び、ずっと悔やんだままで苦しんでいます。
  

Posted by 濱野裕生 at 08:05Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月02日

〇・独り言:03

〇・独り言:03

☆・アスペルギルス症(呼吸器真菌症)

 アスペルギルス症とは、真菌が肺の中で増殖蔓延しては呼吸機能を低下させていくもの。実は、この症状で呼吸器機能を低下させては酸素摂取量が低下して眠るようにして死に至る老人が多い事を在宅介護であろうが入院先の施設であろうが私達は知っておく必要があります。

☆・実際、母の肺の模様を写真で説明してもらった。

 X線検査画像では確かに肺炎に見えるのですが、実は真菌に冒された肺の写真も似たような見え方をします。アスペルギルス症は広義では肺炎の範疇に入る呼吸器真菌症の肺炎ですが、このアスペルギルス症状には絶対に抗生物質は効果を示しません。もし、早い段階で誤嚥性肺炎ではなく、これは真菌によるアスペルギルス症であると診断さえされていれば抗真菌剤を点滴を通して処方すべきだった・私は今も思い続けています。

☆・母の両足には真菌性の爪白癬もあった。

 この爪白癬は母が通所していた大江のK苑というデイ施設の入浴時、私達が持ち込んだバスタオルを使わずに他人の身体を拭いたタオルが母に使用されたことが切っ掛けに生じた事は施設から侘びをいれられたことで既に明らかで、このデイ施設では母の入れ歯が別な利用者へ嵌められ、「合う、合わない」騒動もあり、N日本病院という施設では母の服用薬が別な患者に処方され、母にも処方される寸前に私が気づく・という事故未遂もあり、通所・入所の区別なく家族は絶対に朝夕は施設へ通っては介護看護の監視?をすべきだと思っています。人は信じたいものですが、疑うべき対象でもあります。

 問題は現代の医療体制。入院~介護体制~医師や看護師の勤務体制の問題がこうした医療事故、介護事故問題を生むのだと考えます。看護師は多忙な主治医を庇い、主治医殿には利用者・患者の日常の報告を躊躇っては家族の思いを裏切り、主治医に報告するのは利用者・患者が異常な状態になってから・。主治医は主治医で家族を交えたカンファレンス自体にも関心がなくて参加しない・。 介護・看護師も利用者・患者に異常が出て初めて対処する・という全く入院の意味のない長期滞在型の老人介護が行われているという実態を恨むべきかな・と思います。

私はこのような介護看護状態であれば《在宅介護・医療》のほうが絶対にいいと思いながら母の傍に付き添ったものです。
  

Posted by 濱野裕生 at 10:09Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月02日

〇・独り言:04

〇・独り言:04

☆・アスペルギルス症:②

 画像を見て肺炎と診断して抗生剤が効かなければ、それは真菌によるアスペルギルス症だと100%断言してもいいほどに医療界では常識です。抗生剤と抗菌剤は似て非なるものです。A医師がその使い分けをしてくれなかった理由、・私は随分と考えました。 多分、どこかで「・、もう、充分に生きたから」という判断があったのではないかと・。 診断ではなく判断があったのではないかと思っています。 そのように思うことで病院側、主治医殿を責めるのをよそうと、・思うことができるからです。この10日ほど前のA医師は「ツヤさん、そろそろ自宅に帰ってみましょうか」とも言っていたほどでした。医療保険だと3ヶ月を越えると病院側の利益率が下がることは誰もが知っていて、覚えがある人もいますね。

☆・私が病院・A医師を責めなかった理由。

 それは「先ずは家族が異常に気づくべき、次に看護師、そして報告を受けた主治医だろうと思うからです。母には爪白癬(爪水虫とは微妙に違う)があった事は看護師の誰もが知っていたこと。勿論、看護師長も・。知らないのは主治医殿だけでした。私は何度もその事を主治医殿に伝えるように依頼しましたが、主治医からは戻ってくる返事はなく、伝わってさえいなかったようです。 ここでも、診断ではなく、病院としての別な判断があったのだろうと思うしかありません。
 但し、これが通院状態であったならば、私は主治医の前で母の靴下を脱がせ、母の爪白癬を示していたはずです。もし、エアコン修理時に放出された真菌によるアスペルギルス症だと診断され、治療方法が変更されていたなら、・・母はもう少しだけ生きていたのかなァ・と思っています。

☆・なぜ、私がこれほどまでに言い切れるのか。

 現在、私が営む会社は4名。大小のホールの音響、照明機器のプログラムやオペレートを中心としたものに限定し、後継者も見つからないことから既に数年前から会社そのものの終焉を考えていますが、かつては54名の集団だった時期があり、北九州地区の総合病院、脳外科、循環器科、整形科からの委託によってX線、CT、MRI検査画像を外部デバイスへ記録、保存業務を行なっていた経緯があって、私は多忙な医師がうっかり見落とした重大な疾患を見つけて報告し、感謝されたことが何度もあります。他の臓器と重なって写る事の少ない肺のX線画像は比較的に見易く、そうした理由でA医師が私に示した母の肺の画像は私にも容易に理解でき、これが真菌によるアスペルギルス症のように見えたのです。そうであれば、抗生剤ではなく抗真菌薬が使われるべきだったと今も思っている理由です。  独り言:➄に続けます。         
  

Posted by 濱野裕生 at 11:07Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月03日

〇・独り言:05

〇・独り言:05

☆・但し、このエアコン修理の出来事以前から。
 朝のバイタル測定では正確な数値が出なくなるほどに母の容態が悪くなっていたのは事実です。特に母の様子が変でもなく、表情も穏やかなのに一日の中でも血圧計では数値が表示できたり、全く表示出来なかったりする事が続いていました。
  簡易血圧計や手首で脈拍をみても鼓動は非常に薄く、心拍を感じられないことがある瞬間が幾日も続いていました。だから、気が利く看護師さんは枕元の酸素供給器を母に装着して様子をみたりしていました。 「もしかしたら母の闘いも終わりが近づいているのかなァ」という感慨は私自身でも持っていたんです。

☆・入院時に誓約書にサインしていたAEDの準備がなかった。

 でも、このくらいは言ってもいいのかな?、脳梗塞で緊急搬送されて入院した際に交わした委任状には「今際の際、肋骨を骨折させるほどの心臓マッサージは不要だが、2回までのAEDの使用は依頼」とチェックしていました。しかし、そのAEDが母の最期には準備がなく、夜間専門の当直医と週末限定の派遣看護師だけというスタッフ。彼等には殆ど申し送りが為されていなかったようで、私が何をどう訊ねても「知らない」とばかりにポカンとした表情だった事でした。

 母が逝く最期の2日間の闘いは実に壮絶でした。姉夫婦、兄夫婦も来熊していましたが、母の最期を看取れたのは私だけ。私からの連絡で駆けつける姉、姉夫婦等の気配を廊下で感じた頃には母は息を引取った後・。でも、母は実によく頑張りました。 ひたすらに「あの人達はいい人ネ」と繰り返しては感謝だけで日々を過ごし、誰も恨まずに生き、母は私を見つめながらフッと風が吹き止むように目を閉じて彼の地へ旅立ったのです。

 看護師さん達の「ツヤさん、おはようございます」という挨拶に対しても硬直した喉から振り絞るような声で「ア・ナタニ・モ ・オハヨウ・ネ」といつも感謝を示していた母。私には母のような崇高な生き方は絶対に出来ません。死して尚、我が子に対して影響を与え続ける母親って凄い人だったんだなァ、と思っています。
  

Posted by 濱野裕生 at 04:07Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:06

〇:密かに感じている母への負い目・①

☆:2013.8.17

テイチクからスカウトを受け、2004年に作っていた[♪:蝉しぐれ]をメインに♪:金木犀、♪:ホッホ、♪:兄ちゃまの4作品を収録した《蝉しぐれ~老いゆくいのち》での2011年7月20日のデビューから2年が経ちました。

幾つかのオファーが入り始めて多忙になりつつある私を気遣うように我が母はデビュー直後の2011年8月、「私の事はもう・いいよ・」、と言うが如くに脳梗塞を発症、我が家から約4Kmほどの病院へ搬送されました・。もう、2年が過ぎたんです。私は全てのオファーに応えることなく、シンガーとしては中途半端なスタートで自らの活動に再び垣根を設けてしまったようでした。でも、親の介護がテーマですから、その活動には社会面、プライベート両面で制限はありますよね。

やがて、デビューから約1ヶ月後の8月23日、私の唄う《♪:蝉しぐれ》は全国有線総合チャート1位になったと知らされました。確か、4時ごろの電話連絡でしたが、くしくも母はその電話の直前に《胃ろう》の施術を受ける為の仮麻酔を処方されていたのです。
テイチク関係者からの報告に無言を貫く私に対し、「何だ?、有線総合チャートで1位。それも福山雅治の♪家族になろうよ を押しのけての1位獲得だっていうのに嬉しくはないんですか?」という電話内容だったと思います。 この時、私は強烈に思い知らされました。「一つの悲しみはあらゆる喜びというものを簡単に打ち消してしまうものだ」、と。


胃ろう器具の装着の為、施術室へ向かう母は搬送ストレッチャーに乗せられたままで私をずっと見つめていました。「よく見なさい。これが老いよ」、とでも言うかのように・。「私にまた何かが起きる」、「怖い」と感じるものなんでしょう。約20分後に病室へ戻された母・。正直に書けば、「あァ、お袋はロボットに改造された」、と思いましたよ。

その後の4日間は腹部に開けた穴の炎症を抑える抗生剤入りの点滴生活。そして、5日目からは腹部の穴に取り付けられたペグキットを通してアイソカルという液状の栄養が病室天井から吊るされたボトルから与えられ始められたのでした。

「・ハハ、・車に・・ガソリンを入れるみたいね」、と思わず私は言葉を発していましたが、母は自分の身体に何かが取り付けられたことと私の言葉の意味を咄嗟に理解したらしく、宙に吊られたボトルと傍に居る私を交互に見つめながら、厳しい表情で睨みつけていたのでした。「こりゃ何ね。こりゃ」、と・。この当時の母は既に嚥下障害が出てはいても喋ることは可能でした。

「母ちゃん、口からはモノが食べられんようになったと・さ」&「この器具でお腹に直接栄養を入れとるとさ・ね。仕方がなかさね」、と私。「私はこれで元気になれるとぅ?」、と母・。

「なるる・よ」&「そして、母ちゃんが元気になったらこの器具は外して貰うけんね」、と私は連日のように母を説得したものです。

2011年、8月27日。この病院の執拗な提案で私は6Fでデビュー後最初のコンサートを行なっています。

  

Posted by 濱野裕生 at 15:15Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:07

☆:密かに感じている母への負い目・②

実は、母が脳梗塞を起こすに至った経緯の中、私は幾つかのことで己自身を激しく責めています。多分、私はその事を生涯背負って生きていかねばならない・とさえ思っています。決して、《過ぎた事ではない。人というものが如何に己の都合や周囲の意見に左右されてしまうかということ。己にとって特定の人物の考え方・人生観みたいなモノが己の言動に与える影響というもの。そして、その事がいとも簡単に母自身の人生までもをコントロールしてしまったか・という事への悔いです。

例えば、長崎キャンペーンの際に姉が発した「母ちゃん、長与に連れておいでよ。万が一の事があったとしても、・それはそれで母ちゃんにとっては本望と思うよ」、という言葉。それに、悔いが特に強いのは母を長崎へ同行させる決意をした私自身に対して・。また、こんな時には全く相談相手になるはずがない兄夫婦に対しても・。あの時の姉も私も本当に身勝手だったと反省しています。

でも、このような事に気付き、悔いているのは私自身であって、このことを姉や兄夫婦に「反省しろよ」、と強制する気は全くありません。悔いるのは私だけでいいんです。要は、母の脳梗塞は私が起こさせたようなものだったんです。母のお世話をしているのは私ですからね。

デビュー直後の2011年8月1日には長崎へのキャンペーンが組まれていて、長崎に住む姉は「母ちゃんを連れておいでよ」、と。母も「あァ、紘子に会いたいね」、という事で家族全員が楽しみにはしていたんです。その結果、母は脳梗塞に・・。

今、振り返れば、この母の脳梗塞には既に数日前から前兆があったんです。7月30の母はデイで入浴を済ませて帰宅し、普通に夕食を摂りました。ただ、ご飯のお代わりを2度も・。何気なく嫁が発した「お義母さん、お腹が破裂してしまいますよ」の言葉に対して母は激しい怒りを示したのです。母には1食に対してご飯は125g以内で・と言われていたんです。

でも、そうした事が理解できていない母は、「この家には米粒も満足にないのか?」、と嫁に食って掛かるのです。でも、認知が入っている際の母の喜怒哀楽ってその場で終わりですからね。
嫁への怒りも直ぐに忘れた母は20:30頃には「そろそろお風呂にでも入りましょうかね」&「お風呂は沸いてるの?」、と嫁へ訊ねるのですが、嫁は食事の際のおかわりの件を引き摺っているものだからムスッ・とした態度で、「お義母さん。今日の貴女はデイでお風呂に入っているでしょうが・」と・。確かに、デイでの入浴サービスは原則的に利用してはいないのですが、この日の母は入浴の勧めに応じて帰宅していたんです。

「お義母さん、お風呂は入ってきたの」と聞けば「否、入ってはいなよ」と答え、「「お義母さん、お風呂は入っていないでしょ?」、と聞けば、「否、入ってきたよ」という、こうした会話はあなたのご家庭ででも結構あるんでしょうね?。

  

Posted by 濱野裕生 at 16:17Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:08

☆:密かに感じている母への負い目・③ 2013.8.19

誰にだって《あの時の失敗》ってあるんでしょうね?。悔いというものにはその後の人生訓になるものが多いんでしょうが、対・命に関しては私はそうは思いません。もう少しだけ冷静に判断して行動してさえいれば母の脳梗塞は避けられたものと思っています。

夕食のお代わりの件、一日に2度目の入浴の件で嫁と交わした激論の余韻で顔を紅潮させている母。いつもであれば、私はここで母に対して別な話題をするのです。それは母にとっては心地よい話題。例えば、母が幼い頃に住んだ歌が浦の話や母の両親の話や夏休みの期間に母がどんな遊びをしていたか・・、など。そうした話題を振り向けることで母は幼少時の歌が浦時代の話を懐かしく嬉しそうに語り始め、いつしか母の脳裏からは先程の嫁との激論での嫁への怒りが消え去ってしまっているものでした。

これは、母に認知が出た時には必ずやっていた事です。つまり、平成の世に居る母・ツヤを幼少時の河内ツヤにする事で平成の世の私の嫁の存在と嫁への怒りを消すんです。こうする事で母にとって目の前の私は河内イサム・という当時の母の兄ちゃまになっている事が多い事を利用した母のコントロール方法です。

でも、この日の夜の私はこうした事をしないままに母をお風呂場へ連れていったのです。左股関節にある骨折や心臓病を併せ持つ母はいつもは浴槽には入らずに洗い場でのシャワー浴だけで辛抱するのですが、この日は様子が違っていて、「どうして浴槽へ入れてくれないの?。私は入りたいよ」、と言い張ります。私は反発もせずに母の背中を流した後に浴槽へ入れたのです。そして、浴槽から出して浴室用椅子に座らせた母の身体を拭き終わって、「さァ、出るよ」、と動作介助をして立たせた時、「熱っ、熱っ。痛い」、と母が大きな声を発したんです。それは僅か2秒程度の事でした。「どうした?」、と私が聞けば「何が?、どうもしてないよ」、と母。今、思えば、これが全ての始まりだったような気がしています。この「熱っ、熱っ。痛い」という言葉を発した際、母の脳内では梗塞という状態が始まっていたはずでした。後々になって私に重く圧し掛かって来る大きな悔いです。  

Posted by 濱野裕生 at 17:21Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:09

☆:密かに感じている母への負い目・④ 2013.8.20

前夜、浴室で立たせた際、「熱い、痛い」、という言葉を発した母。出血や梗塞等の脳障害で入院されて回復されつつある方の多くが「自分の場合もそう感じた」、と申されます。多分、人によってはめまいや吐き気があったり・と、その前後の状態は違うものなのでしょうが・。

私の母は「熱っ、痛い」、と言っただけで、その直後には正常な感じに見えました。私はいつものように洗面所では母をバスタオルをひいた椅子に座らせ、身体を拭き、オムツを穿かせ、母が大好きな天花粉をポンポンと・。この時には先程の嫁との口論などはすっかりと忘れ、母は「お先に休みま~す」、と嫁に声を掛けるほどでした。

今、思えばこの夜の母にはトイレタイムがなかった事。一度は私は母の部屋に行ったのですが母は完全に熟睡状態だった為、声を掛けずに私は部屋を出ています。理由は、私が母を定時に起こさなかったとしても母のベッド下にはセンサーマットが知らせてくれるからです。でも、「実際に気分が悪くなった際には床センサーでは感知しない」、と言われますね。つまり、母が使うタイプは本人がベッドに起きて両足を床に置かないと感知しないからです。だから、母は尿意を感じても自力で起きる事ができなかったのかも知れません。

朝を向かえて7月31日。この日は日曜デイが無い日曜日。私は10:00に起きて冷しソーメンを作って母の部屋へ向かったのですが、この時の母は起きません。「まだ、眠いね?」、と聞けば「うん。眠い・」、と。「トイレは?」、と聞けば。「否、大丈夫」、と。いつもは直ぐに元気よく反応する母の声が心なしか力がありませんでした。

デイもない日曜の母がお昼ごろまで横になる事自体は珍しい事でもなく、私はそのままで母の部屋を出て一人でソーメンを食べました。因みに、我が家のソーメンは嫁の実家流のトッピングソーメンというか、ソーメン作りとは別に千切りにした卵やハム、シソ、キューリやソボロなどを別に作って、好きなものを鉢に入れて食べるんです。

日曜日の嫁は大体がグータラ嫁で、仕事か大事な約束とか余程の事がない限りは好きな時間にしか起きません。午後2:00になって嫁が起きて2階から降りてきた為、私は台所で湯を沸かし嫁と母に食べさせるソーメンを茹でる準備をして再び母の部屋へ・。幾らなんでもオシッコくらいはするだろうと思ったし、第一、病院から貰った薬を朝&昼と2回抜きは駄目だろうと・。
そして、母が私の言葉に従って起床したのが午後2:00。あれほどの長い間ベッドに横になっていても起床後の母には尿失禁はありませんでした。

兎も角、この時の母は眠そうながらも起きたんです。そして、オシッコをさせ、車椅子に移乗させて部屋の隅にある洗面コーナーで母はいつものように形だけの顔を洗う仕草(既に2008年の手首骨折で右手が不自由)を・。

この間に私は台所へ走って沸いていたお湯にソーメンを投げ込んで再び母の部屋へ・。この時の母の様子に特に異常は感じませんでした。私は母を居間のテーブルへ案内し、台所で茹で上がったソーメンを氷水で洗い流して母の待つテーブルへ・。母の最初の異変に気付いたのはこの時でした。

いつもだと車椅子に座ってテーブルでご飯を待つ母は布巾でテーブルの至る所を拭いてくれているのですが、様子が全く違っていたんです。両目は伏せ、頭部は後ろの壁に支えさせ、疲労困憊している時のような表情・。でも、それは「寝不足&眠い・」、といった感じではないんです。
「母ちゃん、どうした・と?」、と聞けば、「どうもしちゃおらんよ」、とオボロ気な返事・。

その次に感じた異変、それは私が介助して口まで運んであげたソーメンを舌を使ってうまく口の中に吸い込めない事でした。口を開けさせて中に収めてあげても、口中でソーメンを丸めたり噛んだり、第一、唇でホールドできずにボタボタと床に吐き落としてしまうのです。勿論、着替えさせた普段着の上下はソーメンとそのタレですっかり汚してしまうほど・。ソーメンは無理だと思った私はデイから帰った母が必ず食べていたプリンを母の口中に運んでみました。これは見事に食べるんです。

ここで私が勘違いをしてしまうんです。「ソーメンの場合、繋がっている分だけ食べ辛いのか・」、と勝手に納得してしまったんです。第一、昨夜の母の猛烈な食欲との余りにも激しい落差・ですからね。でも、一番の私の過ち・、それは昨夜の浴室で母が発した「熱っ、熱っ。痛い」、という言葉をすっかり忘れ去っていた事でした。

もう、明後日の8月2日は私の長崎キャンペーンの日。明日(8月1日)は島原港発のフェリーで長崎へ向かい、その夜は姉の家で投宿、翌2日に姉が母を預かり、私はマネージャーと長崎市内へ向かい4ヶ所ほどの放送局&出版社関係を回る予定になっていました。

長崎に住む姉に連絡すると、「母ちゃんに万が一の事があっても・、それは本望よ」、と・。でも、もう一つの選択肢があったはずでした。それは、この一連の記事②で書いた《逆ステイ》。Gコーポへ連絡すればスタッフが我が家へ泊り掛けで来てくれて対処。必要であれば病院への搬送も可能なはずだったんです。こう・書いていると全てが悔いの連続です。勿論、この記事は当時の私にはなかった医学的な知識を加えて書いている為、余計に私自身が馬鹿に思えます。

我が母はお風呂上りに「熱い、痛い」と言った後から昏睡状態に近い眠りに入り、翌日の朝はいつもの早朝には起床できずに正午過ぎても眠っていた。そして、「熱い、痛い」の言葉の17時間後には嚥下障害が始まった・。介護族の皆さん、我が母の脳梗塞の始まりはこんな感じだったのです。心に留めておいてください。

  

Posted by 濱野裕生 at 17:23Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:10

☆:密かに感じている母への負い目・⑤ 2013.8.21


一連の記事の①で書いたように、母が浴室で発した言葉「熱っ、痛い」、というのは脳の血管に異常事態が生じた信号だったんです。「膝や肘の痛みだったかもよ」、と慰めの言葉を言ってくれる人も居るかも知れません。でも、私はそうとは思ってはいません。我が家へやって来た頃の母は口癖のように「イタタ・アイタタ」、と言っていましたが、脳が萎縮して認知が進むのに合わせるかのように痛みを感じなくなり、要介護5の認定を受けた2009年の頃のは関節の痛みを全く訴えることはなくなっていたからです。
因みに、この頃のコンサート会場では《肘や膝・痛い痛いも今のうち、認知が救うこともある》、という句を詠んで会場の笑いをとることもあるくらいでした。

★:結果的には

この《脳梗塞》には最新の治療方法がありますね。倒れてから2時間以内に搬送。検査して血液が凝固した場所を特定して3時間(現在は4時間?)以内に処置をすれば身体の麻痺等の副作用を最低限の抑える事ができる・という劇的な新薬による治療法ですが、この施術には《バイバファリン》等々の血液サラサラ剤が投与されていない事が条件の一つになっています。

でも、残念ながら私の母には普段から通院時には《バイバファリン》が処方されていました。私の母に限らず、多発性脳梗塞を持っている方にはこの血液サラサラ剤が投与されているケースが多いです。
この為に搬送した後に《脳梗塞》が分かった段階のICUでは応急手当が精一杯。結局、飲み続けた血液サラサラ剤が母の身体から抜け出てしまう期間の4日間は応急手当が精一杯だったんです。
逆に、血液サラサラ剤を日常的に服用する事で脳梗塞のリスクは減らせても、逆に脳出血が伴っていた場合、血液が凝固できなくて出血が止まらなくて重症化するケースも多くなります。バイバファリンの処方ってお医者さんでも悩む処でしょうね。   

Posted by 濱野裕生 at 19:24Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月04日

〇.独り言:11

〇.独り言:11

☆《宅 墓》ってご存知ですか?

これは私の提案であり、現在の私の心境です。母の没後、私は既に火葬場で収骨する際に長男とは別に小さなお骨壺を準備して分骨をしていました。更に、葬儀屋さんに相談し、首から下げる納骨タイプのペンダントを購入し、先ほどの分骨されたお骨壺からは数個の骨片をペンダントに入れ、現在でも常時持ち歩いています。旅先ではそれを鏡台の上に置いて話し掛けたりでき、それも弔いの一つの形だと私は勝手に定義しています。これを習慣づけることによって私は姉や兄よりも母を身近に感じることができているのではないかと確信を持っています。あくまでも私のケースです。

次に、宅墓の本当の在り方です。墓地が高額な都会では密かに浸透し始めた新しいスタイルでの弔いの考え方です。つまり、墓石の墓柱の中を丸や四角に刳り抜いて空洞を作り、コップサイズのお骨の入った納骨壺をその空洞の中に入れて自宅で保存しては日々365日を仏さまと一緒に過ごす、というものです。これが宅墓という考え方で、石材屋さんに聞けば以前からそうしたお墓の制作受注は僅かだが確かにある、というお話しでした。

自宅の敷地内に勝手にお墓を建てるのは違法行為ですが、お仏壇、或いはお骨壺だけを居間や台所に置くという習慣は以前からよくある話ですね。和室があって仏間も設けられた住まいなら兎も角、小さなマンションやアパート住まいでは仏間がないケースもあり、仏壇なんて置けない家庭もあるはずですね。この宅墓という形であれば、作るサイズ次第ではちょっとした出窓のコーナーや書籍棚にも置けるし、TV台の横にも置くことが可能です。

まずは、3㎝×40㎝×40㎝程度の平たいプレートを作り、その上に中が刳り抜かれたお洒落なデザインの墓柱を立て、表面には戒名、法名は入れずに「ありがとう」の文字や綺麗な虹の絵でも彫り、裏面に実名と行年を入れれば十分ではないでしょうか。仏は常に我の傍にありって気がします。要は、弔いの形ではなく、弔う気持ちが大切だと思っています。この宅墓の外見はよく見かけるものではなく、家族で好きなようにデザインして石材屋さんに持ち込み、「こんなデザインで作れますか?」と相談すれば喜んで作ってくれるはずです。
  

Posted by 濱野裕生 at 20:03Comments(0)〇:裕生の独り言

2021年01月12日

♫:老い人達の哀歌

♫:老い人達の哀歌 https://youtu.be/h5_InDuT_uU



詞&曲:濱野裕生

カタカタ・カタカタ・はた織り機  これは私の宝物
私が嫁いだ頃の事  母が私にくれたもの  
だから私も機を織る  母が私にしたように
せめて冬場の襟巻きを 娘に織ってあげたくて 娘に織ってあげたくて
ドレドレ娘はいつ来るの?  私の娘はいつ来るの?
もしや私の居所を  娘が知らないからかしら  
否々、知らないはずがない  私を忘れるはずがない   
日長暮らしで待つけれど どうやら今日も日が沈む・どうやら今日も日が沈む
どなたに尋ねましょ 娘の居所を
どなたに尋ねましょ  娘は元気かと
そして・せめて便りでも 私におくれよと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ

娘に都合があるのなら  せめて手紙(フミ)でも欲しいもの  
日長・娘を待つ辛さ 思いしたため・返すのに
カタカタ・カタカタ籠の鳥   籠を揺らして泣いている 
羽根をもがれた籠の鳥 私は老いた籠の鳥  私は老いた籠の鳥
否々、私はそうじゃない  ここへは遊びに来たつもり  
娘が必ず来てくれる   今日は必ず来てくれる
娘が迎えに来てくれる  そして、一緒の帰り道 
娘に手渡す襟巻きを  私はこうして織っている  
今日もこうして織っている

どなたに尋ねましょ 娘の居所を 
どなたに尋ねましょ 娘は元気かと・・ 
そして・せめて便りでも 私におくれよと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ

どなたに尋ねましょ 娘の居所を  
どなたに尋ねましょ 娘は元気かと・・ 
そして・ついでの時でいい お前に会いたいと 
どなたか伝えてよ 娘に伝えてよ
  

Posted by 濱野裕生 at 18:11Comments(0)♬:いのちの歌

2021年01月12日

♫:いのち・・

♫:いのち https://youtu.be/ooSGIM1A5gc

♫:いのち/ 詞&曲 濱野裕生



「あれは・何?」 母が私の袖を掴む  
あれは星 そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺 あんたの命を守る星
「私の母も・いるよね? あの夜空のどこかに 
私の事を見ているかしら」
「叫んでおくれよ!私はまだここで暮らすつもり」と 
「もう少しだけお前と居たいから」と

「私は頑張ってるよね  お前は分かっているよね」
母は私を振返る 
「叫んでおくれよ  あの夜空に向かってさ 
まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星

「私は頑張ってるよね お前は分かっているよね」
 母は私を振返る 
「叫んでおくれよ あの夜空に向かってさ 
 まだ私を迎えに来ないでと」 
「母に伝えてよ! お前ならそれができるはず 
私はまだ息子と暮らすつもりと」

「あれは・何?」  母が私の袖を掴む 
あれは星  そう・あんたの命
「あれは・何?」  母が私の腕を揺する 
あれは俺  あんたの命を守る星
  

Posted by 濱野裕生 at 18:14Comments(0)♬:いのちの歌

2021年01月12日

♫:兄ちゃま

♫:兄ちゃま https://youtu.be/dF6lSwsT6wA



詞&曲/ 濱野裕生

母:「兄ちゃま、あれはどこ? 綺麗な水がいっぱいあってさ」
「白い鳥が泳いでいたよね 貴方はパンくず投げたよね」。
私:「八景水谷の公園の事? 水が湧き出る公園だよね」 
水鳥が確かに居たよね  陽射しをいっぱい浴びてね」。
母:「兄ちゃま、私をもう一度 あそこに連れて行ってよ」。
私を母が呼ぶ 私の事を兄ちゃま、と呼ぶ・・。
「兄ちゃま、兄ちゃま」 「兄ちゃま、 兄ちゃま」  
母が私をそう呼ぶ・

そして、今は夜中の午前2時 私は闇を睨みつけてる
これが俺の人生なのかと この為だけに俺が居るのかと
そして、時折、俺は狂う 先の見えない運命を憎む
だけど命は一つ 細る命を見捨てちゃいけない、と
やがて、命が動きだす 「兄ちゃま、私を起こしてよ」
母がベッドで私を呼ぶ 「早くトイレに連れて行って」と・
「兄ちゃま、兄ちゃま」  「兄ちゃま・・兄ちゃま」  
母が私を  そう呼ぶ・ 

命を看るって事が  これ程大きな事だと  
最初は思わなかったさ  俺が愛に飢えていただけ
それが間違っていた  俺は一気に大人になったよ  
母に命を返す時  今になってそれが見えてきた
多分、このまま俺が死んでも 母は気づかない
「兄ちゃま、どこに行ったの?」 きっと、そう言うだけ・
「兄ちゃま、兄ちゃま」   「兄ちゃま、兄ちゃま」  
母が私をそう呼ぶ・
「兄ちゃま・兄ちゃま」  「兄ちゃま、兄ちゃま」  
母が私を  そう呼ぶ・

  

Posted by 濱野裕生 at 18:17Comments(0)♬:いのちの歌

2021年01月12日

♫:金木犀



詞&曲/濱野裕生

いつになく冷えた朝 窓の外は深い秋 
雪のように舞い落ちる金木犀 白い季節はすぐ・そこ
静かな寝息立て 今朝は母がまだ眠ってる 
昨日、届いたばかりのハーモニカ 枕のそばに置いたまま
窓を少し開けましょうか? 母の眠りを邪魔せぬように 
そして香り放てよ金木犀 今朝は君が母を起こせ
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある  
  古びたアルバム 開く度に 破れた写真 継ぎ足す度に
  母の記憶が束の間・戻る
カーテン越しに朝日が射します 窓の外は深い秋 
庭の隅に積もった金木犀 白い季節はすぐ・そこ

92度目の冬が来る 辛い事など一つもなかった 
愉しい事だけ覚えているさ 私にいつも・母が言う
母が昨夜の夢を話します 幼い頃は近所のミッチャンと
川に水汲み、山には小さなビャラ集め みつえサンも同じ夢をみたかも
会いに行きましょうよ 貴方を慕うみつえサンに 
そして、姉のふじえサンにも会えるかも 歌が浦は・母の古里
  今は秋? 母が聞く 春はまだ? 母が聞く・
  途切れ途切れの記憶の中に 忘れられない事がある
  古びたアルバム開く度に 破れた写真継ぎ足す度に 
  母の記憶が 柄の間・戻る
厚めの布団に替えましょうか それとも薄手を重ねましょうか 
部屋に飾り続けた金木犀 今日で君とは・お別れ
  

Posted by 濱野裕生 at 22:21Comments(0)♬:いのちの歌

2021年01月12日

♬:立田山自然公園にて

♬:立田山自然公園にて https://youtu.be/m3f4c0jv5IA 

詞&曲/濱野裕生

ユラユラ ユラユラ陽炎の中  ユラユラ ユラユラ母が杖をつく
ユラユラ ユラユラ陽炎の中  ユラユラ ユラユラ母が歩き出す・・

雨上がり 夏も近いある日の早い朝 今日は母がいつものデイを休む
たまには息子と一緒に どこかに出かけたい・・母が言う
そうだね 雨上がりのミドリが綺麗かも・・私は即座に答える
たまには母と一緒に  同じ時間を過ごすのも・いい

立田山自然公園遊歩道  私の家から車で僅かに・5分
車椅子はいらない  母は急げ・急げとせかす
立田山自然公園遊歩道  母のお気に入りの場所
訪ねる度に色を変え  四季折々の自然がそこにある

ユラユラ ユラユラ陽炎の中  朝日に輝く芝生が綺麗だね
裸足で歩いてみようかしら  ユラユラ ユラユラ母が歩き出す

立田山自然公園遊歩道  母の見つけた安らぎの場所
育った家の庭にも  大きな池があったと・母は言う
立田山自然公園遊歩道  母の記憶を呼び起こす場所
こんな所に住めたら  さぞかしいいだろうねと・いつも言う

立田山自然公園遊歩道  母がいつも口にする場所
菖蒲池の真上に  いつしか虹が架かりだす
母には虹が見えているのかしら  虹に向かって母が歩き出す
車椅子を片手に  私は束の間の奇跡を見る

ユラユラ ユラユラ虹に向かって  ユラユラユラユラ母が杖を棄てる
ユラユラ ユラユラ母が虹の中を ユラユラユラユラ今・歩き出す
ユラユラ ユラユラ虹に向かって ユラユラユラユラ母が杖を棄てる
ユラユラ ユラユラ母が虹の中を ユラユラユラユラ今・歩き出す  
歩き始める・・
  

Posted by 濱野裕生 at 22:23Comments(0)♬:いのちの歌

2021年01月13日

〇・母の生涯:01

〇・母の生涯:01

☆:濱野家、鹿町炭鉱、河内家。そして、高橋家。

 我が母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正二年に長崎県北松浦郡佐々の地に男2人、女3人の末っ子として生まれています。長崎県北松浦郡一帯は北九十九島とも呼ばれ、佐世保から平戸に繋がる風光明媚な場所で焼きあご(飛魚)や古くからミキモト真珠の養殖地としても知られています。

 母が生まれた当時の北松浦郡一帯には大小の多くの炭鉱が存在し、中でも際立って大きかったのが濱野冶八という人物が創業した鹿町炭鉱でした。 今では団塊の世代と呼ばれる75歳以上の方々は「モスラ」という怪獣モノ。今で言うSF映画を憶えていらっしゃることでしょう。監督をされた円谷監督はそのモスラの誕生の地としてこの鹿町炭鉱を選んだのです。
 モスラは蛾の一種で巨大でその卵も巨大でした。その卵が鹿町炭鉱の坑道の奥深くで発見され、やがて、孵化して暴れまわるストーリーでしたが、この映画には当時は双子歌手で有名なザ・ピーナッツが出演し、「♪モスラ~やモスラー」と歌って話題を呼びました。

話しのギアが変わってしまいましたが、要するに濱野裕生がその血を受継いだ濱野冶八なる人物は自らが創業した鹿町炭鉱を母体に次々と系列炭鉱を開業、そのエリアは長崎県内に収まらずに佐賀県唐津市を通って伊万里市にまで広範囲なものだったということです。 まぁ、地下に潜って石炭を掘っていたらいつの間にか隣の県の伊万里市だったというモグラ物語ですね。

 その濱野冶八の娘は濱野ライといい、後に平戸藩では代々の槍持ち家系であった河内家の河内松若なる人物に嫁いで河内ライと名を変えて我が母を生んでいます。だから我が母は濱野冶八の孫であり、私は濱野冶八のひ孫という関係ですかね。。

 濱野冶八には鹿町炭鉱の後継者となるべき清(キヨシ)という息子が居たのですが幼くして病で没し、そのショックからか冶八の人生が狂い始めます。 生き甲斐を失くした冶八は鹿町炭鉱とその系列下にある炭鉱の全てを娘・ライの嫁ぎ先である河内家の長男・進氏に委譲。河内進は弟の勇(イサム)に
声を掛けます。当時の勇さんは既に高等師範学校を卒業して数学の教師を務めていたのですが、兄からの誘いを受けて鹿町炭鉱の経理責任者として働くことになるのです。

 我が母・ツヤは後に宮崎県庁に勤めていた高橋利三郎なる人物とお見合い結婚して高橋ツヤと名を変え、私を含む3人の子供を生んでいます。 その我が父・高橋利三郎は母との結婚を機に宮崎県庁を辞し、鹿町炭鉱の系列だった佐賀県の伊万里市にあった東山代炭鉱の経営を任されて炭鉱長として赴任しています。黒いダイヤとも呼ばれた石炭の魅力。県庁勤めを辞してまでその世界に飛び込んだ我が父ですが、それなりの意味がある時代だったのだと思います。私が伊万里市に移ったのが
私が3歳の頃と聞いていますが、何事にも反応が遅い私には記憶がありません。 つまり、濱野裕生という名前はペンネームであって祖々父の代の濱野を名乗っていて濱野裕生の本名は高橋直裕です。

 濱野冶八は私にとっては偉大な祖々父。鹿町町歴史館にある資料には当時の炭鉱の様子が詳細に紹介されています。当時の国内の石炭生産量の僅か2%とは言え、金額にすると相当な額ですが、この濱野冶八は我が国で最初の銀行を立ち上げようとした人達の一人で、現在も第三セクターとして残る松浦鉄道を敷いた人物、佐々にある東光寺の本殿の建立など、多くの寄進事業を行なっています。 この後の私の記事には濱野冶八という人は折りに触れて登場する人物です。 0
02へ続きます
  

Posted by 濱野裕生 at 16:13Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月13日

〇・母の生涯:02

〇・母の生涯:02

☆:家系図、母の記憶。

 皆さんにお薦めしたいことがあります。家系図って絶対に作っておきたいものです。それも少なくとも伯父や叔父、伯母や叔母が存命の間に作っておかないとイザという時に絶対に困った事態が生じます。 まずは、従兄弟達に声を掛けて従兄弟会を作り、少なくとも2年に一度は従兄弟会を開いて伯父、叔父、伯母、叔母の近況を報告し合い、従兄弟間で家系図と写真などを持ち寄って繋ぎ合わせていくんです。その姿を子供達にも見せれば、今度は自分が伯父、伯父&伯母、叔母になった時でも自分の子供達が引き継いでくれます。そうやって壮大な家系図が作れれば、これはもの凄い財産になるはずだと私は母との同居を通して気付かされました。

 正直な処、濱野冶八って私の何だろう・って最初は思いました。でも、同居を始めた頃の母が「あそこ行ってみたい&あの人に会いたい」、「今度はあの人が気になる&会わせておくれよ」、と言い始めた事から始まった佐々や歌が浦への旅。 佐々に行った際に母の様子を観察していると「この家の裏庭には凄く高い石垣があったよ」、と。 また、歌が浦では「あの山の裏側にはお医者様が居てね。まだ小さかった私は暗い山道を泣きながら越えてライ母さんの腎臓の薬を貰いに行ったよ」、と。 また、この歌が浦では山口さん姉妹と会えたのですが、「内緒話しだけど、山口さん姉妹のお姉さんのフジエさんは養女に出てネ。でも、いつも実家に来ては妹のミチエさんを誘って遊んでいたサ。とっても仲が良くてネ」、と。 「あっ、思いだした。確か・落合という人がこの近所には住んでいたよ」、と次々と母の記憶が蘇るのです。 そして、「あっ、この家だ。私が松若父ちゃま、ライ母ちゃまと住んだ家はここだった」、と。何と、我が母は自分が10歳の頃に住んでいた家の跡地を見つけだしたのですが、隣地の山口さんの話しでは母の記憶通りでした。
 
 この家で母・ライさんは腎臓病で没し、「火葬の時は村の広場に薪が山のように詰まれてネ。戸板に乗せられた母の遺体が焼かれたのよ」と母は涙ぐむのです。
 「その後は村中を笛太鼓を吹き叩いてうねって行進してネ。 それがうるさくてネ。母ちゃまが死になさって悲しいというのに何というお葬式だと思ったヨ」、と言うんです。私が母に聞けば「私の実家の濱野家は禅宗だったから何事も派手だった」と不満そうに言うんです。 因みに、この家は河内家が引っ越した後には村の公民館として利用されたそうです。

 「母ちゃまが死んだ後の父ちゃまの酒の量が増えてネ・」、そして、 「父ちゃまが酒を飲みに外に出かける前には鍋で炒り豆を作って紙で包んで私に握らせてネ」、と。 「父ちゃまの帰りが遅い日の私は夕方から炒り豆をポリポリと齧りながら『父ちゃま、父ちゃま~。早よぅ、早よぅ、帰っておくれまっせよ~』、っていつも泣いとったサ」、と母が目頭を押さえます・。 我が母は10歳の頃にライ母さんを失っているのです。 この頃の母の心境を詞の題材にした私の作品が《♪:母の童歌》という作品でした。

 我が母・ツヤと私達夫婦の同居模様の話しはなかなか始まりません。 私の母に限らず、私達はまずは父や母が生まれた時代、育った時代や環境、兄弟の数や通った学校の授業風景etc・・、を少しでも多く知るべきです。貴方の目の前のすっかり老いてしまった父や母の姿だけを見るのではなく、「あぁ、大変な時代を生き、その苦しさの中で俺達を必死に育てたのか・」、と感じ取ることから始めるべきだと私は思います。

 「そうか、だからいつも質素なんだ。だからお金の使い方にもうるさく言うのか」、と。「だから、イザという時には大金をポンと平気で投げ出せるのか」、と。 「実は、いつも子供達のことを考えてくれているのか?」、と思えるようになるものです。 つまり、老いた親に対する怒りが感謝に変わる瞬間って幾つでもあるもんです。・・今日の濱野裕生はそう・思って書いています。
  

Posted by 濱野裕生 at 16:14Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月13日

〇・母の生涯:03

〇・母の生涯:03

 我が母、河内ツヤは7人兄弟の末っ子とはいえ、長男の進(ススム)とは14歳、次男の勇(イサム)とは11歳、三女のフサ姉とは7歳、次女のミツ姉とも4歳違いだった為、我が母ツヤは兄達からも姉達からもとても可愛がられて育ったそうです。

 本来、濱野冶八には後継者として鹿町炭鉱を引き継ぐはずの清(キヨシ)という男の子が居たのですが幼くして没し、そのショックからか鹿町炭鉱が最盛期を迎えていたにも関わらず冶八は引退、その経営を娘濱野ライの嫁ぎ先の河内家の長男・進に任せ、島原一帯で豪遊していたと聞き、また晩年は島原時代に知り合った芸者と関東の地で暮らしていたともいうお話しも聞きましたが、その最期を知る者はいないだろうと言われていたそうです。

 この濱野冶八が経営した炭鉱の多くは後々には別な経営者に売却されたり、戦争の激化によって国に差し出すことになるのですが鹿町炭鉱系列の幾つかの炭鉱は河内進、勇氏兄弟によって昭和35年くらいまでは経営されているようです。また、河内進氏は既に師範学校を卒業して数学の教師を務めていた次男の勇氏を経理の責任者として抜擢。文字通り兄弟で祖父・濱野冶八の意志を引継いで経営に勤しんでいたようです。

 遡って、河内進氏が24歳、勇氏が21歳の頃、我が母・河内ツヤが10歳の頃にはその母・河内ライが持病の腎臓が悪化して没します。最愛の息子の清に続いて娘のライまで失くした悲しみから濱野冶八は鹿町炭鉱を河内家に譲り、自身は酒に溺れていったのではないかと私は受け止めています。誰にも責める事はできません。一人の人間の人生ですからね。

 その一方、洗炭という掘り出した石炭にこびりつく泥を落とす作業では周辺を流れる川を尽く汚し、地下を掘り巡らしたトンネルの為に地区のあちこちに陥没事故を起こしたことを詫びる為、学校にはグランドピアノを寄贈したり、昭和16年には佐々にある東光寺の本堂を建替えたり、各地の神社には実に多額の寄金をしていた記録が鹿町町の記念館の蔵書に残されていました。だから、「小さい頃には濱野シャマと呼ばれ、大きくなったら河内シャマと呼ばれたもんだよ」と我が母はよく言ったものです。まァ、濱野冶八という人は豪快でお人好しで思いやりのある人物だったことには間違いがないようですが、生きた時代が混沌として、行方定まらないある意味でヒーローが生まれやすい時期だったんだと思います。
 因みに、佐々の東光寺にはこの濱野冶八の像というものが建立されていて、その傍に寄り添うように当時のご住職の像があり、お寺の正面の階段口右横の家には濱野の門札があり、つい数年前までは濱野千代さんが娘さんと一緒に住まわれていて、私は母を連れて2度ほどお訪ねしたことがあり、「清が住んでいたのはこの部屋だよ」と母に案内されたことを今でも私は記憶しています。

 我が母の事、その兄弟の事、育った頃の世の中の風景etc・・今後も折に触れ、画像を交えて書いてみたいと思っています。
  

Posted by 濱野裕生 at 16:16Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月13日

〇・母の生涯:04

〇・母の生涯:04

☆:母の生涯を簡単に・。

 既述部分で多くを語りましたが、我が母は佐々の地で生を受け、何歳の頃かは定かではありませんが、幼いうちに歌が浦に居を移しています。10歳の頃に母・ライさんを腎臓病で失った後は11歳上のフサ姉しゃまが母親代わりとして家事一切を仕切っては孝行しますが、やがては佐世保で小さな電気店を開いていた向(ムコウ)家へ嫁ぎます。 ツヤさんにとってのフサ姉さんは7歳も違っていて、母ちゃまのような存在だったらしく、生涯に渡ってそのような関係が続くことになります。

 嫁いだフサ姉しゃまの後釜として河内家の家事一切を引き継いだのがツヤさんの4歳上の次女のミツ姉シャマでした。年齢が近いこともあってか、母は結構な我がままを通せるあいてだったらしく、その関係は私自身でもそうした関係を感じることのできる瞬間が結構あったものです。 このフサ姉さんとミツ姉さんに育てられたツヤさんですが、フサ姉さん、ミツ姉さんが嫁いだ後の家事一切は当然のように引き継ぎ、父の松若と寂しい二人暮しの時期が続いているようです。 当時の女性が15~18歳で嫁いでいた事を考えれば、20歳を過ぎても父親と二人暮しというだけでも珍しいことだった筈です。

 ツヤさんは「結婚などは出来ない」と思って諦めていたそうです。・、というのも、母・ツヤさんには幼い頃から続く心臓の持病があって、体育の時間には「ツヤさん、貴女は日向での運動はやめて、運動場の日陰にある転んだら怪我をしそうな石ころを拾っていて頂戴」という先生からの目溢しが当たり前のような「身体の弱さがあった」、と言っていました。 

 しかし、そこは河内家の子供の結束力というか、長男の進氏はツヤさんの14歳上、次男の勇氏も11歳上の兄さん達です。既に濱野冶八から引き継いだ鹿町炭鉱の経営を軌道に乗せた進、勇氏の兄弟は可愛い妹の為にと山口県の俵山温泉という日本屈指の温泉に長期に滞在させては湯治を 指示し、更には鍼灸療法などをさせています。 多分、2年近くは滞在したのではないかと我が母・ツヤは言っていました。 羨ましいですね。兄弟の金を使い放題のツヤおお嬢様ですからね。。今では考えられない関係です。
 その一方、父親の河内松若氏は「ツヤの健康状態は相当に回復し、すっかり元気になっている」という息子の進、勇兄弟からの報告を聞いたことで、不本意ながらも《邪悪な計画》を立てたようでしたが、この親としての思いがツヤさんとの決定的な別れに繋がるのです。
 
 実は、濱野冶八は鹿町炭鉱の経営を河内松若氏の息子二人に委ねるだけではなく、当地では同じ系列炭鉱にあたる平田山炭鉱というものを進、勇兄弟の父である河内松若氏へも経営委譲していたのです。 この平田山炭鉱からでる石炭の炭質はとても評判が良くて、四国からは多くの塩田業者が松若氏の元へ取引の話しを持ちかけていた時期があるようです。

 ツヤさんの父の河内松若氏にとっては《トウが立ち始めた我が子・ツヤの行く先⦆を案じ、四国の塩田長者の息子とのお見合い話をツヤさんには内緒で進めていたそうです。
 「はい、お壌ちゃん」、って凄く高そうな指輪や首飾りを私にくれてネ」、「私にはその意味が直ぐに分かったサ」、と母・ツヤ。 当時を偲ぶ話になると必ず我が母が私にした話しでしたが、実は、この指輪のプレゼント事件が切っ掛けで我が母・ツヤさんは河内家を飛び出し、生涯を通して実家の河内松若氏の元へ帰ることはなかったのです。
  

Posted by 濱野裕生 at 16:50Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月13日

〇・母の生涯:05

〇・母の生涯:05

☆:父・河内松若との別れ

 実家を飛び出し、父の松若氏との今生の別れを告げたツヤさんは既に佐世保から博多に電気工事店を移していた向フサの元へ身を寄せ、ここで夢のような一時期を過ごしたようです。
 実姉のフサ姉しゃまの嫁ぎ先の向電気工事店に居を構えたツヤさんは幼い甥の浩美(ヒロミ・男)を多忙なフサ姉さんに代わって育てる一方、当時の我が国では珍しいタイピスト養成学校へ通い、修学途中でありながら、教師を懇願されるほどに上達してしまうのです。
 
 自信をつけたツヤさんは令和の現在でも博多駅近くにある高口ハガネ店へ就職、欧州からの輸入鋼材に貼られた説明書を日本語に和訳して入力するという難しい仕事で仕事振りを認められ、結構な給料を貰っていたらしいですね。 その証拠にミルクカフェ、コーヒーカフェと呼ばれたらしい当時の喫茶店のテーブルには足を交差させて組み、頭には波打った大きな帽子を被ってコーヒーを飲む我が母・ツヤさんの写真があるほどです(流行事好きなの・ぼ・せモンだったのかも知れませんネ)。 

 こうして、自立での生活ができるようになると、ツヤさんはフサ姉さんの向電気店を出て小さな下宿屋さんの2階の大部屋を独占して暮らすようになりますが、ここに転がり込んできたのがタイピスト学校時代にツヤさんの教師を務めたミネ子さん。 実は、このミネ子さんとは遠縁だったことも分かり、晩年の我が母・ツヤは私達夫婦と共に佐賀の葉隠れ荘という老人ホームで暮らすミネ子さんをお訪ねしたことがあるほどに母とミネ子さんの交流は続く事になります。
   
 話しを戻し、高口ハガネ店の待遇が余程良かったのか、休日には下宿に転がり込んだミネ子さんと共に三味線教室に通ったりしています。下宿先の2階ではツヤさんが弾く三味線なのに、下宿の軒下ではツヤさんが弾く三味の音をミネ子さんが弾いていると勘違いした数名の男性が「おい、ミネ子さん、遊びに行こうぜ」とばかりに誘うのが嫌だったとツヤさんはよく言ったものです。 




  

Posted by 濱野裕生 at 16:51Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月14日

〇・母の生涯:06

〇・母の生涯:06

 昔はよくあったのかも知れません。この高口ハガネ店で働いていた頃、「とても嫌な事を試されてネ」と母・ツヤさんが私に言ったことがあります。しかし、結局はそれが切っ掛けでツヤさんの人望が買われて高待遇に繋がったのでしょう。
 まだ、高口ハガネ店で働きだして間もない頃、「河内さん、今日は夕食を一緒に摂るから高口の自宅へいらっしゃい。そして、泊まって明日は高口の家でゆっくり過ごしなさい」という声掛けでした。当時、高口ハガネ店の社長のご自宅は桜坂と呼ばれる場所にあって、その頃には綺麗な桜並木がある高級住宅街だったそうです。
 豪華な食事で歓待された後は自分の部屋を与えられて眠る事が出来て、とても嬉しかったのですが、その翌朝のこと。自分の布団を畳もうとすると敷き布団の足元からは大金が入った分厚い財布が出てくるのです。
 「あぁ、井上さん(お手伝いさん)が私の床を作ってくれる時にでも落としたのだろう」と最初は思ったそうですが、「否々、お手伝いさんがあのような大金を持っているのは考えられない」、と判断したツヤさんはお手伝いの井上さんを通さずに高口の奥様の元へ直接に財布を届けたそうです。

 「そうよ、それは私の財布です」、「実は貴女を試させて戴いたんです」、という返事が返ってきたんです。多分、その時のツヤさん「こんちくしょう!」、とでも思ったんでしょうか?。 でも、それ以降の高口のご夫婦はツヤさんをとても大切に扱うようになるのです。 良かったのか、悪かったのか、当時は人一人を雇うのにそんな試験の方法をする会社があったんですね・。

 やがて、このツヤさんは英語も片言ぐらいは理解できるようになるのですが、それは外国産のハガネ(タガネとも言う)に貼られた取り扱い説明書を分厚い英和辞典を片手に和訳していたから・。 何と、ツヤさんは和文入力タイプ以外に英文入力までタイピングができるようになったみたいでした。我が姉が生まれた頃の母・ツヤさんはよく英語の歌を唄ってくれていたと言います。でも、私が記憶する限りの日常では「はいよ!、サンキュー、ベリーマッチ」くらいしか母の英語は聞いた事がありませんが・・。 確かに・、クリスマスソングなどは途切れ途切れの英語で歌っていたような気もします・・。思い出すのにクルシミマス。。
  

Posted by 濱野裕生 at 20:24Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月14日

〇・母の生涯:07

〇・母の生涯:07

 この高口ハガネ店のご夫婦には子宝に縁がなく、随分と後継者作りに苦労をされていたようです。 我が母・ツヤさんがこの高口ハガネ店にいつまで身を置いていたかは私は聞かされていませんが、この福岡時代に当時は大分県庁に勤めていた我が父・高橋利三郎とお見合いをしています。多分、母が27~28歳頃ではないかと思います。当時としたら晩婚もいいとこですよね。。

 丁度、その頃の後の我が父は厚生省の役人の立場で大分県庁に赴任しており、九州の各地に社会保険事務所の設置を指示された立場だったようです。そして、佐世保の地に社会保険事務所(現・文化財指定)を設置した後に宮崎県庁への赴任辞令を貰っています。

 ここで我が母・ツヤは利三郎氏とお見合い結婚をし、河内ツヤから高橋ツヤへと姓を変えています。 もう、太平洋戦争も終盤を迎え、我が本土への空襲が繰り返され始めたころですが、ツヤさんは生まれていた長女の紘子を胸に抱き抱えては空襲を逃れた先の防空壕で親子で震えていたことでしょうね。
 我が父、利三郎の記憶で言えば、「丁度、私は宮崎県庁の屋上に居てね。我が家(借家)がある方向を見れば次々と着弾して火の手が上がっていたよ・」、と。 新婚の住まいは丸焼けだったそうです。

 この後、高橋利三郎は宮崎県庁に在籍したままで敗戦の処理役として大陸からの帰還兵士の手続きの為の事務所を開設するために妻のツヤさん、長女の紘子を伴って佐賀県の唐津へ赴任していますが、帰還兵士の多くは門司港に開設された事務所で帰国手続きを行なっていた為、唐津に設置した事務所には実際には帰還兵士は「家族からの問い合わせはあっても、手続きには来た帰還兵は誰も来なかったようだ」と母・ツヤは当時を振り返っていました。

 ここで、既述したミネ子さんが再登場します。
母の博多時代にタイピスト学校の先生だった人。後に母の見つけた下宿に転がり込んで来た人です。 実は、唐津時代に高橋利三郎&ツヤ&長女の紘子の三人の親子が暮らした仮の宿がこのミネ子さんの家の二階だったいう偶然な出来事があります。

 当時のミネ子さんは新婚でありながら「もう、下の階での夫婦喧嘩が酷くてサ」、と母・ツヤは当時を振り返っては私に懐かし話しをしたものです。 このミネ子さんの実家の姓は砂田といい、実家は河内家の遠縁で鹿町々江迎では時計屋さんを営んでおられたようです(間違っていたら後々に修正します)。 尚、このミネ子さんご夫婦の喧嘩は更に発展しては離婚へ・、その後は再婚されて幸せを掴まれたようです。
  

Posted by 濱野裕生 at 20:26Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月15日

〇・母の生涯:08

〇・母の生涯:08

☆:父が宮崎県庁を辞す。

 太平洋戦争の終結が切っ掛けだったのでしょうか?。戦後復活の為、石炭エネルギーの需要が桁違いに増加し、日本中で石炭掘削の為の炭鉱が雨後の竹の子のように設立され、その利権獲得の為の事件があちこちで起きるようになります。 日本中の誰もが目をぎらつかせ、あわよくばと成金長者を狙っていた頃ですね。 

 私の知る限りで言えば、映画では必ずヤクザが登場し、その背景には必ずボタ山や石炭置き場、石炭運搬船が浮かぶ港・・、小林アキラ、宍戸錠、赤城圭一郎などが出演する乱闘シーンばかりの映画のポスターが多かった気がしますが、そうした映画を見た経験がある方の年代と言えば我が兄の世代よりもっと上の世代ですから75歳は越えた方々ですか・。
 
 父・利三郎の唐津出張の期間がどのくらいだったかは、定かではありませんが、やがて、高橋利三郎、ツヤ、紘子の3人の家族は宮崎に戻ります。 そして、やがてこの宮崎県庁を辞すことになった理由ですが、父と母の会話を聞けば次のようなことがあったらしいのです。

 まず、我が父は酒が飲めずに宴会が苦手な人です。 その一方、県庁務めであっても「自分は内務省本体からの出張で赴任して来た者。赴任する先の各県知事にさえ給料袋を渡す立場である」という強い自負を持った人でした。 故に、時に開かれる宴会では宮崎県庁内の各部署からの陳情を受ける立場でもあり、我が父には「酒の場でそんな話を持ち出すな!」という思いがあったのだと思います。

詳しくは語れませんが、この宴会の席で我が父は「お前はしつこいゾ」とばかりに同僚に酒の入った杯を投げつけたのです。

 我が父は言い合いをしたら最後、それで相手を許すことはなく、自分でもきっぱりと責任をとるような人でしたから、この一件で、否々・・他にも積もり積もったものが山ほどにあったのかも知れません。この一件で我が父・高橋利三郎は野に下ろう、と宮崎県庁を自ら辞したようでした。 

 この我が父・利三郎は子供達には県庁勤めの頃の心境を自ら積極的に口にすることはありませんでした。しかし、我が母・ツヤさんの口から時折漏れる言葉によれば、柳川育ちの農家の出で寡黙で頑固な人。

その一方、周囲には見栄っ張り。一部の者には慕われていたのでしょうが、穏やかに人の話しを聞いていたかと思えば突然に間逆の厳しい言葉を説教気味に高飛車に言い返すようなことが多く、180cm越えというその大柄な身体が相手には必要以上に恐怖を与えるような雰囲気があったようです。 この我が父の生涯につき、僅かですが私が知る限りのことを別な日に書いてみようと思っています。
  

Posted by 濱野裕生 at 14:08Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月15日

〇・母の生涯:09

〇・母の生涯:09

☆:為せば成る!。成らぬは己が為さぬなりけり。

 宮崎県庁を辞した我が父・高橋利三郎。我が母・ツヤさんは「うん?、私はなんとも思わんだったよ」、「お父ちゃま(利三郎)を信じとるけんネ」、「いつもどうにかなると思っているし、これまでの私の人生もどうにかなってきたからネ」、と。

 思えば「為せば成る!。成らぬは己が為さぬなりけり」、と常に私達子供に対して言い続けた母・ツヤでした。 緻密で太っ腹な濱野冶八さんの血を引く人だなぁ。と思いますね。

 さて、現実問題としては宮崎県庁を辞めた後の仕事を探さないと食ってはいけない訳ですが、ここでも濱野一族が動くのです。つまり、河内兄弟が経営する鹿町炭鉱系列の石炭を宮崎まで船で運び、我が父・利三郎には宮崎の都城で石炭商をさせたのでした。

 「近所の人に喜ばれてネ。飛ぶように次々に売れたよ」、と母が言ったものです。まさしく、為せば成るです。 ここで我が父は周囲の人に頭を下げることを少しは憶えたのではないでしょうかね・。 そして、この頃に我が兄・利彦が生まれています。


 学問しか知らない百姓育ちの父・。私自身でもこの表現には矛盾を覚えますが、役人しか経験ない父が石炭を・。この表現にも矛盾を覚えます。 でも、その父が石炭を送ってくれる河内家や買ってくれる人々に対して頭を下げる必要を自覚し、古本屋に行っては冶金学を学びだしたのです。
こうした期間が暫くあった後、我が父・利三郎は河内家が営む鹿町炭鉱グループへ招聘されるのです。 


 鹿町炭鉱のある江迎での利三郎さんは経営側の一人ではあってもぺーぺー待遇。ツヤさんの愚痴を聞けば、「社長(進兄さん)の奥様、副社長(勇兄さん)の奥様も私にはツンツンしてネ」、「オンナってこんなもんだ、と思ったよ」と機会あるごとに思い出していましたね。 母・ツヤの実姉のフサさん、ミツさんの優しさに慣れていた我が母・ツヤさんにとっては意外だったんだと思います。

 勿論、住んだ家も竹薮の中の陽も当らない古びたものが与えられ「それはそれは食べるものから住む所まで上の二人の兄さん達の家庭とは比べ物にならない程に侘しい暮らしだったサ」と母が・。

この頃、濱野裕生(高橋直裕)が生まれていますが、私にはこの鹿町々江迎での記憶が全くありませんが、私は何故か竹林が大好きで、竹林に入りさえすれば、何日でも何年でも独りでボーっと竹細工でもしながら暮らしていける気がします。 多分、江迎で暮らした竹林での記憶が心の何処かに潜在しているのだろうと自らは納得しています。
  

Posted by 濱野裕生 at 14:14Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月15日

〇・母の生涯:10

〇・母の生涯:10

☆:佐賀県伊万里市の炭鉱の経営を任される父・利三郎さん。

 やがて、鹿町云江迎の地で炭鉱の経営学を河内兄弟に学んだ我が父・利三郎は既に鹿町炭鉱とその系列炭鉱の利権を一手に握っていた河内進・勇兄弟からは佐賀県伊万里市にあった東山代炭鉱という鉱山の経営を任されることになるです。長女の紘子は既に11歳、同じ宮崎で生まれていた長男の利彦が7歳。鹿町町江迎で生まれた私が3歳を越える頃です。

 この《母の生涯》という記事ですが、ようやく戦中の戦乱を逃れて昭和25~27年頃まで辿り着く事ができたようです。 この頃の私達一家は佐賀県伊万里市東山城町大字大久保、という所に居を構えています。 
 
 我が家からは遠くもない所に竹の子場公園というものがあり、春になれば母・ツヤさんはお得意の箱寿司を作ってくれ、寿司を詰めた重箱を何個も持って家族全員で公園へ向かったものです。 その竹の子場公園の屋上から眼下に広がるのは右前方に伊万里市内、左前方には楠久や久原一帯。空気が澄んだ日には海水浴場で有名な志佐付近まで見えたのではないでしょうか。

東山代炭鉱で産出された石炭は久原港から石炭運搬船で遠くの八幡製鉄所へ運ばれていたようです。 また、陸路では濱野冶八が敷いた松浦鉄道で一旦は運ばれて最終地は八幡製鉄所へ・。尚、この当時の松浦鉄道は既に国鉄の所有となっていたようです。

 この頃、東山代炭鉱の開設前後には福住炭鉱、国見炭鉱がご近所に開設され、まだ舗装もされていない狭い道路を大きなトラックが粉塵を巻き上げて行き交うという・、昭和27~33年の頃です。

 この頃、私が通った東山代小学校とその周辺校には冬が近づくと大きなプレゼントがありました。我が父・利三郎が任された東山代炭鉱からは一冬分の大量の石炭が無償で配られるのです。 多分、濱野冶八の血を引き継ぐ河内進・勇兄弟から利三郎さんへの指示があっただったのではないかと思います。

 濱野冶八が隠居を決めた理由の一つが汚れた洗炭水が北松浦郡周辺の村中の川を茶色に染めて迷惑を掛けたことだったように、春には川辺でセリ摘みなどをするツヤさんにとっても村中の川を汚す事への悩みを抱え、炭鉱業を営む上での苦悩を抱えていたんだろうと思います。 

昭和32~34年の頃です。
  

Posted by 濱野裕生 at 14:16Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月20日

〇・母の生涯:11

〇・母の生涯:11

 ☆:裕生9歳、大手術~生死を彷徨う

 正確に言えば病気ではなく事故。当時、小学校近くの柔道場に通っていた私は普段だと絶対に組み合う事がない中学生の複数人と組手をし、受身を取れないままにお尻から投げ落とされるという事故の為、小腸が大腸の中に入り込む・という状態になったのです。 小学校の全校相撲大会では6年生を差し置いて4年生同士が決勝戦を戦い(相手は藤川君)、私は一戦も落とすことなく完全優勝をするほどですから身体も中学生並みで上級生からは態度も横着に見えていたんだろうと思います・・。

 後々に分かったことですが、私は腸重積という大変な状態になっていたのです。でも、何事にも厳しい父には事故のことを数日間は隠していた為、やがては腹部に炎症が始まって病院へ搬送された時には腹膜炎による手遅れで内臓の腐敗が始まっているという診断。

 「多分、99%は助ける事はできない」、と言われた手術でメスが入った途端に膿が激し勢いで噴出する程だったと聞かされています。 昭和34年3月25日に手術、その後は心肺機能だけが働き、意識が戻ったのが4月8日のお釈迦様の誕生日だったらしいです。 
その手術内容は「一旦、胃の下部から大腸の一部までを切り取り、別なお皿に盛りつけて生理食塩水に浸して生体反応というピンク色の発色があった部分だけを残して残りは廃棄。ピンク色の生体反応を示した腸管だけを繋ぎ合わせて一本の腸管状態に復元するという・、実に大変な手術で8時間近く掛かったそうです。

 その手術中には血圧降下によって一度は臨終宣告の為の手術中止と宣告のための死亡確認さえ行われたそうですが、その最中に突然に血圧が上昇し始め、驚きの中で再び手術が開始されたのでした。 まだ、この頃には現在のようなガスによる全身麻酔がなくて局部麻酔だった為、死亡確認から宣告迄の間の僅かな静止状態の時に「ウーッ」という痛みによる唸り声を私があげたことで「蘇生している」ことが分かったことを後々に聞かされましたが、当然、私にはこの僅かな時間の臨死体験というものがあり、既に長い長い時間が過ぎた現在でも忘れることのない不思議な臨死体験のストーリーがあり、私が小学4年の終わり、5年生直前の春休み中の出来事でした。 そして、この時の臨死体験で母の父の河内松若氏に出会っており、そのことが後年の老いた母に対する介護に繋がっていったのは言うまでもありません。  

 私はこの手術で小腸の約50%、大腸の25%を切除。術後には口やお尻からは大量の吐血や下血が続き、一週間後に術後不全で再発。まだ、当時の我が国には静脈に栄養液を入れることが出来るのはリンゲル液くらいで多くの点滴がない時代でした。 これは私が9~10歳の頃。

 そして、その後の27歳までに11回という開腹手術を受けて癒着腸管を次々と切除しながらもめげることなく生きてきたのですが、 この後、こうした身体を抱えて18歳で大学進学の為に熊本へやって来た私に対して次々と重大な医療過誤が襲ってくるのですが、それは私の既往歴を理解しない医師たちによる安易な診断によるものが原因でした。  

Posted by 濱野裕生 at 10:52Comments(0)〇:母の生涯

2021年01月20日

〇:母の生涯:12

〇:母の生涯:12

☆:その後の熊本ではとんでもない医療ミスが連発。

 その後の私に関わる別な医師の誤診断によって私の身体には数回のメスが入っていますが、多くは私の既往歴を理解しない誤診断によるものでした。つまり、腹を開けてみりゃ分かるだろうという安易な診断によるものです。 腸管の通過障害痛、癒着痛なのに「肝臓病、胆嚢ガンではないか」と、「・否、もしかしたら胃ガンかも知れない・」、という診断。 その誤診が始まりで、私の肝臓の一部が誤って切り取られる、腸管癒着痛を胆嚢ガンだと勘違いした結果、正常な胆嚢の部分切除などが行われてしまうという医療過誤が相次いで私を襲うのです。 整形医の山城医師と消化器外科医の岩永医師が診断を巡って口論したり・・の結果でした。 

 この診断ミス、手術ミスに関し、私は当時の熊本市内にあった星子病院、その経営を引き継いだ山城病院を対象に医療過誤を主張して裁判を起こしたのですが、山城医師は私の主張を全面的に認めた上で消滅時効の援用という卑怯な手段で逃げ、私の訴えは却下されています。 誤診によって不適切な手術を行うという医療過誤を起こしていても、その事件から10年を越えた案件故に時効を理由の無罪放免というのが法の裁きでした。
 皆さん、コロナ禍に携わる多くの医師の活躍が評価される中、山城医師のような無責任極まる医師がいることも心の中には置いておく必要はあります。 こんな大変な既往歴がある中、私は中学3年で柔道初段。 また、母が要介護2の時期には母を伴って野球場へ行っては走り回っていたのです。 


 その私の今の健康を支えるものの実態は医療不信、医師不信を理由とした様々な乳酸菌や酵素剤と海外医薬品の自己輸入と自己投与です。 医師や薬剤師さんならご存じの小腸に対するドンペリドンやプラミールの使い分けとガスコンの常用。大腸に対するトロンコロン。痛みがあれば初期はボルタレン座薬、酷ければㇳラマドールの服用。体重が減り始めれば筋肉増量効果があるサスタノン、テストビロンなどの数種類のステロイド剤さえ輸入しては不定期に打つという・、綱渡りの生活で現在を生き延びているわけです。 

また、食事に関して言えば、残存の小腸が1mちょっとですから日常的な一般食は摂取できず、皆さんには考えられないような栄養物を自分なりに加工、或いはエレンタールやアイソカルなどの胃ろう用の流動食がメインです。 確かに、日常の自覚症状としては身体の各部に感じるのですが、既に悟りきった状態に近いのか特別な不具合を感じません。

 こんな大変な日々の中で身長177cm、体重68~72kgを維持でき、大病の間隙を縫うように中学3年の終わりには柔道で初段を得て、大学1年時にはテコンドーでも有段者となることができたのだから大したもんだと自分でも思います。

 でも、私は熊本市内の山城病院の山城医師と佐賀県神埼市にある橋本病院の岩永医師という2名の診察を受けることは決してありません。 私の既往歴の腸管機能不全を「胆嚢ガンだ、胃の疾患だ」、と誤診断して切り刻んだ医師だからです。  

Posted by 濱野裕生 at 11:02Comments(0)〇:母の生涯